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知っていると思っているもののことさえ、本当はなにもわかっていない。――「ことぱの観察 #05〔確認〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


確認

 週末、夫とふたりで一日乗車券を買って、東京じゅうをぶらついていた。決まった行き先は特にない。どこにでも行けるとなると、かえってどこに行けばいいかわからなくなる。せっかく乗り放題なのだからあちこち行かないともったいない、という貧乏性も加わって、わたしたちはヒット・アンド・アウェーで駅から駅を渡り歩いた。
 比較的家から近い赤羽から始まって、とりあえず新宿、水道橋、お茶の水、上野と、山手線を横断するように好きな駅でばかり降りる。せっかくなのだから行ったことのない駅に降りようか、という気持ちが浮かびもするけれど、しかしそれにしても選択肢が多すぎて、相談しているうちに結局無難な駅に収斂する。お昼も結局、秋葉原にあるもともと好きなカレー屋さんで食べることになった。わたしはもっぱらはじめて行く道やお店を好むほうで、自分のその判断は意外だった。いつでも、どこでも行けると思うと、逆に思い切りが悪くなる。「どこでも行けたのに、なお失敗した」というのをおそれているのかもしれない。
 久しぶりに食べるそこのカレーはやっぱりおいしく、しかし一日乗車券で遊んでいるにしては、駅から離れすぎていた。秋葉原駅に戻ってきたときには、ふたりともかなりくたびれていた。
 「さあ、次、どうしようかね」
 わたしとしては空いている電車にさっさと乗り込み、いっときの休憩としたかった。
 「せっかくだからあんまり行かない、山手線の外がわに出てみようか。錦糸町とか、亀戸とか……」
 すると、ふだんあまりデートの行程を先導しない夫が、どことなく物足りなそうにしている。
 「……なに? なんか見たいものあった?」
 「秋葉はもういいの?」
 「いいよ。カレー食べたし」
 「もっと秋葉らしいとこ見とかなくても大丈夫?」
 そのふしぎな提案に、半分首をかしげつつ、「見とこうか?」と答えた。カレー屋さんはいわゆる電気街の反対側にあって、テレビで見るような秋葉原の景色はまだ見ていなかった。わざわざ駅の連絡通路をくぐり抜けて、「秋葉らしいとこ」へ出る。立ち並ぶ巨大なビルをひとしきり眺めると、夫はわたしの写真を一枚撮り、「よし」と言った。
 「じゃ、行こうか」
 ほんの三分ほどだったと思う。夫はあっさりと駅へ引き返し、次の目的地へ向かう電車の中で気持ちよさそうに眠った。いまの三分が、そんなに必要だったんだろうか。買い物をするでもない、とくべつ見たいものがあるわけでもない。あれは、何をおこなっている時間だったんだろう。
 観光をすることは、たびたび「確認」であると言われる。ガイドブックを片手に、名所とされている有名な風景や建物をめぐり、それが実際にあることを「確認」する。最近だと「SNS映えするスポット」なんていうのがそれに当たるのかもしれない。観光をするとき、わたしたちは知らなかったことを知るのではなく、むしろすでに知っていたことをなぞっているのだ。ジョン・アーリ『観光のまなざし』では、観光と写真を撮ることとを関連づけて、このように論じられている。

行楽で求められているのは一連の写真的な画像で、それもパンフレット、テレビ、ブログ、交流サイトなどですでに見たことがあるものだ。観光写真の大半は「引用」の儀式なのだ。(中略)観光者は、自分が出かけるとなると、そこでまた自分用に画像を探し求め、捉えることになっていくのだ。このことで結局、旅行者は、出かける以前から見ていた画像を自分たちも撮影してきたというのを友だちや家族に見せて、自分たちも本当にそこに行ったのだということを見せびらかすということになっていく。

 つまり、観光地に赴くより前から、わたしたちの持つまなざしはメディアによってあらかじめ規定されていて、ついそれと一致するものを探そうとしてしまう。その一致によってしか、わたしたちは「本当にそこに行った」ということを確かめられないのだ。そしてそのようなふるまいはときに、真の「旅」ではないと揶揄されもする。ある種の旅好きな人たち(アーリの言葉を借りれば、「本物の休暇旅行」らしきものをする人たち)にとって、旅とは未知との出会いであるべきで、すでに見たことがあるものの大量生産的な確認を「旅」と呼ぶなどもっての外であるらしい。前述した通り、はじめて行く場所にはことさらわくわくするわたしだから、気持ちはわからないでもない。そのわくわくの中に、「誰もが行くような有名な場所に行く」ことへの、かすかな軽視が混じっていることも含めて。
 それでいくと、夫のあの三分はまさに「確認」の時間だったのかもしれない。予想通りの景色が目の前に広がるばかりだったあの時間。それが、ほかでもない「確認」のために、必要だったのかもしれない。

 わたしもまた、確認をしたくなることがある。
 数年に一度しか新幹線に乗らないために、乗るといつも新鮮に驚く。どのくらい新鮮かというと、ストレートにその速さに驚いている。在来線だと小旅行くらいかかる東京から新横浜なんてほとんどまばたきで、夜行バスだと一晩かけて着くはずの名古屋や大阪も、ちょっと考えごとをしているとすぐに着いてしまう。
 東京から名古屋へと向かう新幹線の車内は、実際には小田原であったり、三島であったり、豊橋であったりする。けれども、乗っているわたしにはそうは感じられない。出発した東京と到着する名古屋だけが独立した点として存在して、間はどこか現実ではない、隔離されたワープゾーンのように思えるのだ。それはふしぎで、少し不快でさえある。自分が現実にあるたくさんの土地の上を走っていることを、急に確かめたくなる。それで、スマートフォンの地図アプリを開く。ふだん歩くときに使っているアプリを新幹線の中で開くと、思いもよらない場所に自分の位置を示すアイコンがあって、それが歩く速度ではありえない速さで動いていく。わたしはそれを、ときどき窓の外の景色と見比べながら、ぼんやりと眺める。新幹線の窓から見える知らない町や山並みは、正直に言って、どこも同じに見える。飛びすさっていく風景の一瞬一瞬からある場面を切り抜いたとしても、そこがどこであるかはわたしにはわからない。それが不安で、ついGPSの裏付けを得たくなるのだった。
 この、「確認」、「本物の旅」を好む人たちに言わせればたいした値打ちを持たない、たかが「確認」に対する、しかしまぎれもない欲望。それは、一体どこから来るのだろうか。
 最近、スーパーの野菜売り場に行くと、知らない人の顔写真が並んでいる。売っている野菜を育てた人の顔である。それを見るたび、みょうな気持ちになる。芸能人でも知り合いでもない、ただ小松菜やネギという一点によってここにつながった、知らない人の顔、顔、顔。野菜を買うときに産地や栽培方法にこだわりたい気持ちはわかるとしても、しかし、育てた人の顔まで見たいだろうか。農家の人がどんな顔立ち、どんな背格好、どんな表情をしているか、ということに、野菜の情報としてさしたる値打ちはない。ここでもやはり、わたしたちの求めているのは「確認」なのではなかろうか。顔写真が示すのは、野菜が育てられた場所といまいる場所とが共に現実にあり、かつ地続きにつながっている、ということであって、それが無農薬よりなにより、買い手を安心させるのかもしれない。逆に言うと、「野菜を育てた人はある場所に実在している」という、なんだかこう書くと当たり前にも思えるようなことさえ、わたしたちはともすると見失ってしまう。
 新幹線に乗って名古屋まで、何をしに行ったかと言えば、友だちの結婚式に出席したのだった。結婚式というのはおかしなものだ。親戚知己を集めて、よく考えると結婚とは直接関係のない大きなケーキを切り、花束を投げ、ろうそくに火をつける。はじめは奇妙に思っていたけれど、あちこちで招待されるうちにだんだん慣れてきて、このめちゃくちゃ感がけっこう好きになってきた。結婚と関係ありすぎないのがおもしろい。みんなの前で婚姻届を記入するだけよりも、なぜだか巨大なケーキが出てくる方が、断然おもしろいに決まっている。そしてやっぱり、ふしぎとそちらのほうが、結婚というなんだかよくわからない事象にリアリティを感じられるのかもしれない。

 結婚という、なんだかよくわからない事象。
 夫と結婚してそろそろ四年になろうとしているけれど、いまだ結婚がなんなのか、よくわかっていない。一緒に暮らしていることも、好きあっていることも、市役所で手続きをしたことも、そして結婚式を挙げたことも、単体では結婚の要件を満たさないように思える。わたしは結婚をやっていて、つねにその渦中にいるはずなのに、言葉にしてしまうとどうも捉えがたい。そして、わたしのそのような疑いは、どうやら夫にはあまり快いものではない。
 あるとき、
 「昨日の君がわたしと一緒にいたいと思ってくれていたからと言って、今日の君がそのように思っているかはわたしにはわからないわけだし、」
 と、言いかけたところで、夫がわたしの言葉をさえぎって「えっ?」と言った。それは、わたしとしてはごくちょっとしたおしゃべりのフック、マクラみたいなもので、このあとに本題が控えていた。なのでわたしも、「えっ?」と言いかえした。
 「えっ? なに」
 「君。なに。まだそんなこともわかってないの?」
 夫は、怒っているようだった。
 ここで懺悔をしておくと、わたしというのは夫婦になる以前から、本当に面倒くさい恋人だった。疑い深く理屈っぽくて、そのくせ感情の出力がいちいち大きい。ふつうどちらかが長所でどちらかが短所になると思われそうなところ、両方が悪く作用している。最悪だ。そしてなにより、このエッセイを読んでくださっている方なら想像がつくかもしれないけれど、人とつきあうにあたって「恋」やら「愛」やらを疑わずにいることが、わたしにはどうしても難しかった。そんな女を夫はどうにか説き伏せ、ときに甘い言葉ではぐらかし、ときにはがっぷり四つに組みあって、なんとか結婚まで漕ぎつけたのだった。偉業である。
 その腐心の記憶が、夫には苦々しく残っているらしい。だから、わたしがいまだに今日明日の世界で生きていることを知らされるのは、夫にとってはつらいことなのだった。
 「君さあ。おれたち結婚したんだよ。それはもうお互いにリプレイスできないということなんじゃないの。今日と明日で気持ちが変わったりしない、この先ずっとって思ったから結婚したんじゃないの。そうじゃないなら、君にとって結婚ってなんなの」
 夫のそのような心のうちがわかったのはあとになってからで、そのときのわたしは面食らっていた。軽い気持ちでしゃべったら、夫を怒らせてしまった。もはや話そうと思っていた本題も忘れた。そしてなにより、そうだったのか、結婚というものは。そんなに広い意味を含んだ約束を、わたしはすでにしていたのか。うっかりしていた、と思った。
 うっかりだったので平謝りして、わたしたちはほどなく仲直りをした。
 「わかったよ。結婚を信じる。これまで君のことは信じていても、結婚のことは信じていなかったよ、ごめんね。でも、君を信じる延長線で、君をそのように覚悟させている結婚を信じてみようと思うよ」
 そう話していながら、自分の言葉に自分が安心していくのがわかって、ふっと怖くなる。もしかしたら意識していないところで、わたしは夫が怒ることを分かっていて、わざと意地悪を言ったのかもしれない。そうすることで、まさに夫の心を「確認」したがっていたのかもしれない。そうだとしたら相変わらずの、なんという面倒くささ。それを見抜いてこそ、夫は怒ったのかもしれない。
 「確認」をしようとすることはつまり、わかっていないと明らかにすることでもある。当たり前のことであればあるほど、それがときにおもしろおかしく見えたり、「本物」でなく思えたり、そして、相手を傷つけたりするのだ。

 それでもなお、わたしたちは、どうしても確認したくなってしまう。そうでなければ、いま自分のいる場所も、世界が目に見えない部分でも実在しつづけていることも、結婚も愛も恋も、自分ではない人の気持ちも、自分の気持ちさえ、すぐにわからなくなる。未知のものへと踏み出していく「旅」も確かにいいものかもしれないけれど、それ以前に知っていると思っているもののことさえ、本当はなにもわかっていない。簡単に失われる現実のリアリティを取りもどすためには、知っていることを頼りに、なんとかたぐり寄せてやるしかない。わたしたちに必要なのは、まず確認なのだ。

確認:
自分のすでに知っていることや予測と、現実にある事象とを整合すること。そうすることによって、自分が現実の中に生きている感覚を取りもどす。それがあまりに失われやすいために、確認ができないことは不快であり、確認することは欲望されている。

 だから花嫁がケーキを切ったとき、友だちみんなでできるだけ大きい拍手をした。そういえばわたしだってかつて、半分は形式的だったとはいえ、夫と並んでケーキを切った。そして、秋葉原が実在していることを、この自分が確かにそこに行ったことを確かめるためには、写真の一枚や二枚、撮らないといけないのだった。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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