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連載 ロジカルコミュニケーション入門――【第13回】自意識のパラドックスを考えてみよう!

●本連載では「ロジカルコミュニケーション」を推進する哲学者・高橋昌一郎が、まったくの初心者に論理的思考の基礎から応用まで、わかりやすく明快に解説します。
●「ロジカルコミュニケーション」は、論理的思考に基づくスムーズなコミュニケーションを意味します。固定観念や偏見に陥らず、多彩な論点を浮かび上がらせて、双方の価値観をクールに見極めるコミュニケーション・スタイルです。
●なぜかコミュニケーションが苦手、他者との距離の取り方が難しいなど、コミュニケーションに問題を抱えていたら、抜群の効果があります。「ロジカルコミュニケーション」で人生が劇的に好転します!
●本連載は情報文化研究所主催のオンライン講座「ロジカルコミュニケーション入門――はじめての論理的思考」と連動しています。どなたでも情報文化研究所に会員登録(一般会員・学生会員)すれば、毎月第2日曜日11時より開催中のライブ講座を受講できます。ぜひご参加ください!
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●本連載に関するご意見やご質問にはnote「動画【ロジ研#13】ロジカルコミュニケーション入門【第13回】」のページで高橋昌一郎および情報文化研究所研究員が直接お答えします。ぜひこちらもご活用ください!
https://note.com/logician/n/n3c1762957e8e 


●論理的思考の意味

 本連載【第1回】「論理的思考で視野を広げよう!」では、「論理的思考」が「思考の筋道を整理して明らかにする」ことであると解説した。たとえば「男女の三角関係」のように複雑な問題であっても、思考の筋道を整理して明らかにしていく過程で、発想の幅が広がり、それまで気づかなかった新たな論点が見えてくる思考法である。

 【第2回】「論理的思考で自分の価値観を見極めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」によって新たな論点を探し、反論にも公平に耳を傾け、最終的に自分がどの論点を重視しているのか、自分自身の価値観を見極めることの意義を説明した。

 【第3回】「論点のすりかえは止めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」の大きな障害になる10の代表的な「論点のすりかえ」について具体的に紹介した。日常的にできる限り論点のすりかえを止めるだけでも、コミュニケーションはかなりスムーズで建設的になるはずである。

 【第4回】「白黒論法に注意しよう!」では、とくに詐欺師がよく使う「白」か「黒」しか選択の余地がないと思わせる「白黒論法」を解説した。相手が「白黒論法」のような「二分法」を押し付けてきた場合、命題を整理すると実際の組み合わせは2通りではなく4通りであることが多いのに注意してほしい。

 【第5回】「『かつ』と『または』の用法に注意しよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「~ではない(否定)」と「かつ(連言)」と「または(選言)」の組み合わせについて、「論理的結合子」を用いて記号で処理すると、論理的に厳密に表現できることを解説した。

 【第6回】「『ならば』の用法に注意しよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「ならば(条件)」および「逆・裏・対偶」が、「論理的結合子」を用いて記号で処理すると、論理的に厳密に表現できることを解説した。

 【第7回】「明確に『論証』してみよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「話の正しい筋道」が、アリストテレス以来の「論証」という概念で論理的に厳密に表現できることを解説した。論証には、モダス・ポネンスやモダス・トレンスのように「妥当」なものと、後件肯定虚偽や前件否定虚偽のように「妥当ではない」ものがある点に注意してほしい。

 【第8回】「多種多彩な『論証』を使ってみよう!」では、8つの「妥当」な論証形式「MP、MT、HS、DS、Add、Simp、Conj、CD」を確認した。記号化されているため、最初は戸惑う読者もいるかもしれないが、これらを自在に使いこなせるようになれば、日常の議論にも大いに役立つので、ぜひ頭に叩き込んでほしい!

 【第9回】「論理パズルを楽しもう!」では、多種多様な「論理パズル」を解きながら、これまで登場した概念を復習した。とくに、さまざまな論理結合子を用いて記号化すると、複雑に見えるパズルも機械的に解くことができることを明らかにした。この回に出した課題は自力で解いて楽しんでほしい!

 【第10回】「論理パズルで不完全性定理をイメージしよう!」では、「いかなる有意味な体系も完全にシステム化できない」という驚異的な事実を示した不完全性定理について、論理パズルを活用してイメージ化した。

 【第11回】「論理的思考で神学論争に挑戦しよう!」では、「神」の「宇宙論的証明」・「存在論的証明」・「目的論的証明」を論駁する方法を示した。いかに「論理的思考」が強力か、そのパワーを実感してほしい。

 【第12回】「社会的ジレンマに挑戦しよう!」では、「論理的思考」を駆使しても、社会的ジレンマを克服することは非常に難解であることを示した。

真と偽の意味

 論理学を学ぶ学生から寄せられる質問に、論理学や論理的思考の重要性はわかるのだが、どうも人間味がなくてスッと頭に入ってこないというものがある。そこで今回は、「真」と「偽」に対する信念や心情についても踏み込んで考えてみよう。

 まず有名な「ワニのパズル」を考えてみてほしい。

ワニのパズル――問題

 母親から子供を奪った人食いワニが、「もし俺がどうするか当てたら、子供は返してやろう。だが、当てなければ、子供を食べてしまおう」と言った。そこで、母親があることを言うと、ワニは何もできなくなったので、その瞬間に、母親は子供を奪い返すことができた。母親は、何と言ったのだろうか。

ワニのパズル――解答

 母親は、「あなたは、私の子供を食べるでしょう」と言ったのである。ワニが子供を食べると、母親の発言は真となり、ワニの行動を当てることになる。よって、ワニは子供を返さなければならない。一方、もしワニが子供を返せば、母親の発言は偽となり、ワニの行動を当てないことになる。よって、ワニは子供を食べなければならない。
 どちらにしても矛盾が生じるため、ワニは、口を開けたり閉じたりして、何もできなくなった。その隙に母親は子供を奪い返すことができたのである。
 ワニのパズルは、古代ギリシャ時代に作られたものだといわれている。このパズルの興味深いところは、母親が「感情的」には最も恐ろしい結末である「あなたは、私の子供を食べるでしょう」という解答を「論理的」に導いて返答する点にある。

自己言及のパラドックス

 本連載第11回で説明したように、パラドックスは「逆説」や「二律背反」などと訳されることもあるが、論理的には「矛盾」を指すと考えればわかりやすいだろう。たとえば、最も単純なパラドックスは、「私は、嘘つきである」という発言である。もしこの発言が真であれば、私は嘘をついていることになり、発言は偽になる。一方、この発言が偽であれば、私は嘘つきでないことになり、発言は真になる。したがって、矛盾する。
 「嘘つきのパラドックス」には、無数の例がある。「この文は偽である」という文、「落書きするな」という落書き、「ステッカー禁止」と書いたステッカーなどである。これらのパラドックスの特徴は、何らかの形式で自己について否定的に言及することによって、矛盾を生じさせている点にある。本連載第10回に登場した論理学者クルト・ゲーデルは、このような「自己言及」からゲーデル命題を類推したわけである。
 嘘つきのパラドックスを回避することは、簡単だと思われるかもしれない。これらは真偽を決定できない文なのだから、疑問文・感嘆文・命令文などと同じように、命題ではないと定義すればよいのではないだろうか。
 ところが、そのように簡単な話ではないのである。というのは、もし自己言及そのものを命題と認めなければ、「私は男である」や「私は学生である」のような命題を排除することになる。もし否定的な自己言及を命題と認めなければ、今度は、「私は男ではない」や「私は学生ではない」のような命題を排除することになる。いずれにしても、このように最も基本的な命題を排除すれば、システムや言語自体が成立しなくなってしまう。

相互言及のパラドックス

 嘘つきのパラドックスから簡単には逃れられないことは、古代ギリシャ時代からわかっていたことである。たとえば、ソクラテスが「2は奇数である」と発言し、プラトンが「ソクラテスの発言は偽である」と発言したとする。このとき、ソクラテスの発言は偽であり、プラトンの発言は真である。どちらも、明らかに命題である。それでは、次の会話は、どうだろうか。
 
ソクラテス プラトンの発言は真である。
プラトン ソクラテスの発言は偽である。
 
 これらの発言は、「自己言及」ではないが、「相互言及」によってパラドックスを生じさせていることがわかるだろう。もしソクラテスの発言が真ならば、「ソクラテスの発言は偽である」が真になり、矛盾する。もしソクラテスの発言が偽ならば、「ソクラテスの発言は偽である」が偽になり、よって、ソクラテスの発言は真となり、これも矛盾する。
 1枚のカードの表に「このカードの裏の命題は真である」と書き、裏に「このカードの表の命題は偽である」と書いても同じ矛盾が生じる。さらに、カードの両面に「このカードの裏の命題は偽である」と書くだけでも、嘘つきのパラドックスが生じるのである。したがって、仮に自己言及を回避したとしても、嘘つきのパラドックス自体は消えない。

 実は、古代ギリシャ時代以来の嘘つきのパラドックスを根本的に解決したのも、不完全性定理だった。ゲーデルは、「証明可能性」はシステム内で定義できるが、「真理性」はシステム内で定義できないことに気付いていた。
この側面から不完全性定理に新たな証明を与えることによって、真理の対応理論を厳密に構成したのが、論理学者アルフレッド・タルスキーである。
 たとえば、「プラトンの発言は偽である」という命題は、「『ソクラテスの発言は偽である』という命題は偽である」という命題を指す。のとき、最初の「偽」と次の『偽』は、それぞれがレベルの異なるシステムに対応した言語と考えられる。
 タルスキーは、一般に、対象を指示する「対象言語」と、対象言語を指示する「メタ言語」を区別した。たとえば、リンゴを指示する「これはリンゴである」という文は、対象言語に含まれる。「『これはリンゴである』という文は真である」という文は、対象言語そのものを対象にしているので、メタ言語に含まれる。
 メタ言語を対象にするためには、さらに高次のメタ・メタ言語が必要になるわけである。ところが、日常言語内部には、本来はレベルの異なる言語が混在しているために、ゲーデル命題が生じる。それが、嘘つきのパラドックスの正体と考えられる。

 ナイトとネイブのパズルでは、島の「内部」のナイト・クラブ会員の発言によって、証明可能性を定義した。しかし、真理性については、島のシステムの「外部」で定義したことを思い出してほしい。あるシステムにおいて、証明可能性を超えた真理性を判断するためには、それよりも上のレベルのシステムに「飛び出す」必要があるわけである。

 逆に言うと、不完全性定理は、自己言及を可能にする程度に複雑なシステムにしか適応できない。たとえば、将棋やチェスも一種のシステムだが、これらのシステムに不完全性は存在しない。ゲームの複雑性ではなく、システムの自己言及の複雑性が、不完全性定理を生じさせているのである。

自意識のパラドックス

 もう一度、ナイトとネイブのパズルを振り返ってみよう。ナイトとネイブの島の住人Xが、「私はネイブである」と発言した場合、Xの正体は何者だろうか、という問題である。もちろん、今では、この発言が島のシステムで不可能なことは明らかだろう。

 ところが、このパズルに対して、「Xは、自分をネイブと信じているナイトなのです」と答えた学生がいて、一瞬考えてしまったことがある。Xは、自分の信念を正直に発言しているのだから、「私はネイブである」と言っても嘘にならないはずだ、というのが、彼女の解答の理由である。このように、「間違ったことを信じる正直者」については、どのように考えればよいのであろうか。

 たとえば、2を奇数と信じるナイトを考えてみよう。彼が自分の信念を正直に発言すると、「2は奇数である」という命題になるが、これは、真理の対応理論により、事実に反するので偽である。ナイトの発言はすべて真であるという前提が与えられている以上、「2は奇数である」と発言するナイトは考えられない。同様に、いかなるナイトも「私はネイブである」とは発言できない。したがって、「自分をネイブと信じているナイト」という解答も成立しないことになる。

 とりあえず、このように答えておいたが、実は、この学生の解答は、「発言」の真理性から「信念」の真理性に踏み込むという意味で、新たな視点を与えているのである。

 たとえば、ブラジルの首都について考えてみよう。Aは、ブラジリアと信じ、Bは、リオ・デ・ジャネイロと信じているとする。事実としては、1960年にブラジリア遷都が行なわれているため、Aの信念は真であり、Bの信念は偽である。
 さて、ここで誰かがAとBにブラジルの首都を尋ねたとしよう。このとき、Aが故意に自分の信念に反して「リオ・デ・ジャネイロ」と答えれば、Aが嘘つきであることは明白である。しかし、Bが自分の信念に正直に「リオ・デ・ジャネイロ」と答えた場合は、どうなるのだろうか。つまり、Aの嘘は「意識的」であり、Bの嘘は「無意識的」であるとき、それをどのように解釈するのかという問題である。

 大学でこの話をすると、意見は2つに分かれる。一方の意見は、真理の対応理論に基づき、Bの「発言」が偽であることを重視する。したがって、Bは、やはり「嘘つき」である。他方の意見は、Bを「嘘つき」と呼ぶのは「かわいそう」なのであって、Bは単に「間違っている」と呼ぶべきであるという。どちらかというと、後者の方が、多数意見になることが多い。

 その後も議論は続くが、結局、学生諸君の日常会話においては、意識的な嘘をつく人が「嘘つき」なのであって、無意識的な嘘をつく人は「間違っている人」と呼ばれているようである。
 それでは、意識的な嘘と無意識的な嘘を、どのようにして見分けるのだろうか。「そんなことは、目を見れば簡単にわかりますよ」というのが、彼らの答えである。

 間違ったことを信じる正直者は、「間違っている人」で納得することにしよう。それでは、間違ったことを信じる嘘つきは、どうなるのだろうか。これについては、次のような話がある。

 精神科の医者が、ある患者を嘘発見器にかけることにした。医者は、「あなたはナポレオンですか」と尋ねた。患者は、「いいえ」と答えた。ところが、嘘発見器の判定によれば、患者は嘘をついている!

 つまり、この患者は、自分がナポレオンだと信じ込んでいるが、その真実を話すと殺されるという妄想を抱いているため、自分の信念に対して嘘をついている。つまり、彼こそが「間違ったことを信じる嘘つき」なのである。

 それでは、この話を参考にして、次のパズルを解いてほしい。 

双子のパズル――問題

 見分けのつかない双子の兄弟がいる。1人は正直者であり、他の1人は嘘つきである。さらに、正直者の信じている命題はすべて真であり、嘘つきの信じている命題はすべて偽だとする。つまり、2人は、正しいことを信じる正直者と、間違ったことを信じる嘘つきである。

  たとえば、彼らに、「2は偶数ですか」と尋ねたとしよう。正しいことを信じる正直者は、2が偶数であると信じ、その上で正直に「はい」と答える。間違ったことを信じる嘘つきは、2が偶数ではないと信じているが、その上で嘘をつくから、やはり「はい」と答える。

 それでは、2人はどのような質問に対しても同じように答えるのだろうか。実は、彼らに「はい」か「いいえ」で答えられる1つの質問をして、正直者と嘘つきを見分けることができる。どのような質問をすればよいだろうか。

双子のパズル――解答

 「あなたは正しいことを信じる正直者ですか」と質問すればよい。正しいことを信じる正直者は、自分が本人であると正しく信じ、その上で正直に「はい」と答える。間違ったことを信じる嘘つきは、自分が本人であると間違って信じ、その上で嘘をつくから「いいえ」と答える。

 2人は、一般的な質問には同じように答えるが、自己言及に関する質問に対しては、変化が生じる点に注意してほしい。ここで、「あなたは正しいことを信じる正直者ですか」の指示句「あなた」は、異なる対象人物について言及している。したがって、返答も異なるわけである。

  正しいことを信じる正直者の名前はホームズであり、間違ったことを信じる嘘つきの名前はモリアーティであるとしよう。この場合は、もっと簡単に2人を見分けることができる。「あなたはホームズですか」と聞けばよいのである。ホームズは、自分が本人であることを正しく信じ、その上で正直に「はい」と答える。モリアーティは、自分がホームズだと間違って信じ、その上で嘘をつくから「いいえ」と答える。

ある実話

 私が「自意識のパラドックス」を踏み込んで考えるようになったきっかけは、國學院大學に赴任したばかりの頃、ある学生から次の話を聞いたことにあった。当時は、現在のようにインターネット環境が整っていないため、簡単に情報検索ができない時代だった点に注意してほしい。

 学生Xは、生まれてから小学校までを東京で過ごし、その後、父親の転勤により関西に引っ越して、それ以降は、ずっと大阪で育った。
 彼がよく覚えている東京での数少ない思い出の一つが、両親と共に新宿の京王プラザホテルのレストランで楽しく食事をしたことだった。その日、新宿駅西口からホテルに歩いていく最中、父親が「こんなところに工学院大学があるんだね」と言い、母親が「新宿駅西口からすぐで便利ね」と言った。その会話を聞いていた幼いXには「コウガクイン」が「コクガクイン」に聞こえたため、Xは「國學院大學は新宿駅西口の側にある」と信じ込んでしまった。

  さて、Xの高校の同級生Yは日本史に興味があり、國學院大學の文学部史学科を受験することにした。Yは生まれてからずっと大阪育ちで、東京のことはまったく知らない。そこでYは、以前東京に住んでいたXに國學院大學の場所を尋ねた。するとXはYに「國學院大學だったら新宿駅西口の京王プラザホテルのすぐ側だよ」と教えた。ところが、國學院大學は渋谷に位置する。そのため、後でそれを知ったYは怒ってXのことを「嘘つき」だと言ったが、その後、Xが國學院と工学院を勘違いしていたことがわかって大笑いになった、という話である。

 要するに、Xは自分が「真」だと信じ込んでいるので「國學院大學は新宿にある」と発言したが、この命題は事実に反しているので、Xの発言は「偽」になる。これが論理学の「真理の対応理論」の考え方である。したがって、心情的にはXは正直者だが、論理的にはXは嘘つきになる。

 そこで私が考えたのは、もしXが意地悪でYを騙してやろうと思って「國學院大學は渋谷にある」と発言したらどうなるのか、ということだった。Xからすれば、自分の信念に反して発言しているから意図的に「嘘」をついているわけだが、実際には「ウソから出たマコト」で、発言そのものは「真」になる。したがって、心情的にはXは嘘つきだが、論理的にはXは正直者になる!

 今回は「真」と「偽」の概念について人間の「心の中」にまで踏み込んで考えてみると、実は容易ではないことを示した。お楽しみいただけたら幸いである。

参考文献
 高橋昌一郎(著)『理性の限界』講談社(講談社現代新書)、2008年
高橋昌一郎(著)『東大生の論理』筑摩書房(ちくま新書)、2010年
高橋昌一郎(著)『20世紀論争史』光文社(光文社新書)、2021年
高橋昌一郎(監修・著)/山﨑紗紀子(著)『楽しみながら身につく論理的思考』ニュートンプレス、2022年

イラスト・題字:平尾直子

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高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)
國學院大學教授・情報文化研究所所長
専門は論理学・科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『実践・哲学ディベート』(NHK出版新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。

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