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集団に巻き取られず、しかし孤立もせず――「ことぱの観察 #20〔乗ること〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


乗ること

 ダンスを習いはじめた。
 もともと体を動かすことは苦手中の苦手で、五十メートル走のタイムは十秒、よく転ぶし、筋力もなければ俊敏さもない。いわゆる学校教育的な「体育」に対する憎しみの記憶も手伝って、大人になってからも避けられるかぎり避けてきた。それなのに急にダンスである。家族や友だちもびっくりして、いつ発表するの、観に行こうかな、とからかう。わたしは「ふーん」とか「へへん」とか言って無視する。なんせ舞台に立つ気はさらさらない。ひとえに自分ひとりのためのダンスなのだ。
 スタジオは住んでいる県内にある。一対一でレッスンを受けられるからそこに決めた。はじめの面談で「なにを目標にしたいですか?」とたずねられて、「音楽に乗ってみたいです」と答えた。自分がダンスを知らないことがもどかしくなるのは、だいたいひとり音楽を聴いていて、その美しいのにうんとうれしくなったり、声をあげたくなったりするときだ。リビングにいることもあるし、散歩をしていることもある。そういうとき、なにかが体を衝きあげ、導こうとしているようなのに、わたしの体というのは重たく、みずからその要請を棒に振ってしまう。それが惜しい。だれかに見せるわけではないのだから好きなように動けばいいのに、と自分でも思うけれど、できない。もしもソファから立ち上がり、見よう見まねでステップを踏んだり、腕を振り上げたりしてみたとしても、わたしの身振りは自分のうちにあった衝動のようなものをことごとくすり抜け、かえって音楽の喜びや興奮をしらじらと醒ましてしまうにちがいないことが、自分でよくよくわかっているからだ。
 ダンスの先生にはそこまで詳しい説明はしなかったけれど、代わりに言った。
 「もっと音楽を聴けるようになりたいです」
 そのいい加減な要望に、「最高っすね」と先生は答えた。そうしてわたしは月に二回、ダンスのレッスンに通うことになった。

 自分が音楽を聴けていないと思うようになったのは、二十代の前半に通ったクラブやライブハウスでの経験からだ。わたしのしている詩の朗読という芸は案外どういう場所にもなじむもので、その頃いろんなイベントにブッキングしてもらった。出演者がわたしたちのユニット以外みんなラッパーだったり、バンドだったりすることもよくあった。
 とはいえ生来の負けずぎらいで、ステージに立ってライトを浴びてしまえばわたしは強気で、歌もラップも詩の朗読も変わらないと思っていたし、変わらないと思わせたかった。実際ライブが終わったあと、詩の朗読なんてはじめて聞くというアーティストたちはしかしみな、ほかの共演者に対するのとまったく変わらない態度で感想を言いにきてくれた。そこに関してわたしが引け目を感じることはなかった。
 けれどステージを降りてフロアに立っていると、ふと、自分が浮いていることが気にかかった。クラブやライブハウスにいる人たちは暗がりで、めいめいリズムを受けて体を揺らし、ときどき手を上げて賞賛の意を示した。けれどわたしはと言えば棒立ちになり、たまに拍手をするくらいで、はたから見たら、少なくとも揺れている人たちとくらべたら、あまり音楽に喜んでいないように見えただろう。わたしとしては自分なりに聴き入ったり、胸をうたれたりしているつもりなのだが、しかしなにかが違う。体が違う。

 ダンスのレッスンは棒立ちになるところからはじまった。
 手をぶらんと下ろして、ただ立つ。自分でばかばかしくなるくらい、立つことのほかになにもしていない状態になる。フロアの体と同じだ。すると、「足の裏のどこに体重がかかっているか意識してください」と先生が言う。ふしぎなことにそのとたん、足の裏がぐっと広く感じて、さっきまでなめてかかっていた「ただ立つ」ことさえよくわからなくなってしまう。なにが正しい立ちかただっけと思う。それから、リズムにあわせてうなずく練習、歩く練習、反対にリズムを外して歩く練習。なにをしてもしみじみと思う。ああ、ひとりで受けられるレッスンにしてよかった。
 自分の体がうとましく思えるのは、いつも他人と並んだときだ。みんなで走ればわたしだけ置いていかれ、みんなが音楽にあわせて揺れるそのリズムにも遅れる。写真に映るためにポーズをとっても、ときには隣りあって話をしているだけでも、ふと自分の体に対する猛烈な違和感が訪れる。わたしだけが体と離れているように思う。けれど人といる以上そんなことにかまってはいられないから、なんとなく呑み込む。だから、体を乗りこなしているように見える人にはあこがれてしまう。共演相手として出会うダンサーさんや俳優さんはもちろん、ただおしゃべりしているだけでも、体にはうまい人とへたな人がいる。なにをしていても、ちょっとした手つきや身のこなしが美しい線を描き、すんなりとそれぞれの場所におさまる人というのがいるのだ。そういう人を見るとき、華麗なハンドルさばきやアクセルの強弱のことを思い、ひるがえって自分の体は思うようにならない乗りもののように感じられる。体にうまく乗れない。
 そしてまた、おしゃべりそのものにしてもそうだ。相槌やほほえみをいつも適切な場所に置ける人というのがいる。そういう人はただおだやかにいるだけではなく、ときに大きな声でしゃべったり、ちょっと風変わりなことを言ったりしても、なんだかうまくいく。そして、例によってわたしはあまりうまくない。ちょっとすると機嫌が悪いように思われたり、何度も聞きかえされたり、わたし自身も会話に集中できなくなってしまったりする。「ノリがいい」という言葉がある。ただ「ノリ」ということもある。場にいる人数が増えるほどに、そしてそれが同質な集団であるほどに強くあらわれはじめる、あいまいな約束ごとのようなもの。さらに言えば、多数派がよしとすることや、これまでにくりかえしおこなわれてきたことの方へ成り行きを向かせようとする、ある力のようなもの。
 先に自分の立場を表明しておくと、それがときに多数派による乱暴を生み、さらにはその乱暴をあるべくしてあるものとして看過ごさせることを警戒して、わたしはあまり「ノリ」という言いかたを好まないし、「ノリ」が大切にされるべきだとも思っていない。「吞み込みがいい人」にはなってみたいと思うけれど、「ノリがいい人」にはならなくていいや、と思っている。実際、「ノリがいい/悪い」という基準が持ち込まれることによって、さんざんいやな気分にさせられてきた覚えもある。なにより他人にそんな思いをさせるのはいやだ。
 けれどそれでいて、「のる」という喩えの共通することがわたしの気にかかる。嚥下することと理解することとを共に「のむ」というように、音楽にあわせて思うまま体を動かすことも、適切なタイミングで適切な発話をすることも、共に「のる」という、その共通である。つまり、「ノリのよさ」の持つ力を警戒するとしても、しかしフロアで美しく踊る人がいるように、美しい相槌というものもある。そして、そのふたつがなかなかできないのだ。
 ダンスの先生と一対一になり、まだ踊るというには満たない、歩くことや、上下に揺れること、体を部分ごとに動かすこと、なんかをやっているとき、なによりおもしろいのは自分のできなさだ。重心がぐらつき、体の置きかたがわからなくなっていくことも、誰とも並ばずひとりで教わってはじめておもしろくなってくる。
 踊ってみたいと思っていた。だから来たのだ。その欲求の中には、嫌いなことをわざとやらせてみたいような、自分に対する挑発的な気持ちがあった。ダンススタジオには壁一面に鏡があって、自分の棒立ちも、うまくできないと思ったとき反射的に出る愛想笑いも、みんなそこに映る。踊ろうとする自分の姿というのは率直に言って、見るにたえない。それを鏡越しに見ていると、半分はなさけなく、そしてもう半分、いい気分になる。ひとりであることのさいわい。集団の要請によってできないことをやりすごさずにすむ、そのさいわい。しかし同時に、めったに見ることのない自分の全身像が、まさしく他人から見た自分の姿にほかならないことが、ときどきめまいのようにわたしを動揺させる。

 「踊るな!」と怒ったことがあった。舞台上でだ。わたしのやっているAnti-Trenchという音楽ユニット(前回も登場した)は、詩の朗読とギターで構成されており、楽譜も決まったリズムもない。踊るのにはあまり適さないかもしれない。ところがクラブだと特に、「踊れる」というのは曲をほめる言葉のひとつであるらしい。みんなで踊るということはクラブに来る大きな目的のひとつであって、畢竟そのためにラッパーやDJによって音楽が演奏されるのだ。だからAnti-Trenchもときどき、その俎上にのせられた。「踊れるね」と言われることも、「踊れないね」と言われることもあった。そして、それがどうも気に入らなかった。なにか正解を意図していたというより、単に知らない基準を一方的に持ちこまれることにへそを曲げていた。クラブでのわたしはただでさえひとりだけ棒立ちの観客であり、なんだよ、べつにいいじゃん、と思っていた。みんなに同じ動きをさせることができる音楽がすなわちいい音楽であるって、なんだよ、それってなんか、なんかちょっといやだぜ、と思った。だから舞台上で観客がわずかに揺れはじめ、さらにそれがだんだん揃いはじめるのを見て、むっとして言った。
 「おい! 踊るなっ! ひとりで聴け!」
 観客はひねくれた煽りの一種ととらえたようで、笑って聞いてくれた。けれどわたしはやっぱりへそを曲げていて、ステージを降りてからも黙ってあれこれ考え込んでいた覚えがある。
 ひょっとすると、わたしの踊れないわけは、五十メートル走るのに十秒もかかる体であるからというばかりではない。もしも運動が得意だったとしても、きっと踊らなかった。「ノリが悪い」のも、おしゃべりの不器用さだけが理由ではない。ただできないというのではない。わざわざ「のらない」ことを選んでいる部分がある。そう言うとうらさびしい負け惜しみに聞こえるだろうか。確かに、はじめはできなさによって選ばされたにすぎないことかもしれない。けれどいまとなってみてはもうわからない、ともかく、「ノリ」とその力とを信じずにいると決めてしまった。そしてそれは結局、「みんなでいる」こと自体を信じないことへと行き着くのだった。

 それなのにいまになって、踊ってみたがっている。その欲求の出どころを、自分自身でふしぎに思う。ひとりで踊りはじめて、しかしどこへ向かっているのかと思う。単にありふれた老いのあらわれであり、若い日に曲げていたへそをまっすぐにのし、ここでやっと集団へ馴染みはじめようとしているのだろうか。恥ずかしがってひとりで踊っていても本当のところでは、「寝る」ことのあの欲望に身をかたむけて、重たい「このわたし」を集団の中へと埋没させたがっているのだろうか。
 鏡の中のわたしがふらつく。流れている音楽の拍を頭の中で数えながら歩き、八カウントめでなにかするように言われたのだ。
 「なんでもいいので、なにかしてください。まあ、なんでもいいが一番むずかしいんだよ、と思うと思いますけど、本当にちょっとしたことでいいです。僕が見てて気づかないようなことでも」
 だから四、五、六、七、八でわずかに立ちどまると、歩きつづけようとする前向きの力がそこで停滞して、重心がくずれる。おや、わたしの体というのは、あらためて見ると、思っているよりも背が高い。腰や足についた肉はもちろん、手足の長さまで余分に思える。おっぱいがついている。女体である。髪が黒くて、あちこちほつれている。年寄りでもないが、少女でもない。化粧をしていないけれど、むろん子どもでもない。この女。わたしの目をうまくぬすんで、あちこちにわたしとしてあらわれているらしい、この女のこの体。
 音楽が続いているうちは、ふらついたあともふたたび歩き出す。一、二、三、本当は拍に集中していたいけれど、つい頭の隅でほかのことを考える。たとえば女体であることが、わたしにとって不快である。十代のころはふくらんでくるおっぱいを見て泣き、なにか大きな機械が自分の腰をがっしと摑んで上下に激しく振り、おっぱいが遠心力で剝がれ飛ぶことを想像したものだった。けれどわたしというものはときどき、自分が女体を持っていることを受け入れているとしか思えない行動をとる。たとえば体への失礼な接触に怒り、性的なからかいに怒り、女性店員さんをばかにした上長に怒った。女体を受け入れることとは反対に思われるかもしれないけれど、とんでもない。わたしが女体を持っているから、それだけを理由に、しかたなく怒るのだ。怒ったあとには死にたくなるとしても――そのときわたしは、わたしというひとりのために怒っているのではない。先に向こうから女体を持ったものの代表にさせられた以上、こちらも代表として怒るしかなくなるのだ。
 四、五、六、たとえば日本人であることは、わたしのアイデンティティにとってさほど重要ではない。日本語にはかろうじて愛着を持つけれど、「ノリ」を信じない以上当然、愛国も信じていない。けれど街を歩いていて英語で道を聞かれたら、できるかぎり答えたいと思う。そしてそのとき、やっぱり日本人を代表させられている。日本はいやな国だった、日本人はいやな人ばかりだった、と思われたくないから、ということが、たあいない親切の動機の中に混じっている。七、八でまばたきをする。鏡に映る自分の顔はまじめくさっていて、他人のようだ。
 そうだ。この顔と体が人前にあらわれるかぎり、わたしはある集団に含まれずにはいられない。そして、わたしがなにかよいことをおこなおうとしはじめられるのは、いつもそのことによるものではなかったか。

 また同じところへ戻ってくる。他人になるのでもなく、他人と混じりあうことのないわたしのままでいつづけるのでもない、新しいこのわたしというものは、どのようにして可能だろうか。それはつまり、「ノリ」の乱暴を看過ごさずにいたいと願い、ときに踊る観客に怒ることと、これまでわたし自身も胸をうたれてきたあの美しい身振りや相槌とは、どのように両立することができるだろうか。ここまではひとりの他人との距離を考えてきたけれど、集団との距離についても考えておきたい。ただ集団の大きな揺れに混じっていくだけでない、あの衝きあげられるような揺れにしたがうことのできる踊りというものがあるとして、それはわたしにとってなんだろう。
 「八」のレッスンを受けてから、ふだん音楽を聴くときにも、いつもそのことを考えるようになった。すると、こんな言いかたでは信じてもらえないかもしれないけれど、なんと未来が見える力を手に入れた。
 かねてから、音楽が聴けている人というのは、どうやらわたしには見えない未来が見えているようだ、と思っていたのだ。彼らははじめて聴く曲でも、その場で即興で作られる曲でさえ、その後になにが起きるのかわかっているかのように体を動かし、「のる」ことができる。それがずっとふしぎだったけれど、しかしその千里眼、いや千里耳、が、急にわたしのところにも訪れた。「八」だ。音楽のうれしい瞬間は、「八」のところか、次の「一」のところでよく起きるのだ。だから「八」に向かってかまえておくと、未来が見えるようなあの動きを、わたしのにぶい体もなんとなくとれる。リズムを追いかけて同調していくというよりはむしろ、自然に進んでいるところを、リズムのほうが下支えしてくれるような感覚。
 「ノリがいい」人の見ている世界のことを考える。「ノリの悪い」わたしから見ても、彼らに未来が見えているようには見えない。多数派の作った「ノリ」に一歩遅れて追いすがり、なんとか遅れないようにしているように見える、その息切れの雰囲気がどうもわたしを惹きつけない。けれど、人と人との間に、自然に歩くようにいることもできるものだろうか。じょうずな相槌を打つあの人は、そんなふうに集団を聴いているだろうか?

乗る:
自分より大きなものの動きに体をゆだねること。自分の外がわで起きている運動と、内がわで起きている運動とが、うまく嚙み合っている状態にすること。

 ある運動を持った集団の一員であることと、それとは異なる運動を持つたったひとりであること。そのふたつの両立について考えるとき、つい往復するようなイメージを持っていた。けれど、違うかもしれない。そのふたつは、異なる通奏低音のように、いつでも同時に鳴りつづけているものなのではないか。わたしの内がわで起きていることと、外がわで起きていることとがある。音楽を聴くときにも、人とおしゃべりするときにも、なにかが渦巻く。うまく踊ってみたいと思っている。集団に巻き取られず、しかし孤立もせずに、うまく、いいことをおこなっていたいと思っている。八が終わるとまた一に戻る。音楽が終わるまでは歩く。鏡の向こうのわたしはいつ見ても不快、ちょうど他人のように不快だ。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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