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百坪宇宙から脱して大自然へ――「熊本かわりばんこ」#23〔阿蘇へのドライブ、父のこと〕吉本由美

  長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。


阿蘇へのドライブ、父のこと

 道路の除雪や屋根の雪下ろし、度重なる停電や断水の対応など北国の皆さんのご苦労に比すれば“雀の涙”ほどでしかないけれども、ここ熊本も寒い日が続いている。水道管の凍結防止や万が一破裂した場合の処置、窓・床の防寒対策にいつも以上に取り組んでいたが、最低気温がマイナス6度まで下がった先日は驚いた。夜に外猫たちの寝床に入れていた24時間持続のカイロが朝には冷たくなっていて、彼らの飲み水を入れたボウルも凍っていたのだ。マイナス4度になったことはこれまでにも幾度かあり、そのときのボウルの状態は表面がうっすらと凍ったくらいだったが、今回はガチガチに凍りついて叩いても逆さにしても雫一滴流れ出ない。それでは使えないのでお湯をかけると「カッポン」という音を立ててボウルの形で転がり出た。そしてそれはそのままマイナス4度の翌朝も溶けずに庭の隅にあり、改めて寒波の威力を思い知った。熊本でこんなでは東北、北海道の朝はどこまで凍りついているのだろうか。

 寒さが募るといつも心を占めるのは外で暮らす猫たちのことだ。テレビで北国のニュースを見るたびその地の外猫たちの過酷な状況を思い描いては気が塞ぐ。彼らに比べれば寒波といえども九州の我が家の庭猫、車庫猫などはハウスもあるし恵まれていると思う。思うけれども、室内のストーブの前でぬくぬくと眠りこけている室内猫の幸せそうな様子をガラス戸の外からじーっと見詰めている彼らを見たら、なんとしてでも暖かい寝床を作ってあげるぞと思うしかなく、カイロ三昧の日々となる。

 外猫は4匹いるから少なくとも毎日4つはカイロを使う。寒さが強まればそれプラス4つで1日8つも消費する。カイロは10個入りで270円ほどだから人がスポーツ観戦やスキー場などで使う程度ならお安いものだが、日に8つ、それも毎日消費するとなるとかなりの金額で家計に響くし、まとめ買いして自転車で持ち帰るのも重くて年寄りにはつらい。室内猫だけとの暮らしのときは思いもしなかった苦労である。暑いのより断然寒い方が好きなので以前は冬を楽しんでいたが、凍結防止策、寒風阻止策、カイロの大量消費などを思うと近頃は早く春になるように願うばかりになってしまった。

 実家は百坪の敷地に前庭、家屋、裏庭がある。11年前この家に戻って来てからの私の日常は、スーパーや病院へ行く以外はだいたいこの百坪の敷地内で営まれている。街へ出かけたり人に会ったりすることもあるがそれはほんのときたまで、月に3度もあったら多いくらいだ。人と喋ることは少ないが毎日猫と喋っているので寂しくはない。独り言も多いので声嗄れの心配もない。家の中の仕事に奔走したら外でやる仕事が待っているからくさっているヒマもない。

 ただ、家の中ばかりにいると息苦しくなるので日に一度くらいは庭に出る。手入れ不行き届きの大したことはない庭だが、塀の外をぐるり見回せばご近所という外界があり、見上げれば空という広い世界があり、地面のあちらこちらには様々な命が息づき、それらと共に生きているありふれた小さな塵のような存在である自分を感じて心がさわさわ広がっていく。

 庭では木に喋りかける。木も喋りかけられるのを待っているような気がする。去年植えてまだひょろひょろの白梅には、元気かい? おお、芽が出てきたね、蕾も付いたね、と毎日言う。だからか少しずつだが蕾が膨らんできた。死にかけていたアメリカン・チェリーの小木は2年間励ましを受け続け去年の春花を付けた。秋には美しい紅葉を見せ、今は葉を落とし新しい芽を付けている。今年はもしかしたら結実するかもしれない。一度は強風で倒れ友だちの手でガードをばっちり添えられて立ち直ったミモザの木にも、日々「強くなれ」と声かけしていたら見たこともない立派な大木となった。まだ寒いのに今にも花を咲かせそうな勢いで恐ろしいくらいだ。早くも分けてほしいという声が3つも届いて春を待っている。

大きく育ったミモザ

 先の12月、枯れるまでほったらかしていた雑草を完膚なきまでに抜いたら(剝がしたと言う方が当たっているが)、去年までこの庭では見たことのなかった草たちが顔を出し始めた。名前がわからなかったのでGoogleレンズで調べた。去年はヒメオドリコソウが群れていたサルスベリの木の下に群生しているのはツタバイヌノフグリ、ジューンベリーの根元に広がっているのはチゴフウロ、イチジクの木の下でぷっくり膨らんでいるのはヒメフウロ、猫のお便所そばで繁殖しているのはカキオドシ、と判明。わかりはしても不思議である。種が風に乗って飛んできたか鳥に運ばれたかして根を付けたと思うが、突然どこから? と首をひねる。ここらへんに雑草の茂る場所などないし、庭はあるにしても野趣あふれる庭というのは我が家くらいで、皆よく手入れされ雑草など生えようもない小綺麗な庭ばかりだから。さらに不思議なのは、隠れたトゲトゲで人の手や猫の足をいじめていたメリケントキンソウがそれらの新顔に駆逐されたかのように姿を消し、春ともなれば陣地拡幅止むことなしだったカタバミ、オオバコ、ハコベ、ナズナ、タンポポ、そしてチチコグサとハルジオンのロゼット(越冬のために平らに広がった状態)も、消えたか縮小してしまった。まるで新旧交代の人事異動であるかのようで、不思議でならない。

群生するツタバイヌノフグリ

 枯れ草を抜いて地面が柔らかくなると猫のお便所がやたらと広がる。あっちこっちを掘り返し、超いい気分で用を足している。すると掘り返された土を目がけて鳥たちが虫を食べに来るようになった。30羽ほどの雀の集団は猫が用を足し終えるまで隣の屋根に並んで見ていて、終わるや否やザーッと舞い降り地面をつつき回る。それを名ハンターのミケコが隠れて狙っている。たまにその犠牲となってテラスに運ばれてくる雀もいる。メジロもヒヨドリも運ばれてきた。危険に敏感な彼らでさえ捕らえられるのだから自分のことしか考えられずにいい気になってチキチキしているジョウビタキやハクセキレイはさらに危険だ。彼らがいるときは、私が外に出てミケコを見張る。

庭の土をほじくる外猫のマミ

 こんな日々を続けているとやることのみならず思考も身の回りのささやかなことばかりで、どこかしら世の中の動きから取り残されているような、ズレてしまっているような気がしてくる。久子さんのようにたくさん本を読むわけでもないので頭に新しい風が吹くこともなく、テレビの中で賢げなドコソコ大学教授の男やナントカ研究所の女が喋っている内容が近頃は理解できなくなってしまった。つまり思考停止の状態だ。これではいかん、と思うけれど、では、どうすればいいのかとなるとさっぱり答えが出てこない。車があったらいろんなところに気楽に出かけられ少しは頭の中が刷新できそうな気もするが、車のいらない東京暮らしに免許も取らずに生きてきて70幾つとなった今取る気にはならない。たとえ取ったにしてもすぐに返納となるだろうし。

 熊本では、というか大都会以外の地方はどこでも同じと思うが、車のあるなしで生活の質がかなり変わる。自由が手に入らない不便さがある。雨の日、雪の日、強風の日、なんぞは気楽に買い物にも行けない。頻繁にやってくる大都会とは違って地方の公共交通は本数が限られ待ち時間が長く、どこかに行きたくてもバスや電車では面倒この上なしとなる。年を取ったら尚更だ。年を取ったらタクシー利用が一番だと人(特に私の義姉)は言うが、年がら年中タクシー利用というのも気が進まない。

 こういうことを考えていて、そうか、自分はドライブをしたいのだったか、と思い至った。何か行き詰まった気分になるのは、このところ百坪宇宙の外の世界を眺めていないからだと。ドライブなんて、確か4年前、大分県日田市の映画館「日田リベルテ」の館長・原茂樹くんに霧島にある美術館「霧島アートの森」へ連れて行ってもらって以来ないんじゃないか。いや、そういえば1年前、お好み焼きをお呼ばれに写真家・野中元さんと料理家かるべけいこさんの阿蘇のお宅に伺ったのだった。「九州の食卓」で私の編集担当者を務めていた三星舞さんのミニクーパーで連れて行ってもらったのだ。帰りに阿蘇をぐるぐると走ってくれた。そうだ、そうだ、熊本地震で崩落し5年も不通となっていて、ついその数ヶ月前開通したという新阿蘇大橋を渡ったではないか、とスマホのアルバムを探したら、新阿蘇大橋の景観のカットがあった。

阿蘇の山中(上)と新阿蘇大橋(下)

 阿蘇へのドライブといえば父とよく行った。熊本に帰ると阿蘇に行きたくなる……熊本人は皆そうらしく、私も父が元気なときはそれが当然と思っていた。父も根っからのドライブ好きなので私が言い出さなくても帰郷したら既に行くことは決まっていた。絶景の大観峰へ、阿蘇山上へ、ススキが原へ、コスモス畑へ。その年々で行き先は変わった。北外輪山から阿蘇の千枚田と言われる阿蘇谷を遠望したり、草原に寝転んだり、湧水を見に行ったり、じゅう連山を眺めたり、と魅惑的な行き先は限りなくあった。

 中でも産山村うぶやまむらへ行く途中のススキの群生する光景はこの世のものとは思えなかった。それはある日の夕方だった。辺り一面夕陽がススキを染めて金色に輝かせていた。その輝きは神々しくて目が潰れそうだった。道と空との境界が曖昧になり、このまま天空へ登っていくようだった。少し前に読んだ石牟礼道子の短編「ゆり」に出てくる道はここのことではないかと思うほどに幻想的な瞬間だった。ススキの草原については山頭火もあの有名な「分け入っても分け入っても青い山」のほかに「すすきのひかりさえぎるものなし」と詠んでいる。その句が好きで覚えていたので助手席でそう叫ぶと、運転中の父が驚いてこちらを向いた。そのねずみ男のような顔も忘れられない。面白くて大笑いした。たぶん私の生涯の中で最も素敵なドライブだった。

 そういう父も年と共に運転がおぼつかなくなり、80代半ば過ぎで免許を返納した。そのきっかけとなったのは2年ぶりに帰ってきた私を熊本空港まで迎えに来てくれたときのことだ。駐車場へ行っても車を停めた場所がわからないのだ。イライラする私に「あった!」と言って指し示す父の指先を目で追うと、ボンネットにトイレ掃除のスポイト式ラバーカップがくっついている車があった。うちの車だ。当然ながら「どうしたの!?」と訊く。父は苦笑いするように「停めたところがすぐわかるよう、目印たい」と答える。目印に、と言ってもコレはないでしょ、と思ったがとにかく乗って家に向かった。

 するといつもとは異なる道を走る。心配になって「違うんじゃない?」と問えば「新しく開発したルート」と言う。けれどどんどん見知らぬ区域に入り、とうとう「迷ってしもた」と白状した。なんとか元に戻りいつもの道を進んだが、パニックになっていたらしく今度は車庫入れができない。10回ほどやり直したか、外は暗くなり、「天ぷらを揚げていたのに冷めてしまった」と母は文句を言い、イライラ続きの私は「ボケたんじゃないの?」と酷い言葉を投げつけてさらに父を落ち込ませてしまった。

 それが響いたのか翌日のドライブは大変なことになる。阿蘇を縦断して湯布院で遊ぼうという計画だったらしく、朝早く出発した。熊本市内の住宅地から湯布院までどのくらいの時間を要したのか、もう覚えていないが、年寄りの日帰りドライブとしてはかなり危ない計画だったと思う。何度も確かめたが「大丈夫ですよ! うるさかね」と怒り始めるので従うしかなかった。湯布院でもあちこちへ案内してくれ、美味しいものを食べ、ひと風呂浴びてくつろいでいると外はもう暗い。ついさっきまで明るかったのに秋の日はつる落としだ。慌てて帰路に就くことになった。

 父も焦っているらしくいつも以上にスピードを出している。やまなみハイウェイをぶっ飛ばし、長く続くミルクロードに出ると真っ暗(そりゃそうだ、そこは牛の放牧地でもある)だったがスピードは緩めないのである。車のヘッドライトしか明かりがないので怖くなり「お父さん、ゆっくりね」「スピード出し過ぎ」「カーブには気をつけて」と助手席で注意していたが、「うん、うん」「わかった、わかった」と答えるだけで一向にスピードを落とさない。ついに、とうとう、車は上手に曲がりきれずに左へグイ〜ンとスピンしたかと思うとすごい音を立てガードレールにぶつかった。一瞬目の前が真っ暗になる。気づいて周りを見れば私の座っている助手席のドアの先は断崖絶壁であるらしく、暗くて何も見えない。父はハンドルを持ったままガタガタ震え呆然と前を見ている。「怪我してない?」と訊くと「大丈夫」という返事が聞こえた。後ろの席で母も震えていた。大丈夫かと訊くと蚊の鳴くような声で大丈夫と答え「事故ね?」と言う。そうだ、と答えて父を外へ出し、私も降りて車を見た。左側の前面がガードレールにぶつかりひしゃげていた。ライトも割れてもう使い物にならない。近くに緊急電話があるとは思えないし、どうしたらいいのか途方に暮れた。とにかく真っ暗なのである。それが不安を増長させる。時計を見ると夜の8時近くだった。25年も前の話だ。今のような携帯電話もなく、どこにも連絡できなかった。

 霧が出てきたので父を車の中に入れ、道路に出てどこぞの車が通らないかと目を光らせた。5分、10分、15分過ぎ、さらに霧が濃くなり体も深々と冷えてきた。20分、25分、30分、経つと左手の遠くの方にぼんやりとライトが見えて、それが少しずつ近づいてくる。霧の中のその光景は映画「シャイニング」を思い起こさせ恐ろしかったが、一縷の助かる望みと思えば何のこれしきと道の真ん中に飛び出して、両足踏ん張りマフラーをぐるぐる回した。ライトがすぐ目の前に来て車は止まった。ジープだった。

 中から降りてきた人はスーツ姿の中年男性で逞しそうな体格をしていた。落ち着いて事故の状況を聞き取るとジープのドアを開けて中からショルダーフォンを取り出し、父と母の体調を訊ねた。まず救急車に連絡を、と思ったのだろう。ショルダーフォンは「自動車電話」とも呼ばれ通常運転席の横に置き、肩に掛けて持ち運びもする。ロケバスに設置されていたので使ってみたことがあるが中型の猫ほどの重さ。持ち歩くのは不便だった。男性は救急車には連絡せず、警察、ロードサービス、タクシー会社に電話を入れてテキパキと事故内容を伝えてくれた。父と母を落ち着かせ、警察が来たら事故の説明を代わってしてくれ、タクシーが来たら私ら親子を乗せて熊本の住所を告げ送り出してくれた。

 警察が来るまで名刺を交換し少し話したところによると、その人は阿蘇小国町の建設会社の社長さん。熊本市内であった打ち合わせの帰りで家に向かう途中だったとのこと。「仕事でショルダーフォンを使いますがそれが役立って本当に良かった」とおっしゃった。何から何まですみませんと頭を下げると、「いやあ、困ったときの助け合いですよ、気にせんでよかですけんね」と続けられた。ショックと疲労と寒さとで凍りついている両親はタクシーの中でも黙り込み、無言のまま家に着いた。数日後、免許を返納に行くという父に付き添って警察へ行った。大好きなドライブができなくなった父は気力体力共に急激に衰えて、認知症を患う老人となっていった。

 警察が来るまで少し話していたとき「東京でバーテンダーの修業をしてます」と自己紹介すると「僕もウイスキーが好きです。いいですねえ、バーでお仕事されているなんて」と口にした男性に、勤めていたバーにあるものの中で格別美味しいというウイスキーをマスターに選んでもらい謝意として送った。後日「驚きました」というお礼の返事が来て、ウイスキーがいかに美味しかったか綴られたあと「以後はすべてお忘れいただきますよう」と書き添えてあった。

 春は百坪の小さな宇宙を脱出して与那国島まで馬を見に行くのだ、という夢に辿り着く計画で書き始めたのだが、どうにも方向がズレてしまったようだ。予想外の成り行きだったけれど、長いこと忘れていた父の思い出が蘇り、これはこれで楽しい終わり方になった。

(次回は田尻久子さんが綴ります)

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プロフィール

吉本由美(よしもと・ゆみ)
1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『イン・マイ・ライフ』(亜紀書房)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)、『橙が実るまで』(写真・川内倫子/スイッチ・パブリッシング)がある。

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