物的証拠がなく見えない先行き。被害者の生前の姿と人柄に手がかりは――中山七里「彷徨う者たち」
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物的証拠がなく見えない先行き。被害者の生前の姿と人柄に手がかりは――中山七里「彷徨う者たち」

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本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。14年の歳月が、幼馴染たちの境遇も互いの関係性を変えた。自身の苦い思い出を胸に蓮田は――
※当記事は連載第5回です。第1回から読む方はこちらです。

二  再建と利権

 二回目の捜査会議は東雲の仏頂面で始まった。
 前回に告げられた捜査方針は鑑取りの継続で掛川と接点のある者を洗い出すことと、犯人の逃走経路を明らかにすることだった。だが鑑取りも鑑識も与えられた課題に難渋し、東雲を満足させるような成果を上げていない。まだ帳場が立ってから間もないにも拘わらず、捜査は早くも膠着状態に陥った感が否めない。居並ぶ捜査員たちも心なしか緊張感が途切れ、代わりに閉塞感を漂わせている。
「犯行現場となった空き家の合鍵が作られた形跡はあったのか、なかったのか」
 鑑識課の両角は居心地悪そうに立ち上がる。
「鍵穴をこじ開けたり、挿し慣れない合鍵を使用したりした形跡はありませんね」
「ただの一度もか」
「周辺は撤去工事が進行していて、鍵穴には作業過程で生じた微細な粉塵が溜まっていました。マスターキーだろうが合鍵だろうが、使用すれば痕跡が残るはずなんです。しかし、そうしたものは一切見当たりません。残存していたのは、機捜が入室した際の痕跡だけです」
「掃き出し窓はどうだ。ロックされていた二か所が外部から開けられた形跡はないか」
「二か所のロックは両方ともクレセント錠本体にシリンダーがついているものです。ご存じの通り、このタイプは開錠しなければクレセント錠を回すことができません。分析してみましたが、細工をされた痕跡は見つかりませんでした」
「つまり犯人は玄関からも裏口からも窓からも出なかったことになるか」
 よほど不可能犯罪なるものが気に入らないのか、東雲は露骨に嫌そうな顔をする。
「鑑識課に推論をお求めでしょうか」
「いや。あくまでも可能性の確認だ」
 部屋から出た方法は不明ですがと前置きした上で、両角は興味深い新事実を説明し始めた。
「吉野沢仮設住宅には現在三世帯しか居住しておらず、いずれもクルマを持っていません。しかし現場付近は撤去工事の最中という事情もあり、トラック、重機、タクシーなどが行き来しています。鑑識では採取したタイヤ痕一つ一つを分析しましたが、一つだけそのいずれとも符合しないものがありました。資料をご覧ください」
 両角の指示で、蓮田は配布された資料の該当ページを繰る。現れたのはトレッドパターンの拡大写真だった。
「極太の三本グルーブと細めのグルーブを組み合わせた、非対称・非方向性のパターンになっているのが確認できます。このパターンに合致するのはヨコハマタイヤ製の〈ADVAN Sport V105〉と判明しました。この〈ADVAN Sport V105〉はベンツSクラス、BMW Ⅹ3といった主に高級外車に装着されているタイヤです。建機のタイヤ痕の上に重なっていることから、直近に訪れていたものと思われます」
 捜査員たちの間から訝しげな声が洩れる。三世帯しか残っていない仮設住宅と高級外車の取り合わせは確かに奇妙だった。
「車種と製造年は分かるか」
 タイヤ成分の比率は製品によって異なる。微量であってもタイヤ痕が残っていれば、ガスクロマトグラフ質量分析計で成分比率を割り出せるはずだった。だが、続く両角の返事は冴えない。
「採取されたトレッドパターンは砂地から採れたものであり、現段階でタイヤ成分までは検出されていません」
「三世帯の親族に高級外車の持ち主がいるという解釈も合点がいかないな。鑑取りでそうした事実は出ているのか」
 これには蓮田が応える。
「三世帯とも聴取していますが、そうした事実はありません」
 高級外車を乗り回すような身内がいれば、公営住宅への移転が進んでいる時点で仮設住宅に住み続ける意味もない。蓮田の答えは手短だが、捜査員全員が納得している様子だ。
「不審な高級外車か。現場に防犯カメラが設置されていないのは痛いな」
 東雲は無念そうに首を振る。
「高級外車の存在は確かに異質ではある。容疑者のものとは断定できないが、鑑識は持ち主の特定を急げ。関連して地取りと鑑取りも継続する。以上」
 会議が終わっても捜査員たちにあまり覇気は感じられない。現状、分析作業が山のように残っている鑑識課はともかく、他の捜査を割り当てられている者は虚空を摑むような手応えなのだから当然と言えば当然だった。
 皆が三々五々と散っていく中、笘篠だけは机を離れようとしない。不思議に思って蓮田が背後から覗き込むと、笘篠は建物図面に見入っていた。
「笘篠さん、その建物って」
 答えを待つまでもない。それは件の仮設住宅の建物図面だった。
「そんなもの、どうやって手に入れたんですか。まさか法務局じゃないですよね」
 原則として不動産は登記の対象であり、法務局には登記した建物の図面が保管されている。だが仮設住宅はたとえ生活が長期に亘っているとしても最初から取り壊されることを前提とした建物なので、その限りではない。法的に不可能ではないが、メリットがないので登記する者はいないと聞いている。
「建物図面を保管しているのは法務局だけじゃない。これは南三陸町役場が発行している〈被災者受入支援応急住宅退去確認書〉の一部だ。添付資料の一つとして建物図面が載っている」
 説明を聞けばなるほどとも思えるが、欲しい資料を探し出してくる笘篠の嗅覚に舌を巻く。
「よく、そんなものを見つけてきましたね」
「探す気になれば、大抵のものは見つかる」
 仮設住宅の建物図面には小さな字で書き込みがされている。いずれも笘篠の角ばった字で、図面を睨みながら書き加えたものらしい。
「分かっていたことだが、プレハブ住宅というのは工場で作られるパーツが多いから、後で細工をするのが困難だな」
「図面を見て密室を破るつもりでしたか」
「屋根裏、壁の向こう側、床下。現場では見えないところに活路が開けないかと思ったんだがな」
「プレハブ住宅というのは、要するに箱と箱を繫ぎ合わせたような家ですからね」
「肝心要の開口部は表裏のドアと掃き出し窓が内側から施錠され、採光窓は嵌め殺し。開口部の出入りがないとなると、床や壁に細工をするより他にないはずだが、その痕跡もない。袋小路とはこのことだな」
「いっそ屋根全体を持ち上げてしまう、というのはどうですか」
「プレハブ住宅の解体作業を見たことはあるか」
 蓮田は首を横に振る。
 私生活でも捜査の一部でも、そんな光景は目にしたことは一度もない。
「俺もない。だが住宅を組み上げるのと全く逆の工程というのは何となく分かる。屋根は最後に設置する。それ以外の工法はないだろう」
「でしょうね」
「プレハブ住宅の解体手順ならネットを漁れば概要が知れる。安物のプラモデルみたいな一体型ならともかく、あの仮設住宅の屋根は十数枚の屋根材で構成されている。まずその屋根材を剝がすんだが、固定してあるネジを外した上、設置部分をバールで剝がさなきゃならない。簡単な作業みたいに聞こえるが、人力では手間も暇もかかるから重機を使うのが普通らしい」
「現場は撤去工事が進んでいて重機の一部も置いてありましたよ」
「重機を動かすにはキーが必要だし、第一そんなものを夜の八時から十時にかけて起動させれば、近所の三世帯に聞こえないはずがない。折角の妙案だが却下だ」
 片手でペンを弄びながら、笘篠は悩ましげに図面を眺める。意外にも謎解きに興味があるのかとしげしげ見ていると、笘篠が抗議の目を向けてきた。
「好きでやっていると思うか」
「あ、いえ」
「推理小説のトリックを暴くのは嫌いじゃないが、現実の事件となれば話は別だ。まるで犯人におちょくられているようで苛々してくる。管理官じゃないが、状況証拠さえ揃えば起訴できるとしても充分じゃない。警察の迷走ぶりを嗤(わら)っているようなヤツに一矢報いてやりたい気持ちもある」
 殊更声高にではなく、ぼそぼそと話すので余計に腹立ちが伝わってくる。
 笘篠は一を聞いて十を知るのではなく、残りの九を走破して確認するような男だ。安楽椅子にふんぞり返って自慢げに推理を披露する人間よりは、ずっと信用できる。密室破りに関しては笘篠に一任しても構わないだろうと思った。
「犯人の逃走経路については笘篠さんに丸投げさせてください」
「俺に丸投げする分、自分は単独行動でもするつもりか」
「単独でないと、訊けないことがあるんです」
「例の知り合いか。事件に関係しているのか」
「まだ分かりません」
 犯行現場の近隣住民の面倒を、たまたま見ていた幼馴染み。被害者との接点は希薄で殺害動機も思いつかない。だが、放置しておくつもりもない。
「分かるまで調べてみたいんですよ」
 渋面でも見せられるかと思ったが、予想に反して笘篠は鷹揚(おうよう)に頷く。
「可能性を一つずつ潰していくのが俺たちの仕事だ。気が済むまで調べればいい」
「ありがとうございます」
「で、いったいどこに行くんだ」
「南三陸町役場です。もう一度建設課課長補佐の鶴見圭以子から訊きたいことがあります」
 笘篠は片手を上げて了解した。

「今日はお一人なんですね」
 蓮田が単独で現れたと知ると、鶴見は何故かほっとした様子だった。
「捜査一課は常に人手不足でしてね」
「奇遇ですね。実はウチの課も慢性的に人手不足なんです。殊に掛川さんを失ったので尚更です」
「人員の補充はしないのですか」
「土木係は業者だけではなく地域住民との折衝を任されている部署ですから。手慣れた者でないとトラブルの元になるので、単純に補充すればいいというものじゃないんです。もちろん、また一から新人を育てていかなければならないんですけど」
「掛川さんの抜けた穴は大きそうですね」
「現状はわたしが兼任していますけど、早くもてんてこ舞いしてます」
 確かに鶴見を観察すると、顔に疲れが見え隠れしている。ただし肉体的な疲労なのか精神的なそれなのかは判然としない。
「本日お伺いしたのは、鶴見さんからの説明が訊きたかったからです」
「先日の聴取では足らなかったでしょうか」
「後から思いついたことも多々あります」
「じゃあ落ち着ける場所に移りましょう」
 応接室に誘われ、蓮田は鶴見と差し向かいに座る。鶴見に緊張感が見えないのは相手を自陣に迎えたことによる余裕だろうが、蓮田の方は手心を加えるつもりなど一切ない。
「掛川さんが抜けた穴が大きいのは、彼が交渉事に慣れていたからですか」
「それは確実にあります」
 鶴見は自分で淹れてきた茶をひと口啜って言う。
「交渉というのは口の上手さだけではなく、人柄も重要ですから。仮設住宅から移転するにあたって、経済的にも心理的にも抵抗がある入居者を説得する最後の決め手は、担当者の誠意なんです」
 被災者の中には公営住宅への移転を渋る者もいる。経済的理由以外にも住み慣れた街を離れたくない者もいるだろう。そういった人間たちを半ば強引に説得する免罪符に「誠意」を口にするのか。知歌から入居者の実情を聞いている蓮田は、つい穿った見方をしてしまう。
「掛川さんは文句一つこぼさず黙々と仕事をこなす、所謂不言実行タイプということでしたね」
「ええ。とても頼りになりました」
「言い換えれば、文句一つこぼさず黙々とこなすタイプじゃなければ到底務まらない業務だったということですよね」
「何だか険のある言い方に聞こえますね」
「失礼。実はまだ移転の済んでいない三世帯に色々とお訊きしました。皆さん、それぞれに事情があって、なかなか公営住宅への移転に踏み切れない。中には、はっきり拒絶している人もいる」
「住めば都というか、一度あんな大災害に遭ってしまうと、お年寄りは生活の変化を厭うようになりますから」
「それでも掛川さんは足繁く説得に通った」
「業務ですから」
「わたしが理解できないのは、何故被災者の尻を叩いてまで公営住宅への移転を促進しているかなんです。既に公営住宅自体は完成している。入居者条件も定められていて、もちろん被災して家を失くしている世帯に優先権が与えられている。だったら、そんなに急ぐ必要はないんじゃないですか。残りの三世帯が納得するのを待って移転させても」
「公営住宅への移転は計画に則って行われています。計画というものには全て期限が設けられているのですよ」
 そんなことは言われなくても分かっている。
「でしょうね。しかし本人が嫌がるのを無理に急き立てるのが、果たして正しい行政かどうかとなれば意見は分かれるでしょう」
「何か言いたそうですね」
「しばらく仮設住宅を存続するという選択肢はないんですか」
「『仮に設置してある』から仮設住宅なんです。一般住宅のような永続性はありません。そんな建物にいつまでも市民を住まわせる訳にはいきません。移転計画はあくまでも被災者第一主義の政策なんです」
「プレハブ住宅だから永続性がないのは納得しますよ。しかし最近のプレハブ住宅は耐震性も耐久性も兼ね備えていると聞きます。被災者第一主義というなら、彼らの希望に沿うことが一番だと思いますけどね」
「市民の希望を何でも叶えるのは行政ではありません。ただのポピュリズムです」
 鶴見の言説は少しずつ歪み始めているが、本人は気づいているのだろうか。
「吉野沢にいつまでも仮設住宅が残っていたら、何か都合の悪いことでもあるんですか」
「そんなことはありません。ただ計画に基づいて建てられた仮設住宅なら、計画に沿って撤去されるのが当然です」
「先ほど、経済的心理的に抵抗がある入居者を説得する最後の決め手は担当者の誠意だと言いましたね。しかし、その掛川さんをもってしても三世帯を立ち退かせることは困難だった。ひょっとしたら掛川さんは最終手段として、誠意の先にあるものを発揮したんじゃないですか」
「誠意の先にあるものとは何ですか」
「人を動かすのに有効なものですよ。色々あるでしょう。カネとか暴力とか。だから憎まれた挙句、殺されてしまった」
「いくら何でも失礼じゃありませんか」
 鶴見の顔色が変わった。
「建設課に余分な予算はありませんし、掛川さんほど暴力に縁遠い人はいませんでした」
「確かに失礼だったかもしれません。その点はお詫びします」
 いささか興奮気味の鶴見に対して、蓮田は己を制御している自覚がある。相手を怒らせても、自分は平常心を失わない。これは笘篠とコンビを組んでいて身に着いたものの一つだった。
「あなたはずいぶん掛川さんを買っていたんですね」
「わたしに限らず、掛川さんみたいな人には全幅の信頼が置けます」
「あなたや妹さんの話を聞けば、生前の掛川さんの人となりが浮かんできます。さぞ得難い人材だったのでしょうね。鶴見さん延(ひ)いては役場の意向を着実に実行する、使い勝手のいい道具として」
「その言い方はひど過ぎます」
「では鶴見さん。あなたは掛川さんを唯々真面目で、目立つのが嫌いな好人物だと評価していたのですか」
「人として尊敬に値する人物でした」
「人として尊敬に値する人間が、事もあろうに自分が担当していた仮設住宅の中で死体となって発見された。どう考えても仕事絡みで殺されたとしか思えない」
 不意に鶴見は口を噤(つぐ)んだ。
 畳み掛けるならここだ。
「十中八九、仕事上のトラブルに巻き込まれて、彼は殺された。ただ真面目なだけの好人物だったのに。だとしたら鶴見さん。あなたに責任の一端があるんじゃないですか。あなたの指示に従ったがために掛川さんが殺されたと考えられませんか」
「……ひどい」
 鶴見から上司の仮面が剝がれかけている。
 そうだ、素顔を見せろ。
 知歌の話から建設課が公営住宅への移転を急いでいる感が否めず、どうにも引っ掛かっていた。だが真正面から切り込んだところで、組織の中間管理職が真実を打ち明けるはずもない。そこで鶴見の罪悪感を刺激しようと思いついたのだ。鶴見を断罪するのは少々酷だが、捜査のためには致し方ない。
 果たして鶴見は帰属意識と個人感情の間で葛藤している様子だった。蓮田は期待して彼女が落ち着く先を見守る。
「先ほどから聞いていれば、全部刑事さんの印象ですよね」
 結局、職業意識が勝ったらしく、鶴見は上司としての顔に戻っていた。
「掛川さんの死は悲しい出来事でしたけど、それをわたしや役場の責任に転嫁されても困りますし、また転嫁されるような客観的事実も見当たりません」
 鶴見はおよそ温度を感じさせない目を向けてきた。
「掛川さんがどんな理由で殺されたのか、わたしは警察ではありませんから分かりません。本人とご遺族のお気持ちを逆撫でするだけなので、個人的な推論を口にするのも控えさせていただきます」
「課長補佐という肩書は個人の感傷すら口にできないんですか」
「職場で口にする内容ではありません」
 まずい、と思った。
 鶴見のように帰属意識の強い人間は、いったんこうと決めたらなかなか崩れない。自分一人で組織を背負っているような自己陶酔が作用するからだ。
 こんな時、笘篠ならどう対応するだろうか。
 一瞬、蓮田は心細くなったが、矛を収める気にはなれなかった。
「鶴見さん。掛川さんの妹さんはこれで一人ぼっちになってしまった。震災で両親を失い、今度はお兄さんを失った。彼女の無念を何とかしてやりたいとは思いませんか」
「わたしが妹さんにしてやれるのは悔やみの言葉をかけることと、死亡弔慰金を渡してあげることくらいです」
 鶴見は正面から蓮田を見据える。
「嫌な言い方になりますけど、家族を亡くしたのは彼女だけじゃありません。わたしだって震災で両親と弟を亡くしています」
 今度は蓮田が当惑する番だった。
「あなた、震災が発生した時はどちらにいらっしゃいましたか」
「県警本部のある仙台です」
「ご家族は無事でしたか」
「お蔭様で」
「それはよかったですね」
 柔和な言葉とは裏腹に、目は決して笑っていない。
「南三陸では多くの人が家族を失いました。不幸自慢をするつもりはありませんけど、掛川さんの妹さんだけがとびきり不幸ではありません。ここは役場ですから、震災直後から人の死をうんざりするくらい扱ってきました。遺体の探索、発見、身元確認、遺族への説明、災害弔慰金受給手続き。役場の職員として、わたしが彼女だけに肩入れする理由はありません」
 聞きようによっては冷酷な物言いだが、蓮田には言い返す術がない。
 くそ、またか。
 不幸自慢ではないと言われても、不幸を抱えていない者の立場は相対的に弱くなる。
「繰り返しますけど、わたしは掛川さんが殺される理由に全く思い当たりません。あったとしても、それは南三陸町役場とは一切関係ないものだと考えています」
 すっかり取り付く島もないといった体だ。これ以上攻めたところで撥(は)ね返されるのがオチだろう。
「また出直します。捜査にご協力いただき感謝します」
「何度来ていただいても同じことの繰り返しにしかなりませんよ」
「分かりませんよ、その時にならないと」
 蓮田は踵(きびす)を返すと、そのまま応接室を出ていく。碌に挨拶もしなかったのを思い出したが、今更引き返す気にもならない。
 己の不甲斐なさに吐き気がする。大見得切って単独行動した挙句がこのざまだ。御しやすしと思っていた鶴見が予想外に手強かったのも敗因だ。
 まだ甘い。対象者から本音を引き出すには手前に覚悟が足りない。覚悟が足りないから腰が引ける。相手が被災者だと知れた途端に踏み込みが浅くなる。
『震災直後から人の死をうんざりするくらい扱ってきました』
『わたしが彼女だけに肩入れする理由はありません』
 鶴見の言葉は失った者のみに許された重みがある。
 だが、と蓮田は頭を振りながら思う。
 家族の喪失や死を当然のものとして割り切るのは自然なことなのだろうか、それとも異常なことなのだろうか。
 命の重さを語るのは、失くした者にしか許されない権利なのだろうか。
 とにかくこのラウンドはいいところがまるでなかった。仕切り直しするより他にない。
 方向性は間違っていなかったと思う。建設課ならびに南三陸町役場が移転計画を推進したがっているのは、鶴見の反応からも窺えた。問題は、その真偽を知る者に心当たりがないことだ。
 不意に貢と沙羅の顔が浮かんだ。沙羅の父親は県会議員であり、貢は彼の秘書を務めている。公営住宅への移転が南三陸町の推進事業であるなら、いくらか内情を知っていたとしても不思議ではない。
 だが貢と顔を合わせることに少なからず抵抗がある。笘篠あたりに言わせればそれこそ公私混同だろうが、今会っても捜査協力を快諾してくれるかどうかは甚だ心許なかった。
 蓮田は貢に拭いがたい負い目があるのだ。

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プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)

1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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