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好評新刊『時間は存在しない』より 訳者あとがき by 冨永星

発売直後に増刷が決まり、いま大注目の『時間は存在しない』。ここでは訳者・冨永星氏のあとがきを特別にご紹介します。著者のカルロ・ロヴェッリ氏と本書の魅力はどこにあるのか――。訳者ならではの読み解きをお楽しみください。

 これは、カルロ・ロヴェッリの一般の人々に向けた四冊目(邦訳される作品としては3冊目)の著書L'ordine del tempo(時間の順序)の、著者自身が手を入れた英語版とイタリア語原書にもとづく日本語全訳である。

 2017年から2018年にかけて原書とその英語版が刊行されると、どちらも大好評を博した。イタリア本国では発行部数が18万部に達し、35カ国で刊行が予定される世界的ベストセラーとなったのだ。なかでも特筆すべきは、主立ったクォリティー・ペーパーの書評で絶賛されただけでなく、科学雑誌「ネイチャー」には宇宙論学者が書評記事を、研究者の情報交換用SNS “Academia.edu”には科学哲学者が書評論文を、賛辞とともに投稿したことだ。この作品は、一般向けの啓蒙書として一級品であるだけでなく、専門家たちを魅了するだけのしっかりした内容を持っているのである。

 本文にもあるように、L'ordine del tempoという原題は、古代ギリシャの自然哲学者アナクシマンドロスの「時間の順序に従って」という言葉からとられている。このこと一つをとっても、著者が現代物理学の一学徒としてではなく、自然哲学の系譜に連なる者として「時間」を論じていることは明らかだ。自然界の出来事を体系的に理解しようとする自然哲学の観点は、やがて自然科学の観点に取って代わられることになったわけだが、専門化、細分化されていなかっただけに、広がりがあった。事実、著者はこの作品で、「時間」にまつわる物理学の最近の成果だけでなく、神話や宗教者の解釈や詩や文学、さらには近代哲学や脳科学を援用して、シームレスに「時間」を論じている。なぜならスタンスの差こそあれ、これらすべての営みが、「時間」とは何なのかを探り、記述しようとする人間の営みであるからだ。

 理論物理学者であるロヴェッリは、まず物理学がいかにして「時の流れは存在しない」という結論に至ったのかを平易かつダイナミックに紹介する。現代物理学だけに閉じていれば、以上終わり!でなんの不思議もないのだが、著者はそこで幕を引かずに、「存在しないといわれても、現に流れを感じるんだけど……」という個人の実感に寄り添い続ける。つまり、物理以外の手法に訴えてでも、なぜ「時の流れが感じられるのか」を追究し、ついには時を感じる「自分」へと迫るのだ。これはおそらく、著者自身が自分を取り囲む自然の成り立ちを知りたいという純粋な気持ちで物理学に取り組んできたことの表れなのだろう。科学技術や工学の礎たる有用な物理学ではなく、世界観に直結する文化としての物理学と向き合ってきたのだ。

 一つ、数学と縁がある訳者にとって興味深かったのは、現代の物理学と数学の関係が垣間見えたことだった。ロヴェッリ自身は、従来の「時間に始まってマクロな状況に至る」という論理をひっくり返し、そこから「熱時間」の存在を推論した。そして、数学者のアラン・コンヌによる(量子力学の特徴たる)「非可換性」だけから自然に数学的なある種の流れが定義されるという証明の存在を知るのだが、このときロヴェッリは、強力な同志が見つかったと感じたのではなかったか。物理学では以前にも幾度か、自分たちが物理的現実に対する優れた直感を駆使して組み立てた世界像が、数学者が現実から完全に離陸して概念と論理のみに基づいて組み立てた世界像と一致していることが発覚したことがあり、物理学者はこれを、「自然科学における数学の不合理なまでの有効性」と呼んで重んじてきた。なぜなら数学と重なったという事実が、自分たちの描いた世界像に強い整合性があることの証になるからだ。現実との照らし合わせによる検証がまだ残っているにしても、自説が数学と重なったことは、ロヴェッリにとってたいへん心強いことだったはずだ。

 学生活動家として社会との接点を求め、9カ月の北米放浪の末に、物理学を通して社会と関わることを決意し、ループ量子重力理論を打ち立てて、科学哲学学会の会員として科学史を研究し、アメリカの雑誌でもっとも影響力の強い100人の1人に選ばれたロヴェッリは、あるインタビューで「わたしは物理学に取り組む際に、感情を退けず、むしろ解放する。物理学をするということは、考え、計算し、文献を読み、議論するということだが、それらを推し進めているのは感情だ」と述べている。そのようなロヴェッリのすべてがぎゅっと凝縮されたこの詩的な作品を、どうかみなさんも楽しまれますように。

著者プロフィール

カルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)
理論物理学者。1956年、イタリアのヴェローナ生まれ。ボローニャ大学卒業後、パドヴァ大学大学院で博士号取得。イタリアやアメリカの大学勤務を経て、現在はフランスのエクス=マルセイユ大学の理論物理学研究室で、量子重力理論の研究チームを率いる。「ループ量子重力理論」の提唱者の一人。『すごい物理学講義』(河出書房新社)で「メルク・セローノ文学賞」「ガリレオ文学賞」を受賞。『世の中ががらりと変わって見える物理の本』(同)は世界で100万部超を売り上げ、大反響を呼んだ。本書はイタリアで18万部発行、35か国で刊行決定の世界的ベストセラー。タイム誌の「ベスト10ノンフィクション(2018年)」にも選ばれている。

訳者プロフィール

冨永 星(とみなが・ほし)
1955年、京都府生まれ。京都大学理学部数理科学系卒業。一般向け数学科学啓蒙書などの翻訳を手がける。訳書に、マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』『素数の音楽』(共に新潮社)、シャロン・バーチュ・マグレイン『異端の統計学 ベイズ』(草思社)、スティーヴン・ストロガッツ『Xはたの(も)しい』、ジェイソン・ウィルクス『1から学ぶ大人の数学教室』(共に早川書房)など。

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