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「自分」とは誰のことなのか――#2ゼイディー・スミス『スイング・タイム』(2)

フレッド・アステア扮するダンサーを描いた映画『有頂天時代』に由来するタイトルを持つゼイディー・スミスの長篇小説『スイング・タイム』。黒人と白人、両方の血を引く本作の主人公には、ともにダンサーとなることを目指す友人がいました。ふたりの人生はどのように進むのでしょうか? 都甲幸治さんが読みどころを解説します。

タップダンスに魅せられた少女たち

 すべての始まりは1982年に開かれたロンドンのダンス教室だ。そこでふたりの少女が出会う。本書の語り手である主人公と、その友人のトレイシーだ。彼女たちには共通点がある。黒人と白人両方の血を引いていて、肌の色も背丈も学年も同じなのだ。主人公の母親はジャマイカ系の黒人で、父親は白人の郵便局員だ。それに対して、トレイシーの母親は白人で、父親は刑務所に出たり入ったりしている黒人である。共通点はそれだけではない。ふたりはプロジェクトと呼ばれる低所得者用のアパートに住んでいて、学校も同じだ。

 そこで彼女たちはタップダンスに魅せられる。偏平足である主人公と違って、トレイシーはメキメキ頭角を現す。だが主人公にも得意なことがある。とにかく歌が上手いのだ。彼女たちはあるふたりの人物に憧れている。驚くほどダンスの上手いフレッド・アステアと、黒人女性の踊り手であるジェニー・ルゴンだ。彼女たちはふたりの出演しているVHSのビデオテープを何度も何度も繰り返して見ては、熱のこもったダンスに圧倒され続ける。

道は分かれ、それぞれの人生が進む

 常に一緒にいてダンサーになることを夢見ていたふたりだが、途中で別の方向に向かうことになる。芸術系の学校に進学することを決めたトレイシーに対し、比較的成績の良かった主人公は母親から、成績優秀者のための特別な学校に行くことを強いられる。母親は結婚して子供ができてもなお政治学や社会学を学び続け、最後には地域の代表として下院議員にまでなる。勉強することで社会的上昇を目指す道を主人公にも歩ませようとするのは、母親にとって当然のことだった。だが自分の気持ちを踏みにじられたと感じた主人公は、試験の日にわざと悪い成績を取る。当然落ちたものの、芸術系の学校に行かせてもらうこともできなかった。

 一方、トレイシーはダンサーとしての道を順調に進み、ミュージカルで端役をもらえるまでになる。それに対して主人公は、そこまで有名でない大学に進み、黒人文化などを学んで卒業するが、全く就職できない。それを見かねたトレイシーの伝手で、彼女が出ている舞台の裏方をしばらく務めていた。主人公の人生が転換したのは、YTVという テレビ局のインターンとなったときだ。そこで働いているうちに、たまたまこの局 にやってきたオーストラリア出身の国際的なポップスターであるエイミーと出会い、なんと彼女の付き人として抜擢されたのだ。

有名人のサインを売買して暮らす主人公アレックスの人生をコミカルに描く
“The Autograph Man”は『直筆商の哀しみ』(小竹由美子訳、新潮社、2004年)の題で邦訳がある(撮影:都甲幸治)

どの場所にも根付けない「私」

 プライベート・ジェットで世界を飛び回り、数多くのコンサートやレコーディングをこなし、気が向いた世界中の場所で休暇を取るエイミーにぴったり寄り添いながら、主人公は彼女の身の回りの世話や、恋愛の相談相手、仕事上のアドバイスなどを手広く引き受ける。とは言え、こうした付き人は彼女ひとりではない。エイミーの古い知り合いであるジュディもそうだし、他にももうひとりいる。しかも警備スタッフである黒人でゲイのギャンガーなど、付き人以外にも、さまざまな 役割を果たす人々がエイミーとともに世界中を移動している。

 要するに、24時間エイミーと共にいて、彼女のことを考え続けるのが主人公の仕事だ。だからこそ、主人公は自分が誰だかわからなくなる。どの場所にも根付けないし、エイミーのスタッフ以外と知り合うことも難しい。さまざまな場所を移動しているうちに言葉も変わってくる。だからロンドンに戻っても、イギリスの英語が耳慣れない、奇妙なものになっている。要するに、セレブの生活を身近に経験することと引き換えに、主人公は自分の人生を失ってしまうのだ。

 しかしながら、主人公はある場所を定期的に訪れることになる。貧しい女性たちに将来の希望を与える、という目的のもと、おそらくガンビアと思われる西アフリカの国に、女性のための学校を建てる、というプロジェクトをエイミーが始めたのだ。とは言え、忙しい彼女は理想を語り、莫大な資金を出すものの、きちんと一貫しては関わらない。気が向いたときにやってきて、こうした学校の意義についてメディアに語るだけで、実務は他人に丸投げしている。それを担っているのは、アフリカで長年援助の仕事をしてきたブラジル人のファーンと主人公、そして現地の教員のラミンとハワだ。

E・M・フォースター『ハワーズ・エンド』の現代版とも評される
“On Beauty”は、『美について』(堀江里美訳、河出書房新社、2015)の邦題で刊行された
(撮影:都甲幸治)

自分を知ることの難しさ

 現地の実情を全く踏まえない勝手な指示をニューヨークやロンドンから出してくるエイミーの害を何とか食い止めながら、ファーンは現地の人にちゃんと役立つ学校にしようと奮闘する。一方主人公は、今まで自分のルーツはアフリカにあると 思ってきたのに、アフリカのことを何一つわかっていないと気づく。そして地元の人々から見れば、自分はただの「アメリカ人」でしかないと悟る。

 一方トレイシーは3人の男とそれぞれ子供を作り、全員と別れてしまう。母親に子供の世話を頼んでダンサーを続けていたが、母親の病気と死に伴い、それも不可能になる。こうして彼女のキャリアは輝く前に終わる。そして彼女は太った極貧のシングルマザーとなってしまう。そのことに主人公が気づいたのは、トレイシーが決定的に辛い状況にはまり込んだ後のことだった。

 だが主人公の人生も決して順風満帆ではない。エイミーがラミンを愛していると知りながら、主人公は彼と肉体関係を持ってしまう。すると、もともと主人公を愛していたファーンは嫉妬のあまり、そのことをエイミーに告げる。そして主人公はこの十年ほどのあいだに得てきたものを一瞬で全て失う。

明日に続きます。お楽しみに!

題字・イラスト:佐藤ジュンコ

都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

関連書籍

都甲幸治先生といっしょにアメリカ文学を読むオンライン講座が、NHK文化センターで開催されています。

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