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あの名店をしのんで――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は自粛から一転、個人店へ通う日々についてのお話です。
※当記事は連載の第20回です。最初から読む方はこちらです。


#20 個人店へ行こう

 神楽坂の老舗甘味処「紀の善」さんが閉店してしまった。ショックがまだ消えない。なんでだかわからないが、「紀の善」だけは、世界が荒廃しても、まだあの坂の始まりに佇んでいるような気がしていたのだ。周囲から建物が消え、物資の供給が断たれてもなお、なぜかあんこが毎朝炊かれていて、抹茶ババロアはちゃんといきいきとしたうぐいす色で……。
 最後に私が「紀の善」を訪れたのは、幸いにも、今年の五月である。子どもを連れて東京ドームシティへ遊びにいった帰りだった。この数年は感染対策で外食を控えていたので、自宅から離れた場所にある個人店を訪れるのが新鮮だった。磨き抜かれた店内がなにもかも以前のままでほっとした。二階のお座敷席はいっぱいだった。普段ならぜんざいを頼むところだが、その日は暑かったので口をさっぱりさせたくて、私はところ天を食べた。隣の席の人たちが、乃木坂46のファンらしく、ずっとその歌詞の話をして、あちこちを写真に撮っていた。帰宅後、調べたところ乃木坂46の「他の星から」に紀の善のクリームあんみつが登場することがわかった。ああ、この店は味が話題になるだけではなく、カルチャーシーンで取り上げられ続けている。ずっと安泰なんだろうな、となんだか嬉しかった。
 2001年放送の東芝日曜劇場『LOVE STORY』で私はこのお店の存在を知ったのである。編集者役の中山美穂が担当作家役の豊川悦司に差し入れるデザートとして、抹茶ババロアが登場したのだ(ちなみに豊川悦司はうまくいっていない作家役なのだが、今考えてみたら、担当編集者が自宅までお菓子を持ってくるランクの作家だなんて、相当な売れっ子である)。
 私が自粛していたこの三年間で、書店やレストラン、カフェ、パティスリーが次々と閉店した。心のどこかで絶対になくならない、と信じていた店ばかりだった。しかし、ニュースで知るまで、すっかり足は遠のいていた私が喪失感に浸っているのもおかしな話である。私は日々の行動を徐々に改めることにした。できるだけお金は、続いてほしい個人店で落とす。値上げが止まらず、我が家の収入でいえば、絶対に今は財布のひもを締める時期なのであるが想像してみることにした。
 個人店がすべて消えた街で我が家だけは豊かなのと、個人店だらけの街で我が家は中に入れず、ウインドウから店内の美味しそうな料理や楽しそうな客たちをうらやましそうに見つめているのと。
 秒悩んで、後者を取った。ずっと外食を続けるわけではない。期間限定だ。どうせ冬が近づけば感染者数が増大し、自粛を余儀なくされるのだから。
 そう言い聞かせながら、今、我が家はせっせと個人経営のケーキ屋や洋食屋、喫茶店に足を運んでいる。どこも感染対策はしっかりしている。そして、時間帯によるのかもしれないが、私たちが訪れる時はいつも空いている。当たり前だが、プロが作ったできたての料理というものは、ダイレクトに力をくれる。揚げたてのカキフライ、ぐつぐつと音を立てているマカロニグラタン、りんごたっぷりの温かなアップルパイ……。脳が覚醒し、全身に血が回り出すのがわかる。なにより、食べたら食べっぱなし、この後、お皿洗いをしなくてもいいというのが、本当に嬉しい。家族も楽しそう。お会計の時に、財布からお札がどんどん出て行くとやや不安になるのだが、それよりも満ち足りた気持ちが勝っている。私は恵まれた環境にいるのは間違いないが、それをおどおどする暇があったら、今は街を豊かに照らしてくれる個人店に少しでも、お金を落としたい。
 しかし、帰路につく時、ふと思う。自粛期間中、私は「おうち居酒屋」や「おうちカフェ」をメディアで推奨されるままに次々とやったのだが、あれは「居酒屋」でも「カフェ」でもなかったのだ。面白いことは面白かったのだが、外食とはお金と引きかえに力をもらうものだと思う。自分で力を注ぎ、注いだら即、走り込んでそれを受け取っていては、まるで循環プールだ。外食は外食、おうちはおうちだ。外食を自由にできる環境が戻らない、経済の打撃、実力のある名店が次々に閉店していく現状を、仕方がないこととは思いたくない。私なりの抵抗手段として、当分は外食三昧の日々を続けていこうと思っている。

(FIN)

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新短編集『ついでにジェントルメン』が発売中。

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