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半分ずつをお互いに持ちあう――「ことぱの観察 #13〔つきあう〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


つきあう

 「わたしたちって、つきあってるってことで、いいんだよね?」
 と聞いたら、
 「ちがう……んじゃないか……!?」
 と言われて、気まずかった。夫にである。恋人になる前のことではない。つい先月、ふたりで暮らすリビングでのことだ。「なんでじゃ」と返す。
 「つきあってるだろうが。かれこれ十年経つだろうが」
 「いや、結婚してるだろうが。かれこれ四年経つだろうが。結婚したらふつうもう、つきあってる、とは言わんだろうが」
 両者睨みあったまま動かず、かくしてわれわれがつきあっているかどうかは、いったん保留となった。わたしとしては、つきあっていたい。つきあっていてほしい。結婚してからも恋人どうしのように接するとか「ときめく」とかそんなことは当然どうでもよくて、「つきあう」という言葉が、いいと思うからだ。つきあうこと。取るに足らない言葉だが、しかし「恋」や「ときめき」よりもずっと、愛と関係しているように思える。
 わたしたちは恋人として交際することを「つきあう」と呼ぶ一方、買いものに連れ立っていったり、話し相手になったりすることも、同じく「つきあう」と呼ぶ。「つきあってください」と言われてそれが告白なのかどうか伝わり切らずに齟齬が起きる、というのはいまどきフィクションでもあまり見ない笑い話だが、しかしわたしはときどきそれをやらかす。「つきあってください」と言われると反射的に、なにに、と言いかえしてしまう。けれども、交際を示すときの「つきあう」の場合は、なにに、とかじゃないのだと人は言う。そういう場合は継続的に「その人『と』つきあう」ことを指すのであって、それは買いものとか、おしゃべりとか、そういう「なにか『に』つきあう」のとは別らしい。そう言われてもまだ、釈然としていない。「つきあう」と呼ばれることをする以上、それがいくら継続的な、固定された関係のことであっても、それはやっぱり「なにか『に』つきあう」ことも含むのではなかろうか。
 「つきあえない」と返すときにはだから、しのびなく思ってきた。「つきあってください」という人には、なにか、ひとりではできない、したくないようなことがあるんだろう。わたしは、「あなた『と』つきあえない」というよりも先に、「あなたの求めるなにか『に』つきあえない」のだ。しのびないのと同時に、怖くなったり、身勝手に思えて腹立たしくなったりもしてきた。ひとりではいられないという訴えの重たさが、わたしの気持ちを暗いほうへと揺さぶるのだった。
 もはやつきあっていないと主張する夫に対して、わたしがつきあっていてほしいと思うのも、それと同じだ。わたしの、なにかはわからないなにか、ひとりではできない、したくないようななにかに、つきあってほしい。そして、人が誰かにしてやることの中で、そんなにすごいことがほかにあるだろうか、と思う。恋愛の用語にとられてしまうにはもったいないぐらいのいい言葉だ。けれども結婚となると、それはもうおしまいになるのだという。

 世の中には「つきあいのいい人」というのがいる。そういうときの「つきあい」は、具体的なある行動を共にすることであり、また人づきあいのことでもある。つきあいのいい人は誘われればどこにでもあらわれ、機嫌よく会話をこなす。
 わたしはといえば、「つきあう」という言葉が好きだというわりに、かなりつきあいの悪いほうだと言っていい。複数人の集まりにはできるかぎり顔を出さないし、自分からだれかを誘うこともそんなにない。もちろん必要があるのなら行くけれど、必要がないなら行かないですませたい。行くだけ行って、べつに自分がいなくてもすむ場所だったな、と思うのがいやなのだ。そんなふうに言うと話すのが嫌いなのかと思われてしまうけれど、話すこと自体はむしろ好きなほうだ。けれども集まりというのはたいてい人と話すのに向いていない。人がたくさんいると雑音も多いし、人と人とのあいだで簡単に会話がちぎれてしまって、うまく話せない。わたしの考えでは、集まりが好きな人のほうこそおそらく、話すことがたいして好きではないのだ。だからわたしには合わない、としてはなから顔を出さないようにしているのだが、しかし自分でも面倒きわまりないことに、ときどき自分自身で、そのことがさびしい。つきあいのいい人になってみたいものだと思う。軽々と家を出て軽々としゃべり、相手をひとりにさせないぶん、自分もひとりにはならない。
 だから、夫を用事につきあわせるたび、感心している。わたしとは対照的に、なんたってつきあいのいい男なのだ。結婚する前からあまりデートの方針を持たないほうだから、行き先はだいたいわたしの行きたいところに決まる。その都合、彼は興味のない本屋に行き、興味のない美術館や科学館の展覧会に行き、しまいには水が見たいと言っては川べに座らされ、あてもなく歩かされる。「つきあう」ということのほかに彼自身の用事はないのだから、行かないことを選んだっていいところ、たいていどこへでもついてきてくれるのだった。
 そう思うと「つきあう」というとき、つきあう方にはその行動をするだけの理由がない。かろうじて理由があるとしたら、自分がたまたま相手とそこにいたというその一点だけだ。人づきあいにしたって、結局のところはそうなんじゃないか。わたしのつきあいの悪いのがそのまま、「必要がないから行かない」に端を発しているように。なにか理由があるような気分で待ち合わせしたり、おしゃべりしたりするけれど、それだって大元には「居合わせた」という以上のたいした理由はなく、だからそれを「つきあい」と呼ぶんじゃないか。

つきあう:
自分が相手と居合わせたということだけを理由にして、実際にはしなくてもいいことをすること。

 では、結婚をして「つきあう」が終わったというのはつまり、婚姻関係がそのまま夫がわたしといる理由として新たに機能しはじめていて、だからもう故なく一緒にいるわけではないのだよ、ということになるのだろうか。しなくてもいいこと、は儀礼と共に終わって、してしかるべきこと、だけが残った。けれども、本当にそうだろうか。婚姻したぐらいのことがわたしたちにとって、本当に十分な理由になるだろうか。

 「居合わせたということだけを理由にして、実際にはしなくてもいいことをする」ことについて考えていると、頭の中で「乗りかかった船だ」という明るい声が聞こえてくる。劇作家・演出家として知られる小林賢太郎さんのソロコント「コミヤヤマ」のせりふだ。場面は電話のベルからはじまる。電話のある部屋は無人で、しばらくベルの音だけが響いたあと、部屋の外から男が急ぎ足で入ってきて受話器を取り、こう言う。
 「はい、通りすがりの客員教授ですが。すいませんね、ずーっと鳴ってたもんで、緊急なら事だと思って出ちゃったんですよ
 登場からしてすでに「居合わせたということだけを理由に、本来なら故のないことをする」をやりまくっている彼の名こそが、「コミヤヤマ」である。「現代雑学部応用雑学科メタ応用雑学の非常勤講師」を名乗る、気さくだがどこかズレた男、コミヤヤマ。部屋は大学の研究室で、電話の主はその研究室の教授、それに通りすがりのコミヤヤマが受け答えをする……というコントだ。コミヤヤマは一方的に自分の専門分野について語ったかと思うと、みょうに電話の用件を知りたがり、さらには干渉したがる。そのときに彼の言うのが、「乗りかかった船」なのだ。
 「どうされました? いやいやいや、関係ないってことはないでしょ、乗りかかった船だ。……ううん、乗ってるし。忘れ物? ほら大変だ、見つけてお届けしましょう。はいはい、あるかないかだけでね
 どうやら電話の相手には煙たがられているようだが、それを気に留めることもなく、コミヤヤマは自分ひとりしかいない研究室で暴れまわる。その、迷惑なのがおもしろい。頼まれてもいないのに忘れ物を探し、勝手に備品をいじり、自分の研究の話につきあわせる。電話を切ったあとにはトレイに入った砂と貝殻を見つけ、採集してきた砂から形のいい貝殻だけをより抜いているのだと気がつく。そしてまたも勝手に、その作業を手伝おうとする。そのときも言うのだ。
 「乗りかかった船だ。やっちゃうか
 自分の部屋にコミヤヤマが来ると思うと本当に勘弁してほしいけれど、しかしわたしは、彼にあこがれる。コミヤヤマのうっとうしく、そして可笑しいのは、彼が「自分に関係している」と認識する範囲が多くの人の感覚を逸脱しているところだ。「たまたまそこにいた」ということを重くとらえるあまり、本来であればしなくてもいい、それどころかしないほうがいいことを、コミヤヤマは執拗なほどにくりかえす。コミヤヤマのズレは、つきあうことのズレそのものである。その結果、電話の向こうの教授はおそらくうんざりするか憤慨するかし、研究室はめちゃくちゃになってコントは終わる。
 コミヤヤマを見ていると思う。つきあってしまうことは乱暴で、可笑しくて、おそろしい。ひょっとしたら、わたしたちのふつう怖れる、つきあわせてしまうこと以上に。わたしは他でもない、それが怖いのだった。通りがかったドアの向こうで電話が鳴りつづけていても、わたしなら出ないだろう。「だけど、自分には関係ないだろう」と言って。そしてひとたびそう思ってしまうと、なにもかもがそんなふうに見えてくる。自分がいることの分かりやすい必要がほしいと思っても、そんなものは実際どんな関係の中にもないのだ。自分の必要なさへの足踏み。それが、わたしのつきあいの悪さの正体である。
 けれどときどき、コミヤヤマのような乱暴さがほしいと思う。たまたまそこにいたという理由で、あつかましく、えいやっと関係してしまいたい。「乗りかかった船だ」と言いはって、いる理由のない自分がいることに、堂々としてみたい。

 そのときも、夫をつきあわせていた。2018年に東京オペラシティアートギャラリーで開催された「谷川俊太郎展」、休日で、カップルや家族連れでにぎわっていた。たいして詩に興味を持たない、かつ人混みをきらう夫は、なにか不当な目に遭っているという顔をしていた。展覧会に行くとたいてい夫のほうが足早に進み、わたしがひとつひとつ立ち止まりながら、ゆっくりあとを追いかける。うっかりすると、ときにはぐれる。一度見失った夫の姿をふたたび見つけたとき、夫はめずらしく、詩のパネルの前で立ち止まっていた。近寄っていくと、「おれたち」と言ってパネルを指さす。「ここ」という詩だった。

ここ
谷川俊太郎

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく

 「どっちがどっち?」と聞きながら、まあ、わたしが「私」だろう、と思っていた。しかし夫は「別にそれは、どっちでもいい」と言った。
 いまになって思う、たしかにそうだ、わたしがまちがっていた。この詩に出てくる「私」と「あなた」の区別は、たいして大きな問題ではない。「ここ」ではない「どっか」に行こうと話すふたりは結局、どこへも行かない。しかし「どっかに行く」ことは未達成に終わるのではなく、もともといた「ここ」が、行こうとしていた「どこか」になるというかたちで達成される。実際、わたしたちにはそういうことがよくあった。展覧会に行くのも、川を見たり歩いたりするのも、結局目的は後づけで、行き先はどこでもいいのだった。夫にははなからそれがわかっていて、わたしに投げっぱなしにしていたのかもしれない。
 詩に出てくるふたりは、どちらかがどちらかにつきあっているのだろうか。夫の言うとおり、もはやそんなことはどうでもいいことに思えてくる。つきあわせてしまうことも、つきあってしまうことも、どちらもときに乱暴である。そう思うとあとにはやはりあの、ひとりではできない、したくないようなことだけが、ぽつんと残る。そして、そういうことがだれの中にもあるとしたら、どうだろう。みんな自分のさびしさや、もしかしたら苦しい欲望や、必要のなさを持てあましているとしたら。
 そういうとき本当は、つきあってもらうのでも、つきあってあげるのでもなく、半分ずつをお互いに持ちあいたいのではなかろうか。わたしたちはたまたま居合わせただけにすぎず、わたしがここにいる必要も、ここにいるのがわたしである必要もない。しかしそういうどうしようもないお互いが、どうしようもなくそこにいることになる瞬間が、ときどき訪れるのだ。「だけど、自分には関係ないだろう」というおそれを、あつかましく飛び越えなくてはならない瞬間が。
 そして、それは夫との関係にはかぎらない。急に悩みを打ち明け出した親戚の隣に座っているときだったり、お店を出たあとの友だちをふと引き止めたくなったりするときだったりする。そういうときに本当に必要だったのは、「だれか『と』つきあう」のでも、「なにか『に』つきあう」のでもない、複数の「わたし」によって分けあわれた主体である「わたしたち『が』つきあう」ことなのではないか。やっぱり「つきあう」ことを恋愛だけの小さな言葉にしておくのはもったいない。乗りかかった船のことを考える。ばらばらの脚を乗せてひとつの方向へ進む、頼りない船。関係ないと言ってしまえばそれまでの関係が、しかしときに猛烈にほしくなる、理由のないわたしたち。
 だからやっぱり婚姻なんて、たいした解決にはならない。してしかるべきことなどないままのわたしたちが、しかしここにいとどまろうとする以上は。もともと恋ともなんとも関係なく、そうだ、つきあってきたじゃないか。「つきあって」とあらためて言うと夫は、「なにに?」と言う。それでやっとわたしも、「なにに、とかじゃないんだよな」と言う。そんなふうに思いながら腰かけるとき、愛がすぐそばにあると思う。しかも、家の中にも外にも、だれとの間にもあちこちに、めちゃくちゃにある。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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