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自由意志のパラドックスを解く カントから考えた「SNS社会のワナ」――『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ 自由と闘争のパラドックスを越えて』(2)

 NHK番組「欲望の時代の哲学」出演が大反響を呼び、ブームを巻き起こしたドイツ人哲学者・マルクス・ガブリエル。「自由」の理念の実験場とも言うべきアメリカの中心地・ニューヨークで、世界が注目している哲学者は何を思い、何を語ったのか。そして、なぜ彼は時代と闘うのか。
 当記事は、本日発売されたNHK出版新書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ 自由と闘争のパラドックスを越えて』の一部を、全2回にわたって先出しで掲載するものの第2回です。
 ※前回の記事はこちらから読めます。

複雑性が私たちを不安へと駆り立て、リアルを歪める

 私たちはいま、自由の「限界」について、とても深刻な懸念を抱いていると言えるでしょう。この番組をご覧になる視聴者、あるいは読者のみなさんの中にも、自らの自由がとても危険な状態にさらされていると感じ、不安を持っている方々もいらっしゃるかもしれませんね。
 現代に生きる私たちは、大きな力―――資本主義、人工知能、あるいはデジタル分野における驚異的な技術の進歩など―――実にさまざまな角度から、脅威 にさらされていると感じているのです。このデジタル社会の中で、人間という存在が消え去って、ごく小さな断片に、つまり簡単に操作し再構成できてしまうスマートフォンのモジュールにでも分解されてしまうかのような恐怖を抱いています。そして、このプロセスの最後には、自由や個性
が完全に失われてしまい、自らが単なる消費の対象になってしまうのではないかという無力感に覆われているのです。これは、実は信じられないほど広がっている感覚であり、意識、無意識どちらのレベルかを問わず、多くの人々がこのように感じていることを、私はよく理解しているつもりです。
 いま私は、ニューヨークの中心、マンハッタンのビルの高層階で話しています。窓から周りを見渡せば、目に飛び込んでくるビル街は、まるで無限の連なりのようにすら感じられます。現実にはもちろん無限ではないものの、ここには、非常に高いレベルの社会的な複雑性があると言えるでしょう。
 社会的な複雑性というこの重要な概念をまず考えてみましょう。この概念こそが、自由について、人々をさまざまな不安へと駆り立て、民主主義の価値の危機、人間そのものの危機、リアリティそのものの危機を煽り立てているものだからです。多くの人々がどこかしら、自分自身が確かに生きているというリアリティから切り離されていると感じていることとも無関係ではないでしょう。そのような考えによれば、いまの私たちは、たとえてみれば、目の網膜を通して世界を眺めている脳のようなもので、そこにはあるフィルターを通したバイアスがつねに存在しているというわけです。
 つまり、リアルな姿が、歪んでしか見えないことになっているのです。

どんな社会システムも複雑性を抱えている

 さあ、いまの世の中のさまざまな現象を眺めてみましょう。現代の社会の複雑性と向き合ってみるのです。社会的な複雑性とは、その言葉が示す通り、複合的かつ複雑なリアリティを伴いながらも、実は、きわめてシンプルな現象のはずなのです。
 たとえば、銀行という場を考えてみましょう。
 ここマンハッタンには、とてもたくさんの銀行やソフトウェア会社があります。グーグルは通りのすぐ先にありますし、アップルのマンハッタン本社などもありますね。銀行という一つの金融組織をあらためて観察すると、そこにはさまざまに異なる社会の遠近法、構図が見えてきます。フロアの清掃をしている人もいれば、CEO、ビルの建築家もいます。デジタルインフラを支える人たちや、数多くの従業員、顧客もいるわけです。
 このように非常に複雑なシステムがそこにあり、この銀行で役割を果たすすべての人々が、銀行という存在、会社という存在に貢献しているのです。それぞれの人に見えている視点、それぞれの人の目に映る光景と無関係に存在する会社などありえません。そして会社は、私たち自身に対しても、多様な見方を生み出すことでしょう。会社という場で、人々はみな、給料をもらったり、搾取されたりしているわけですからね。
 とはいえ、社会的な複雑性は、それを見ている人々の目の中にだけ存在するのではありません。私たちは、起きていることをすべてコントロールすることはできないのです。システムは、そのシステムの中で人々ができることをある程度左右します。つまりシステムが、ドイツ語でSpielraum(余地/余裕)という概念で示されるものを、私たちに与えるのです。もう少しそのニュアンスをかみ砕いて説明するなら、「裁量の余地」と言ってもいいかもしれません。
 これが組織の役割です。どんな社会システムも複雑性を抱えているのです。

自由とは?――哲学はある概念が本来何であるかに答える

 グローバル資本主義というシステムの中にあっては、その複雑性は、どんな個人的選択をも超えたところにあると思われるかもしれません。だからこそ、人々は、こうした複雑性の高まりに脅威を感じているわけです。いま世界中で起きていることを人々は脅威と感じ、さまざまな危機を感じているわけですが、それは、人々がその複雑性に対応しようとしている証拠です。
 そしてそのとき多くの人々は、その複雑性を大幅に減らすことによって、社会の本質についての幻想を作り出して対処しようとしているように、私には思えます。これは、この時代の根本的な問題です。以下でこのことについて詳しく説明していきましょう。ここにまず、私たちがまさに理解しなければならないポイントがありますからね。
 その際の最善の方法は、哲学的なツールを使って、この問題を理解することです。私たちが、理解不能な力学の犠牲者とならないために、哲学こそ、この複雑性の力学を理解するのに役に立つ最良の学問であるはずだからです。特殊な一つの角度から、さまざまな社会的な複雑性を見つめてみましょう。そして、最後に自由の概念そのものを再考する術をご紹介しましょう。
 あらためて、自由とは何なのでしょうか? 自由は民主主義とどのように関係しているのでしょうか? そして、なぜ民主主義は世界中で脅威にさらされているのでしょう? 
 それこそが哲学者の仕事です。哲学者は、ある概念が本来何であるのかという問いに答えようとします。正義とは何か、美とは何か、都市とは何か、銀行とは何か、人の心とは何か、人間とは何か、人工知能とは何か、社会的ネットワークとは何か、といった問いです。
 これらは、すべてこの時代の問いであり、哲学はそれに答えることができる学問なのです。

カントによる「自由意志」はどこまでが「自由」か、問題提起する

 「自由」とは? その定義の背景を考えるには、歴史を知らねばなりません。日系アメリカ人の政治思想家であるフランシス・フクヤマが、著書 『アイデンティティ』で指摘しているように、「自由」は現代人の精神構造にとって非常に重要な役割を果たしている、歴史に関わる事柄です。
 フクヤマは、ドイツ哲学を想起させる主張を展開しています。彼は、アメリカ社会を構成する思想の三本の柱として、哲学者のイマヌエル・カント、ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲル、そして神学者のマルティン・ルターをあげていますが、これはきわめて興味深いパラドックスです。なぜなら、アメリカのアイデンティティについて語っているはずのフクヤマが自ら、「アメリカのアイデンティティとはドイツ哲学にほかならない」と言っているように思えるからです。これ自体が、注目すべき現象と言えるでしょう。
 このねじれた問題について私自身の解決策をご紹介する前に、自由と自由意志を理解する上でドイツの偉大な哲学者たちが果たした貢献について見てみましょう。最初に理解する必要がある哲学者は、イマヌエル・カントです。彼こそ、価値体系としての自由と民主主義を考える上で、とても重要な人物だからです。
 カントは、ある概念を導入しました。「自由意志」という概念です。ある意味で、その概念を理解するのは、とても簡単です。カントは複雑に説明していますが、彼の考えは実はとてもシンプルなのです。まず、彼は意志の概念を定義します。私たちが自由について語るとき、私たちはしばしば、同時に自由意志について語り、それらは私たちに任されていると考えます。
 あることが私に起こります。たとえば、手の爪が伸びたり、歳を取ったりします。この世に生まれてから、さまざまなことが私には起こり、そして最後には死ぬことでしょう。こうして私に起こることに対して、私にはできることもありますが、できないこともあります。私の肉体は細胞で構成されていて、宇宙には定数があります。重力は、宇宙にある一定の方法で存在し、私の肉体を制約します。

他者への認識と想像力まで含んだ意志が、「自由意志」である

 自然には、一定の法則があります。これについては、私は好き勝手にはできません。私は、これらの法則を見出します。私は、それを変える決定はできません。私が何をしようが、自然の法則を変えることはありません。それは、私の勝手にはならないのです。その一方で、なかには、私の勝手になるものもあります。誰と結婚するかとか、誰と昼食を食べるかとか、何に賛成するかとか、どのように考えるかとか、私は何が好きか、などです。その意味では、私の人生、あなたの人生の中で、多くのことは、私たちの勝手に任されています。それらは、自由と自由意志に関連したものです。
 さあ、ここでカントの登場です。カントは、自由と意志について、非常に興味深い定義を与えています。彼の言葉を引用しましょう。「意志とは、私たちがなすべきことを表して行動する能力のこと」です。これは、おおよそ次のようなことを意味します。まさにいま、あなたは私を見ていて、私が踊りはじめるとは思っていませんね。少しだけならまだしも、もし私がこれから一時間踊りはじめたら、このインタビューの私の「語り」は、成立しなくなってしまうことでしょう。また、もし私の言葉を映像を通して聴いて、あなたが突然隣人を殺しはじめたら、あなたも重大な間違いを犯していることになります。当然のこととして、私たちがすべきことはいくつかありますし、人間が置かれているあらゆる状況において、私たちがすべきことと、すべきではないことがあることを、私たちは知っています。いずれにせよ、こうしたことには、誰もが同意することでしょう。
 その意味において、カントの考えによれば、拷問者やきわめて邪悪な人でさえも、拷問を上手に行うためにはしなければならないことがあるし、またしてはならないこともあると知っているのです。拷問者であろうとマザー・テレサであろうと、何をすべきか、何を避けるべきかについて、ある種のイメージを持っているのです。
 自分自身の見方に照らして行動するこの能力こそ、カントが 「意志」 と呼ぶものです。意志とは、時に自分自身を考えることによって、物事を行う、という意味です。私は、カメラの前での自分の体の位置を認識していますし、あなたが私の言葉をどのように理解しているかについても、認識と想像力を持っています。

意志の調整の最適化としての「自由意志」が働けば、自由=道徳となる

 いまこうして私が話し、それが映像で記録された番組をご覧になっている方には、画面の下に、おそらく日本語字幕がついていますね。私にはいま、日本語の字幕は見えませんが、画面のこのあたりに字幕があるだろうと想像はできます。それは、いま私がしていることが実行されているということです。つまり私の行動は、あなたの心の中の私のイメージに照らして行われているのです。それは、社会的な複雑性のほんの一例です。いま私たちは、同じ社会システムの一部となっているのです。それは、私に意志があり、あなたにも意志があり、私たちの意志が、この特定のケースにおいては、メディアを通して調整されているということを意味します。この番組にはディレクターがいて、NHKというテレビ局があって、日本には多くの街があり、さまざまな見方をする人々がいる、非常に複雑な社会システムがあります。ここに関わるすべて、あらゆるインフラが、多くの意志によって、調整されているプロセスなのです。
 カントによれば、自由意志とは、意志の調整の最適化のことです。ですから、もしあなたが意志をうまく均衡化できるなら、そしてよい均衡を達成したいと思うのならば、それは自由意志であり、だからこそカントは、道徳と自由は同じだと考えています。さらにカントによれば、悪人も完全に自由ではありません。なぜなら、悪人は、自由な人々を破壊したがるからです。良い人、良いインフラ、良い組織は、実際には、自由意志の量を増やす機能を果たします。

「自由意志を欲する自由意志」 こそが民主主義

 こうしたカントの議論に、ヘーゲルを登場させてみましょう。実は、これは冒頭に触れたフランシス・フクヤマの主張に関わる話でもあります。
 ヘーゲルは、『法の哲学』 という非常に重要な本を著しました。そこで彼は、法の支配とは何か、すなわち、今日私たちが民主主義と考えているものを定義しています。彼が民主主義という言葉を使っていないのは、当時は、民主主義という言葉が、現代のような意味を持っていなかったからです。おおむね、私たちが民主主義と言うとき、ヘーゲルが 「法の支配」ないし「権利の支配」、あるいは 「権利の体系」 と呼んでいたものを意味します。これらは、ほぼ同じ考え方で、ヘーゲルは法の支配という基本概念を、いくつかの美しい表現で定義しています。
 だから、「民主主義」はヘーゲルの言葉ではありませんが、私はいま、それを彼の言葉として使うことにします。民主主義とは、「自由意志を欲する意志」のことです。すなわち、それは、「自由意志を欲する自由意志」なのです。これは、裁判などの場を思い浮べてもらえば理解できることでしょう。あなたは、隣人に気に入らないことをされたとき、裁判を起こします。隣人ともめごとになったり、交通事故にあったりもします。そして裁判に
なって、判決を受けるとき―――裁判官が判決を下すときには、いったい、何が起きるのでしょうか。
 公的な判断が行われます。すなわち、私たちの意志の調整がなされるということです。ですから、判断という概念や正義という概念が意味するのは、私が欲しいものを手に入れるということでも、ほかの人が自分の欲しいものを手に入れるということでもありません。正義の概念とは、さまざまな意志の調整を行い、そのバランスを再び確立させることなのです。判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこともできます。だからこそ、ドイツ哲学の伝統全体が、思考すること―――思想家として私たちがすること、つまり人間であること―――とは、判断することである、と述べているのです。
 実は、そうカントも述べています。思考することとは、判断することである、と。ここに到ってカントからヘーゲルへと思想のリレーがつながるのです。

マンハッタンには自由の「イメージ」が乱反射する

 なぜ「思考すること」は「判断すること」なのか? 
 それは、あなたが思考するとき、あなたはつねに暗黙的にも、また明示的にも、自分の判断や行動の影響について、いつも考えているからです。私たちは社会的な存在であり、自由意志を持っています。自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動が取れる能力のことです。なぜなら、あなたは自分自身をイメージでき、他者をイメージでき、さらにあなたのイメージに対する他者のイメージをまたイメージできるからです。
 では、社会的な複雑性がどのように機能するかを見てみましょう。私は、あなたの私のイメージに対するイメージをイメージします。あなたは私のイメージをイメージし、それを私はイメージしますが、そのあなたのイメージは、あの人のイメージを、あの人がイメージしたもののイメージです。あなたは、イメージ、イメージ、イメージ、イメージ、イメージ、イメージを受け取ります。鏡、鏡、鏡……そこにあるのはまるで鏡を向き合わせたときに起きる無限のループのようです。アーティスト草間彌生が表現した「インフィニティミラールーム」です。ここニューヨークのチェルシーのギャラリーにも、彼女が作った新しい部屋ができました。インフィニティミラールームは、社会的な複雑性を持っています。

 窓の外にはマンハッタンが見えますが、多くの摩天楼がほかの摩天楼やビルを鏡のように映しています。これらすべての建物は、全体として社会的な複雑性を映し出しています。ここに見えているのは、人間の自由のイメージのイメージです。これこそ、人々がマンハッタンを好きな理由です。そして、だからこそ、マンハッタンはかくもパワフルなのです。
 マンハッタンの新しい地区、ハドソン・ヤードは、空の色の摩天楼から成っています。これらの摩天楼は、天そのものに溶け込んでいるので、目には見えません。文字通りの摩天楼です。それらは空に向かっていますが、また空のようにも見えます。まさにそれなのです。人間の社会性は、その文脈に溶け込んでいます。それは社会的な複雑性と人間の自由です。
 そしてその光景は、まるでグローバル資本主義が、私たちを自由にするかのように見えるのです。
 ――マルクス・ガブリエル・談

プロフィール

丸山俊一(まるやま・しゅんいち)
NHKエンタープライズ番組開発エグゼクティブ・プロデューサー。慶應義塾大学経済学部卒業後NHK入局。時代のテーマを斬新な発想で企画、制作し続ける。東京藝術大学客員教授、早稲田大学非常勤講師も兼務。著書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』『AI以後』『14歳からの資本主義』ほか。

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