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「NHK出版新書を探せ!」第3回 「『自粛を要請』『新しい生活様式』……新たな言葉が“自粛警察”を増やす?――古田徹也さん(倫理学者)の場合」

 突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
 ※第1回から読む方はこちらです。

<今回はこの人!>
古田徹也(ふるた・てつや)

1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。新潟大学准教授、専修大学准教授を経て、現在は東京大学大学院人文社会系研究科准教授。専門は哲学・倫理学。著書に『それは私がしたことなのか—行為の哲学入門』(新曜社)、『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書)、『不道徳倫理学講義—人生にとって運とは何か』(ちくま新書)などがある。

馴染みのない言葉に生活を乗っ取られる怖さ

――古田さんが2018年に出された著書『言葉の魂の哲学』には、こんな一節があります。

「実際、いま急速に拡大しているのは、他者の言葉に対する何の留保もない相乗りと反復に過ぎないのではないか」
「称賛も非難も、議論や煽り合いも、結局のところ常套句(あるいは、それよりさらに寿命が短く適用範囲の狭い流行語)の使用へと硬直化し、その反復や応酬の勢いと熱量が、物事の真偽や価値の代用品となってしまっているのではないか」

 引用した箇所は、ソーシャル・メディアについて語られたものですが、新型コロナウイルスをめぐって、私たちが言葉に振り回されている状況を的確に言い当てているように感じました。
 古田さんは、「濃厚接触」や「ソーシャル・ディスタンス」など、耳慣れない言葉が飛び交うようになった現在の状況をどのようにご覧になっていますか。

古田 いろいろな意味でまずいと思っています。4月の半ばに朝日新聞にも寄稿したことですが、たとえば、日常的なおしゃべりのことを私たちは「濃厚接触」とは言いませんよね。「濃厚接触」は疫学の専門用語“close contact”に由来するものですが、そういった背景とは無関係に言葉は一人歩きしがちです。だから「濃厚接触は危ない」と言われても、当初は「体が密着するようなことはまずいけれど、おしゃべりは大丈夫だろう」と思った人がけっこういたはずです。

『言葉の魂の哲学』で、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの「……最低の現代文がそうであるのは、意味に心を砕いて言葉を選び取ったり、意味をより明確にするためにイメージを生み出したりしないところに起因する」という一節を引用しましたが、「濃厚接触」は、意味を明確にするイメージを喚起させないどころか、間違ったイメージを喚起する訳語になってしまっています。ほかにも、「社会的距離」は”social distance”の訳語ですが、この言葉から連想するイメージは、物理的な対人距離にうまく結びつきません。
 専門家の皆さんは、カタカナ語をそのまま使うか、粗雑な訳語を採用しがちですが、本来なら、一般の市民に向けた言葉はもっと慎重に選択しなければなりません。また、専門家の言葉はしばしばそのまま権力をもった言葉になるという点にも、もっと注意が向けられるべきだという印象を持っています。

 言葉は、ちゃんと吟味して考えれば、もっとしっくりくるものを選べるはずです。いま現在は緊急事態宣言が出るような状況で、防疫の専門家の皆さんは目の前の対策で手一杯だと思いますし、なかなか言葉を吟味する余裕はないでしょうが、そうであるなら、ほかの人が工夫する必要がある。専門家が専門用語を次々に繰り出し、それに市民が振り回されるという構図は以前からずっとありました。東日本大震災や福島第一原発の事故のときの「内部被曝」や「実効線量」などもそうですね。
 こういった耳慣れない言葉の悪しき影響力や権力性といったものが、新型コロナウイルスの問題で、先鋭化してきている感じがします。

――本のなかでは、「世紀末ウィーン」の論客であり作家であったカール・クラウスの言語論を検討しながら、「言葉を選び取る責任」について論じられています。クラウスが現在の状況を見たら、当時のウィーンと同様に、舌鋒鋭く批判を繰り広げそうです。

古田 文字通り、言葉を選び取る責任があまりにも軽視されていますよね。
 誤解のないように申し上げておくと、カタカナ語や専門用語がダメだと言っているわけじゃないんです。カタカナ語が必要な場合だってあるでしょう。たとえば、新しい状況を理解するうえで、予断を持たせない言葉や間違ったイメージを連想させない言葉を使う方がよい場合もあるはずです。ただ、その場合には、カタカナ語や専門用語の意味、その言葉を使う理由というものを、繰り返し説明する必要があると思います。

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(rawaccess / Shutterstock.com)

 クラウスは、効率よく情報を伝達したり特定の目的を果たしたりするための道具という言葉の側面ばかりに価値を置きすぎると、言葉が奥行きや多面性をもって立ち現れるあり方を忘れて、言語全体を平板な貧しいものにしてしまうといいます。
 まさにいまも、新奇なカタカナ語や専門用語は完全にそのような道具と化している。そして、言葉をそうやって道具として振り回す側からすれば、その使用のルールや範囲がある特定の分野なり組織なりに握られているほうが、都合がいいんですね。

 でも、そういった言葉に振り回されている人たちのなかには、自分の言葉ではないものによって、生活がそれによって方向づけられているという感触を持っている人が多いんじゃないかと思うんです。スーパーへ行ってもドラッグストアへ行っても「社会的距離を保ちましょう」とか「濃厚接触を避けましょう」という言葉が目や耳に入る。下手をすれば街のスピーカーから繰り返し流れたりしている。そうなると、馴染みのない言葉に、自分の生活が明け渡されているように感じられませんか。

――身丈に全然合わない服を無理やり着せられているような違和感があります。なぜ「新しい生活様式」を押しつけられなきゃいけないのかと。

古田 自分の腑に落ちない言葉で生活していくのは、単純につらいと思うんです。でも、それ以上に、押し付けられた言葉で生活することをつらく思わなくなってしまうことのほうが問題です。というのも、それはひいては、自分の思考を自分以外のものに任せてしまうことになるからです。

――しっくりくる言葉を選び取る責任を放棄してしまっているわけですよね。

古田 そうですね。それは専門家の責任でもあり、政治家の責任でもあり、メディアの責任でもあります。一度しっくりこない言葉がマスメディアに広範に流通してしまうと、なかなか取り返しがつきません。とりわけ今回のように、専門家会議や政治家の会見から出てくる言葉をメディアがそのまま流すという、右から左へ垂れ流される状況だと、私たちもその言葉を使わざるを得なくなります。

 もちろん、個人の生活レベルではそれを使わないように抵抗はできますけど、そういった言葉が社会全体を覆うような状況になると、次第に同調せざるを得なくなっていく。「新しい生活様式」という言葉で括られる行動のリストが上から降ってきたら、無批判に、これから言われた通りやっていきましょうとなってしまう。そういう怖さがいまの状況にはあります。私たちはいま、新奇な言葉に振り回されていると同時に、みずから無批判に振り回しているようにも思います。

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不確実さのなかを生きるからこそ面白味や醍醐味がある

――2013年に出された著書『それは私がしたことなのか』や昨年の『不道徳的倫理学講義』の中では、「運」という問題が大きなテーマとして取り上げられています。これらの著作もまた図らずも、コロナの問題と強く切り結んでいるような感じがするんです。というのも、コロナウイルス自体が運というか、偶然性の塊のように思えるからです。
 コロナの問題は置くとしても、古田さんが運という問題を主題に据えるのは、なにか強い動機があるからでしょうか。

古田 運というものを強調する一つのポイントは、私たちの社会でいつの間にか常識と化している、ある原則に対する懐疑があるからです。それは、〈ひとが道徳的な義務や責任を負うべきなのは、そのひとのコントロール下にあった行為や意志のみである〉という原則です。これを拙著では「コントロール原則」と呼んでいますが、この原則を受け入れることは、コントロールに対する要求や強迫観念というものと地続きです。未来は予測できるし、そこに対処することができるから、そうすべきである、というコントロールに対する強迫観念に縛られて、社会なり自分の生活なりを形作っていこうとすると、どうしたって無理があるし、現実のほうに歪みをもたらすと思うんです。

 いまになって、新型コロナの流行を自分は予測していたと言う人は信用できないですよね(笑)。ただ、コントロールへの要求や強迫観念に駆られると、私たちは他者に対して平気で「予測できたはずだ」という非難を向け、責任を追及しがちです。そういう姿勢が常に不要とは言わないけれど、必要なのはむしろ、予測できないことそれ自体に対する対処であり、不確実性そのものを受けとめるための、特定の目的を想定しない社会的なバッファや「溜め」のようなものであるはずです。たとえば、保健所の数と質を普段から十分に確保しておくとか、社会に存在する様々な格差や差別を低減させる努力を普段からしておく、といったことですね。

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(JDzacovsky / Shutterstock.com)

 加えて、「日常」という言葉は、安定したものが繰り返されるというイメージが強いから、コントロール原則への強迫観念と相性がいい。でも拙著では、そういうイメージはある種の幻想だと言いたかったわけです。日常を生きるということは、日々新しいことが起こって、大なり小なり予測もしなかったものに向き合って、それに対処していくという側面がはっきりとあるし、むしろそちらを強調したかった。
 そんなにつらい世界に生きたくない、しっかり安定していてほしい、という見方もあるかもしれません。でも、日常はそもそも不穏で不確実なものだと腹を括っておいたほうが、それこそ今回のような事態に直面したとき、絶望に陥らずに生きていけるんじゃないでしょうか。いや、私たちはそもそもそのように生を営んでいるし、不確実さのなかを生きるからこその面白味や醍醐味があると思うんです。

――『不道徳的倫理学講義』には、「生まれや育ちによる不平等を認め、その格差の固定化を支持することなどに帰着しかねない」と、運を肯定することの危険性も指摘されています。

古田 ええ。すべては運だと考えてしまうと、なんでもありのアナーキーな世界観にも、虚無的な人間観にも転がる危険性があります。でも、だからといって運という要素を私たちの生からまるごと切り捨てるとしたら、なんの陰影もない人生になってしまいます。

 少し回り道すると、絵本作家の五味太郎さんが、今回の新型コロナを受けたインタビューのなかで、「ガキたち、チャンスだぞ」と言っていたんです。
 みんな「今は大変だ」と言うけれど、では、これまでは大変じゃなかったのか。むしろいま、従来からあった大変な問題があぶり出されているという面がたくさんある。がんじがらめの学校のシステムにはめこまれた子どもたちに投げかける五味さんの言葉は、見るべき姿勢もあるように感じます。

 今までのとても安定して予測可能な日常の繰り返しから一転、突如として新型コロナウイルスによる新しい問題が降って湧いてきた、というのは事実ではありません。これまで直視してこなかったけれど、今回の災禍によって否応なく可視化されたり、先鋭化されてきた問題が大半です。そういう意味では、いままでも不安定で不確実だったわけですが、その振れ幅がドーンと大きくなったのがいまの状況だと思うんです。だから、「これまでうまくいってたと思うなよ」と五味さんはおっしゃりたいんだと思うし、その観点に対しては自分も共感します。

「自粛警察」を生み出すもの

――コントロールに対する幻想は、不確実なものを排除したいという点で、昨今の「自粛警察」と呼ばれるような動向とも関わっていないでしょうか。

古田 休業していない店や他県ナンバーの車、あるいは感染者の家庭にいやがらせをするといった動きですね。そういう「自粛警察」の現象には実にさまざまな要素が渦巻いているように思います。

 おっしゃるように、不確実なものを排除したいという動機もあるでしょう。緊急事態宣言が出ているときに、店の営業や遠方への移動をやめさせることは、感染拡大の阻止につながるはずだ。だから、そういった行動をする人をバッシングすることは、正義の行いなんだ。そういう意識です。あるいは、自分も含めて多くの人間が自粛生活を送って、頑張って辛抱しているのに許せないという、非難や他罰の感情に突き動かされている面もあるでしょう。ほかにも、たんに憂さ晴らしや暇つぶしでやっている人もいるでしょうし、もっといろいろと細かく分析できるはずです。

 いずれにせよ、重要だと思うのは、「思うこと」と「やること」の間には決定的な断絶があるということです。心のなかで何を思おうと、それは自由といえば自由です。しかしそれと、たとえば電話で他人に暴言を吐いたり、SNSに誹謗中傷や個人情報などを書き込んだり、店に貼り紙をしたり家に投石したりする、というのはわけが違います。そのような現実の具体的な行為には、当然責任が伴います。
「自粛警察」の行動はたいてい匿名で、「世間」の陰に隠れて行われますから、そうした責任の存在を理解したうえで、責任を回避しようという意図がそこにあるのは間違いありません。つまり、自分のしていることは褒められたことではないという自覚はある。その後ろめたさを、「感染拡大の防止に効果がある」とか「自粛の要請に従わない者は非難されるべきだ」といった理由づけによって打ち消そうとしている。そういう姑息なエクスキューズ込みの行動であるという点が、「自粛警察」の行動がもつ最大の醜さだと思います。

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(Andrii Yalanskyi / Shutterstock.com)

――そもそも、「自粛警察」の行動には本当に効果があるんでしょうか。

古田 その点がまず疑問ですね。一部の人間の行動が「自粛警察」的なものにまで実際にエスカレートしたこととは無関係に、多くの市民が自分自身の義務感から、あるいは世間の目をなんとなく気にして、律儀に自粛生活を行ってきたと思います。
 むしろ、社会心理学者がしばしば指摘しているように、ひどいバッシングにさらされることがわかると、検査で陽性が出ても自分の行動経路を正確に報告しなかったり、そもそも症状を隠そうとしたりする人も多くなる。だから、「自粛警察」の行動がそれとして感染拡大の防止にどれほど役に立っているかは怪しいと思います。

 それから、仮に百歩譲って一定の効果があったとしても、バッシングを受けた人やその関係者、あるいは社会全体に、大きな禍根と傷を残しているという事実があります。そのような行動がそもそも認められてよいのだろうか。私的制裁が黙認され、その機能が秩序の維持のために期待されるという状況は、社会として、国家として恥ずべき状況です。

――なにか処方箋はあるでしょうか。

古田 市民が自分たちの権利をみずから壊すような状況は、ぜひとも堰き止めなければなりません。ただ、現実としてはなかなか難しいでしょうね。少なくとも、まずやるべきことは、「自粛警察」が跋扈する状況がいかに問題なのかを、諦めずに繰り返し訴えていくことです。
 ただ、それだけではやはり足りないでしょう。踏み込んだことを言えば、有事の際に私的制裁が横行しないような制度設計、たとえば国家による私権の制限をどう規定するのかということは、どうしても考えるべきだと思います。

 そしてその際には、生命の安全という観点だけではなく、私たちの自由やその他の権利をどうやって守るかという観点を基礎に置く必要があります。制限の対象や目的を感染症拡大の防止に絞るとか、制限する期間を厳格に数字ベースで設定するとか、制限の開始と解除の手続きをできるだけオープンで民主的なものにするとか、ともかく、恣意的な運用や濫用を防止するために可能なかぎりの知恵を働かせないといけない。じっくりと時間をかけて、きわめて慎重に議論する必要はあるけれども、人権を大事に考えるのであればあるほど、逃げてはいけない問題だと思います。

――制度設計の話とも関わりますが、今回のように、自粛の要請やお願いといった言葉の使い方が、自粛警察を生み出している面も強いんじゃないでしょうか。

古田 そう思います。自粛を要請するという言葉がグズグズになって、「要請に従わない場合には」と言い出したりする。要請には「応じる」ものであって、「従う」べきものではないですよね。そういうふうに、要請と命令の境界がグズグズになってしまえば、その中間領域で私的制裁がはびこることを許してしまいます。
 これは非常に重要な問題で、そもそも、要請と命令とが明確に区別されていることが、私たちの自由やその他の権利の重要な部分を構成しているわけです。そこが曖昧になってしまったら、そうした権利の輪郭自体がきわめてぼんやりとしてしまう。これはとても危ないことです。

――ところで、『言葉の魂の哲学』のなかに、「人は言葉を探して努力するが、ぴったりの言葉は不意に訪れる」という一節があります。「要請」と「命令」の違いもそうですし、あるいは運の問題もそうですが、古田さんの著作は、言葉や行為は自分でいいようにコントロールしきれるものじゃないんだという感覚が一つの線を形作っているように読めました。

古田 その通りだと思います。しっくりくる言葉が訪れるというのも、まさに自分のコントロールを超えた視点があります。のみならず、言葉がどういう意味をもつのか、言葉を発して、それがどう展開していくのか、それが相手にどういう印象を与えて、相手にどういうことを喚起するのか、等々のことは、あらかじめ見えているわけじゃなくて、実際に言葉を発することによって初めて見えてくるところがあります。それを運といっていいのかはわかりませんが、自分のコントロールが効かない部分があることは確かです。そういうところに、これまでの哲学や倫理学では影に潜みがちだった重要な問題があるのではないかという感覚はずっと持っています。

『日本語と論理』は頑張ればついていける

――最後になりますが、このインタビュー連載は「NHK出版新書を探せ!」ということで、古田さんがお読みになったことのあるNHK出版新書を書棚から発見して紹介してもらうというオマケがついています。NHK出版新書は何か読まれていますか。

古田 歴史系の新書は、よく出張のときに持っていって読んでいるんです。間口が広くて内容もしっかりしているので、純粋に勉強になります。ただ今回は、自分の専門分野に近い飯田隆先生の『日本語と論理』を紹介しようかと。

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 これは新書としては、いい意味でとても絞りこんだ問題を議論しています。とにかく骨太なので、ついていけなかった人も結構いるんじゃないかと推察します(笑)。
 ただ、じゃあ研究書かというとそうではなくて、興味を持ってついていこうと頑張ればついていける。汗をかいて、初めて面白さがわかるようなタイプの本ですよね。

 具体的にいうと、この本では、日本語にある「量」の表現を徹底的に分析していきます。論理学では、「すべて」とか「多くの」といった量の表現を「量化詞」といいますが、日本語の量化という問題にぎゅっと絞って議論する本を新書で読めるというのは、大仰なことを言うと、出版文化の豊かさみたいなものを強く感じます。少なからぬ人がここで日本語の量化の問題の面白さをはじめて知って、物事の新しい見方に気づくわけですから。

 しかもこの本では、「カラスは黒い」という総称文と、「すべてのカラスは黒い」という全称文の違いから、ヘイトスピーチなどでよく使われるような言明との関連性にも言及されています。総称文の問題とヘイトスピーチの問題はそれぞれ個別の研究者はいるけれど、なかなか繋がりにくいですよね。和泉悠さんをはじめとする言語哲学者がその辺りの接続をつけようと頑張っておられますが、こうした論点に新書で触れられるという点も重要です。

――『日本語と論理』は私も読みましたが、「頑張ってついていく」という表現がぴったりの本ですね。論理学を堅苦しく教科書的に学ぶのではなく、日本語の数や量の表現という具体的な問題から学ぶ実践的な論理学入門書のように読めました。
 最後になりますが、今後、古田さんの新著のご予定はありますか。

古田 これは今回のインタビューとは無関係で、本当に偶然なんですが、NHKブックスからウィトゲンシュタイン全般の入門書を出す予定です。いまの状況ではなかなか時間を作るのが難しいんですが、なんとか仕上げたいと思っています。

――ウィトゲンシュタイン入門、楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。

*取材・構成:斎藤哲也/2020年5月16日、リモート取材にて収録

〔第4回へ続く〕

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プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)

1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。

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