
仮設住宅に暮らす被災者にのしかかる、制度のセイフティネットからこぼれ落ちてしまうもの――中山七里「彷徨う者たち」
本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。森見善之助議員の支援者への聞き込みで見えてきた被災地の復興の実態。そこへ蓮田の旧友・知歌からの緊急連絡。そこへ急行した蓮田と笘篠は――
※当記事は連載第14回です。第1回から読む方はこちらです。
2
覆面パトカーを飛ばして十五分ほどで吉野沢に到着した。
トラブルの場所は一目瞭然だった。皆本老人の家の前で三人の男が破壊活動に勤しんでいた。抵抗する知歌を羽交い締めにしているのは一番非力な男に見える。後の二人は棒切れで窓ガラスを叩き割っていた。
器物損壊の現行犯。罪名を思いつく前に足が出た。笘篠もほぼ同時に駆け出す。二対三で人数では分が悪いが、蓮田も笘篠も体格に恵まれ腕にも覚えがある。
まず蓮田は男に飛び掛かり、強引に知歌から引き剝がした。突然現れた蓮田たちに驚きながら、男は反撃に出る。
繰り出された右ストレートが頰を掠る。掠らせたのはわざとだ。これで公務執行妨害も成立する。
だがそうそう思い通りにはならなかった。相手も愚かではなく、瞬時に蓮田の腕っぷしを体感したのか、巧みに攻撃を逸らしてくる。
組んでいる最中に焦ったのがよくなかった。
ふっと男の姿が消える。
身を低くして視界から外れたと気づいた時には遅かった。片足をすくわれ、体勢を崩した蓮田は堪らず地面に転がされる。
元よりこちらを組み伏せる気はないのだろう。男は倒れた蓮田を尻目に脱兎のごとく駆け出した。
「待て」
蓮田が叫んだ時には、他の二人も笘篠に背を向けて逃げ出したところだった。
不覚だった。
急いで立ち上がろうとしたが、視界の隅に倒れ伏した知歌を見ると、彼女の安否が気になった。
笘篠は三人の後を追ってどんどん遠ざかっていく。齢を食っているが脚力は蓮田より上だ。追跡は笘篠に任せるとしよう。
「大丈夫か」
知歌はぶるぶると震えながら、差し出した手を握り締める。ふらふら立ち上がると、破砕された窓ガラスの方へ歩いていく。
「皆本さぁん」
呼びかけに応じて、部屋の奥から恐る恐るといった体で皆本老人が姿を現した。どうやら奥に身を潜めて男たちの暴虐から逃れていたらしい。
「もう、あいつらは行ったのか」
「このお巡りさんたちが追い払ってくれました」
正確には逃げられただけなのだが敢えて訂正しなかった。
「どういうことか説明してくれ」
「どうもこうもなくて」
知歌は思い出したように満面で怒る。
「いきなりだよ、いきなり。家の中で皆本のおじいちゃんと話していたらあいつらがやってきて、窓を壊し始めたのよ」
蓮田は破砕された窓に視線を移す。仮設住宅といえども寒冷地仕様の窓は二重サッシになっており、簡単に砕け散るような代物ではない。だが無数に罅が入ってしまえば使い物にならない。
「知っているヤツらか」
「〈シェイクハンド・キズナ〉というNPO法人の板台っていう人。他の二人は知らない」
「どうしてあいつらが皆本さんを襲うんだよ。あいつら、仮にも同じNPO法人なんだろ」
「棒切れで窓ガラス割り始めたから、わたし表に出て何してるんだって訊いたの。そうしたら板台が、『皆本さんのために壊してるんだ』って。仮設住宅に住めなくなれば嫌でも移転しなきゃならないからって」
「何だ、その屁理屈。まるで地上げ屋の言うことじゃないか」
「まるでじゃなくて、まるっきりそうよ。無理やり皆本のおじいちゃんを追い出そうとしているのよ」
「皆本さん。こういう乱暴は今までにもあったんですか」
「棒っ切れを持ち出されたのは、これが初めてだな」
皆本老人はしばらくぶりに息をしたかのように長く嘆息をする。天井を見上げる目には怯えの残滓と自己嫌悪の色があった。
「公営住宅へ移れ移れと、鬱陶しいくらいに言われ続けた。終いには言葉遣いが恐喝めいてきたが、暴力までは振るわれんかった」
これまでにも前兆があり、遂に実力行使に出たという次第か。
「しかし、どうしてNPO法人が地上げ屋の真似をしなきゃならないんだ」
「〈シェイクハンド・キズナ〉は、元々迷惑系のNPO法人だったの。それが最近は反社会的勢力に変貌したのよ」
知歌は迷惑系NPO法人なるものの説明を始める。彼女の上司である桐原あかねによれば、収入源の枯渇した〈シェイクハンド・キズナ〉は生き残りの道を模索した挙句に暴力団と結託したらしい。なるほど、それなら板台たちが地上げ屋紛いの行動に移ったのも合点がいく。
「大規模な再開発をするとなったら大手ゼネコンや地元の建設業者はずいぶん儲かるってチーフが言ってた。皆本のおじいちゃんを仮設住宅から追い出したいのは撤去を早めるためだと思う」
「ますますもって地上げ屋だな。よく監督官庁がそんなNPO法人を放置するもんだ」
「迷惑系になる前からノーマーク。どこかが正式に訴えて表沙汰にしない限り、取り合ってくれないんだろうね」
知歌は憤然としたまま黙り込む。
束の間の沈黙の後、皆本老人が重そうに口を開く。
「もう、俺はどこにも住めないのかなあ」
「そんな、おじいちゃん」
「津波で丸ごと家を持っていかれてよ。やっと仮設住宅に落ち着いて残った者同士で慰め合っていたら、一人また一人といなくなっちまう。こんな齢になって、また話し相手や吞み仲間が作れるとは思えねえ。そもそも今でさえもぎりぎりの生活の俺が公営住宅に移れるはずもねえ。追い出されるのも時間の問題ときた」
「そんな真似はさせません。さっきのならず者なら逮捕してやりますよ」
「違うのよ、将ちゃん」
「何が違うんだよ」
「〈シェイクハンド・キズナ〉とは関係なく、皆本のおじいちゃんを含めて、仮設住宅に残った三世帯は立ち退きを迫られているの」
知歌は憤然としながら説明する。
当初、仮設住宅の入居期限は原則二年と定められていた。現在まで仮設住宅が継続しているのは偏に復興事業が遅延しているからに相違ない。実情に合わせるかたちで入居期限は延長され続け、遂に一九九五年に発生した阪神・淡路大震災時の五年を上回ってしまった。
徒に入居期限を延長させることは復興事業の妨げになりかねない。そこで県は、仮設住宅は被災者に一定期間住居を供与するという建前であり、供与期間が終了した時点で引き渡すという大前提を引っ張り出してきた。仮設住宅の供与期間終了後は、入居者への訪問、協議を続けるものの、平行線を辿る場合はやむを得ず法的措置となる事例を認め、その法的根拠となる基礎情報の収集を各管理市町村に依頼したのだ。
「政策上の都合か。しかし、いくら立ち退きを命じられたって移転先がなければどうしようもないだろう」
「立ち退きを拒み続けたら、いずれは民事調停の上で強制執行されるんだよ。下手したら将ちゃんと同じ警察官が無理やり皆本のおじいちゃんを仮設住宅から追い出すんだよ」
要するに、公園からホームレスを追い出す方式と理屈は同じだ。何のことはない。県のやろうとしている施策は、板台がしていることと五十歩百歩ではないか。
皆本老人がじろりとこちらを一瞥する。じわりと蓮田は居心地が悪くなる。
罅の入った窓ガラスを放置しておく訳にもいかず、蓮田は名刺をもらっていた〈ヤマトハウス〉の高橋に連絡してみる。
『よく電話してくれました。町のガラス屋さんに頼むよりウチの方が在庫もあるのでお値打ですよ』
見積もりを出してもらってから、改めて皆本老人に決めさせる。彼の境遇を知れば修繕費の捻出も容易ではないだろうが、蓮田や知歌が口出しできる案件とは思えない。
「取りあえずは新聞紙を張るなりブルーシートで覆うなりせんと夜も眠れん。でもガラス代がいったいいくらになることやら」
「皆本のおじいちゃんが負担しなくていいかもしれません」
肩を落とす皆本老人に知歌が寄り添う。
「県の定めた〈宮城の将来ビジョン・震災復興実施計画〉の行動方針の中に、『被災者の安全な住環境を確保するため、被災した住宅の応急修理や被災した宅地・擁壁の復旧を支援する』という文言があります。一度申請してみます」
「頼むよ」
これ以上は喋りたくないという様子の皆本老人を励ましながら、知歌は蓮田を伴って家を出る。
「今から役場に行って交渉してくる」
「それはいいけど、さっきの復興実施計画の話は大丈夫なのかよ。復興支援の骨子はもっともだが、既に撤去が予定されている仮設住宅に適用できるのかよ」
「申請してみなきゃ分からない」
「やっぱり見切り発車か」
「これが初めてじゃない。今までにも、通るかどうか一か八かで申請したことが何度もあるもの」
知歌は憤懣遣る方ないという口ぶりで抗議した後、口を噤む。吐き出すことを吐き出すと、急に押し黙るのは昔と変わらない。
しばらく閉じていた唇が開くと、知歌はすっかり意気消沈していた。
「最近、復興の意味が分からなくなった」
「復興は復興だろう。そのための法律や条例が山ほどあるんだし」
「将ちゃんも聞いていたでしょ。国や自治体が制定する法は街をどこに創るとか、どうすれば災害に強い建物を作れるとか、〝ガワ〟しか決めない。そこに住む人たちのケアを全然考えていない。あのね、身寄りもおカネもない被災者は皆本のおじいちゃんだけじゃないの。志津川地区だけじゃなく宮城県、宮城県だけじゃなく被災地全体だと何百人何千人といる。でも国はそういう人たちの暮らし向きが元に戻ることよりも新しい街作りを優先する。真新しい建物、人が賑わう街ができれば、それが復興だと考えている。違う、そんなの」
蓮田は言葉もない。国や自治体が定められるのは制度だけで、人の気持ちを斟酌するまでには至らない。司法システムの末端に働く者として蓮田も制度設計の限界を知っているつもりだったが、現場で困窮する者の声を聞く知歌に言えることではない。
「仮設住宅に住んでいた人たちは元々同じ地区の住人だったけど、強制的に公営住宅に移転させられて近所付き合いも地域の絆も取り上げられた。毎日、会員さんの許を訪問してケアしているけれど、ただ住まわされているだけで心は満たされていない。被災した人たちは今も拠り所を失ったまま彷徨っている」
知歌の愁嘆を大袈裟だと謗る者がいるかもしれない。衣食住が保障されていれば充分だろうと口を尖らせる者がいるかもしれない。
だが知歌自身が両親と家を流され、いっときは居場所を失くしていたのだ。同病相憐れむでないが、彷徨う者の心細さは彷徨う者にしか分からない。
「さっきの窓ガラスの修繕にしても、仮設住宅に関わる問題は山積している。災害公営住宅への移転が決まっている今でもね。これまでは掛川さんが窓口になってくれていたから、何か問題があれば彼に言えばよかったんだけど」
「役場だぞ。担当者がいなくなれば当然、引継ぎがあるだろう」
「それが、まだ完璧には対応できないって。昨日も別の問題で役場に連絡したんだけど、あちこちたらい回しにされた」
電話では一向に埒が明かないから直接乗り込もうという肚か。
「掛川さんの対応はどうだったんだ。判で押したようなお役所の対応だったのか」
「ううん。掛川さんなりに真摯な対応をしてくれていたみたい。でも所詮は行政側の人間だから、結局は早期退去するように説得するしかなかった。本人も辛かったと思う」
「即断即決はいいが、窓口とトラブルを起こすなよ」
「トラブル上等」
「おいって」
「それくらいの覚悟がなきゃ通せるものも通せないってこと」
まさか自分が知歌に同行する訳にもいかない。逡巡していると、向こうから笘篠が戻ってきた。きっちり板台に手錠を嵌めて連行している。
「一人しか捕まえられなかった」
「一人で充分ですよ」
「そうだな。三人分喋ってもらうとするか」
知歌を残すことに多少の不安はあったが、蓮田は笘篠とともに県警本部へ戻るしかない。
取調室での板台は打って変わって従順そうに見えた。笘篠の聴取にも素直に応じ、抵抗する素振りもない。器物損壊も公務執行妨害も呆気なく認めた。
ただし動機についてはのらりくらりとはぐらかし続けた。
「だからね、刑事さん。俺たちはNPO法人の職員だから、常に善意をプレゼントするように心掛けているんですよ」
「そのプレゼントが器物損壊か。笑わせるな」
「確かに強硬手段なのは認めますけどね。ああでもしないと、あのおじいちゃんは仮設住宅から立ち退けない。公営住宅にも移り住めない」
「だから仮設住宅に住めなくしてやるというのか。もう少しマシな理屈をこねたらどうだ」
「こっちは大真面目なんですけどね。あのまま仮設住宅で粘っていても、遠からず強制的に追い出されるんだ。早めに自分から出ていった方がいいに決まっているでしょう」
「本音だとしたらとんだ勘違いだし、噓だとしても見え透いている。そろそろ正直に話せ。誰の命令で地上げ屋みたいな真似をしている」
「何度も言ってるように俺たちは純然たる善意で」
笘篠はゆっくりと板台の頭に手を添えた。
「お前の三文芝居に付き合っている暇はないんだ」
「奇遇ですね。俺も忙しいんですよ」
「破壊活動にか。だったら留置場に連泊してもらう羽目になる」
不意に板台の眼光が鈍くなる。
「刑事さん、宮城の人ですよね」
「それがどうした」
「だったら俺たちのしていることが社会貢献だと認めてくれなきゃ」
「またぞろ下らん屁理屈か」
「屁理屈じゃなくて事実です。例の津波で被害を受けて災害危険区域に指定されたのはどれだけあるか知ってますか」
「改めて数えたことはない」
「岩手、宮城、福島の三県四十二市町村で一万五千ヘクタール以上。その大部分は各自治体が買い取って再利用を目論んでいる。元々はほとんどが住宅地だったから利便性が高くて、使い方次第じゃ復興の推進力にもなる。それなのに、まだ三割以上が遊休土地としてほったらかしになっている」
「吉野沢の仮設住宅を指しているのか」
「まあ、あそこも遊休土地と言えばそうですね。吉野沢みたいな移転元地の整備には復興交付金を使えるんだが、それも二十一年の三月までだ。期限を過ぎたら各市町村の負担になる。元より予算不足で汲々としている市町村に移転元地を開発する余裕はない。いいですか、もう時間はない。今のうちに吉野沢を再開発しなきゃ、あの土地はもう二度と生き返らない。津波に流された人間みたく死んだままに」
「うるさい」
笘篠の低い声が板台を遮る。
その顔を見て蓮田までがぞっとする。相対する者を灼き殺すような目をしていた。
「何をほざいてもいいが死者を冒瀆するのだけはよせ」
剣吞を察知したらしく、板台は降参するように両手を掲げてみせる。
「はいはい、悪うございました。ともあれ我々は被災者のみならず、被災地のいち早い復興を願って日夜活動しているのですよ。その理念は認めてほしいものです」
「少なくとも連泊は認めてやる」
取調室を出る笘篠の表情は冴えなかった。
「なかなか暴力団と結託している事実を認めませんね」
「認めた瞬間に裏切り者に認定されるからだろう。賢しらに振る舞っていても所詮は末端の構成員だ。構成員なら構成員なりの訊き方がある」
「まさか。取り調べの一部始終は録画されているんですよ」
「早とちりするな。本人があれだけ隠し立てしているんだ。関係者がおいそれと身柄を引き取りにくるとは考え難い」
「引き取りにきた時点で関係者の素性がバレますからね」
「時間の許す限り、念入りに尋問してやるさ」
だが言葉とは裏腹に笘篠の表情があまり冴えないのは、板台の容疑が軽微だからだ。器物損壊罪の刑罰のみで三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料。スジ者には勲章にすらならない。逆に言えば容疑者との交渉材料にもならない。
「四十八時間が過ぎたらどうしますか」
「改めて〈シェイクハンド・キズナ〉を洗ってみる。無駄足かもしれないが、掛川の殺害に話が絡んできたら御の字だ」
現状は新たな切り口を見つけて調べるしか、他に手がなかった。
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
関連書籍