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言葉の「ば」を「ぱ」に変えて「ことぱ」。――「ことぱの観察 #02〔遊びと定義〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


遊びと定義

 十年くらい前、インターネットで、ハンドルネームの頭文字を「ぽ」にするとかわいい、という遊びがあった。「あいこ」さんなら「ぽいこ」さん、「木原」さんは「ぽはら」さん。わたしはそのとき「ふみ」という名前を名乗っていたから、「ぽみ」。これを気に入って、「ふみ」を名乗らなくなったいまだに、ときどきふざけてWebサービスの登録名にしたりする。ぽみ。耳慣れないけれど親しみやすい、オノマトペのようだけど案外なんのようすも想起させない、ふしぎな文字のならび。
 この他愛もない遊びが楽しいのはなんだろう。たいした工夫もなく頭の文字を変えるだけで、なんとなく笑える。同じくインターネットのおふざけとして有名なものだと、「ゴツゴツのあはん」というのがある。カンのいい人ならすぐにわかるだろう、「アツアツのごはん」の頭文字を入れ替えたものだ。ただそれだけなのにかなりおもしろい。ほかに有名どころだと、「チャラチャラのパーハン(パラパラのチャーハン)」「ぽとハッハ(はとポッポ)」もすばらしい。「ぽとハッハ」なんて、いま書いていても笑ってしまう。
 くだらないように見えて、いや実際くだらないのだが、一応スプーナリズムという立派な名前がついている。仕事で小学生向けの詩の講座をするときにも、よくこのスプーナリズムで遊ぶ。自分の苗字と名前の一文字目を入れ替えるのだ。これもなんの工夫もいらない上に自己紹介の代わりになるから、だいたい講座の最初にやる。わたしが「くきさか さじらです」と名乗るだけでちょっと笑いが起きて、そのあとはもう順々にみんなの名前を聞いていくだけでいい。「ぽみ」と同様、これ以上ないほど見慣れた言葉である自分の名前が、急にナンセンスの牙を剥くのが楽しい。
 言葉遊びの先達中の先達、歌人の山田航さんの名著『ことばおてだまジャグリング』でもスプーナリズムを取り上げていて、いくつかの傑作を紹介している。人名を使ったものもあり、「マール・ポッカートニー」「バリュー・ドリモア」などなど。山田さんいわく、入れ替えればなんでもいいわけではなく、おもしろいものとそうでないものとがある。そして「P」の音には魔力があって、パ行が入るとおもしろくなりやすいらしい。
 わたしも御多分に洩れず、パ行には反射的に心を許してしまっている。言われてみれば、「パーハン」も「ぽと」もパ行じゃないか。最初の遊びの「ぽみ」に至っては、わざわざよそから「ぽ」を持ってきている。最近は言語学者の川原繁人さんがまさに『なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える』という本を出版されていて、その中でもパ行は小学生の関心を集めていた。言語学の観点からいくと、パ行を使うことで生まれるのは「外国っぽさ」、そしてやっぱり「かわいさ」。赤ちゃんが発音しやすい音でもあるとか。ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ、唇を一度くっつけないと発音できない、めんどくさくて、どこかよそもの感があって、かわいい音。すてきだ。
 運営している国語教室に「ことぱ舎」と名前をつけたのも、八割方それが理由である。言葉の「ば」を「ぱ」に変えて、ことぱ舎。由来を訊ねられるたび、「かわいいからです」と答える。「Pの魔力」に加え、意味がないということも、こちらを油断させるかわいさの一因であるように思う。教室は住んでいる家の一室で、夫は略して「ぱしゃ」と呼ぶ。わたしが家の中で携帯電話をなくして、あそこでもないここでもないと騒いでいると、夫が言う。「ぱしゃじゃない?」そしてほとんどの場合それは正しく、携帯電話は確かに「ぱしゃ」にある。かわいい、かわいい。

 さて、「ことぱ」がかわいい一方、「言葉」はさしてかわいくない。濁音の「ば」は、「ぱ」に比べるとどっしりした低い響きを持っている。わたしは読むのも書くのも好きだが、「言葉」という単語はあまりに広すぎて、実はそこまで身近には感じていない。言葉があるのはなにも本の上だけではない。ポップスもキャッチコピーも契約書も言葉、おしゃべりも演説も言葉、SNSやメッセージのやりとりも言葉。ひょっとしたら、苦手なものの方が多いかもしれない。
 どうやらそう思っているのはわたしだけではないようで、詩人で国語の教室を開いていると話すと、ときどき一歩引いたような苦笑が返ってくる。
 「わたし、言葉って苦手なんですよね……うまく使えた方がいいというのは、重々わかっているんですけど、昔からどうしても……」
 その控えめな拒絶を受けるたび、その人がこれまでどんなに言葉によって痛い目を見てきたか、その歴史を窺い知ったような気持ちになる。そしてその人から見たわたしが、まるでそんな痛みとは無縁で生きてきたように映っているのではないか、と思って、もどかしくなる。わたしだって、言葉にはいつもうんざりさせられ、悩まされ、すれ違わされているというのに。
 もうひとつ、詩の講座でやるクイズを紹介しよう。前述したふたつのように言葉の音を使った遊びもいいけれど、意味を使ったものもある。この連載のテーマと同じ、「定義」という遊びだ。次の文章を読んでみてもらいたい。

「〇〇」
脈絡のない活動、すなわちその続きが出発点から切り離され、出発点を消し去っていると思われるような活動を、〇〇と呼ぶ。もし子どもたちが木の枝で家を作り、それに家具を置き、それを修理するならば、それはもはや〇〇ではない。もしある子が毎日商売をしてお金を貯めるならば、それはもはや〇〇ではない。……(後略)

 これはフランスの哲学者アランの『定義集』からの引用で、〇〇にはある単語が入る。アランはこの一冊で二百語以上の単語を「定義」していて、「友情」「おしゃべり」「心配」など、現代のわたしたちの日常によく出てくるものも多い。さて、この文章はなんという語の定義か。
 実際にやってみると、本来ひとつの語について書いた文章なのに、案外いろいろな答えが出てくる。大人からは「衝動」「創作活動」「夢」、中には「無為」なんていう答えも出た。中学一年生から「迷子」という答えが出たときには、参加者もスタッフも舌を巻いた。確かに、迷った先で家を作って修理までしていたら、それはもはや迷子ではない。その通り。
 なにか思いついただろうか。正解はずばり、「遊び」。ここまでわたしもさんざん「遊び」について書いてきたけれど、アランの定義によればこれこそが「遊び」であるらしい。わたし個人的には、家を作ったりお金を貯めたりする「遊び」もあっていいような気がしてしまうけれど、どうだろう。講座では、このクイズのあとそれぞれに「遊び」を定義してもらう。アランは教師であり、生徒たちに即興で定義を書かせることがよくあったことが知られている。それで、この一冊を読むのには自分なりの定義を書いていくことがむしろ正当な読み方であるような気がして、彼にあやかるつもりで使わせていただいている。
 驚くのは、同じ語の定義でも人によってまったくバラバラなものが出てくることだ。表現が違うのはもちろんのこととして、そもそもの視点や、「遊び」に対する評価がまったく違う。お互いの発表を聞いて、「すごい!」「確かにそうかも!」と笑っていながら、ときどきふとゾッとする。わたしたちは、ここまでズレを抱えていながら、同じ言葉を使って語れている気になっていたのか。
 そして、「言葉」が反射的に引き出すあの拒絶、そしてその陰に見え隠れする傷を思い出す。わたしたちは、おそらく誰もが、言葉に痛い思いをさせられた経験を持っている。そして、言葉がときにわたしたちにおこなうあの裏切りは、わたしたちが日ごろ見過ごしているこのズレのしっぺ返しではあるまいか、という気がしてくる。お互いの持つある定義に対して、あるときには大ざっぱになりすぎ、またあるときには厳密になりすぎて、そのどちらでもわたしたちの言葉のやりとりはくじけてしまう。それがあるとき痛い経験となって、人間関係の上に表れてくるのではあるまいか。

 だから、遊びが必要なのだ。「ぽみ」だとか「バリュー・ドリモア」だとか言っているとき、わたしたちはいっとき、言葉をやりとりすることが常に隠している破綻の可能性から解放される。わたしの感覚で言えば、それは言葉をようやくつかまえられた、というより、むしろ言葉が先にはるか遠くへ行ってしまった、というのが近い。見慣れた言葉を一文字変えただけで、小さな齟齬をはるばると置き去りにして、見たことのない地平まで飛び立ってしまった。それを見ていると、なんだか小気味いい気持ちになってくる。そもそも言葉がよくわからないものであったことを、「遊び」の前ではじめて共有できたような気がしてくるのだ。おしゃべりや、契約書や、SNSの言葉には及びもつかないほど、言葉は果てしなく、剣呑である。そのことが、ときにわたしを晴れ晴れとなぐさめる。
 「定義」遊びにしても同じで、あまりに異なる定義を持ち寄ってはじめて、食い違いに驚き、笑うことができる。定義で遊ぶことが、わたしたちを同じスタートラインに戻してくれる。遊びによって解りあえるというわけでもないけれど、しかし遊びによってようやく、解りあっていなかったことを明るく思い出せる。アラン先生ふうに厳しく言えば、日常で立っている場所を脱することができないなら、それはもはや遊びではない。それでいて、そのあとには再び日常に戻れないのであれば、それもまた遊びではない。
 言葉の「ば」を「ぱ」に変えて「ことぱ」。教室の立ち上げのとき考えていたのは、この教室に遊ぶことと学ぶこととが共にあるといい、ということだった。わたしは詩人で、既存の形式を打ち壊すような表現を愛しているが、同時に国語の先生でもあって、正確な文法理解や読解の技術を、まったく同様に愛している。そのどちらかに偏ることがいやだった。ときどき、これでもまだ解りあっていないというスタートラインに笑って立ちながら、しかし次こそもっと解りあうために、と勉強に戻れるような場所にしたいと思っていた。だからまずは、表現することと学習することとをひっくるめた「言葉」という広すぎる単語に頼ったのだった。
 しかしそれでいて、「わたし、言葉って苦手なんですよね」というあの苦笑を、なんとかかわす必要があると思った。「言葉」で痛い思いをしてきた人を、立ち止まらせずにすむような看板にしたかった。「言葉舎」ではむずかしいだろう。だから、「ことぱ」と一文字、飛んでいってもらうことにした。「いやいや、『言葉』じゃないですよ。『ことぱ』って書いてあるじゃないですか!」と、かわいい顔してごまかす算段である。あの苦笑は、わたしの前にあらわれるたくさんの人たちの苦笑であるのと同時に、わたしの苦笑でもある。わたしたちには、わたしたちにこそ、言葉を遊ぶことと学ぶこととが、その双方がどうしても必要なのだ、と思ってやまない。
 アラン先生に倣って、わたしも定義を。

遊び:日常のくりかえしを離れておこない、終わったあとにはまた元のくりかえしへ戻ることのできる活動。すなわち、遊ぶ者は遊びと非・遊びとを往復する。そのように日常から分かたれているために、遊びは日常を外がわからの視点で照らす。そして、遊びと非・遊びとの往復が、その視点を日常のほうへ持ち帰らせる。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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