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はまちに、ぶり、いくら、うに、白子、きわめつきはあわびの肝――「マイナーノートで」 #11〔寿司食いてえ……〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。

寿司食いてえ……

 コロナ疎開で自主隔離の間には、物欲も外食欲も減った。たまには外でおいしいもんを……と思うこともなくなった。フラ飯もイタ飯も、なくてもすむ。だが、たったひとつ、なくてさびしい思いをしたのが、寿司である。そういえばコロナ禍のあいだ、1年半以上も寿司屋のカウンターに坐っていなかった。スーパーで買ってくる盛り合わせは似て非なるもの。食べるとかえってみじめになる。

 昨年秋に緊急事態宣言が明けて、なぜだか感染者数が急減し、街に人出が戻ってきた頃。もういいか、という気分になって、寿司屋にでかけた。それ以来、週に1回のペースで行った。またまたオミクロン株が登場し、街に出る気はなくなったので、寿司屋も自粛中。自分の行動を見ていると、飲食店はコロナ禍にふりまわされてたまったもんじゃないだろうな、と同情する。

 日本海側の北陸の都市に育ったのに、子どもの頃は肉と魚が食べられない偏食児童だった。肉は肉屋さんに行って枝肉が吊り下げられているのを見て以来、食べられなくなった。
 魚は先ほどまでたらいで泳いでいたのにそれを裂いて食べるなんて……と、こちらも箸をつけられなくなった。繊細な子どもだったのだ、わたしは(笑)。代わりにタンパク源として食べたのは、かまぼこと卵。すり身のかまぼこは原形をとどめていなかったので食べられた。幸いなことに育った土地はかまぼこ王国。今でもかまぼこは好きだ。

 18歳の年に家を出た。旅に出た宿で、生まれてはじめてはまちの刺身を食べて、こんなうまいものが世の中にあるのか、と驚嘆した。可愛い子には旅をさせよ、とはよく言ったものだ。それから食わず嫌いが治った。目の前にあるめずらしいものは、何でも口に運ぶようになった。そのうち海外へ出る機会が増え、見たことも聞いたこともない食べ物が出てくると、持ち前の好奇心でひととおり口に入れるようになった。なんでも口に入れてたしかめるあかんぼのようなものだ。もちろん下痢をしたり、腹痛に苦しんだりもした。下痢をしながら、やっぱり食べ続けた。地元の食堂で隣のひとが食べているものを見ると、わたしにも、と言うようになったし、招待を受けておうちにうかがうと、出されたものは残さず食べるのが礼儀になった。そのうち悪食と言ってよいほど何でも食べるようになった。あまりに何でも食べるので、人類学者の友人から、「社会学者にしておくのはもったいない」とまで言われた。中国人は机以外の四つ足のものはすべて食うと言うが、わたしは二つ足のものも食う。レストランで「食べられないものはありますか?」と訊かれたら、「なんでも食べます、人も食いますから」とニッコリする。

 地方に行くときには、地元の寿司屋で近海物のネタで寿司を食べるのが楽しみになった。講演会のあとに懇親会などがセッティングされているのはノーサンキュー。居酒屋や立食パーティなどで、おいしいものが出てきたことがない。そのくらいならひとりで放っておいてくれた方がよい。地元の寿司屋に出かけて、女ひとり寿司をする。
 ちなみに湯山玲子さんの『女ひとり寿司』(幻冬舎文庫)は、老舗の寿司店のカウンターを制覇した名著だ。おひとりさまの個食はトレンドになったが、それでも女がひとりで入るにはもっともハードルが高いのが寿司屋のカウンター。財布の厚いオジサマが若い女に蘊蓄(うんちく)を垂れる聖域なのだ。秘境はヒマラヤやアマゾンだけにあるとはかぎらない、都会のどまんなかにもある。そういって秘境探検に乗り出したのがこの本だ。ちなみに「おひとりさま」とは個食が増えた外食業界で生まれた業界用語。わたしの『おひとりさまの老後』(文春文庫)は、湯山さんの『女ひとり寿司』の影響を受けて書いた。

 地元の人たちに評判のよい寿司屋さんを探して行くと、ネタも新鮮で値段もリーズナブルなのに、練りわさびが出てくるのが惜しい。あるとき、マイわさびを持ち歩いて、「大将、これでやって」とカウンター越しに頼んだが、嫌がられただろうなあ。わさびは周囲の方にもどうぞ、と言って置いてきた。それに土地によって、醬油の味が違う。西日本や九州に行くと、醬油が甘い。ネタがいいのに、この甘ったるい醬油につけるのは……と残念な思いがする。九州の人たちによると、甘くないと醬油の気分がしないそうだ。一方関東ではまっくろなたまり醬油が出てくる。なるほど黒潮帯は鰹マグロ文化圏、切り身の脂をはじくような濃さの醬油が合うのだろう。

 関西暮らしの長いわたしにとっては、魚はやはり鯛やひらめ。鰹マグロの大好きな人には、竜宮城を泳いでいるのは鯛やひらめで、鰹やマグロじゃないでしょ、と毒づく。鰹やマグロが竜宮城のまわりをびゅんびゅん高速で泳ぐ姿を想像するのは難しい。白身に合わせる醬油は透明度が高く、赤みのある紫。だから西の方の寿司屋に行くときには、マイ醬油持参で行こうかしらと思うくらい。塩でもいい。九州の名店で、全品違う種類の塩と柑橘の酸味だけで食べさせてくれる寿司屋があった。うう、もう一度行きたい。

 太平洋側で覚えたのは青魚のおいしさだ。房総半島を巡ったときに、とびこんだ地元の寿司屋さんで食べた鰯のにぎりは絶品だった。おおぶりの鰯が片身、あふれんばかりに盛られている。それを大口を開けてあんぐり食べる。口の中にさわやかな脂の味が拡がる。鰺も鯖もおいしい。大衆魚だからってバカにしてはいけない。

 歳をとったら、ふるさと回帰なのか、日本海の魚が好きになった。はまちは出世魚。大きくなったら鰤(ぶり)になる。冬場の鰤は最高だ。板前さんに大根おろしとわさびをたっぷり、おねがい、と頼む。お、知ってるね、という顔をする。大根おろしとわさびをほぼ同量、ここに醬油をたらし、切り身にまぶして食べる。大根は辛み大根ではなくて、冬場の甘い大根がいい。切り身にたっぷり盛ったり巻いたり……いくらでも食べられる。この食べ方、ほんとはひとに教えたくない(笑)。

 日本で人口当たりの昆布の消費量が一番多い富山では、昆布締めが出てくる。鯛、ひらめ、鱈(たら)、さわら、なんでも昆布締めにする。甘エビも昆布締めにする。細かいガス海老をびっしり昆布に埋め尽くした昆布締めを食べたときには感動した。もともとうまいものをもっとうまくしようなんて、いったい誰が考えついたのだろう。わたしの母は、近所の魚屋さんに昆布締めを注文に行く時には、必ず家から一本買いした羅臼の昆布を持って行った。黙っていると魚屋さんにある昆布を使われるので、いまいち味が落ちるからだ。昆布締めの昆布はもちろん捨てない。冷凍しておいて、吸い物や鍋に使う。

 好きなのは、いくら、うに、白子、あん肝……とコレステロール値が上がるものばかり。事実、コレステロール値は警戒レベルに達しているが、好きなものは好き。蟹も味噌、あわびも肝がよい。金沢の近江町市場で毛ガニを4杯買って帰ったときには、4人いたなかまのうち3人までが蟹味噌を食べられないと言ったので、ありがたく4杯分の蟹味噌を一人で食べたのが自分史上の最高記録。地元の魚屋さんの2階でやっている料亭で、仲居さんがお客に運んでいるあわびのおつくりに肝がついていないことに気がついたので、肝はどうなってるの、と訊ねたら、お好きじゃない方もいらっしゃいますので、という答えが返ってきた。余ってるなら下さい、と頼んだらどんぶり1杯出てきたので、たいらげた。

 書いてるうちに、どんどん食べたくなってきた……コロナ禍はいつ明けるのだろう。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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