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「性の苦しみは、未だ言葉のないものばかり?」――赤坂真理×小島慶子『愛と性と存在のはなし』刊行記念対談(前編)

 作家・赤坂真理さんの新刊『愛と性と存在のはなし』の刊行を記念して、2020年12月、ゲストにエッセイストの小島慶子さんを迎え、オンライン対談「性をめぐる生きづらさと希望」を開催しました。終了後、SNS上で多くの反響を呼んだ同イベントから、当記事ではその内容をダイジェストにしてお届けします。

未だ言葉のない苦しみを語る難しさ

小島 赤坂さんとこうやって一対一でお話しするのは初めてなんです。今回の『愛と性と存在のはなし』、心に蓋をしていたことや、自らクローゼットに押し込んでいたことが引き出されるような、印象深い読書体験でした。なぜ今、この本を出そうと思ったんですか?

赤坂 一対一でテーマを持って話すのは初めてですよね。テーマと言えば、愛と性というのはずっとテーマでした。が、なかなか書きにくいテーマでもあって、蓋をしておいたほうが生きやすいのではないかと思ったりしてきた。それでもやはり書こうと思ったのは、第一に、自分を語る言葉がなかったからなんです。

 自分のことを、現在流通しているジェンダーやセクシャリティの言葉で語れば、「シスジェンダー(生まれた性に違和のない)」の「ヘテロセクシュアル(異性愛者)」となります。いわゆるマジョリティですね。今の多様性の議論の中では、こういう人たちは「問題がない」ということになりがちで、異性愛者はどこか透明な存在になっています。でも、私は私のことを全然わかっていなくて、ヘテロセクシュアルであることで苦しい思いもしたし、人生の選択を迫られたりといったことはとても多かった。なのに、その苦しさを語る言葉がない。加えて、異性愛者の生きづらさを語ってはいけないような空気もありました。異性愛者自身、「セクシュアル・マイノリティの人に比べたら、自分などが悩み苦しみを語っていいのか」と言うこともあります。これは普通によく聞く物言いです。

 あと、去年まで大学で学生に創作を教えていたんですが、今、自分のセクシュアリティのことを語る学生が多いのと同時に、隠す学生が多いのも感じました。なぜ隠しているのがわかるかというと、隠していること自体は見えるし、創作には出るからです。いろいろと揺らいだ果てに、自分を「Xジェンダー」だと言う子もいたんですが、Xというのはゆらぎそのものの言葉なので、何も言っていないに等しい。「Xこそは、自分で規定していくしかない言葉なんだよ」とわたしは言いましたが、それは自分に言っていたのだと思います。「ヘテロ」で「シスジェンダー」と言ったところで、性の座標マップのどのへんにいるか点で知ることができるだけで、自分のことは何もわからない。その点でXジェンダーと同じ。Xは誰しもの出発点じゃないかと思いました。そして、シスジェンダーのヘテロの悩みというのは今わりとないことにされがちだけれど、それは人類最古の問題ぐらいに脈々としてあり、最新の問題でもあるように感じていました。

小島 それで、何か自分を語る言葉があるのかなと思ったんですね。

赤坂 その言葉を、なんとか、開発したい、という気持ちだったでしょうか。
 それを語るのに、性転換当事者の友人との対話がとても助けになりました。いわゆるセクシュアル・マイノリティの彼らは、ヘテロよりは、自分を語る言葉を持っているんです。自分を説明する言葉が必要だからですね。彼らは彼らで、「同じ語りを何度もしているうちに、本当の真実でないことを自分でも信じていく」という落とし穴も抱えつつ、やはり、言葉はおおむね豊かだし面白い。  

 私はなぜかセクシュアリティにゆらぎがある人と仲良くなりやすいし、そういう表現作品も好きなんだけれども、その人や作品に描かれている内実って、本当の本当は、よくわかっていない。私は異性しか好きになったことがないから。たとえば同性を素敵と思うことはあっても、本当に心拍が上がるとか、身体反応をまきこむようなトータルな恋の体験はないし、体感はわからない。しかし「それってどういう感じ?」と聞くことは、今最高に失礼だとされていて、聞けない。だから本当のところはわからないんです。わからない一方で、いわゆるセクシュアル・マイノリティのことを「わからない」と言ってはいけない、そんなことを言うと見識を疑われるという空気もあって、セクシュアル・マイノリティとどう本音で話し合えばいいのかが、正直わからなかった。

 それは自分に対してもそうで。自分はこんなに何かズレのようなものを感じてきたのに、自分に対しての言葉がない。だから、今使われている用語を全て取っ払ってみて、私はどういう人間なのかな、ということを知りたかった。人間って自分を知るのに、自分一人では決してわからないんですよ。そのとき突破口になったのが、性転換者(「トランス」が本人呼称)の友人だったわけです。彼女と対話をすることで、いろいろなことがわかってきた。これは、自分もわかってきたし、相手にとっても、知らなかったり無視していたような自分が、たくさん出てきたんです。

小島 本の中に出てくる、トランスジェンダーのMさんのお話ですね。情景が目に浮かぶような会話の中で、赤坂さんの気づきが訪れる瞬間のことが書かれていて、すごくいいシーンだなと思いました。そのときMさんと赤坂さんの間で共有されたものは、2人にしかわからないものなのだと思いますが、私も誰か友人との間にそういう瞬間が持てたらいいなと思いました。

赤坂 あの対話は唯一無二だったと思います。あれだけ正直な対話は、どんな人とでもめったにない。あの対話を読むためにだけでも、この本を読んでほしいと思うほどです。誰でも、必ず自分のかけらをそこに見つけられると信じています。

 現代日本は「なりたい性になる自由と医療がある」時空間ではあります。けれども、それって言うほど生易しいものではありません。多くの当事者が、「反対の性になりたい」という純粋な憧れよりは、「生まれた性へのとことんの嫌悪」から始まっています。Mもそう言います。激しい嫌悪から出発したものは、外的条件を変えても、嫌悪に帰着するのではないか、その嫌悪を救える治療があるのか、というのがひとつ。嫌悪とはどこまでも内的なものだからです。実際Mは今でも悩んでいるし、自分の在り方を嫌悪するところもあります。肯定するところもありつつ。そして性転換以前はなかった新種の混乱も持っています。

 これは人類がまだ持ったことのない悩みですね。性を実際に医療的に変えられた歴史は人類史上にはないからです。相談する人もいないところで悩まなければいけない世界。それでもトランスしたほうが「まし」であって、男でいたら自殺したかもしれないという。多くの性転換者は自殺よりはこれを選ぶ、くらいのギリギリのチョイスであることが多いことも、この本を書いて新しく知ったことで、かなりショックでした。もちろん、ポジティブなトランスの方もいても、です。
 そしてその悩みが、シスジェンダーでヘテロである自分の、言葉にできない苦しみやズレと、どこか共通しているのではという直感があったんです。言葉にできなさは、まずはいっしょです。

 友人Mは(手術はせずホルモン治療のみで)男性から女性になった人です。わたしとて、昨今の言語リテラシーくらいは身につけているから、「内実は本当はどうなのか」なんて長い間きかなかった。けれど、時をともに過ごして、ごはん食べたりしているうちに、ポロポロと言い出すことが、わたしや世間が信じてきたことと、いろんなところで、あまりにちがうのです。たとえば突破のきっかけとなったMの言葉は、「わたし、性自認は男かもしれない」。あまりにあっさりそう言ったんです。「え!ちょっと待って」って、わたしが驚いてしまって。「性自認が、生まれた性とちがう(心の性と身体の性がちがう)」というのが「性同一性障害」の「定義」だったからです。
 そこから友人として心を開いて、丁寧にきいていったのです。そこで「性同一性障害の治療」の内実も知ります。ジェンダークリニックとは、自分のセクシュアリティを深く理解しに行く場ではない。「前提ありき、結論ありきで、手術へと導くところ」。多くの当事者が、そこで模範解答を答えて、診断をもらい、治療に入ります。治療に入れなければ、自殺するしかないくらいに思いつめた人がいるのは、先に話したとおりです。模範解答とは、たとえおもちゃのピストルで遊んでいても、「小さい頃からお人形遊びのほうが好きな子でした」などです。

 ここでもう一つ大きな問題が出てきます。方便としてでもそう言っている間に、自分の中の本当に繊細な大事なズレを、当事者自身、見なくなっていきます。これ、マジョリティにもよくあることなんですよね。それで自分がわからなくなっていく。Mにも、そうやって見なくなっていった自分があり、そこが、わたしとの会話に出てきたわけです。
 考えてみると当然ですが、トランス(≒性転換)して、悩みは、シンプルになるよりは複雑になっていきます。これ、人によっては狂う可能性があると思います。ありうる可能性は見たほうがいい。そして、そこに丁寧にアプローチする心理療法はまだないでしょう。そもそも、その心理療法の開発と両輪で、治療は始めるべきなんだと思います、本来は。
 Mのような人たちは、本当に、人類がいまだ知らなかったような複雑な心理と悩みを生きている人々だと思います。しかし、それは、人類のポテンシャルそのものでもあります。どういう認識や感情を持てるかという、その種類や深さが、多いのです。

 そこを悩めるのは豊かな心の体験を持った人たちであり、そこに、何か根源的な「心」や「意識」、ひいては「魂」のようなものに触れさせてくれる存在であるように、わたしには感じられました。それは、対象的に見える「マジョリティ」のわたしにも、普遍的にある、心だったり意識だったりしました。
 そうして話しているうち、二人が、いちばん隠して核に持っていたセクシュアリティが一致する、ということがあって。「あれ? あなたはわたしじゃない?」と心底言い合うことがありました。人とそのように出逢えたことは、生きる幸せだと思います。

自分の体を超えて他者を理解できるか

小島 お話を伺っていて思うんですが、みんな体は一つしかないので、体験できないことがすごく多い。とくに性に関することがそうで、自分が何者かということも当然含まれるんですけど、多くのことを生身で体験することなく死んでいく。どうしたって自分の肉体から出られないから不自由ですよね。
 そして、本来ならば違う肉体を持つ人同士をつなぐものとして言葉があるはずなのに、いざ言葉でつながろうと思うと、言葉にも定義があったり、その社会環境の中で望ましい使われ方があったりして、肉体を出ようと思うと今度は言葉に縛られてしまう。どうにも行き場がない。「旅には出たいけど乗り物がない」という感じに。

赤坂 「肉体を出ようとすると今度は言葉に縛られてしまう」「ベクトルが自分の内側に向かわずに「旅には出たいけど乗り物がない」。名言です!

小島 読みながら、そういう感覚が湧き上がってきました。

赤坂 旅には行きたいけど、乗り物はこれ(自分の体)しかない。だから作家としては他人の身体に乗る話を書いたりするんだけれども、それでも、二つの場所に同時にいることはできないとか、ボディの制約はある。どうやら、魂と肉体は一対一対応らしい。自分にはこの自分、サンプル1しかない。

 でも、私はサンプル1を本当に深掘りしていったら、もしかして違うサンプルと本当に同じことを考えていたりすることがあると、どこかで信じている。Mとの間で起こったこともそれだったと思う。それを信じることが私の表現や発信の源なんです。だからあるとき、どうしても友人Mのことを知りたいと思って、ある意味失礼覚悟で、聞いたんだと思う。 
 それは今になってみると、自分自身のことをわかってなくて、自分のことが知りたかったんだと思いました。繰り返しになりますが、人は、自分のことは、決して一人ではわかることができないので、他者が必要なんです。そのとき、異質に見える他者のほうが、自分の鏡になりやすいところがある。

小島 トランスジェンダーとシスジェンダーの間だけでなく、誰も他人のことは本当の意味ではわからないので、人との間にはいつももどかしさがありますよね。赤坂さんがこの本の中で書かれている、Mさんとのやりとりの中で素晴らしいと思ったのは、この人は一体何なのかと考える過程で、最初にご自身が定義づけていた枠に徐々に気づいて、その定義を取り払って「この人はこの人としてそこにある」という受け入れ方をしていくまでが率直に綴られている。これは本質的に、人と人が超えられないものを超えていくときに起きることではないかと思いました。

赤坂 そう。思っていたこととはことごとく違うんだけど、その人は、存在する。厳然として存在する。この本はもともとウェブ連載で、最初からタイトルは「愛と性と存在のはなし」だったんですが、「存在」を入れたことは、実はその時点ではあまりよくわかっていませんでした。
 でも、本当にどうズレていようが、その人は厳然として存在する。どう苦しんでいようが、どう喜んでいようが、虚無であろうが存在する。そのことの強さがある。
 ズレいっぱいで存在することは、ズレているのか? ズレていないでしょう? ただ「そういうこと」でしょう? 

「存在」って、たとえば英語でもフランス語でも「存在する」ことを表す動詞は普通動詞とは別格なんです。BE動詞とかETRE動詞と言われて、その区分には動詞がそのひとつしかありません。そしてこれは、属性をつけなくても、動詞ひとつで立つことができます。I AMは、I am a boyでもI am a girlでもなく、I AMだけで存在できます。これって「存在」の象徴的なことだと思うんですよね。属性をつけなくても存在する。意味がなくても存在する。意味を付けても存在する。存在ひとつの美しさに触れて、書いていてよかったなと思いました。

小島 「あなたはトランスジェンダーなの?そうじゃないの?」とか「あなたはホモセクシャルなの?そうじゃないの?」とか、それは相手の「ありよう」を問い質すことだと思うんですけど、「ありよう」を問い質しているときには、まず「ある」ということを忘れてしまう。「ありよう」に納得したあとで初めて「ある」ことを認めるという……順番が逆ですよね。
 今回のご本の中でも、赤坂さんが、愛とはただ「ある」ことなんだという、とても大きな気づきを得られた瞬間の、美しいくだりがありますね。以前出された『愛と暴力の戦後とその後』という本の中でも、暴力についても同じようなことをおっしゃっていましたね。暴力というのはいいも悪いも、そこにある。まず「そこにある」ということを蔑ろにして、人はすぐ「ありよう」に注目してしまうものなのだと、読んでいて何回も気づかされました。赤坂さんはそのことを非常に大切にされているんだなと。

赤坂 そうですね。けっこう前提を疑うところがあります。こう言われているけど、本当はどうなの? と。
 たとえば、ちょっと例が離れちゃうんだけど、「憲法」ってみんな、「憲法」と言ってわかった気になるんだけど、この字って両方とも「おきて」という意味なんですよ、「憲」も「法」も。そうしたら、たとえば英語のConstitution(コンスティチューション)の意味はないんじゃない?とか。明らかにそこにあって盲点になっていることって、わりと多いんです。

小島 言葉に注目されて、そこをつぶさに分析されていく記述がよく出てきますよね。言葉をいじって、そのありようを論じるのではなくて、そもそも何をその言葉で表そうとしていたのかという、根源の地点に視点を持っていく試みをよくされていますよね。これは忘れがちなことだと思うんです。

赤坂 はい。語源まで遡るのが好きです。あとは言葉と対象の間にあるズレ、ズレが面白い。ズレって感覚には、私もさんざん悩んできました。こうありたいけどこうしか思えないとか、こうありたいけどこれができないとか。でもその、たとえば状態と言葉のズレとか、言葉と言葉のずれとか、そういったズレそのものがすごく豊かだなと、執筆中のあるとき思って。「ズレは豊かだ」って心底から書きました。それが自分にとってはすごく恵みの言葉になったんですね。
 ズレはそのままで豊かなことだなと。要素がたくさんあるわけだから。そのことを書いたとき、自分で嬉しかったです。

(2020年12月2日、オンラインにて収録)

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プロフィール
赤坂真理(あかさか・まり)

1964年東京生まれ。95年「起爆者」で小説家に。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶ、大森南朋の主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通じて戦後を考えた『東京プリズン』が話題に。同作で毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学賞を受賞。体感を駆使し、社会性と個人性が融合した独自の作風を持つ。『モテたい理由』、『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)など批評との中間的作品も多く手がける。

小島慶子(こじま・けいこ)
1972年オーストラリア生まれ。エッセイスト。東京大学大学院情報学環客員研究員。95年にTBSに入社。アナウンサーとしてテレビ、ラジオに出演。2010年に独立後は各メディア出演し、講演・執筆など幅広く活動。2014年からオーストラリア・パースに教育移住。自身は日本で働きながら、夫と息子たちが暮らす豪州と行き来する生活を送っている。著書に『解縛――母の苦しみ、女の痛み』、『わたしの神様』、『不自由な男たち』(田中俊之との共著)など多数。

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