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エッセイ「空想居酒屋」 〔コロナの時代の食〕 島田雅彦

 感動の美酒に、死ぬまでにもう一度食べたい逸品の肴……。島田雅彦さんが体験してきた酒場天国の数々をコトバで再現し、「こんな酒場で飲みたい」という欲望を“善きドリンカー”たる読者と共有しながら実際に「空想居酒屋」の開店を目指す、至極の酒場エッセイ。
 ※本記事は連載第12回です。最初から読む方はこちらです。

 むろん現代人は誰もペストの大流行など経験したことはないが、新型コロナウイルスの感染拡大に「中世かよ」と思わず突っ込みたくなる。歴史上、幾度かにわたって大流行したペストは劇的な人口減少をもたらしたが、私たちはその生き残りの末裔ということになる。目下、COVID-19の感染拡大で北イタリア諸都市は封鎖されているが、かつて半年ほど暮らしていたヴェネチアには今もペスト禍の痕跡が残っている。七月に行われるレデントーレ祭は夏の風物詩でもあるのだが、ヴェネチアの人口の約三割に当たる四万七千人が死んだペストの収束を神に感謝するために教会建設を行ったことに由来する。十六世紀半ば過ぎのことである。花火が夜の空を焦がし、運河に船を浮かべた橋を作り、それを渡って、教会に向かう人々が行列する。四百五十年も前のペストの収束を現代人が盛大に祝うのを見た時も「ルネッサンスかよ」と思ったが、まさか二十一世紀に歴史が繰り返されるとは思わなかった。
 これ以前、ダンテやボッカチオが生きていた十四世紀にもペストの流行があった。そういえば『デカメロン』は感染を恐れ、郊外の別荘に籠城した面々が退屈しのぎに披瀝し合った秘話、艶笑譚のコレクションだった。長期にわたる引き籠もりはこういう文学的副産物を産み出したわけである。

17世紀、ペストの治療にあたったローマの医師を描いた絵。嘴のとがったマスクに革手袋、永井コートを着用し、手には触診棒をもっている

17世紀、ペストの治療にあたったローマの医師を描いた絵。嘴のとがったマスクに革手袋、ロングコートを着用し、手には触診棒をもっている

 全世界的に人々が引き籠もると、生活スタイルが一変する。一斉に食料、生活必需品の備蓄を増やそうとする行動を取れば、スーパーの棚から特定商品が消えてゆくことになる。また、一斉に外出を控えることによって、飲食店の客足がぱったりと途絶えることになる。ヨーロッパではレストランが軒並み休業し、日本でも経営者が「普段の三割減で、赤字だ」と悲鳴を上げている。
 ガルシア=マルケスの小説に『コレラの時代の愛』というのがあったが、コロナ時代の只中にある私たちドリンカーはどういう行動を取るべきなのか? 人がたくさん集まる場所が苦手で普段からつい引き籠もりがちになる私などは、多くが外出自粛し、電車も繁華街も空いている今こそ飲み歩きの絶好の機会だと思ってしまう。こまめな手洗いとうがいによって、普通の風邪やインフルエンザにもかかっていないし、花粉症でもないので、積極的な消費行動を取り、飲食店経営の危機にハチドリの一雫(ひとしずく)をもたらしたいと思う。
 先ずは昼から飲める行きつけの店から始め、人気の居酒屋、鰻の串焼き、そば屋、中華料理店、カフェ、バーなどを訪れてみる。その店の主人も渋い顔をしていたが、私の顔を見ると、「地獄で仏を見た」といえば大げさだが、それくらいの勢いで感謝してくれる。年度末の歓送迎会、卒業パーティなどの予約がキャンセルになって、売り上げが落ちているとのことだが、早い時間から飲んでいる人の数は決して少なくはなかった。おそらく私と同じように考えている人が思いの外多いのだろう。テレワークで二週間以上、会社に行っていないという人などは気晴らしが必要不可欠になり、話し相手を切望するようになる。こんな時だからこそ飲みながらできることは多い。通常、オフィスの会議室で行っている企画会議、教授会、打ち合わせを居酒屋やそば屋で行えばいい。酒が入れば、本音も出るし、適量なら頭の回転も早くなる。失業、倒産、収入の大幅減の不安を抱えながら、政治への不満を口にし、これまでの自分の歩みを振り返ってみたり、自らの内なる悪意と善意の確認したり、相手と緩やかに精神分析をし合ったりする。そうしたとりとめもないお喋りの中にこそ次の一手のヒントが隠されているものだ。
 さて、何もやることがない土曜の昼下がり、紙ナプキンと輪ゴムで作ったマスクをし、自宅待機の勧告を無視し、酒を求めてさまよい出した私が最初に訪れたのはそば屋だった。普段、ランチタイムは野戦病院状態のそば屋も、コロナ禍の土曜はガラガラで、長居も歓迎される。この際だから、そば屋のつまみを網羅してやろうと、メニューを片っ端から注文しまくった。
 先付けには定番の板わさと焼き海苔だ。分厚く切ったカマボコは普通にわさび醤油でもいいが、わさび漬けの辛い粕を塗って食べたい。海苔も醤油だけでなく、ごま油と塩をつけて食べれば、韓国風になる。
 それで一合飲んだら、二本目のアテには炙りものをもらう。タタミイワシ、エイヒレ、ウルメイワシ、アタリメなどをじっくり咀嚼し、旨味を十二分に引き出しながら、燗酒をクッとやる。三本目には厚焼き卵と鴨焼の出番だ。濃口のだしで味付けされたそば屋の卵焼は寿司屋のそれとは別物で、大根おろしと合わせるのがいい。鴨焼はすき焼きみたいに甘辛く焼いてもらい、たっぷりの山椒をかけて食べたい。鴨汁ももちろんつまみになるが、そば屋には酒飲みのために「ぬき」というジャンルがあって、メニューにある天ぷらそば、鴨南蛮、カレー南蛮などの「ぬき」を注文すると、そばなし、つまり温かいつゆに天ぷらが浮いたものが出てくる。わざわざ「ぬき」を頼んで、通人ぶるのもどうかと思うが、まだしばらく酒を呑んでいたい向きにはおすすめである。そばつゆに浸した天ぷらは確かに揚げたてのサクサクの天ぷらとは別物である。インスタントの天ぷらそばでもかき揚げを入れてお湯を注ぐか、後乗せかで好みが分かれる。ここは別に悩むところではなく、別物である以上は両方食べればいいのだが、私は天ぷらは塩で食べ、天かすをつゆに浸して食べるという解決策を見つけた。天ぷら店で百円で売っている天かすを土産に持って帰ると、必ずたぬき豆腐を作る。そばつゆで絹ごし豆腐を煮て、天かすを散らすだけの料理だが、これがあれば、もう一合余分に酒が飲める。立ち食いそば屋にはコロッケそばがあるが、コロッケを熱いつゆに溺れさせて食せば、肉じゃが擬きの味になる。

天ぷらそば。あなたは浸す派、それともサクサク派?

あなたは浸す派? それともサクサク派?

 ちなみに私はそばをつまみにして飲み続けることもできる。そばつゆに酒を少し加え、そこにそばを浸し、ひと啜り、酒をひと啜り、またそばをひと啜りする。やや趣向を変え、そばにを塩をふりかけて食べるという方法もあって、これはそば本来の香りと甘みを引き立たせる。ごま油と塩、七味、もしくは一味唐辛子をかけて食べるとパスタ感覚になる。イタリアでもそばの産地があり、アーリオ・オーリオにしたり、トマトソースを合わせたりして食べるし、ブータンでは熱した油と大量の唐辛子で味付けをする。
 そば屋の長居の締めくくりには残りのつゆをそば湯で薄めて飲むのだが、焼酎のそば湯割りもまた乙なものである。

締めは、焼酎のそば湯割りで

締めは、焼酎のそば湯割りで

 暖冬で例年より早く花見の季節になっているが、上野公園や代々木公園の密集型の花見は自粛されることになるだろうか? 基本、オープンエアの場では感染の危険は著しく下がるはずだが、ゴザを敷いて車座になったお座敷スタイルは濃厚接触を伴うので、みんな一メートルずつ離れて座るのだろうか?
 誰もいない公園でぽつねんと一人でたこ焼をつまみに缶チューハイを飲む花見スタイルが定着しそうな予感もする。あるいはスキットルに入れたアイラモルトをちびちびやりながら、魚肉ソーセージ片手に千鳥ヶ淵をそぞろ歩くか、一輪挿しに桜の花を活け、最近亡くなった文豪、飲み仲間を偲びながら、書斎で泡盛の古酒を飲むか、いずれにせよ、空想居酒屋が追求してきた酒飲みのミニマリズムが主流になってゆくだろう。
 外出自粛が広がったことで、買い物も控えるようになった人々はネットショッピングやウーバーイーツなどのデリバリーに走っている。翌日には配送される迅速さに甘え、生活必需品から食料品、衣服、書籍、あらゆるものを自宅に居ながらにして手に入れられる。パンデミックはAmazonや楽天をさらに儲けさせることになるだろう。ウーバーイーツの配達もよく見かけるようになり、都心に住んでいれば、自宅がそのまま屋台村になったようなもので、複数のレストランの名物料理を同時に味わうことができる。公園で花見をするのにウーバーイーツを利用している人もいるだろう。公園にラーメンの出前を取っているホームレスなら見かけたことがある。
 レストランで食事することを外食というが、出前物を家で食べれば、内食になる。ではオープンエアのスペースで出前物を食べるのは何というか? 外で食べる以上、やはり外食ということになるだろうか? 雨の日は何とか東屋を確保したいものである。
 この時期、中国ウイルスだ、武漢ウイルスだと騒ぐ反中キャンペーンのせいで、中華料理店は結構打撃を受けているのではないかとにわかに心配になり、行きつけの店の様子を見に行った。普段は午後七時には満席になり、二階の宴会場もパーティで貸切りになっているはずなのだが、宴会は軒並みキャンセルで、その夜に来店した客は私たちの三人と一人で来た客一人の計四人だった。店主に同情し、いつもより長く、余計に呑んだ。新メニューをサービスしてくれたり、わざわざタバコを買って来てくれたり、丁重にもてなしてくれるので、一瞬、このままこの店に居候してしまいたくなった。ところでいつもホールを仕切っているお母さんの姿がないので、どうしたのか訊ねると、「店があんまり暇だから、久しぶりに休みを取って、温泉に行きました」という。「働き詰めはよくないから、たまにはいい景色でも見て気分転換した方がいい」と娘にいいながら、ふと思った。しばらく出社を控え、形式的な会議や顔つなぎの営業や仕事してるふりをせずにいると、今までのオフィスワークがいかに無駄だったかをつくづく思い知ってしまうのではないか、と。たまたま、自宅待機中の気晴らしにドライブに出かけ、風光明媚な田舎の風景や温泉、素朴な食事に接したりしたら、会社に戻るのがバカらしくなってしまうに違いない。
 疫病の蔓延は大きなライフスタイルの転換をもたらすことになりそうだ。

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プロフィール

島田雅彦(しまだ・まさひこ)
1961年、東京都生まれ。作家・法政大学教授。東京外国語大学ロシア語学科卒業。在学中の83年に『優しいサヨクのための嬉遊曲』で注目される。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞を受賞。ほかの著書に『天国が降ってくる』『僕は模造人間』『彗星の住人』『悪貨』『ニッチを探して』『オペラ・シンドローム』など多数。2010年下半期より芥川賞選考委員を務める。

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