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「思考入門 “よく考える” ための教室」第4回 〔サポートとツッコミについて、さらにツッコんでみよう〕 戸田山和久(文と絵)

さあお待ちかね、「思考入門」の第4回目ですよ。前々回、前回とつづいた「論理的に考えるってどういうこと?」シリーズも今回で大づめ。面白い例文がいっぱいいっぱい出てきますよ。あの有名な方も特別出演。誰のこと? それは読んでのお楽しみ。はい、今回は戸田山さん、原稿も絵もきっちり〆切どおりにくれましたよ~。すんばらしいですね。気合入ってますねえ。それでは、みなさんもカシコクなってくださいね。

そのツッコミ、有効ですか?

 「論理的によく考える・書く・話す」ということを、前回は次のように定義した。

 つねに自分の思考・主張にできるだけ強いサポートを与えることに気を配りながら、思考や文をつなげていくこと

 「強いサポート」というのはなんだったっけ。ツッコミの入れにくいサポートのことだ。で、ツッコむとはどういうことか。サポート部分が成り立つが主張・結論部分は成り立たないケースを指摘することだった。ただし、そのサポートは同語反復であってはならない。同語反復というのは「ほにゃららだからほにゃららだ」という具合に、サポート部分と主張・結論部分が同じになっている場合だ。こういうとき、「サポート部分が成り立つのに主張・結論部分は成り立たないケース」なんてありえない。だからツッコミは入れられない。だけど、ぜんぜん主張をサポートしたことになっていないのは明らか。
 ここまでが前回の復習だ。今回はサポートとツッコミが具体的にどういうことなのかをもうちょっと掘り下げることから始めよう。
 次のやりとりを見てほしい。AくんとBくんの家の近所においしいラーメン屋があって、おじいさんが一人で切り盛りしている。二人ともその店をとてもひいきにしていたとしよう。そこである日の会話。

 A:あのラーメン屋、廃業したぞ。
 B:え、なんで?
 A:さっき通りかかったら、店の扉に「店主体調不良のため3月20日をもって閉店しました」って張り紙がしてあったんだ。
 B:ああ、そうなのか。あそこはうまかったのに、残念だな。

 Bは「なんで?」と尋ねているけど、これはラーメン屋が廃業したのはなぜかを問うているのではない。そのラーメン屋が廃業したとAが判断・主張する、その根拠・理由を尋ねているんだ(と、Aは思った)。つまり、なんでお前はそう思うんだ、と問うているのね。Aに、主張をサポートしろよ、と要求している。それにこたえて、Aは張り紙があったことを根拠としてあげている。最初の発言をサポートしたわけだ。
 こんな風にして、二人して論理的思考をしていると言っていいだろう。で、Bは納得した。Aのあげた理由で十分だ、それで十分に強いサポートになっていますよ、と思った。「3月20日をもって閉店しました」って張り紙がしてあるんなら、廃業したと考えてよかろう、というわけだ。
 ここで、「3月20日で閉店という張り紙があったからといって、廃業したとは限らないぞ、店主の冗談かもしれないじゃないか」とツッコもうと思えばツッコめるということに注意しよう。でもBはそれをしなかった。そういうツッコミもありうるけど、この際は言いっこなしだ、そんなツッコミはヘリクツだ、やりすぎだ、場違いだと判断したわけだね。
 このことからわかるのは次のことだ。サポートが強いというのは、「なるべくツッコミが入らない」ということだと言ったけど、それは「考えられる限りのどんなツッコミも入らない」という意味ではない。その状況で適切な「有効なツッコミ」はない、ということを意味する。で、何が適切で有効なツッコミになるのか、というのはいちがいに決められない。対話の参加者がどういう人か、どういうことがらについて、何を目指して話をしているのか(あるいは考えているのか)に左右される。かりにこの会話がエイプリルフールになされたもので、二人とも店のおやじが冗談好きだということを知っている、という状況なら、さっきのツッコミは適切で有効なツッコミになるかもしれない。
 いっけん、サポートのあるなし、ツッコミが有効か否かが、きっぱりと決まっているように思える数学の世界にも、じつは似たようなことが当てはまる。数学の一部には、こういう流派がある。「しかじかかくかくの条件を満たす数がある」と主張するためには、じっさいにそういう条件を満たす数を見つけ出すか、見つけるための手続きを示すかしないといけない、という流派だ。こういう流派にとっては、「そういう条件を満たす数が存在しないと仮定すると、矛盾が生じる。だから(いくつかは知らないけど)そういう数は存在する」という証明は、証明にならない。その数を見つけたわけではないからだ。
 でも、大部分の数学者は「ないと仮定すると矛盾が生じるからあるんでしょ」という証明(この証明のしかたを「背理法<はいりほう>」という)でも、存在を主張するための十分なサポートになっていると考えている。ということは数学での「サポート」も、相手によりけりだということになる。

イラスト1

サポートが有効かどうかは人によって異なる

根拠が間違っているばあい、どうする?

 さっきの会話の続きを想像してみよう。AとBは話をしながら、くだんのラーメン屋の前を通りかかった。たしかに張り紙がしてある。そこで、読んでみると、「店主体調不良のため3月30日まで閉店します」と書いてあった。おい。廃業してないじゃん。一時休業じゃないか。Aは日にちを間違えた上に、店のおやじが高齢なものだから、てっきり廃業したと思って、「まで」を「をもって」と読み違えていたのだ。
 さてこのとき、Aの主張へのサポートはどうなるだろう。Aの主張は「根拠なし」ということになるんじゃなかろうか。ということは、主張がサポートされたものであるためには、根拠と主張との「サポート関係」にツッコミを入れにくい、だけじゃダメみたいだ。その根拠そのものが正しくないといけない、ということだ。そこで、「強いサポート」の定義を次のように修正しよう。

 「強いサポート」とは、
 (1)主張と証拠の間のサポート関係に適切で有効なツッコミを入れることができず、なおかつ (2)証拠がそれじたい正しい、ようなサポート
 のことである

 これって考えてみれば当たり前のことだよね。正しくない(ことがわかった)根拠を使っても、サポートしたことにはならない。

奈良県ケースと栃木県ケース

 そうすると、主張にサポートがなくなってしまうのは、(1)主張と証拠の間のサポート関係がツッコミどころ満載か、(2)そもそも証拠に挙げられたことがらに間違いが含まれているか、(1)と(2)の両方、という場合になる。
 たとえば、

 ──それ食べちゃダメ!(主張)
 ──なんで?
 ──だって、それベニテングタケでしょ。ベニテングタケって有名なドクキノコだよ。(二つ合わせて証拠)

 「それ」が本当にベニテングタケで、ベニテングタケが本当にドクキノコなら、それを食べちゃダメだろう。だから、この証拠と主張のサポート関係には「適切なツッコミどころ」は(常識的に考えて)ない。でも、「それ」と指さされているキノコが、じつはベニテングタケではなかったなら、食べちゃダメという主張はサポートされていない。これは(2)のケースになる。
 次の例はどうかな。

 ──栃木県の県庁所在地は栃木市だよね。
 ──なんでそう思うの?
 ──だって、青森県の県庁所在地は青森市でしょ。それから、千葉県のは千葉市でしょ。

 この場合、証拠とされているものは、どちらも正しい。青森県庁は青森市にあるし、千葉県庁は千葉市にある。だけど、証拠と主張のサポート関係には「適切なツッコミどころ」がある。青森県の県庁所在地は青森市であることと、千葉県の県庁所在地が千葉市であることから、栃木県の県庁所在地が栃木市であることは「出てこない」からだ。じっさい、栃木県の県庁は宇都宮市にあって、このことじたいが、言われているサポート関係の反例になっている。
 これは、証拠は正しいことを言っているんだけど、サポート関係にツッコミができる場合にあたる。(1)のケースね。

サポートがあることと結論が正しいことは違う

 注意してもらいたいのは、次の場合だ

 ──奈良県の県庁所在地は奈良市だよね。
 ──なんでそう思うの?
 ──だって、青森県の県庁所在地は青森市でしょ。それから、千葉県のは千葉市でしょ。

 奈良県庁は奈良市にあるので、結論として主張されていることがらじたいは間違いではない。でも、証拠として挙げられていることがらはこの結論をちっともサポートしてはいない。ツッコミはこうなる。
 「たしかに、奈良県の県庁所在地はげんに奈良市だけど、そのことと、青森県と千葉県の話は関係がない。青森県の県庁所在地は青森市で、千葉県の県庁所在地が千葉市であって、でも、奈良県の県庁所在地が別の市、たとえば天理市とか桜井市であるといったケースは十分ありうる話だ。じっさい、島根県とか三重県、石川県、愛知県みたいに、県名と県庁所在地の名前が食い違っている県はたくさんあるよ」
 ツッコミとは「反例」があることを指摘すること、つまり「証拠・根拠が成り立っていて、結論・主張が成り立たない場合」があることを指摘する、ということだ。ここで注意しないといけないのは、この「反例」は、現実にある必要はないということだ。現実には、奈良県の県庁所在地が天理市であるような場合はないけれど、「反例がある」というのは、「それなりの理由があって、反例があると考えることができる」という意味だ。反例は頭の中にあればよい。この場合は、県名と県庁所在地の名前が食い違っている県がいろいろある、というのが「それなりの理由」になっている。だから、もし県名と県庁所在地名は同じでなければならないという法律があるなら、県名と県庁所在地の名前が食い違っているケースというのは、法律上「ありえない」ことになり、まともな反例ではなくなる。

4つのケースがぜんぶある

 わかってほしいのは、結論がたまたま当たっているということと、証拠にちゃんとサポートがなされているのは違う、ということだ。次の4つの場合がぜんぶある。

 a) 結論が証拠にサポートされていて、しかも正しい
 b) 結論が証拠にサポートされていたが結果的に正しくなかった
 c) 結論が証拠にサポートされていないのに、たまたま正しい
 d) 結論が証拠にサポートされていず、しかも正しくない

 a)だといいね。b)の典型例は、証拠がちゃんとあるので一時期信じられていたけど、後になってみて間違いだとわかった科学上の仮説だ。たとえば、そうねえ。生物の種は変化しない、というのはどうだろう。その後、進化論が広く受け入れられるようになって、間違いだということがわかった。これは一八世紀まで、科学上の大発見とみなされていた。そしてそれをサポートする証拠もたくさんあった。いろんなかけあわせの実験をしてみても、そう簡単に新種が生じることはなかったからだ。しかし、種は変わらないという説は、進化論にやっつけられた、キリスト教の古くさい迷信みたく扱われることがあるけど、そうじゃないんだ。
 c)は、さっきの奈良県の例だね。こういうのを「まぐれ当たり」という。d)は、栃木県の例。この実例は世の中にあふれている。残念ながら。証拠もなく、おそらく正しくもないことがどれだけ声高に叫ばれているか。ちょっと考えただけで絶望的な気分になるよね。

なぜビッグバンがあったと言えるんだろう?

 というわけで、たんに証拠が挙げてあるだけでは不十分で、「正しい証拠」でなければならないというわけだが、ここで一つの疑問がわいてくる。自分が挙げた証拠が正しいってどうやってわかるんだろう。もっと一般に、証拠に限らず、何かあることがら(言ってることとか思いとか文とか)が正しいってどうやってわかるのだろう。このことを考え出すとけっこうやっかいなことになる。
 というのも、あることがらが正しいかどうかは、そのとき直接にはわからないことが多いからだ。ルヴェリエは火星の内側にもう一つ惑星があるという仮説を正しいと思っていた。その証拠もあった。そのときは有効なツッコミも出てこなかった。にもかかわらず、ずっとあとになって、その仮説は正しくないということがわかった。
 AくんもBくんも会話をしているときには、ラーメン屋の入り口に廃業を伝える張り紙が貼ってあると思っていた。それは正しい証拠で、サポート関係にツッコミどころもなく、だから廃業したのも正しいと思っていた。でも、店先には違う張り紙が貼ってあった。証拠は正しくなかった。でも、会話をしているそのときには、正しいかどうかは、本当のところわからない。
 さらに、正しいかどうかは、直接にはわからないことが多い。直接にわかるときもある。店先まで行って、二人の目で張り紙を実際に見てみれば、廃業を伝える張り紙が貼ってあるというのが正しいかどうかは、じかにわかると言ってよいかもしれない。

イラスト2

 だけど、すべてのことがらがそうであるわけではない。ビッグバンがあったということ、生きものが進化すること、物質が原子でできていて、その原子も原子核と電子でできているということ。わたしは、こういったことは正しいと思う。しかし、それが正しいことを直接確かめたわけではない。目の前で生物が進化するところを見たわけでもないし、ビッグバンに立ち会ったわけでもない。それが正しいと思ってよさそうだと判断するための十分なサポートをもっているから、それが正しいと考えている、ということだ。
 ビッグバンの場合だったら、いま、遠い宇宙を観測すると、遠くの星ほど地球からすごいスピードで遠ざかっていると解釈できる証拠が手に入る(この証拠はいま、手に入る)。宇宙は膨張しているらしい。ここから逆にさかのぼって考えると、ずっと昔には宇宙は、ほとんど点のように小さなものから始まったと推論できる。これがビッグバンだ。いまできる宇宙観測の結果が、ずっと昔で直接確かめられないビッグバンの存在を証拠立ててサポートしている。
 十分なサポートを集めることは、わたしたちが頑張ればできる。この世の目に見えないところとか、遠い過去とか、すごく時間のかかることとか、ミクロの世界がどうなっているかとかについて知ろうとしている科学者は、そのサポート集めをやっている。でも、その結果、わたしたちが信じるようになったことが、結果的に正しいかどうかは、わたしたちの努力だけでは決まらない。けっきょくこの世がどうなっているかで決まる。原子が原子核と電子でできていなかったら、そう思うことにどんなによいサポートがあったとしても、わたしたちの思っていたことは間違いになってしまう。そしてこの世界がどうなっているかは、わたしたちにどうすることもできない。
 というわけで、わたしたちにどうにかなるのは、できるだけよくサポートされたことがらを信じるようにすることだけだ。わたしが、神が生きものをいまある形につくったとは考えずに、生きものは簡単なものから次第に進化したと考えるのはなぜか。前者が間違いで後者が正しいからではない。後者の方がいろんな意味でよいサポートをもっていて、だから「きっと正しいだろう」と考えることのできる度合いが高いからだ。わたしたちは「よりよいサポート」をめざして、多くの場合それを手にいれることはできるけど、正しさそのものをじかにめざすことはできない。

ちゃんとサポートされたサポートならOKとしておこう

 「強いサポート」であるためには、有効なツッコミが考えられないサポート関係になっているだけではダメで、証拠じたいが正しくなくてはいけない、という話をした。一方で、正しさそのものって、直接にめざすことはできないという話もした。わたしたちにできるのは、きっと正しいんだろうなと、もっと思うことのできるような、より強いサポートを与えることだけだ。
 この3つの話を合わせるとこうなる。サポートには正しい証拠を使わないといけないが、自分がサポートのために使おうとしている証拠が、本当に正しいのかどうかはすぐにはわからない。また、自分はそれが正しいと確信していても、相手も正しいと認めてくれるかどうかはわからない。だとすると、「サポートには正しい証拠を使え」という命令に、じかに従うことはできない相談だ。どうしよう。
 解決法がある。自分にも相手にも、より正しそうだと思ってもらえるような証拠を使うんだ。つまり、ちゃんとサポートされた証拠だ。

じぇじぇっ!のCちゃん登場

 というわけで、主張をサポートするために、証拠を使うわけだけど、その証拠じたいもサポートされている必要がある。つまり、証拠にも証拠がないといけない。
 ラーメン屋廃業問題についての別の会話を想像してみよう。こんどはAくんとCさんの会話だ。ただし、CさんはBくんに比べて、やや疑り深い、もしくはラーメン愛が強く、どうしても廃業したと信じたくないとしよう。

 A:あのラーメン屋、廃業したぞ。
 C:じぇじぇっ、なんで? (じぇじぇって古いが、思わずこう言ってしまったところに彼女の衝撃の大きさがあらわれている)
 A:さっき通りかかったら、店の扉に「店主体調不良のため3月20日をもって閉店しました」って張り紙がしてあったんだ。
 C:でも、ちゃんと張り紙にそう書いてあったの? 見間違えとか。ちゃんと見た?
 A:ちゃんと見たよ。昼間で明るかったし、メガネもかけてたし。
 C:でもでも、明るくって視力がちゃんとしてても見間違えってあるでしょ。そうだ、Aくん、酔っぱらってたんでしょ。
 A:酔っぱらってなんかないって。昼から酒なんか飲むか。
 C:でもでもでも、酔っぱらいにかぎって自分は酔ってないとか飲んでないとか言うじゃない。ホントに「しらふ」だったって証拠ある?
 A:そんなこと言ったって……おとといも昨日も一滴も飲んでないってちゃんと覚えてるし……
 C:だーかーらー飲んだのに飲んでない記憶があるというのが酔っぱらってたってことなの。Aくん、ゆうべは飲みすぎてどうやってうちに帰ったのかぜんぜん覚えていない、ってよく言ってたじゃない。

 いくらでも続けられるけど、原稿料稼ぎと思われるとシャクだからこのへんでやめておいて、二人が何をやっているかを考えてみよう。「じぇじぇっ」の後ろで、CはAの主張にサポートを出せ、と言っている。ここはBのやったことと同じ。それに対してAは証拠を述べている(張り紙に書いてあったこと)。ここもさっきと同じ。
 違ってくるのは「でも」からだ。Cは見間違えの可能性を指摘している。これは、張り紙に本当に「店主体調不良のため3月20日をもって閉店しました」と書いてあったとどうして言えるのか、証拠を出せと要求していることになる。これに答えてAは、明るいところでメガネをかけて見たので、見間違えはなく、ちゃんと「閉店した」と書いてあった、と証拠を与えている。つまり、

 見間違えはない(主張)
 なぜなら 明るいところでメガネをかけて見たからだ(根拠)

 というサポート関係を与えようとしている。
 「でもでも」でCがやっているのは、このサポート関係に反例を指摘してツッコミを入れるということだ。その反例は、Aが酔っていたかもしれないというケースだ。このとき「明るいところでメガネをかけて見た」が成り立っていたとしても、「見間違えなし」のほうは成り立っていないということになる。そうすると、Aはその反例は現実のケースではないと言わないといけない。というわけで、酔っていたわけではない、と主張する。
 それに対して「でもでもでも」でCは、酔っていなかった証拠があるの、と問うている。酔ってなかったという主張をサポートしなさい、と言っている。Aは「昨日も一昨日も飲んでいないと記憶している」と証拠を挙げている。つまり、

 酔っていなかった(主張)
 なぜなら お酒を飲まなかったと覚えているからだ(根拠)

 Cはこれに対して、さらにツッコミを入れる。それが「だーかーらー」だ。反例は、お酒を飲みすぎて記憶が変わってしまった可能性だ。お酒は飲んでないという記憶があるのに、じつはひどく酔っていたということがあるでしょ、というわけ。
 こんな風にして、証拠にサポートが与えられると、それにツッコミを入れたり、その証拠の証拠にサポートをさらに求める、という具合に続いていく。

イラスト3

「激辛カレー」ケースと「国家試験」ケース

 理屈の上では、サポートへのサポートへのサポート……、あるいは証拠の証拠の証拠……はいくらでも続いてしまう。でも現実にはどこかで止まる。どうしてだろう。二人が、「これは十分なサポートと言っていいだろう」とか、「これ以上ツッコミをいれても、もうそれは適切ではなくなるよね」といった合意に達するからだ。AとBはかなり早いうちに合意に達した。AとCだって、そのうちに合意に達するだろう。あるいはどっちかがキレるだろう。
 次の二組の対話を見てみよう。

 D:あの店でカレー1年間無料パスをもらった人がいるってよ。
 E:ウソだろ。
 D:ウソじゃないって。あの店ではメガ盛り激辛カレー3キロを10分で完食するともれなく1年間無料パスがもらえるんだぜ。

 (二人の医師志望の学生の会話。医師国家試験って、ちょっと見たけどほんと難しそうだよね。問題も多いし、覚えなきゃいけないことは山のようにあるし……とか話した後に)
 F: 大丈夫だって。国家試験に合格した人はたくさんいるんだから。
 G:それって、なんか信じられない話だよね。
 F:考えてみろよ。日本のお医者さんは全員国家試験に合格しているんだぜ。

 2つの対話を、論拠・根拠→主張・結論の形に書き換えてサポート関係をはっきりさせてみよう。次のようになる。

 (1)あの店でメガ盛り激辛カレー3キロを10分で完食した人は全員1年間無料パスがもらえる(論拠・根拠)
 だから あの店でカレー1年間無料パスをもらった人がいる(主張・結論)

 (2)日本でお医者さんをやっている人は全員医師国家試験に合格した(論拠・根拠)
 だから 医師国家試験に合格した人がいる(主張・結論)

 このように書いてみると、二つのやりとりは同じ形をしていることに気づくだろう。つまり、

 (3)しかじかな人は全員ほにゃららだ だから ほにゃららな人がいる

 同じ形をしているんだけど、二つのやりとりがそのあと同じように進むとは限らない。DとEに会話を続けてもらおう。

 D:ウソじゃないって。あの店ではメガ盛り激辛カレー3キロを10分で完食するともれなく1年間無料パスがもらえるんだぜ。
 E:だけど、そんな量を完食できた人がいるのかよ。
 D:そういや、そんな化け物みたいな胃袋の持ち主って、そうそういそうにないね。
 E:だろ?

 Eは何をやったことになるんだろう。(1)に示したサポート関係にツッコミを入れたのである。つまり反例があるよ、と言っている。それが、あの店でメガ盛りを完食できた人がいないかも、というケースだ。
 このケースでは、(1)の論拠・根拠は成り立っている、と言っていいだろう。あの店にはそういう決まりがあるんだから。だけど、完食できた人がいない場合、主張・結論は成り立たない。まだ、完食に成功して無料パスをもらった人はいない。だからまだキャンペーンを続けているんだろうね。論拠・根拠は成り立つのに、主張・結論は成り立たない。これが反例だった。EはDに反例を示してツッコミをおこなった。Dはそのツッコミが有効なツッコミだと認めたので、最初の主張をひっこめた。
 国家試験についての会話で、同じことが起こるだろうか。つまり、次のように会話が続くことがあるだろうか。

 F:考えてみろよ。日本のお医者さんは全員国家試験に合格しているんだぜ。
 G:だけど、日本に医者っていたっけ?
 F:そういや見たことないなあ。

 これはかなりシュールな会話ですよ。Gがやっているのは、Eと同じ。(2)に示したサポート関係には反例があるよとツッコミを入れたんだ。でもそのツッコミは有効なツッコミではない。だから、現実にはそのツッコミをFが受け入れることはないだろうし、そもそもGもそんなツッコミはしようとしないだろう。
 どこに違いがあるんだろう。カレー屋の話の場合、メガ盛り激辛カレー3キロを10分で完食した人がいるかいないかは二人ともわからない。だから、そういう人はいないかも、というのがまともな反例になる。これに対して、国家試験の話の場合、日本に医者がいる、というのは常識だ。二人ともそのことを十分にわきまえている。当たり前のことだと思っている。だから、日本に医者がいない可能性は、二人の頭の中にない。無理して想像することはできるかもしれないけど、いまの話題の中でまともにとりあげるべき反例とはみなされない。
 というわけで、サポートが十分かどうか、それ以上のツッコミが有効かどうかについて、どこで合意に達するかはあらかじめ決まったルールはない。それらもやはり、対話の参加者がどういう人か、どういうことがらについて、何を目指して話をしているのか、参加者がそれぞれ何を知っているのかに左右される。
 こうして、どうすれば論理的に考えた(対話した)ことになるのかの具体的な基準は、思考や対話を取り巻く状況、とりわけそれをおこなっているひとたちの共通知識に左右される、ということがわかった。

無理やりツッコミを強行するとどうなるか

 「日本に医者っていたっけ?」というGのツッコミについてもう少し考える。二人とも日本に医師がいるということは疑いようのない常識だと思っているので、これを指摘しても有効なツッコミにはならない、と述べた。でも、それを承知でわざわざこの発言をするとどうなるか。
 会話は論理的なやりとりではない何かになっていくのである。話し手が当たり前だと思っていて、聞き手もそう思っているだろうようなことをわざわざ言ったり、疑ったり、とにかく話題に登らせると、聞き手は次のように考える。

 なぜこの人はこんな分かりきったことをわざわざ言うのだろう(わざわざ疑問に付すのだろう)。文字通りのことを言いたい(尋ねたい)わけではないな。だって二人ともそれはよく知っているんだから。ということは、何か違うことを言いたいんだな。それは何だろう。

 そうすると、次のように会話が進みそうだ。

 G:だけど、日本に医者っていたっけ?
 F:そういや、医師の名にほんとうに値する立派な人ってほとんどいないよね。

 これは「皮肉」とか「あてこすり」という。この場合は日本の医師の質について皮肉を言って二人でウサを晴らしているんだけど、そうなるともかぎらない。

 G:だけど、日本に医者っていたっけ?
 F:なんだと、当たり前じゃないか。オレだってそのくらいはわかるよ。あまり人をバカにするのもいい加減にしてほしいな。

 これは、話し相手を皮肉っていると解釈されてしまったんだね。
 というわけで、サポートを要求したり、サポート関係にツッコミを入れるのをどこでやめるか、ってけっこう大事なのだ。やめどきを間違えてそれを続けてしまうと、論理的なやりとりからそれていってしまう。論理的思考の技術には、どういうときに論理的思考をやめるかをうまく判断するということも含まれるわけだ。

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プロフィール

戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。発行部数24万部突破のロングセラー『論文の教室』、入門書の定番中の定番『科学哲学の冒険』などの著書がある、科学哲学専攻の名古屋大学情報学研究科教授。哲学と科学のシームレス化を目指して奮闘努力のかたわら、夜な夜なDVD鑑賞にいそしむ大のホラー映画好き。2014年には『哲学入門』というスゴいタイトルの本を上梓しました。そのほかの著書に、『論理学をつくる』『知識の哲学』『「科学的思考」のレッスン』『科学的実在論を擁護する』『恐怖の哲学』など。

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