
雨があがり、短い夏が終わろうとしている――「熊本 かわりばんこ #06〔雨と引っ越し〕」田尻久子
長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。
雨と引っ越し
8月半ばだというのに、大雨が幾日も降り続いている。真夏にこんな状態になるなんて人生ではじめてのことだ。普通なら夜も寝苦しいほど暑い時期なのに、気温は25℃前後を行ったり来たりしている。いつもの夏と10℃くらい違う。涼しくて過ごしやすいはずなのだが、数日前まで灼熱の陽射しを浴びていたので身体が気温になじまず、朝晩は寒いとすら感じて毛布にくるまって寝ている。猫たちはまだ夏毛をまとっているのでやはり寒いらしく、やたらと膝の上に乗ってくるし、寝るときも気付けばくっついている。こうしてパソコンに向かっているいまも、白黒猫が膝の上で寝ている。降ろそうとしようものなら「ニャーアアー(いやあー)」と鳴きながらふんばって、力の限り抵抗する。
雨が降り続いてかれこれ1週間以上、止む気配はない。梅雨に逆戻りしたような気候、いや梅雨でもこんなには降らない。梅雨というより、雨期という感じ。こんなに雨が降り続いて、家がない人たちや、野良猫たちはどこで雨風をしのいでいるのだろう。
ニュースによると、九州ではこの1週間足らずで年間の降水量の半分を超えたところがあるという。すでに被害が発生したところもあるし、土砂災害や浸水におびえている人もたくさんいるだろう。熊本県を流れる球磨川水系が氾濫・決壊したのは昨年のことで、まだ記憶に新しい。人吉市内の堤防が決壊し、橋は流れ、市街地は水浸しとなった。ケーキ屋さん、おそば屋さん、醬油蔵に酒蔵……、見知った建物が水に浸かっていく様子をなすすべもなく見つめたことを、雨音を聞きながら思い出す。私の家にはテレビがないのだが、災害が起きたときちょうど従姉妹伯母が危篤状態で、待機していたホスピスの病室にはテレビがあった。「なるべくいつも通りにして、人の気配があるようにしてくださいね」と看護師さんに言われていたので、誰が見るともなくテレビをつけ、きょうだいとたわいのない話をしていた。伯母はテレビをよく見る人だったから。
葬儀の日も大雨だった。葬儀場で喪服を着て朝ご飯を食べていたときも、テレビでは災害の情報が流れていた。だから、大雨が降ると伯母の顔がふいに思い出される。記憶はいつも連鎖する。ひとつ思い出すと、また次のひとつが顔を出す。次の大雨もいつか降るだろうから、暑さを失った夏のこともきっと思い出すだろう。
ほとんど一日中降り続いていても、雨が小康状態になる時間がときおりある。もちろん陽が射すほどではないのだが、少しだけ外が白み、雨音が静かになる。待ってましたとばかりに蟬時雨がはじまる。雨の間に、アブラゼミからツクツクボウシに変わっている。鳥のさえずりも騒がしくなる。山のほうからカラスの鳴き声が聞こえてくる。これら生類の音が聞こえてくると、人間も少しだけ安堵する。心配の小休止。
少し前、梅雨の最中に立田山(たつだやま)の近くに引っ越しをしたのだが、新しい家ではじめてカラスの声を聞いたとき、違う、と思った。「カーカー」と澄んだ鳴き声がしていた。以前住んでいた家でよく耳にしたのは「ガーガー」という少し濁った鳴き声。調べたら、澄んだ声のハシブトガラスは樹林を好み、濁った声のハシボソガラスは、河川敷や原っぱを好むそう。なるほど、お山のカラスはハシブトガラスなわけだ、と納得した。
山と言っても、標高150メートルほどで、熊本市の真ん中に位置している。私が借りた借家は坂道の途中に建っているから、ここも昔は山の中だったはず。すべて切り開かれてしまわなくてよかったとつくづく思う。切り開かれたであろう場所に住んでいることに罪悪感を覚えながらもそう思う。
成り行きで『アルテリ』という文芸誌(吉本由美さんにも寄稿してもらっている)をつくっているのだが、在庫を置く場所が足りなくなった。そもそも出版社ではないから、置き場所など確保していない。こうなったら家に置くしかないのだが、前の家はエレベーターなしの4階で、本で満杯のダンボールを上げたり降ろしたりするには適しておらず、スペースの余裕もあまりなかった。
引っ越しの理由は他にもある。前の家を探したのは熊本地震の直後で、希望より家賃が少し高かったけれど、物件が不足していたから無理して借りた。それでも便利な場所ではあったし、真横に公園があるのが気に入っていた。ただ、南向きのベランダの向こうは別の集合住宅の壁で、公園があっても緑は思ったほど目に入らなかった。ベランダ園芸を試みても、最上階だったから暑すぎて、というか灼熱で、植物は何度植えてみても夏を越せなかった。日に日に緑が恋しくなり、そうこうしているうちにコロナ禍になり、出かけることもままならず、さらに緑が恋しくなった。
引っ越したいな。1年ほど前から思いはじめて、不動産情報を見るのが日課になった。少しくらい不便でもいいから、庭のある家、もしくは自然により近い場所にある物件はないだろうかと。猫と暮らしていると、物件探しの難易度があがる。いいな、安いな、と思っても、ペット不可、あるいは犬のみ可。犬がよくて、猫がだめというのがどうにも解せない。特にリフォーム済のきれいな家は貸してくれない。そういう家はどうせ家賃が高いので、こちらの希望からも外れるが。DIY可なのに猫不可という物件もあった。好きに手を加えられるのに猫はだめとは意味がわからない。うちの壁はどこも研がれていないし、猫はきれい好きなので犬より匂わない。というか、人間より匂わないかも。匂うのは猫ではなくオシッコだから、トイレさえきちんと片付ければ問題ない。そもそも猫はトイレが汚れていることを嫌うから、片付けないと猫に叱られる。ちなみに私は猫のお腹の匂いが大好きだ。ほんのり甘い匂いがする。ちょっとかがせておくれよと顔をうずめて嫌がられる。
1年ほど探し続けてようやく希望に近い家が見つかった。通勤は不便になるが、家を借りるときに妥協は不可欠だ。物件情報を見てすぐに惹かれた。小さいけれど庭があり、近くには山もあった。少し行けば、遊水池もある。いつになくすばやい行動で内見の予約を取り見に行くと、私が子どもの頃、祖父母が住んでいた借家から十分ほどの場所だった。
狭い庭にはイチジクと椿の木があり、木の根元の雑草をかきわければ、もとの住人が植えたであろう植物が顔を出しそうだった。内見もそこそこに、イチジクだよ、椿だよ、と庭を見て歓喜する家人と私を、不動産会社の人が不思議そうに見ていた。庭の手入れが大変だと嫌がる人もいるのだろう。猫可だから家はもちろん古く、立て付けにガタがきている部分もあったが、家賃は下がるし、『アルテリ』の保管場所は十分取れる広さだった。
というわけで、その家に引っ越して1か月後、雨に閉じ込められた。エリアメールの着信音がけたたましく鳴ったときは、慣れない場所なのでびくついた。古い家なので雨漏りも気になったが、とりあえずは大丈夫。その代わり、心配していなかった店のほうで、少し雨漏りがした。前に借りていた店舗では何度も経験していたので慌てなかったが。
それにしても尋常ではない雨が続いた。縁側にはなんだかわからないキノコが生え、家の中では予想外の場所にカビが生えた。いちばん驚いたのは、猫トイレの砂に生えたカビ。何十年も猫と暮らしてきたが、はじめてのことだった。熟れる前の青々としたイチジクの実が雨に濡れそぼっているのを見て、このまま熟れずにだめになるかもと心配になる。雨になる前は毎日食べていたのに。でも、庭に生息するシダ類は元気だった。調べたら、プテリス・トレムラという名前。もともとは熱帯雨林地域で育つ植物らしいから豪雨でも平気なわけだ。
猛暑のときは夕立でも来ないかと願い、ギラギラと照る太陽がうらめしくなるのに、太陽が恋しくてたまらなかった。ほんとうに人間は勝手なものだ。勝手すぎた罰を受けているのだろう。
近くを流れる坪井川の遊水地では、夏になるとツバメのねぐら入りが見られると、前に詩人の伊藤比呂美さんが教えてくれた。とにかくすごいから一度見に来て、と何度も言われ、あるとき友人たちと見に行った。吉本さんもそのひとり。それはほんとうにすごかった。日が暮れて、空の色が刻一刻と変わる時間になると、どこからともなくツバメが現われる。一羽に気付くと、あそこにもここにもと、どんどん目に入る。最初は、まるで遊んでいるかのように湿地帯の上を旋回している。群れの数は次第に増え、ひとつの生き物のように見えてくる。さらに増え、ツバメが無数の点のように見えてくると、次々とねぐらに降りはじめる。数千羽あるいは、数万羽のツバメが湿地帯に向かって、ひゅんひゅん降りてくる。でも、それは降りてくる、というよりも落ちてくるように見える。夕暮れのほんの数十分間、夢中でその姿を見る。高校生の頃はこの川の横を自転車で通学していたし、わりと近くに住んだこともあったのに、この時間のことを知らなかった。
ツバメは子育てが終わると、日本から去るまでの間、河川敷や葦原などに集まり、集団ねぐらを形成するという。この大雨でツバメはどこにいるのだろう。湿地帯は水没しているはずだ。ねぐらはねぐらとして機能していないだろう。思い出した途端、ツバメのことが心配になる。しかも、せっかく近くに引っ越したのに、忙しさにかまけて一度もツバメのねぐら入りを見に行っていなかったと気付く。渡りの季節になる前に一度見に行かなければと気が急くが、雨が止まないことにはどうしようもない。
ツバメを見に行くのは後回しにできるが、仕事は雨だからやめた、というわけにもいかない。とはいえ、ワイパーを使っても運転するのが怖いくらいの大雨の中、めったにお客さんが来ない店に出勤するのは気が重い。言うまでもないが大雨が続くと客足は遠のく。出がけに寄った近所のパン屋さんでは、猫が退屈そうに店番をしていた。出入り自由の猫で、ほんとうは外に出たいのだとうらめしそうに雨を眺めている。こんな雨の中を来てくれたから、とパンを一個おまけしてもらった。雨が降るといいこともある。夕方には雨が少し小降りになっていた。
降りはじめて10日ほど経ったころ、ようやく太陽が姿を見せた。蟬の鳴き声はいつの間にかひぐらしに変わっている。いつもよりずいぶん短かった夏が、終わろうとしている。
出勤途中、立ち寄ったスーパーで会計が終わって袋詰めをしていると、「晴れましたね」と顔見知りでもない店員さんに笑顔で話しかけられた。その気持ちはよくわかる。誰かに言わずにおれないくらい、うれしかったのだ。太陽も月も見えず、雨に閉じ込められたような日々が何日も続いたあとの太陽のお目見えは、心の底からうれしかった。光が射し、木々の陰影が地面に映り込むのを見ているだけでじわじわとうれしい。「やっと晴れましたね」と返すと、店員さんは「せんたく……」と言いかけたが、レジに次のお客さんが並び、会話はかき消えた。洗濯できずに仕事に来たことを残念がっていたのかもしれない。
私の店に来るお客さんも「晴れましたね」と言わずにおれない。いてもたってもいられず出てきた、と言った人もいた。これは不要不急だろうか。10日ぶりの陽の光を浴びることは。
帰り道、月も見えた。家に向かうのぼり道の先には山が見える。その山の上にぽかりと、月が見えた。あと少しで満月のようだった。雨ばかりだったから、月の満ち欠けも気にしていなかった。月が見えてようやく、太陽だけじゃなく月も見ていなかったと気が付いた。
前に住んでいた集合住宅は、ベランダに出ると月がよく見えた。吉本さんとは月友達でもあって、あんばいのいい月が見えると先を競ってメールする。引っ越しの少し前には「明日が最後の満月。ひさこさんが4階から眺める満月の最後の夜だよ。じっくり眺めてね」とメールが来た。
最後の満月を見るのを、引っ越しの準備に追われてあやうく忘れるところだった。真夜中に思い出してベランダに出ると、ところどころ灯がともった街の上空に、おぼろな月が見えた。ひとり静かに見ていたら、あれもこれもやらなきゃと焦っていた心が少し落ち着いた。
ベランダにじかに座り込んでしばらく眺めていると、記憶がよみがえってくる。近くの公園からはいつも子どもの声がしていた。部屋にはさんさんと陽が射し、猫は気持ちよさそうに寝ていた。顔をあわせると会釈を交わすご近所さんもいた。コロナ禍で足が遠のいていたが、近所にはなじみの居酒屋さんもあった。ここはここでいい家だった。引っ越しはうれしいがちょっとさみしくもある。
(次回は吉本由美さんが綴ります)
プロフィール
田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。
吉本由美(よしもと・ゆみ)
1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。