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比べて味わえば、歴史はもっと愉しい! 東大名誉教授が見た、古代ローマと江戸日本の意外な共通点

100万に及ぶ都市の人口、非一神教社会ゆえの習俗、250年続いた平和――前近代では他に例のない環境のもと、ローマと江戸にはどのような相似や相違が生まれたのか? 「アッピア街道と東海道」の比較から権力のあり方を考え、「コロッセオと千本桜」の比較から国民性に迫る、新感覚の歴史エッセイ『テルマエと浮世風呂――古代ローマと大江戸日本の比較史』。10のトピックを収載する本書から、「ワインと日本酒」を比較した章「平和が生んだ美酒」の一部抜粋をお届けします。

ワインの容器でできた人口の丘

 幸か不幸か、私にとって酒抜きの人生は考えにくい。
 日本人がこれほどワインを愛飲するようになったのは、いつ頃からだろうか。かつては和食に日本酒、洋食にはワインという組み合わせが定番だったが、最近は和食にワインを組み合わせたり、発泡系の日本酒を洋食に合わせて提案したりするレストランも増えてきた。それだけ酒文化が成熟してきたということだろう。
 日本酒やワインの味わいが現代人に合うようになった画期は、江戸日本と古代ローマにある。
 帝政期の大都市ローマには、帝国内のあちこちから戦利品や属州からの貢物、あるいは輸入品として酒が運ばれてきた。ギリシアなど帝国の東側からはアルコール度数の強い蒸留酒も入ってきたが、圧倒的に多かったのはワインである。さらに、ローマの元老院貴族や富裕層も、広大な領地で大規模農業を経営し、利潤率の高い産物として葡萄(ぶどう)栽培とワイン造りを盛んに行うようになる。足元に百万人都市という巨大市場があるのだから、これは当然の成り行きだろう。
 現在のローマ市の南部に、モンテ・テスタッチョと呼ばれる小高い丘がある。古代ローマの時代、この近くにはテヴェレ河畔の港があり、「アンフォラ」と呼ばれる素焼きの壺に入ったワインは、ここで荷下ろしされていた。モンテ・テスタッチョは、壊れて用済みになったアンフォラが積み上がってできた、いわば人工の丘である。ローマの人々が、いかに酒を飲んでいたかを物語るランドスケープだ。

平和がワインを美味しくした

 ワインの歴史は古い。一般には紀元前五〇〇〇年頃に中近東で始まったワイン造りが、エジプト、ギリシアやエトルリアなどを経てローマに伝えられたと言われる。ただしローマ人たちは、ギリシアやエトルリアから学んだワイン造りの手法を、ただ真似ていたわけではなかった。彼らのソフィスティケート能力は、ここでも遺憾なく発揮されたのだ。
 なかには思いがけぬ幸運もあった。前一二一年、例年にも増してふくよかなコクがあり、果実味あふれる香り豊かなワインができた。この年は天候がよく、陽光に恵まれていた。天候によって葡萄の生育や産量が左右されることは分かっていたが、ローマ人は、日照時間の長さがかくもワインの味を左右することを発見した。
 人間は欲深い生き物である。一度美味しいものを知ってしまうと、より美味しいものが欲しくなる。その数十年後、カエサルはガリア(現在のフランス・ベルギーを中心とする地域)を征服した。このガリア遠征で、ローマ軍はワインの歴史にとって決定的な役割を果たすことになるものを見つける。木製の樽である。
 大酒飲みのガリア人が愛飲していたのは、ビール(その先祖であるセルヴォワーズ)だった。木製の樽は、その貯蔵や運搬用に使われていた。木樽なら壊れにくいし、軽くて転がせるから運搬も容易だ。それまでワインの保管や運搬にアンフォラを使っていたローマ人は、木製の樽に飛びついた。
 ローマ人も驚いたことだろう、木樽で保存するとワインが熟成してより美味しくなった。これは何とも幸運な出合いだった。ガリア人のビール樽とワイン好きのローマ人が出合わなければ、ワインの歴史は今とは違うものになっていただろう。ローマの平和がワインを美味しくしたのである。

江戸日本で発展した酒文化

 長く平和が続いたローマで次第にワインの味が洗練されたように、日本酒も江戸時代に大躍進を遂げている。どぶろくタイプの酒は古くからあったのだが、江戸時代に醸造技術が発達し、私たちが今飲んでいるような、いわゆる清酒が造られるようになったのだ。
 現在は全国各地で個性豊かな酒が造られ、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の様相を呈しているが、もともとは上方(かみがた)――今でいう大阪・神戸あたりが日本酒の主産地であった。当時の江戸で飲まれていたのも上方の酒だ。初期は摂津国の伊丹酒や池田酒が中心だったが、やがて港に近く、水にも恵まれて雑味の少ない灘(なだ)の酒が「灘の生一本」として人気を博していく。
 問題は輸送手段である。当初は四斗樽に詰めて二樽セットで馬に載せ、陸路で運んでいた。だが、これではコストも時間も馬鹿にならないので、やがて海上輸送への切り替えが模索され、「菱垣廻船」と呼ばれる御用船で、油や醤油、紙や木綿といった生活物資と一緒に江戸に運ばれるようになった。ところが、菱垣廻船での輸送にはデメリットもあった。当時の酒は日持ちがしなかったので、早く出帆したいのに、他の積み荷の都合で待たされてしまうのだ。しかも、海難に遭うと大きな損害を被(こうむ)る上、海上投棄される軽い上積荷の補償を、酒のような下積荷の問屋も負担しなければならなかった。
 そこで、上方の酒問屋が共同で酒専用の「樽廻船」の運営に乗り出した。樽廻船が運航されはじめたのは享保十五(一七三〇)年のことである。これにより、潤沢な量の酒が安定して江戸に届くようになった。
 上方から江戸に運ばれてくる物資は「下り物」と呼ばれる。その中には雅(みやび)な工芸品や絹織物などもあったため、下り物は上等というイメージがあった。上方の酒は輸送コストがかかっているので割高だったが、江戸の人々は有難がって下り物を飲んでいたようだ。
 下り物のブランド価値はすごかった。江戸時代も中期以降になると、関東一円の産品の質が向上し、水運網の整備も進んだため、江戸市中にいわゆる「地廻(じまわり)物」の酒が流通するようになるが、こうした酒は「下らない」と不人気だったらしい。幕府は、江戸の富が上方に流出することを嫌い、お膝元でも上質な清酒「御免関東上酒(ごめんかんとうじょうしゅ)」を造ろうと試みるが、根強い下り物人気に対抗することはできなかった。結局、江戸での下り酒シェアが九割を下ることはなかったという。下り物の酒がブランド力を失わなかったのは、上方の問屋が組合を結成して、江戸での消費量確保に努めたためとも言われるが、実際どれほどの味の差があったのか、酒飲みの興味を誘うところである。

皇帝も驚くワイン人気

 他所からもたらされるブランド酒が人気だったのは、ローマも同じであった。江戸に上方の酒が入ってきたように、大都市ローマにもあちこちから酒が運ばれてきた。その多くはイタリア産だったが、次第に状況が変わってくる。ガリア産が質・量ともに急躍進してきたのだ。
 前五一年にガリアを征圧して以降、ローマ軍はこの地に駐屯地を作って、兵士を常駐させていた。都から遠く離れているとはいえ、兵士だって美味しいワインが飲みたい。しかし、辺境の駐屯地まで運んでくるのは手間がかかる。彼らが飲んでいたのは質の劣る二級品だった。しかし、やがて風向きが変わる。平均気温の低いガリア地方でも栽培可能な葡萄の品種ができたのだ。今でいうフランスのブルゴーニュ、ボルドー、ドイツのモーゼルといった地域にまで産地が一気に広がり、帝国のワインは一気に花開いた。
 葡萄ばかり育てていると、主食である小麦が不足すると案じたのか、九二年、時の皇帝ドミティアヌスは、新たに葡萄の木を植えることを禁じ、ガリアのような属州では葡萄の木を半分に減らすよう命じた。それほどまでにワイン需要は高かった。当然、多大な儲けが見込めるワイン造りを簡単に止めるわけもない。禁令は守られず、ローマ帝国内では樽で熟成させたガリア産ワインが素晴らしいとますます評判をとるようになり、イタリア産ワインはフランスからの輸入ワインに押されていった。

※続きはNHK出版新書『テルマエと浮世風呂――古代ローマと大江戸日本の比較史』をご覧ください。

『テルマエと浮世風呂』目次

はじめに 共鳴する二つの都市
1 大都市の見世物――コロッセオと千本桜
2 水の享楽――テルマエと浮世風呂
3 諧謔精神の爛熟――風刺詩と川柳・狂歌
4 読み書きの愉しみ――図書館と貸本屋
5 平和が生んだ美酒――ワインと日本酒
6 美徳と武勇の教訓――「父祖の威風」と武士道
7 泰平の夜遊び――娼婦と遊女
8 権威に通じる道――アッピア街道と東海道五十三次
9 耐えられる腐臭――下水道と肥溜め
10 粋な生き様――哲人と俳人
おわりに 海を囲む帝国と海に囲まれた島国

イラスト=Massimo Todaro/Shutterstock.com

プロフィール
本村凌二(もとむら・りょうじ)

1947年、熊本県生まれ。東京大学名誉教授。専門は古代ローマ史。一橋大学社会学部卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。博士(文学)。東京大学教養学部教授、同大学院総合文化研究科教授、早稲田大学国際教養学部特任教授などを歴任。著書に『薄闇のローマ世界』(サントリー学芸賞、東京大学出版会)、『地中海世界とローマ帝国』(講談社学術文庫)、『世界史の叡智』(中公新書)、『馬の世界史』(中公文庫)、『独裁の世界史』(NHK出版新書)など。

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