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「NHK出版新書を探せ!」第13回 新自由主義、功利主義をどう乗り越えるか?――梶谷懐さん(経済学者)の場合〔後編〕

 突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
 ※第1回から読む方はこちらです。

<今回はこの人!>
梶谷 懐(かじたに・かい)

1970年、大阪府生まれ。神戸大学大学院経済学研究科教授。神戸大学経済学部卒業後、中国人民大学に留学(財政金融学院)、2001年神戸大学大学院経済学研究科博士課程修了(経済学)。神戸学院大学経済学部准教授などを経て、2014年より現職。著書に『「壁と卵」の現代中国論――リスク社会化する超大国とどう向き合うか』(人文書院、2011年)、『現代中国の財政金融システム――グローバル化と中央-地方関係の経済学』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞受賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑――アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、『中国経済講義――統計の信頼性から成長のゆくえまで』(中公新書、2018年)、『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書、高口康太との共著、2019年)など。

中国の功利主義と新自由主義

――2019年に出された『幸福な監視国家・中国』では、現在の中国社会を「功利主義」を体現するものとして分析している点が興味深く感じました。

梶谷 中国政府が一貫してめざしているのは、最大多数の最大幸福としての功利主義だということは、かなり明確に言えるんじゃないかと思います。新型コロナ対策を見ているとそのことがよりはっきりわかる。功利主義は、結果としての人々の幸福を最大化するという思想ですから、幸福を測るためのわかりやすい目的関数を定めないといけないわけです。その点で、コロナ禍のなかで感染者や死者を減らすというのは非常にわかりやすい。
 現状を見ると、初動の遅れはあったけれど、いったん感染がひろがった後の対策に関して、大国の中で一番「結果」を出したのは中国と言わざるを得ないですね。なぜ、中国にそれができたのか。一言でいえば、監視と隔離を徹底的におこなったわけです。大規模にPCR検査を実施して、個人の状況を政府が把握する。さらにスマホのアプリで人々の接触記録を徹底的に管理し、少しでも感染が疑われる人は交通機関やレストランを利用できないようにする。もちろん感染者は専門病棟で徹底的に隔離するわけです。
 このことが示しているのは、コロナ禍のようなパンデミック下の功利主義の追求は監視や隔離という形を取らざるを得ない、ということです。もちろん、中国が独裁国家だからそれができるという側面はありますが、同時に、政府の行動原理が功利主義を一貫して採っている、あるいは人々がそれを受け入れているからこそ、監視や隔離という施策を実施しやすいという側面もあると思います。

――一方で梶谷さんが今年(2020年)の秋頃、ウェブメディア「現代ビジネス」に寄稿した「日中で共鳴する新自由主義の行方」では、中国の新自由主義的な側面に焦点を当てていました。中国で新自由主義と功利主義はたまたま結びついているのか、それとも両者は結びつきやすいのか、どちらでしょうか。

梶谷 まず、中国の経済体制を「新自由主義」と見るかどうかに関しては議論の分かれるところだと思います。私はかなり限定を付けつつ、ある側面から見た場合には新自由主義的だ、という議論をしています。具体的には、1990年代前半に西側な天安門事件の制裁がうやむやになり、大胆な外資導入政策に舵を切って以降は、新自由主義的な性格が強い。つまりそのころから中国政府は、グローバルな自由貿易体制の中で最大の利益をあげていくというふうに国家戦略を変えていくわけですね。
 そもそも新自由主義は、経済的な利益の最大化、というわかりやすい目的を追求するので、功利主義とは基本的に相性がいい。ただ、功利主義のほうがより広い領域をカバーしている思想なので、功利主義の立場から新自由主義が批判されることもあり得ますが、逆に功利主義を否定する新自由主義というのは考えにくい。したがって、中国政府の経済的な戦略が新自由主義的になったことで、必然的に功利主義的な傾向も強まってきている、という関係があるんじゃないでしょうか。

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北京にある監視カメラ(2019年当時)
ollytheoutlier / Shutterstock.com

功利主義 vs プラグマティズム

――「日中で共鳴する新自由主義の行方」では、竹中平蔵氏の主張を分析しながら、日本で進められているスーパーシティ構想や公共事業に対するコンセッション方式(施設や事業の所有権を公共の主体が有したまま、民間事業者にその運営権を付与する方式のこと)の導入といった取り組みが、中国政府の経済政策と近似していることを指摘しています。それは、日本社会が中国化する兆候と捉えることができるということでしょうか。

梶谷 まず日本社会についていえば、中国社会とは大きく異なる点があります。以前、政治学者の宇野重規氏と対談した際(注1)にも話題になったことですが、日本の場合、地方自治体や会社、あるいは「世間」といった中間団体がよくも悪くも大きな影響力を持っている。だから、政府による効率的な監視や隔離がなかなか進んでいかないんですね。
 つまり、中間団体が国家権力による自由の制限に一定の歯止めをかけている一方で、感染症対策のような課題に対しては非効率が目立つわけです。したがって日本の中で新自由主義的な政策を進めようとすると、竹中氏のように、中間団体的なものの解体を強く主張せざるを得ません。
 しかし、そういう方向性に関して私は批判的です。中国社会の実情を見ればわかるように、中間団体的なものがなくなることは、権力の集中化とセットなので、怖いこともたくさんあるわけです。国家や大企業の力が強くなりすぎてしまうことに対しては、やはり警戒したほうがいい。
 私も経済的な利益や幸福を追求すること自体は大事だと思っていますし、功利主義のもつ帰結主義的な考え方を否定するのは難しいと思います。ただ、社会によって、「結果」を追求する道筋は当然違っていいわけですよね。そこで、功利主義と対抗するような議論や思想は何かあるだろうかと考えたとき、私がそのヒントになるのではないかと思っているのが「プラグマティズム」です。
 ここでいうプラグマティズムとは、世の中にはある形の決まった「正義」や「真理」があるとは考えず、むしろ人々の行為や経験のなかでそれは絶えず形を変えていく、という思想を指します。人々が社会のなかで自由に行動すると、お互いに意見が衝突したり、失敗したり、さまざまな経験をしますよね。そういった経験の試行錯誤を繰り返しながら、自分たちにとって大事な結論をつかみとっていくことこそが大事だ、と考えるわけです。

注1 「コロナ禍で問い直される 『国家』と『個人』」『公研』2020年7月号

――そういう議論の土台は、日本の中にもあるのでしょうか。

梶谷 土台は十分にあると思います。たとえば、宇野氏との対談では藤田省三の名前を出しました。藤田省三は丸山眞男門下なので、戦後民主主義的な思想家だと語られることが多い人物ですが、民主主義を金科玉条として、それさえあれば日本の社会はうまくいく、という主張をしたわけではありません。日本には理念としての民主主義は十分根付いていないけれども、庶民が戦後の混乱におけるさまざまな経験を通じて、新しい価値を作り上げていく、その姿にこそ民主主義の本質がある、と藤田は考えた。この点は、宇野氏の『民主主義のつくり方』(筑摩選書)を読んで、大きな示唆を受けました。
 最近では批評家の東浩紀氏の姿勢に藤田との連続性を感じることができます。話題になった『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)を読むと、東氏は結論の「正しさ」よりも、いろいろな考えや立場の人がいる世間の荒波でもまれる、つまり「経験」を積むことで、確かな手触りを持った思想を練り上げる、その過程を重視しているように思います。彼はいわゆる「社会正義」を前面に掲げる立場からは距離を置こうとしているため、批判されることも多いのですが、その背景には経験と試行錯誤を重視するプラグマティズム的な発想があるように思います。

中国社会の二面性

――梶谷さんからご覧になって、中国にプラグマティズム的な発想の土壌はあるとお考えですか。

梶谷 1970年代末の改革開放期、つまり毛沢東の死後、農村で人民公社が解体され、農民によって農作物の自由な生産や売買が始まっていく過程は、極めてプラグマティズム的だったと思います。そこでは、政府があらかじめ決まったゴールを提示するのではなくて、地方の自由度が高まったことで、地方ごとに小さな改善が積み重ねられ、大きな変化につながっていった。「改革」の実践において当事者である農民や地元の役人の意思が尊重されたたことも特筆すべきです。
 最近では、深圳のイノベーションが注目を浴びましたが、起業家たちによるスマホアプリ「WeChat」の使い方を見ても、プラグマティズム的な発想が濃厚に感じられます。彼らはWeChatでつながった人同士でプロジェクトごとにどんどんグループチャットを作り、すぐに具体的なビジネスの話につなげていくわけです。それらのプロジェクトがすべてものになる必要はない。「弱いつながり」をとにかくどんどん作って、そのうちの一つでもものになればいい、という考え方です。そういう試行錯誤を通じて柔軟に現実を変えていく、という発想は中国社会に根付いていると思います。
 ただ、前回の話とも重なってきますが、中国の場合、ビジネスの局面ではそういうプラグマティックな試行錯誤が頻繁に起きていても、一つ政治がからむとそれが極めて難しくなるんですね。たとえば巨大な国有企業を改革していくような場合には、そういうプラグマティックなやり方が通用しない。なぜかというとそういう改革には政治権力が関わってくるからです。特に、政治体制の改革という話になると、とたんにプラグマティックな発想が死んでしまう。そういう二面性をもっているのが中国社会といえるでしょうね。

民主的な国家でも監視社会化は免れない

――最後にこの連載恒例の、オススメのNHK出版新書をご紹介いただけますか。

梶谷 2冊あるんですが、1冊目は監視社会との関連ということで『AI vs. 民主主義――高度化する世論操作の深層』(NHK取材班、2020年)です。この本でとくに注目されているのが、いわゆるマイクロターゲティング、すなわち個人データを用いた世論誘導の手法です。同書では、2016年のアメリカ大統領選に際して明らかになったケンブリッジ・アナリティカ(CA)事件を中心に、人々がそれと気づかないうちに、個人情報を集められてプロファイリングされて操作されているというデータ監視社会の実態に警鐘を鳴らす内容になっています。ちなみに、マイクロターゲティングやCA事件の全貌については『マインドハッキング――あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』(クリストファー・ワイリー、牧野洋訳、新潮社、2020年)という本に詳しく書かれているので、2冊を併読するのもいいでしょう。
 中国の場合は、共産党による一党独裁体制のもとで、非常にわかりやすい形で監視社会が実現しているわけですが、『AI vs. 民主主義』は民主的な国家とされるアメリカでも、市民が気づかない形で様々な行動への監視・介入を受けている。そういう状況をどう考えるのか、という問いを投げかけている本です。

――さきほどの話とも関連しますが、デジタルテクノロジーを使った監視社会化は、功利主義的な社会と親和性が高いように思います。同時に、人間を動物的に捉える自然主義的な思想とも相性がいい。そこにプラグマティズムはどのように対抗できるのでしょうか。

梶谷 2冊目の本、仲正昌樹氏の『現代哲学の最前線』(2020年)が、いまの質問を考えるうえで参考になると思います。この連載でも瀧澤弘和氏が紹介していましたね。自然主義から心の哲学まで、現代哲学の潮流が広く紹介されているのですが、プラグマティズムの関連で特に重要だと思ったのがヘーゲルの議論をベースにした「承認論」です。
 なぜ、承認論が自然主義や功利主義に対抗する上で重要なのかというと、一見「動物」的に見える人間の欲求や行動も、実は人々の相互承認によって形作られる社会的な「制度」によって大きな影響を受けている、という立場に立つからです。また、最近の米大統領選の混乱を見ても、対立する相手を同じ土俵に乗った人間として見ない、つまり相互承認の不全がどんどんエスカレートして、事態を悪化させていく事例が増えていますよね。こういった問題を考える際にもヘーゲルの承認論が発想のヒントになるように思っています。

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なぜ日本やアメリカが中国方式を徹底できないのか

梶谷 現代の承認論では、社会的な制度や規範が、人びとの相互承認によって成り立っていることが強調されます。さきほど話したように、中国では農村改革によって人民公社が解体しますが、その際に農民に土地を振り分け、排他的な所有権を設定する、という選択肢は、結局農民たちによって承認されないわけですね。そもそも人民公社についても毛沢東の指令で無理やり作ったけれども、最終的には承認されずに廃れていったわけです。
 翻って、コロナ禍における感染対策について、中国のように監視と隔離を徹底的にやるのが効率的だとわかっても、日本やアメリカでそれを実施するわけにはいかない。それは、コロナ対策一つとってみても、あるやり方が社会で承認されるかどうかは、政府と人々の関係性や歴史的な経緯、人々の経験のあり方などが複雑に作用して決まるからです。中国、あるいは台湾のような「経験」を持たない社会では、徹底した監視と隔離をベースにした対策はなかなか承認されない。このように考えられるのではないかと思います。
 こういう考え方がなぜ大事かというと、それが異なる価値観を持つ人びと同士の対話の土俵をつくるからです。たとえば、中国で監視と隔離が徹底できるのは共産主義だから、あるいは昔から専制国家で、われわれと根本的に違う文明だからと考えてしまいたくなりますが、それは相互承認の否定であり、共通の規範を形成することが不可能になってしまう。中国の側から見ても、コロナには監視と隔離が有効に決まっているのに、なぜ欧米諸国はそれが徹底できずに死者を増やしているのか、馬鹿じゃないの、ということになるでしょうから。そうなると、互いに疑心暗鬼が募り、結局は「あいつらがウイルスをばらまいたんだろう」という陰謀論に行き着いてしまう。
 そうではなくて、コロナ対策は医学的な「正しさ」だけで決まるのではなく、その対策が社会的に承認されるか、そうでないかということも決定的に重要なのだ、という認識を共通の土台にした方がいいと思います。その上で、例えば日本の社会でも承認されるような感染対策とは何なのか、というふうに、それこそプラグマティックに考えていけばいいのではないか。こうしたことを考える上で、『現代哲学の最前線』による承認論の整理はとても参考になりました。

――プラグマティズムが、梶谷さんの次なるキーワードになりそうですね。今日はどうもありがとうございました。

*取材・構成:斎藤哲也/2020年12月16日、オンラインにて取材

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プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)

1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
*斎藤哲也さんのTwitterはこちら
*NHK出版新書編集部のTwitterはこちら

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