唯一無二の友たちと過ごした青春時代と故郷。馳せる思いと、その仲を裂いた古傷の疼き――中山七里「彷徨う者たち」
見出し画像

唯一無二の友たちと過ごした青春時代と故郷。馳せる思いと、その仲を裂いた古傷の疼き――中山七里「彷徨う者たち」

本がひらく

本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。被害者の関係者への聴き込みを続けるも、決定打につながる成果があげられない蓮田。一方、幼馴染・貢の現在の様子を聞き、蓮田は自らの記憶の瘡蓋(かさぶた)をはがす――
※当記事は連載第6回です。第1回から読む方はこちらです。

 二〇〇三年、将悟たちは高校三年生になっていた。それぞれの進路で志望校も異なり、物心つく頃から常に一緒だった四人にも別離の時が訪れようとしていた。
 あと数カ月もすれば離れ離れになるのが分かっていても、四人の日常に大きな変化はない。入試に備えて各々動いていても、一緒にいる時にはおくびにも出さないのが暗黙の了解だった。
 現実を直視するのが怖いのだろう、と将悟は考えていた。小学生でもあるまいしとは思うが、今まで兄妹同然で育ち毎日のように顔を合わせている日常がなくなってしまうことに納得しきれていない。
 辛いことも楽しいこともほどほど、それでも居心地は悪くない。
「よお、モラトリアムって知ってるか」
 前を歩いていた貢が唐突に訊いてきたので、将悟はすぐに返事ができなかった。
「何かでちらっと聞いたことはある」
「元々の意味は政府による支払猶予期間。たとえば法律が制定されても、その日のうちに適用されたら混乱が生まれるから施行まで間を置くみたいな意味だ。そこから転じて、大人になるための猶予期間。ガキんちょからいきなり社会人になれと言われてもまごつくから間を置くようにする。社会に出るのを先延ばしにするから、大学に通う期間がそうだという意見もある」
「じゃあ、大学は遊びの時間かあ」
 看護師学校を目指す知歌は羨ましそうに言う。よくは知らないが、看護師学校には遊んでいる暇などないのだろう。加えて、大学進学組の他の三人に対するひやかしが多分に混じっている。
「大学行っても、遊んでるだけじゃないと思うけど」
 沙羅は少しむっとして反論する。貢の横にはいつも必ず知歌がいるのが気に食わないらしい。沙羅本人は隠しているようだが、将悟には丸分かりだ。
「きっちり勉強しなきゃさ、単位とか成績とかうるさいもん」
「沙羅の家はそうだろうね。お父さん、厳しそうだから。その点、ウチなんてザルみたいなもんだから。看護師学校って実習費はともかく授業料が安いから、それだけでオーケー」
「実際、学費を払う親にしてみれば、大学生活がモラトリアムだなんてふざけるなって話だろうな」
 将悟は父親の顔を思い出しながら言う。大学進学には賛同してくれた父親だが、留年はもちろん成績不良は許してくれそうにない。入学したはいいが、モラトリアムなどと浮かれていたら、とんでもないしっぺ返しを食らうこと間違いなしだ。
「将悟の家も親父さんが厳しそうだもんな」
「そっちはどうなんだよ」
「ウチも負けず劣らずうるさい。これからの建築屋には学歴が不可欠だとかで、色々口出ししてくる。志望大学にまで口出ししようとしたから、そっちは黙殺した」
 貢は常にクラスでも上位の成績を収めている。志望校も軒並みA判定なので、父親から口出しがあるのは意外だった。
「だけどまあ、先月から静かになったんで今はほっとしている」
「説得したのかよ」
「毎晩帰りが遅いから、息子の進路に口出しする機会がない」
 父親が不在がちなのを楽しんでいるように聞こえた。
「毎晩って、会社が休みの日だってあるだろ」
「毎晩だって。土日も休業日も関係なく午前様でさ。何だか接待続きみたいだな。親父、結構イケる口なんだけど」
「知ってる。小学校の保護者会で懇親会やったら、お前の親父さん以外は全員酔い潰れて翌日は仕事にならなかったって話」
 貢の父親健造(けんぞう)は裸一貫で工務店を興し、従業員百名を超える建築会社にまで育て上げた立志伝中の人物だ。れっきとした町の名士だが、幼稚園の頃から祝井宅に出入りしている将悟たちにとっては「気のいいおじさん」でしかない。
「そのうわばみ、毎晩の酒席が祟ったのか、寄る年波には勝てないのか、帰ったら帰ったで昼まで潰れている。お蔭で顔を合わさずに済む」
「考えたら、それも大変だよな」
「肝臓が強くなきゃ建築屋を経営できないってんなら、俺は跡継ぎなんて御免こうむる。接待も嫌だ」
 確かに貢が商売相手のご機嫌を窺う図は想像もできない。接待される側なら辛うじて思い浮かべることができるが、その想像の中でも貢は仏頂面でいる。つくづくお追従を言うのも言われるのも嫌いな男なので、どうしてもそういう構図になってしまう。
「そこにいくと将悟の親父さんはまだマシかもよ。少なくとも肝臓を気にせず仕事ができる」
「だな」
 民間でありながら、およそ接待とは無縁と思われる職業。
 将悟の父親慎太郎(しんたろう)は地方紙の記者だった。

 その夜、慎太郎はいつもより早めに帰ってきた。
「午後九時前に帰れるなんて何カ月ぶりかな」
 慎太郎はカバンを置くなり、テーブルにやってきた。そう言えば家族で食卓を囲むなど、ここ何年もなかったと気づいた。
 母親もテーブルにつき親子水入らずの団欒(だんらん)となったが、母親は元々口数が少ないので、そのうちキッチンには各々の咀嚼(そしゃく)音しか聞こえなくなる。
「学校の方は、どうだ」
 見かねた様子で慎太郎が訊いてくる。普段から疎かになっている父子の対話で溝を埋めようとしているのが透けて見える。
 そもそも慎太郎が将悟の大学進学に賛同したのは、息子も新聞記者にさせたいためだ。口には出さないが雰囲気で分かる。将悟本人にその気はさらさらなく、ただ大卒の資格を得たいだけだ。
 父親の気紛れに付き合うのも億劫なので、早々に話を切り上げたくなった。
「あのさ。折角母さんが作ってくれたから食事に集中したいんだけど」
「食事中でも会話は必要だろう」
「会社で昼飯食っている時もそうなのかよ」
「ああ、話が途切れることはない。上役や同僚の本音が聞ける、絶好の機会だ」
 父親の会社では決まったグループで同じ食堂に出向くのがもっぱらだと言う。いい歳をして昼飯くらい一人で食べられないのかと思うが、父親は一向に気にする気配もない。
「一人で昼食というのもなあ」
 誰からも相手にされていないように見られるのが嫌なのだとしたら、まるで小学生ではないか。そんな情けない大人にはなりたくないと、真剣にそう思う。
「家と会社を一緒にするなよ」
「どこの家庭だって団欒の会話くらいはあるだろう」
 つい、話を逸らしたくなった。
「そうでもない。貢の家なんか最近はずっと親父さんが午前様だって」
「へえ、あの健造さんがか。従業員と吞み歩いているのか」
「じゃなくて接待だってさ。毎晩続いているから、さすがの祝井さんも昼まで酔い潰れてるんだって」
「ふうん」
 慎太郎との会話はそこで途切れた。
 将悟はすっかり忘れていたが、この時の会話を後々まで悔いることになる。

 事件が報道されたのは十二月に入ってからだった。
『県会議員に収賄疑惑』
 慎太郎の新聞社が一面トップ記事に持ってきたのは、宮城県議会最大派閥の領袖である呉竹(くれたけ)議員が公共工事の入札に関し、地元業者に情報を漏洩したとの内容だった。全国紙や他の新聞社は一行たりとも触れておらず、地方紙には珍しいスクープと言える。
 普段なら他人事で済ませられるニュースだが、将悟にとって看過できない問題が三つあった。一つはスクープをすっぱ抜いたのが慎太郎であったこと、二つ目は記事が慎太郎の署名入りだったこと、そして最後は贈賄した業者が祝井建設であったことだ。
 記事の内容は関係者の特定も然ることながら、贈収賄の事実を微に入り細を穿つように記述していた。かなりの期間、執拗に調査したであろうことが如実に窺える。実際、後で確認すると、慎太郎はこのネタに食いついてからというもの碌に帰宅もせず祝井建設と呉竹議員の周辺を嗅ぎ回っていたらしい。
 母親の話によると、当時の慎太郎は仕事に行き詰まっていたらしい。たとえ地元有力紙であっても自分は支局勤めであり、南三陸町の限定された記事しか書かせてもらえない。昼飯時も上司や同僚と離れられなかったのは、記者としての実力を知られないまま冷遇されるのが怖かったからだろう。
 呉竹議員収賄のスクープにより、慎太郎に対する評価は激変した。支局内は元より本社からも称賛され、特別賞の候補にも入ったと聞く。それまで目立たなかった日陰の花が一挙に注目された感があり、慎太郎本人も戸惑い気味のように見えた。
 だが、誰かの幸福は他の誰かの不幸でもある。慎太郎のスクープによって奈落の底に突き落とされた者たちも存在した。
 一人は収賄側の呉竹議員だ。スクープに先んじられたかたちの宮城県警はおっとり刀で呉竹議員の事務所に駆けつけ、段ボール箱数十箱の証拠物件を押収した。ノーマークだった経済事件をいち地方紙にすっぱ抜かれ、面目を潰された県警の怒りはそのまま呉竹議員への追及に転化された。呉竹議員も抵抗を試みたものの、収賄の事実を示す物的証拠を山ほど押さえられてはぐうの音も出ない。一審二審とも有罪判決が下され、結果的には刑法第197条1項、単純収賄の罪で懲役四年の刑と相成った。
 もっともこれには後日談があり、県議会最大派閥の領袖が逮捕・送検されると、その後釜に座ったのが沙羅の父親、森見善之助だった。つまり意図せず、将悟の父親が沙羅の父親を利する結果になったのだ。
 辛酸を舐めさせられたもう一人は言うまでもなく祝井健造だ。贈賄の証拠も多く押収され、祝井には反論の余地がない。こちらも二審まで争ったが懲役二年四か月の実刑となった。
 そもそも収賄側に比べて贈賄側の罰則は軽くなっており、呉竹議員の懲役四年に対して祝井の二年四カ月はいかにも少なく感じる向きがあった。だが、民間企業は一度信用を失うと回復が困難だ。当然のことながら受注は激減し、健造が収監されている間に従業員は半分ほどになった。刑期を終えて出所した健造は先頭に立って遮二無二働いたが、かつての業績を取り戻すのに途轍もない労力を費やし、髪の毛が全て白くなったという。
 そして迷惑をこうむったもう一人が他ならぬ将悟だった。
 呉竹議員と祝井健造が逮捕された翌日、将悟は貢に呼び出された。呼び出された場所は近所の森だったので、既に悪い予感しかない。
「まさか将悟の親父さんにスクープされるとは想像もしなかった」
 せめて署名記事で出すなと思ったが、後の祭りだった。
「あの……悪かった」
「お前が謝る必要はない。親父さんが仕事でしたことだし、将悟が無関係なのは知っている」
「そうか」
「でも、もうウチには近づくな」
 普段と同様に冷静な口調なのが、尚更応えた。
「いくら息子には関係ないと言っても、母さんも妹もお前を決して歓迎しない。それどころか玄関で塩を撒かれる」
「分かった」
「俺も、今まで通りにはいかない」
「息子は無関係じゃないのか」
「理屈はそうでも感情は別だ。今、親父を警察に持っていかれて有罪判決を食らったら、ウチはどうなると思う」
 不意に貢の言葉が尖った。
「親父が公共工事を受注しようと躍起になっていたのは薄々知っていた。今は民間の受注が減って、ウチの会社も青息吐息だったからな。連日の接待相手は十中八九呉竹議員とその取り巻き連中だと思う。昨夜母さんを問い詰めたら、接待費の総額がとんでもない金額でさ。借金してまでこさえた接待費だった」
「借金してまでって」
「それだけ追い詰められていたと思う。昔みたいな工務店ならともかく、今は百人の従業員を抱える会社だ。従業員本人とその家族を養っていかなきゃならない。親父も必死だった」
 聞いているうちに胸が塞がってきた。
「調べたんだ。贈賄罪の法定刑は三年以下の懲役または二百五十万円以下の罰金。起訴されてどう裁判が進むか分からないけど、ただでさえ借金塗(まみ)れだから罰金も払えない。親父を三年も懲役にされたら会社を存続できなくなる。ついでに言うと、俺の進路も見直さなきゃならない」
 貢は皮肉な笑みを浮かべる。今まで見た中では最も悲愴な顔だった。
「将悟には何の責任もない。頭ではちゃんと理解している。だけどお前を見ていると、顔のかたちが変わるまで殴りたくなる」
 一瞬、殴られてもいいと思った。
 昔から小さなことでよく喧嘩をした。相手の力の強さも殴られる痛みも知っている。殴られただけで貢の気が済むなら安いものだと思った。
「だけど殴らないでおく」
「どうして」
「直接の加害者でもないヤツを殴るのは俺の流儀に反する。お前の顔を変形させたくらいで終わる話でもない」
「じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ」
「言った通りだ。俺にも俺ん家にも近づくな」
「……この先、ずっとか」
「元に戻りたいのは俺も同じだけど、それがいつになるかは分からない。きっと誰にも分からない」
 そう言うと、貢は背を向けて森から出ていった。
 後には呆けたような将悟一人が残された。

 事件が報じられた後も知歌と沙羅は貢と一緒だったので、自ずと将悟は三人と距離を取るようになった。
 こうして十二月は瞬く間に過ぎ去り、新年が訪れ、門松が取れる頃には否応なく入試シーズンに突入した。
 慎太郎から途轍もなく嫌な話を聞かされたのは、ちょうどそんな時だった。
「仙台本社へ転勤することになった」
 聞けば社長賞の受賞決定とともに転勤の内示を受けたのだと言う。
「社長賞受賞と栄転のペアってことね」
 母親は我が事のように小躍りする。今の住まいは借り上げ社宅なので、家族帯同に何の問題もない。将悟の志望大学も仙台市内なので都合がいい。
「これで将悟が合格すれば自宅通学できるわね」
「別に独り暮らしさせても構わないがな。元はと言えば、今回のスクープは将悟のお蔭だしな」
「どういう意味だよ、それ」
 慎太郎の返事を聞いた将悟は愕然とした。
 そもそも慎太郎が祝井健造の贈賄を嗅ぎつけたのは、将悟の話を聞いたのがきっかけだったのだ。「健造が毎晩のように接待に勤しんでいる」。傍から見ても祝井建設の景気は思わしくなく、そんな時期に接待に明け暮れるのは何やら裏がありそうだ。
 そこで健造の身辺を探っていると呉竹議員と頻繁に接触していることが分かった。呉竹議員は県内の公共工事において隠然たる影響力を持ち、片や祝井健造は大きな受注を求めている建設業者だ。そうなれば二人の会合目的は一つしかない。
 かくして慎太郎は健造から呉竹議員へのカネの流れを摑み、領収書のコピーやら何やらを入手してスクープをものにしたという次第だった。
「お前の世間話が役に立った」
 言われた途端、猛烈な吐き気に襲われた。
 冗談じゃない。
 では祝井家および祝井建設を窮地に陥れた元凶は自分だったというのか。
「クソッタレ」
 将悟はひと言洩らすと、逃げるように自室へ駆け込んだ。
 親父のクソッタレ。
 俺のクソッタレ。
 こんなことなら貢に思いっきり殴られていればよかった。顔のかたちが変わったのなら、少しは罪悪感も紛れたかもしれない。
 今更貢にどの面を下げて会えというのか。当分近づくなという言葉は非情でもあり、逆に有難くもあった。
 三学期が始まったが、互いに入試に追われている事情もあり、他の三人とは言葉を交わすことさえなくなった。スクープの元ネタが己であるのを知ってからは、会うことを回避するようになった。家では引っ越しの準備も始まり、落ち着く場所さえなかった。
 不思議なもので、気分は最悪だったにも拘わらず入試では実力以上の力を発揮できた。将悟はめでたく志望大学に合格し、慎太郎の転勤とともに生まれ育った南三陸町を後にした。
 三人もそれぞれ希望通りの進路に決まったと人伝に聞いたが、声を掛けるのも憚られて、結局は別れの言葉一つ交わさなかった。
 一家揃って仙台市に転居したものの、将悟は独り暮らしを決めてアパートを借りた。口には出さなかったが、父親と同居するくらいなら公園で寝泊まりする方がましに思えたのだ。
 幼馴染みとも家族とも決別した生活は孤独だったが、気楽でもあった。やがて学内に親しい友人ができ、南三陸町での出来事はほろ苦い記憶となって意識の底に眠った。
 記憶を叩き起こされたのは二〇一一年三月十一日、十四時四十六分のことだった。
 宮城県警本部の庁舎にいた蓮田は突如として大きな震動に襲われた。
 ぐらりと緩慢な揺れの後、立っていられないほどの横揺れが長く長く続く。天井の蛍光灯も千切れんばかりに揺れ、キャビネットの扉は開き、机の上の備品と書類はほとんど吹き飛び、遂にはキャビネット自体が倒れてきた。けたたましく地震警報が鳴り響き、天地が逆転するのではないかと慄いた。
 十分も続いたかと思ったが、実際には三分間ほどの揺れだった。
 被害状況を調べろ。
 班長の指示で周囲の人的被害を確認した後、部屋のモニター電源を入れた。
 我が目を疑った。
 地震による建物被害も然ることながら、東日本の湾岸を襲った津波被害はこの世のものとは思えないほどの凄まじさだった。
「何だ、これ……」
 誰かの呟きはその場に居合わせた者全員の思いを代弁していた。
 波ではなく巨大な壁となった海が沿岸部の街を襲う。沖合にあったはずの船舶が道路に流れつき、車両がオモチャのように浮かぶ。やがて津波は建物の一階部分にまで浸水し、基礎ごと流し去る。マイクが拾う音には激流と倒壊の音とともに、確かに悲鳴らしきものが混じっている。
 安否確認を許されたので仙台市内の実家に電話をする。まず母親の無事が確認できた。母親の話では慎太郎からも安否確認の電話があったというから、父親も大丈夫なようだ。
 各地の被害を映し出すモニターは、やがて南三陸町歌津地区の惨状を晒した。
『ただいま津波がきています。海岸付近には絶対に近づかないでください』
 町の広報にサイレンが重なる。だが海から襲来した黒い波は既に第一防波堤を越え、住宅地を吞み込んでいた。水煙か土煙が波間から立ち上る中、ウミネコの鳴き声だけがいやにはっきりと聞こえる。
 次の瞬間、蓮田は腰を抜かしそうになった。
 カメラが大写しにしているのは見覚えある歌津大橋だ。東西を走る歌津大橋は住宅の二階部分より高い位置にある。ところが有り得ない光景がそこにあった。岬の反対側から回り込んだ波が歌津バイパスを伝って橋の上に流れてきたのだ。上下から襲われた住宅地はひとたまりもない。電柱が薙ぎ倒され、ほどなくして建物も押し潰された。じきに橋自体も波の下に消えた。
『山に逃げろ』
『小学校が。公民館が』
 だが押し寄せた波よりも引き波の勢いの方が凶暴だった。第一波で破壊された建造物を根こそぎ海の向こうへ奪い去っていく。
 モニターを食い入るように見つめながら、蓮田は机に両手を突いて全身を支えていた。そうでもしなければへなへなと床に崩れ落ちそうだった。
 庁舎内の片付け作業や被災者誘導の日々が始まった。同僚の中には家族を失った者も少なくなく、それでも公務に身を投じる姿は見ていて痛々しかった。同時に、家族も財産も何一つ失わなかった我が身をひどく後ろめたく思った。
 壊滅状態となった南三陸町の状況が気懸りだった。身元の判明した死亡者情報は警察で取り纏められる。蓮田は連日記録に目を通し、三人の名前がないのを確認して胸を撫で下ろした。だが貢の母親と妹、知歌の両親、沙羅の母親は還らぬ人となっていた。
 三人に連絡をしようとしたが思い留まった。彼らにどんな慰めの言葉を掛けていいのか分からない。いや、そもそも自分の弔意など彼らが受け容れてくれるかどうかも疑問だった。
 追悼と被害状況の確認、被災者の誘導と整理、各行政機関との連絡、瓦礫の撤去。その間にも大小様々な事件が発生し、蓮田たちも昼夜を問わず働き続けた。
 南三陸町に残った三人とは、遂に話さずじまいだった。

ひとつ前に戻る  次を読む

プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)

1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

関連書籍

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信しています。ぜひこちらもチェックしてみてください!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!
よかったら記事のシェアもお願いいたします!
本がひらく
NHK出版の書籍編集部が、多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!