
河内王朝とは何か? 神功皇后説話から見えてくるものとは?――周防柳「小説で読み解く古代史」第7回(謎3 その1)。
「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。
謎3 河内王朝と朝鮮半島 (その1)
大和なのに、なぜ河内か
三輪山のふもとに営まれた初期王権である「三輪王朝」は、四代目、五代目と進むうちに衰退し、四世紀末には次なる勢力に取って代わられることになりました。新しい王権は俗に「河内王朝」と呼ばれ、始祖とされているのは応神天皇(ホムダワケ)です。天皇系図でいうと十五代に当たり、二十五代の武烈天皇(オハツセ)のときに継嗣が絶えるまで続きました。期間でいうと六世紀初頭までの百年余りです。
河内――とはいっても、必ずしも河内(現在の大阪府一帯)が都となったわけではありません。伝承によると、歴代大王の多くが磐余、初瀬(ともに桜井市)、石上(天理市)など大和盆地の南東部に宮を営んでおり、三輪王朝の中心地だった纒向遺跡(箸墓古墳など)や柳本古墳群(崇神天皇陵、景行天皇陵など)のあたりから大きく動いてはいないのです。
にもかかわらず、なぜ河内王朝なのかといえば、河内に造営された陵墓に特徴があるからです。古市古墳群にある応神天皇陵(羽曳野市)、百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵(堺市)などは、墳丘長が四百メートルを超える超弩級の前方後円墳です。古市と百舌鳥の古墳群は近ごろ「世界文化遺産」に指定されましたので、威容をご存じの方も多いと思います。

この時代になると、前代に比べて人流も物流も盛んになり、瀬戸内海を中心とする海上交通もぐんと発展しました。ゆえに、港湾に近い河内の重要度はかなり高くなっていたと思われます。防衛上の観点から、平時の活動拠点は内陸の大和に置かれたのでしょうが、水際にも副都的な機能が求められはじめていた可能性があります。人口の増加にともない、農地や住地の開発も鋭意進められていたことでしょう。
当時の大阪湾周辺は、標高の高い難波之碕(上町台地)が半島状にせり出していた以外は潟になっているところが多く、生駒山地の裾近くまで船が進入できたそうです。とすると、海路大和を目指してやってきた人々は、上陸の玄関口のところでばかでかい建造物に迎えられたわけで、さだめし目が釘付けになったのではないでしょうか。
そのように考えると、大王たちの巨大墳墓は新しい王権の強さと豊かさをよそ者に見せつける、戦略的なモニュメントであったのかもしれません。
河内王朝はかくのごとく大和盆地と河内平野との往来が重視されたので、数ある豪族の中でも両地をつなぐ要衝の葛城(二上山の東麓一帯)を地盤とする葛城氏が最有力の氏族となりました。
一族の始祖とされる葛城襲津彦の娘イワノヒメが仁徳天皇(オオサザキ)の皇后となっているほか、たくさんの女人が大王家に入りました。仁徳天皇の子の履中天皇(イザホワケ)にはクロヒメが、履中天皇の子のイチノヘノオシハ王にはハエヒメが、また雄略天皇(オオハツセ)にはカラヒメが妃となっています。大王の閨に娘を捧げ、所生の子が次期大王になることによって一族が興隆するありようは、のちの藤原氏を思わせます。
そんな河内王朝の百年を、三回にわたって眺めていくことにします。
神功皇后とは何者か
最初から結論めきますが、この時代もわからぬことが多く、とりわけ王朝の始まりのあたりはかなり厄介です。
いま私は「王朝交代」と当たり前のように言っていますが、建前上はむろん、皇統は途切れてはならず、よどみなく一筋に続いていたことになっています。
残念ながら小説も少なく、少し前のヤマトタケルが大人気なのと対照的なのですが、そんな中に一つ、闇夜を照らす星のような作品があります。黒岩重吾さんの『女龍王 神功皇后』です。
神功皇后とは、十四代仲哀天皇(タラシナカツヒコ)の妻にして応神天皇の母であり、湖北の豪族の息長氏と葛城氏の母のあいだに生まれたとされています。嫁ぐ前の名はオキナガタラシヒメ(本作では息長姫)といい、霊力にすぐれた女性です。
まずはこの人物について、『日本書紀』に記されていることから述べます。
夫の仲哀天皇はヤマトタケルの子で、叔父の成務天皇(ワカタラシヒコ)に男子がなかったため、四十六の年に跡を継ぎ、翌年オキナガタラシヒメを皇后としました。その後、南九州の熊襲に叛逆の気配が見えたので征討に出かけ、成果があがらぬまま世を去りました。皇后も遠征に同道していて、あるとき神から「熊襲ではなく、新羅を討て」との託宣を受けたのに、天皇が聞き入れなかったため神罰がくだったのだともいいます。
神功皇后は夫亡きあと身重のからだで朝鮮半島へ渡り、新羅を平らげ、さらに百済、高句麗までも従え、帰国後に身二つとなりました。この赤子が応神天皇です。『古事記』では、応神天皇は仲哀天皇ではなく神の子と匂わせるような書き方をしています。
また、皇后には審神者として、参謀として、伝説的な忠臣の武内宿禰が終始寄り添っています。

皇后は産み落とした子とともに瀬戸内海を東上し、敵対勢力(仲哀の先妻の子たち)を攻め降して磐余若桜宮に入ります。そして、わが子を皇太子に立て、百歳で崩ずるまで政務を執りました。
以上のようなことが、書紀の伝えるところです。
この一連の逸話をどうとらえるかについては、研究者のあいだでも諸説あるのですが、仲哀天皇、神功皇后ともに架空とみる向きが強いです。
その理由は、まず仲哀天皇の初伝が極端に少なく、影が薄いためです。なにしろ大和に宮もなく、遠征先の穴門(山口県)と橿日(福岡県)の行宮のことが記されているだけなのです。歴代天皇の中で時の都に宮を持たなかったのはこの人のみですから、括弧つきの大王だったことが暗示されているように感じます。大王が存在しなかったならば、当然、皇后も存在せぬことになります。
しかし、そうなると、応神天皇はどこから湧いて出たのかという話になり、そこに「騎馬民族征服説」などがつながってくるのです。これについてはあとで触れます。
伝えられている神功皇后説話の中でもっとも問題視されているのが、朝鮮半島への外征――、いわゆる「三韓征伐」です。
『日本書紀』では、皇后の徳が非常に優れていたため、三韓の王たちはみな心酔し、戦わずして臣下の礼を取った、とかなりの紙数を割いて述べています。むろん、八世紀の編纂者による作文です。しかし、かつてはこれが事実として信じられ、日本がかの地を領有する根拠ともなったのです。
仲哀天皇条、神功皇后条ともに、おかしな記述が少なくありません。しかし、だからといってすべてが事実無根というわけでもありません。
このことに関連してしばしば語られるのが、「高句麗広開土王碑」の碑文です。高句麗の国王である広開土王がみずからの戦歴を顕彰するために四一四年に鴨緑江畔に建てた石碑で、倭人とのあいだに繰り広げられた戦いのことが記されています。文字の欠損もあり、漢文でもあるので文意の解釈が難しいのですが、三九〇年代から四〇〇年代初にかけて、倭人がたびたび攻勢を強め、新羅や百済を侵したため、高句麗が撃退したとあります。

すなわち、神功皇后が、と言わぬまでも、当時の倭人の誰か――海賊的な人々か、半島南部の伽耶の倭人か、はたまた九州北部の集団か――が、朝鮮半島でさかんに戦っていたことは事実なわけです。
ここで、五世紀の朝鮮半島の勢力地図について、少々述べておきます。
かつての邪馬台国のころは、北のほうに高句麗があり、中西部に楽浪郡、帯方郡があり、南部に三韓(馬韓、弁韓、辰韓)があり、弁韓の海岸沿いに伽耶諸国がありました。これらは三世紀半ばごろより変貌し、馬韓から百済が生まれ、少し遅れて辰韓は新羅となり、弁韓は伽耶諸国に吸収されました。一方、大陸の中原では西晋が滅亡して五胡十六国の時代が始まります。この混乱に乗じて高句麗がすさまじい勢いで版図を広げはじめ、燎原の火のように半島の南部にも迫ってきたので、新羅、百済、伽耶は生き残りをかけて同盟したり、離反したり、戦々恐々となったのです。
倭国はもともと伽耶と近しかったのですが、伽耶を通して百済とも友好関係を結びました。一方、新羅とは反目することが多く、微妙な国際関係がその後も長く続きます。
プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)
1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。
※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信しています。ぜひこちらもチェックしてみてください!