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物語で英語を学ぶ――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。海外での仕事に備えて、語学の勉強に励む日々の様子をお届けします。
※当記事は連載の第39回です。最初から読む方はこちらです。


#39 語学習得への道

 英語圏からインタビューを受けることが増えた。秋に仕事で海外に行くことにもなり、何十年かぶりに、英語を学ぶことにした。私は勉強がとにかく苦手で成績も悪かった。しかし、作家生活十四年で作品のためにいろんな方法で取材をし、付け焼き刃的にたくさん資料を読み、さもその世界に詳しいふうに小説をかくことは、そこそこ上手くなったような気がしている。もう堪能にならなくてもいい。試験を通過するのではなく、下手くそでも目の前の誰かと自力でギリギリ意思疎通したい。昔より自分のことがよくわかっているので、通知表の記憶は消して、できるだけやってみよう。
 故・小林カツ代さんは海外旅行が好きだった。その国の言葉がわからないのに、息子のケンタロウさんが舌を巻くほど、単語とジェスチャーだけで現地で意思疎通していたらしい。とにかく英単語を大量につめこんで、あとは持ち前のコミュニケーション能力で、滞在先で身につけていったそうだ(詳しくは、カツ代さん著作『アバウト英語で世界まるかじり』【集英社】を読むとわかる)。
 そんな話を、以前から英語をコツコツ勉強している賢い親友・A子ちゃんにしてみたら、おすすめされた本がこちら、ジェームス・M・バーダマン著作『毎日の英単語 日常頻出語の90%をマスターする』(朝日新聞出版)である。HPから無料の朗読音声をダウンロードして、発音をよく聴くといい、と親切に色々教えてもらえる。
 早速手に入れた本書、「嫌悪の表情を浮かべて彼を見る」とか「小包の中身に保険をかける」とか、教科書であまりお目にかからなかった例文がなんだか面白く、本に挟まれていた赤いチェックシートを何十年かぶりに手にして、いろんな思い出が蘇る。その昔、私は教科書に線を引いて、赤いチェックシートで隠せば勉強になるだろう、とマーカーだけで満足してしまい、結局、シートを使わず、ひどい成績をたくさん取ったのである。
 ただ、音声を聴き続けるのが問題であった。私はウォークマン時代から、イヤホンがどうしてもできなかった。何故かなくしてしまうのだ。鍵も財布もなくさないのに本当に不思議である。イヤホンがないまま、家事の間、スマホから流しっぱなしにする。待ち合わせの時、スマホを耳にくっつけてぶつぶつ単語をつぶやいていたら、やってきた友達に「え! なんでイヤホンしないの?」と仰天された。「イヤホンは絶対になくすから」と、私は渋ったが、友人の熱心なすすめで、そばの電気屋さんで、なくしにくそうな赤いイヤホンを購入した。確かにイヤホンがあると、どんな場所でも音声が流せて急に勉強が捗る。ぐんぐんと単語が頭に入る。しかし、この赤いイヤホン、私は予想通りたった五日でなくしてしまうのである。
 それでなんとなく勉強が今日まで途絶えているので、近日、イヤホンをまたなくす前提で再購入しようと思っている。
 こうして書いているうちに、私は、張り切って始めても何をやっても続かなかった学生時代を細かいところまで思い返してしまう。頑張って完走できたのは、後にも先にも読書や執筆だけだった。やはり、私には物語しかない、と決め、本棚から引っ張り出したのは、メグ・ライアンとビリー・クリスタルのラブコメディ「恋人たちの予感」のカドカワ・スクリプトブック・シリーズ(92年)である。私は、学生の頃、A子ちゃんとニューヨークでロケ地めぐりをしたくらい、この映画が好きで、セリフも日本語でならだいたい覚えている。最悪の出会いをした男女が十二年かけて愛し合うようになる、会話が洒落た、言わずと知れた名作だ。この映画のDVDを英語字幕で流しながら、スクリプトの日本語も読み、とにかくセリフ全部を英語で丸暗記する作戦である。映画一本頭に入れたら、英語をできることにはならないだろうか? 今のところ、完璧に暗記しているのは、メグとビリーがメトロポリタン美術館で早口ことばをやっている場面と、メグがサンドイッチ屋でオーガズム演技をやってみせたら、モブ役で出ていたロブ・ライナー監督のお母さんが、同じサンドイッチを注文しようとする場面だけで、これが何かに役立つとはあまり思えない。でも、これに関して言えば、自分でも驚くほどの集中力が発揮され、毎晩飽きもせず、メグとビリーのやり取りをぶつぶつつぶやきながら見つめている。
 成果はゼロというわけではなく、この間のインタビューではほんの少しだけ聞き取れたような気もした。いい悪いではなく、ここまできたら、続けられる勉強法にしがみつくしかないと思っている。

次回の更新予定は7月20日(土)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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はじめての子育て、自粛生活、政治不信にフェミニズム──コロナ前からコロナ禍の4年間、育児や食を通して感じた社会の理不尽さと分断、それを乗り越えて世の中を変えるための女性同士の連帯を書き綴った、柚木さん初の日記エッセイが好評発売中です!

プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

ゆずき・あさこ 1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』『オール・ノット』、初の児童書『マリはすてきじゃない魔女』(エトセトラブックス)など著書多数。3月21日に最新刊『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)が発売。

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