熊本が誇る「食のオアシス」と「天才クリエイター」――「熊本 かわりばんこ #11〔味噌天神にて〕」吉本由美
新型コロナウイルスに関係する内容の可能性がある記事です。
新型コロナウイルス感染症やコロナワクチンについては、必ず1次情報として厚生労働省首相官邸のウェブサイトなど公的機関で発表されている発生状況やQ&A、相談窓口の情報もご確認ください。※非常時のため、すべての関連記事に本注意書きを一時的に出しています。
見出し画像

熊本が誇る「食のオアシス」と「天才クリエイター」――「熊本 かわりばんこ #11〔味噌天神にて〕」吉本由美

本がひらく
 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。

味噌天神にて

より子さんの笑顔にひかれて

 前回は思い出に耽ってばかりいたためになかなか味噌天神まで辿り着けなかったが、今回は味噌天神からのスタートである。時間と書くスペースはたっぷりある。前回思わせぶりで終わった〈画廊喫茶ジェイ〉についてやっと書ける、と思うと気分浮き浮きである。〈ジェイ〉は市電の電停“味噌天神前”の信号を渡るとすぐそこに見えるが、その前にまずは味噌天神といういっぷう変わった名称の天神様に寄ろう。

 味噌天神……子供の頃はどこにでもあると思っていたこの天神様、大人になり各地を旅するようになってそうではないことに気が付いた。日本各地に天神様は数々あれど、お味噌の名の付く神さまは私の知る限り熊本のここだけだ。信州とか仙台とか名古屋とか、味噌処として名高い地……ではなく熊本で何故(なにゆえ)お味噌を祀るのか? 今は街中だが昔はこの辺りでお味噌を造っていたのか? などの疑問が頭の片隅にありながら、地元に戻って幾歳月、そのままほったらかしていた。味噌天神はうちから速や歩きで15分、自転車ならば7、8分の、近いと言えば近い距離だが、バスや電車が使えない分面倒と言えば面倒な距離でもある。それでもときどき行っていたのは(このあと書くけれど)〈なが田〉での晩酌と美味しく楽しい食事のためであり、夕方のそういう欲望のもとではたとえすぐそばであろうと天神様の境内まで足を延ばすゆとりはなかなか持てずにいたのだ。それで今日まで一度もお参りしたことがない。子供の頃からその名を耳に馴染ませてきた神社に一度も参っていないのだ。しかし今は真っ昼間。晩酌の予定はない。〈ジェイ〉の扉を開ける前に天神様にちょっと参って名前の由来なんぞ調べてみようと思った。

写真1

味噌天神の鳥居

 私の記憶ではもっと古びていたはずだったが、今見る鳥居は新しくやたら元気な姿形だ。こんなだったか? これも九州学院同様6年前の地震で傷つき立て直されたのかもしれない。参道入口に「本村神社 味噌天神宮の由来」という解説板があった。私は普通この手の解説は読まないタイプだが今回は興味津々目を通す。それには、奈良時代の713年(和銅6年)、肥後(熊本)初代国司「道君首名(みちのきみのおびとな)」のとき悪疫が流行。死者が続出し人々を苦しめていた。そこで国司が疫病平癒祈願のためここに神薬の神として「御祖(みそ)天神」を祭祀したところ、まもなく疫病は収まった……とあった。なるほど、そうか、もとは味噌ではなく御祖だったのか。それなら納得がいく。で、そのあと、御祖が味噌に変わるできごとがあったというわけですね。

 続き解説に戻る。741年(天平13年)、聖武天皇の勅令により諸国に国分寺が置かれ、肥後国分寺が出水町(いずみまち/ここより少し東南方面)に建つ。寺の僧侶や信徒は朝夕の食事によく味噌を用い、その味噌蔵がここ「御祖天神」の近くにあった。ある年、多量の味噌が腐敗し困り果てた僧侶たちが「御祖天神」に祈願したところ、神より“境内にある小笹を取り味噌桶の中に立てよ”との思し召し。その通りにしてみると不思議にも実に美味なる味噌に変わった。人々は大喜びしますます信仰を高め、「御祖天神」は「味噌天神」と愛称され、日本国中唯一の味噌の神として広く全国に伝えられた……云々。ああ、なるほど、なるほど、なるほどね。そういうことだったのかと腑に落ちた。

 境内に入るとその中央に名高いわりにはこぢんまりした拝殿が晩秋の陽を浴びひっそりと輝いていた。境内にあるのはこの建物だけだ。私は偉ぶったご立派至極のところよりご利益は少なくてもこのような小さな神社が好きだ。耳を傾けてくれそうな優しい神さまがおられる気がする。ご立派至極のところの神さまは参拝客が多すぎて手が(耳が)回らずに、みんなの願いなどスルーされてるような気がする。まあそれは別の話として、とにかく神社はスモール・イズ・ビューティフルである。まさにここはそういうところ、お味噌の神さまの住まいにふさわしい6畳一間あるかないかの楚々とした社(やしろ)だ。この中には今も小笹を立てたお味噌が祀られているのだろうか、もしそうならそのお味はいったいいかなるものだろうか、などと考えながら手を合わせた。

写真2

 今日の目的地である〈画廊喫茶ジェイ〉は味噌天神の2軒先にある。今年で創業55年という老舗で、熊本地震での被災後しばらく閉めていたのを2年前、古材の再利用などで再開した。再開後も外観・店内ともに以前とほぼ変わりなく、絵も飾られて、相変わらずの落ち着いた雰囲気を醸し出している。この店のオーナーが私より幾つか年上の永田より子さんだ。着物もパンツ・スタイルもよく似合うきれいな人だ。ご近所さん、絵を描く人、何十年も通う常連さん、などが集うこの店を半世紀以上ご主人と二人で営んできたが、再開後は(アルバイトさんがいるにしても)より子さん一人で取り仕切っている。頭に“画廊喫茶”とあるのは絵を描くより子さんの意向で、店内がそのときどきギャラリーとなるからだ。

写真3

 扉を開け「久しぶり~」と顔を覗かせると、「あ、来たねー、待っとったよー」と親しみ溢れる声で迎えてくれた。より子さんのこの“親しみ溢れる声と口調と笑顔”にみんなやられてしまう。それに触れたくてまた来てしまう。より子さんは小柄でキリッとして栗鼠(りす)のお母さんのようにテキパキしている。〈なが田〉の女将でいた頃の白い割烹着姿、〈ジェイ〉での黒いエプロン姿、それにくるっと纏めた銀髪がよく映えて美しい。カウンターに張られた飛沫防止のビニール越しにお喋りする。鬱陶しいが安心でもある。

写真4

「この前くれた本(拙著『イン・マイ・ライフ』)面白かったよ。吉本さんはいろんな仕事してきたとねえ」
「なんでもやりたがりだからね」
「私は一つしか知らんもん、はははは」
「和食屋さんと喫茶店の二つを掛け持ちしてたじゃないの?」
「合わせて一つよ、職種としては」
「でもいいよぉ、あんな可愛いクッちゃんがいるんだから」
「そうね? 可愛いね?」
「可愛い、可愛い、あんな可愛いコは他に知らない。クッちゃん元気にしてる?」
「ああ元気たーい。あの人ね、週に一度はうちに遊びに来らすもん。そのときたまーにね、店にも来るとよ」
 クッちゃんことくるみちゃんはより子さんのお孫さんだ。ここより市電で2駅先に住んでいる。去年4歳だったかな、店に遊びに来た彼女と出会った。お祖母さんの血を引いて小さいながら美女である。そしてダンスが好きでおしゃまで利発である。こんな孫ならいていいな、と、独り好きの私をして初めて思わせたお嬢ちゃんだ。

 メニューにはごくごく当たり前の喫茶店料理が並ぶ。それはたぶん何十年も変わらない顔ぶれで、たぶん味も変わらないと思う。そのことにものすごく郷愁を感じ、かつ安心する。今日はランチセットでナポリタンを頼んだ。ごく普通のナポリタンだがより子さんの手に掛かると「懐かしいっ!」という味に変わる。彼女の料理の腕前は〈なが田〉で充分わかっているので、ごくごく普通の喫茶店料理がどう彼女の味に変わるかに興味が湧くのだ。この前は東京から帰省した弟と来てピラフと焼きうどんを頼んだ。より子さんファンの弟は「すごく当たり前で、でもどこにもない味だよね」と言っていた。もっと頻繁に来店してメニューにある料理を踏破しようと思うのだが、コロナ禍のここ数年、家から出るのに難儀して願いはなかなか叶わない。

〈なが田〉の話

 私がより子さんと知り合ったのは熊本に戻って1年後くらいだから早くも10年が経つけれど、店前を掃いて開店準備をしていた彼女の白い割烹着姿は今も目に鮮やかに残っている。まだ熊本の街がよくわからず女一人でも気楽に入れる食事処を探していた私は、その(まるで小津映画のワンシーンのような)光景に「ここだ!」と閃いた。
 間口の狭い店の戸が引かれていたので中を覗いた。カウンターが奥に繋がる細長い小さな店だ。表のこれも小さな看板に〈真心御飯 なが田〉とあった。うん、ここだ、ここだ、と頷いてその日は去った(まだ開店前だったので)。

 初めて〈なが田〉に入ったのは家や庭の手入れに帰省していた弟と、だったか。「初めてですがいいですかー?」と覗くとカウンターの中からあの割烹着婦人が顔を出し「ああ、よかよー、入って、入って」と言い、促されて彼女の示すカウンターの真ん中に腰を据えた。そこに座っていたお客さんたちが「はい、ここ、ここ」と動いて席を譲ってくれたのだ。感動して弟と顔を見合わせた。

 カウンターにはお総菜が盛りつけられた大鉢が様々に10種類ほど並んでいた。割烹着婦人の背後の棚に掛かった小さな黒板に今日のおすすめ(だいたい刺身)が書かれていた。狭いカウンターの中で、割烹着婦人は注文を受け、料理を出し、器を洗い、客と喋って忙しくしていた。3皿ほどの注文を告げたあと、「一人でやっているんですか?」と聞くと忙しく手を動かしながら「ううん、あとでお父さんが来て手伝ってくれると」という返事。8席ほどのカウンターはまだ7時過ぎなのにすでに満席だ。たった1つある窓辺の4人掛けテーブルにも客がいたので、それを知ってホッとした。10年くらい恵比寿の小さなバーでバーテンダー修業をしていたからか店の混み具合は他人事でなく気に掛かるのだ。

 とはいえ、婦人のお父上が手伝いに? かなりの御高齢と思うけど大丈夫なのか? と“はてなマーク”が浮かんだが、すぐに解消した。途中から現れた助っ人は婦人と同年輩の男性で、ご主人だったのだ。聞けば3軒先の喫茶店、つまり〈ジェイ〉の営業が終わったあと、こっちに来て手伝われているとか。客の中にも「お父さん」と呼ぶ人がいた。婦人は「より子さん」と呼ばれていた。客はほとんどが常連さんで顔見知りのようだ。毎日通う人も多いらしい。9割方中高年だからか満席でもうるさくはない。みんな楽しげに食べて喋って笑い合っているのに、なぜか店内には静けさがあり、微かに流れるジャズの音さえ聴こえるほどだ。大人だなあ、渋いなあ、と嬉しくなった。何の気なしに歩いた味噌天神でこのような店を発見できたことに感謝した。

 より子さんの料理はどれも美味しかった。真心御飯という謳い文句の通り心のこもったお母さんの味だ。かといって“お袋の味”という決まりきったものでもなく、そのときある材料で自由自在に腕をふるう料理上手なお母さんのアイデアの味とでもいうか……。スープなど絶品で予約していないとすぐになくなる。苦手な酢の物や肉じゃがも、より子さんの手に掛かると「うまい、うまい」とたいらげられた。母親もいなくなり家庭のご飯に飢えていた私に〈なが田〉は食のオアシスとなった。

 だから兄弟が帰省するたび一緒に行った。熊本に遊びに来た友人知人も連れて行った。そしてみんなが驚くのは、料理もだけれど店の空気だ。飛び交う高度な熊本弁に目も耳も眩(くら)ませながら、けれどあの和気あいあいの節度を保った親しい会話に胸打たれている様子だった。誰かが「あそこは中高年の楽園だね」と言った。うん、言えます。

 そんな中高年の楽園のような〈なが田〉だったが、2020年の12月29日、みんなに惜しまれて店仕舞いした。〈ジェイ〉を営業しながらの20年の歴史を閉じた。店主おふたりの年齢などによる判断だったろう。その夜は常連さんたちが集まって終わりを祝した。そして、これからどこに食べに行けばいいの? どこでみんなと会えるの? 喋れるの? と笑いながらの嘆き節になった。「〈なが田〉難民となりますかね」という声もあがった。私などまさにそうで、家庭のご飯を食べたくなってももう行き場がないのだった。

僕の熊本案内

 熊本には坂口恭平という天才がいる。恭平さんとか恭平氏とか呼ぶのも何か違和感があるのでいつも通りに恭平と呼ばせてもらうが、10年くらい前、熊本に遊びに来た友だち(ワタリウム美術館館長のえっちゃん、広告クリエイターの恒ちゃん)に紹介されたのが始まりだった。恭平の才能を後押ししていた2人は「僕の熊本を案内するよ」という恭平に誘われて、だったら地元に帰っている古い友だちヨシモトも呼んじゃおう、という楽しい計画を立ててやって来たのだ。恭平は長いこと躁鬱病に悩まされているが、紹介されたそのとき彼は“躁”の状態だったと思う。とんでもなくテンションが高かったのだ。会うなり「おー! 由美ちゃんだー、熊本にもう馴れた?」と言う。初対面の、それも子供のような年の青年になれなれしく「由美ちゃん!」と呼ばれたことに中年女(10年前なのであしからず)は少なからず動揺したが、そんなことは気にもしないで恭平は「じゃあ行こう!」と“僕の熊本案内”をスタートさせた。

 仁王さん通りのうどん屋で腹ごしらえして、彼がアトリエとする坪井の一軒家へ連れて行かれ、大木の幹に作ったツリーハウスに上ったり降りたり、ギター片手に歌いまくる彼のオリジナル曲を聴かされまくったりした。新町の日本でいちばん面白いというおもちゃ問屋にも連れて行かれた。ちょっと疲れた中年3人を気遣ってか彼の自宅で休憩させてくれた。それから寿司屋に行ったりバーに行ったり。おつまみはケーキという妙な飲み屋で仕上げると真夜中になっていた。一日でこれだけやって、おじさんおばさんはヘトヘトである。恭平もそうだったろうが何しろ“躁状態”なので「どうする? まだどこか行く?」なんて訊く。「いやいや、もうおねむだよ」とほうほうの体で解散したのだが、坂口恭平という若者はその一日で、強烈さとともに繊細さが気になる遠い親戚の少年というイメージを私に植え付けた。頑張りすぎが痛々しいのだった。

 彼はまだ43歳だが、すでに建築家、作家、美術家、歌い手である。その上、料理、編み物、陶芸、畑作りと、何でもやれる。死にたい願望に苦しむ人たちとの対話「いのっちの電話」も長く続けている。
 わずかなことしかやれない私はその多才さにいつも驚く。彼は天才だと正直思う。天才だから何でもやれるのだと。ある日、田尻久子さんにそう言ったら大きく頷いて、「だって聞いてくださいよ」と言う。体調のいいとき恭平は〈オレンジ〉の窓辺のテーブルで執筆するのだが、原稿用紙10~15枚ほどぺらぺらと書いて「読んで」と久子さんに渡すそうである。アッという間に10~15枚。凡人の書き手には胃が痛くなるような枚数である。しみじみ「恭平は天才だね」と言い合った。天才だから何でもやれると。

 昨年の末、〈橙書店〉で彼のパステル画展が開かれた。欲しい絵がいくつかあったがすでに赤丸印だった。それで彼のいちばん新しいパステル画集『Water』を買った。そこに収められている237点の絵。なんでもない風景画だが、眺めていくうち甚(いた)く心を揺さぶられ、はっきり言って泣けてきた。その理由は説明付かない。だいぶ前「坂口恭平が歌う」というイベントがやはり〈橙書店〉で行われ、その中に妻とのデュオが2曲か3曲あったのだが、それを聴いているうちに止まらなくなった涙と同じ質であることだけはわかる。なぜか切なく、何かに感動しているのだが、何に感動しているのかは謎なのだ。

写真5

坂口恭平パステル画集『Water』

(次回は田尻久子さんが綴ります)

ひとつ前に戻る  次を読む

プロフィール
吉本由美(よしもと・ゆみ)

1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信しています。ぜひこちらもチェックしてみてください!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!
今後ももっともっと「スキ」していただける記事をご用意します!
本がひらく
NHK出版の書籍編集部が、多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!