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沖縄に、琉球料理の伝道師に会いに行く――ぬちぐすい~聞き書き琉球料理

 琉球王国の流れをくむ洗練された料理のつくり手で、かつて日本全国からその料理を食べるためだけに沖縄を訪れる人も多かった伝説の料理人、山本彩香さん。自身の店を閉じた後も、琉球料理を次世代に伝える活動に取り組んでいます。食や工芸に造詣の深いライターの澁川祐子さんは、山本さんに惹かれたその一人。何度も沖縄に足を運び、山本さんから直接教わった料理や文化を記録した新連載です。

#0 琉球から沖縄へと続く文化を追って

 琉球料理家の山本彩香さんを象徴する料理の一つに、自家製の豆腐ようがある。豆腐ようは、琉球王朝から受け継がれてきた珍味の一つだ。沖縄で、珍味は「ほかにはないもの」という意味で「たじねーむん」と呼ぶ。沖縄の豆腐を紅麹と米麹、それに泡盛に漬け込んだ、手のかかる味だ。
 彩香さんの豆腐ようを初めて食べたとき、その香り高さとまろやかさに衝撃を受けた。今まで食べたことのある、クセが強く、塩辛い豆腐ようとはまるで別ものだった。珊瑚色のタレをまとった豆腐ようは、濃厚なのにくどくなく、香りとコクが長い間、口の中で反響していた。以来、何度食べても、その“ほかにはない”味に目を閉じて、じっと反芻したくなってしまう。
 一度味わったら、もう一度味わいたくなる。それは、彩香さんに対しても同じだった。一回の取材で終わりにならず、もう一度会いたいと飛行機に乗って押しかけたのは、ライターを20年近くやってきて、初めてのことだった。
 ここでちょっと断っておくと、私はふだん彼女のことを「先生」とは呼ばず、「彩香さん」と呼んでいる。最初に会ったときに「あなたの先生ではないから、先生と呼ばないで」と言われたからだ。なので、いつものように「彩香さん」と書くことにする。
 同様に彩香さんは、ないちゃー(本土の人)が沖縄の高齢女性のことを「おばあ」と気安く呼ぶことを嫌う。「あなたのおばあちゃんじゃないんだから」と。そう苦々しく言うのを初めて聞いたとき、私はハッとした。そこには、よそ者の身勝手なエキゾチシズムが潜んでいるんじゃないか。太陽が照りつける白い砂浜で顔をしわくちゃにしながらほがらかに笑う、日に焼けたおばあちゃん。そんな色眼鏡で見られることが、彩香さんにとっては我慢がならないのだ。なんせ沖縄は、小さいながらも琉球王国という、れっきとした一つの国家だったのだから。
 もちろん、彩香さんは昭和の生まれだから、琉球王国はすでに歴史上の存在だった。だが、彼女はその栄華を色濃く感じる環境で育ってきた。
 彩香さんは1935(昭和10)年、東京出身の父と沖縄出身の母との間に、東京で生まれた。しかし貧しさゆえに、2歳で母の姉である崎間カマトの養子となり、那覇に渡った。養母カマトは、戦前まであった那覇随一の花街「辻(ちーじ)」の尾類(じゅり)だった。尾類とは芸妓を指すが、内地と大きく違うのは、芸事だけでなく料理も自ら手がけ、客をもてなしていたこと。養母は、琉球王朝の包丁人から直々に手ほどきを受けた料理の名人だった。そんな養母の手料理を食べ、舌を鍛えられて育った。
 また彼女は5歳から琉球舞踊を習い、25歳で大家の島袋光裕氏に弟子入りする。踊りの所作、歌の言葉、独特の旋律、身につける衣装。琉球文化の粋(すい)が凝縮された世界に身を浸し、舞踊家として独立する。そして踊りで身を立てるかたわら、飲食店を営み、58歳で舞踊の世界を引退した後は、料理の道一筋でやってきた。
 その間に沖縄では第二次世界大戦が起き、アメリカ世(あめりかゆー)が到来し、本土に復帰する。目まぐるしく変わる世の中で、彼女が確かだと思えたもの。それが、かつての美しい琉球の姿だったのではないだろうか。

ブレない「舌」と「目」に惹かれて

 私が彩香さんに惹かれたのは、料理の美味しさだけではない。彼女の「舌」と同時に、その「目」にもまた引きつけられた。
 「盛りつけのときの美意識は、踊りで培ったもの」と言うだけあって、長年かけて磨いてきた目には、いつも迷いがない。料理の撮影をするときも、手持ちの沖縄の漆器や陶器に料理を盛り、その下に宮古上布や紅型などの染織をさらりと取り合わせる。私たち制作陣が、布の積まれた山からああでもない、こうでもないとやっていると、「これがいいんじゃない」と鶴の一声が飛ぶ。はたしてそのとおり、料理とうつわ、布がぴたりと調和する。
 とくに印象に残っているのは、あんだんすー(あぶらみそ)を撮影した一枚だ。葉の文様が刻まれた淡く緑がかった灰釉の壺の背景に、どの布を合わせるか悩んでいたところ、箪笥から一巻きの布を出してさっと広げた。それは、壺の文様と似た葉が描かれた、白い麻の帯地だった。帯地を使う発想にも驚いたが、葉の文様がシンクロする、淡い色同士の組み合わせは幻想的な美しさで、合わせた瞬間に息を呑んだほどだった。
 私はもともと、沖縄の工芸にも関心があった。学生時代に民藝を知り、一時は日本民藝館に通い、編集の仕事に携わっていたこともある。そのときに伝統的な沖縄の染織品ややきものにふれ、沖縄という土地が生み出す力強い造形や色彩に心を奪われた。だから、彼女の目を通していま一度、その魅力を深く知りたいと思ったのだ。
 出会いを機にその細い糸をたぐり寄せ、2020年の初頭に彩香さんと一冊の本を世に送り出した。好き嫌いがはっきりしていて、固い信念を持つ彩香さんとの仕事は、途中、糸がこんがらがって切れるかと思う瞬間もあった。でもなんとか形になったのは、結局のところ、私も他のまわりの人と同じように彩香さんの頑固で譲らない一面と、遊び心に溢れた茶目っ気のある一面とのギャップにヤラれてしまったのだと思う。
 本づくりの最終段階で、校正紙を持って沖縄に飛んだときのこと。最後の一文を読み終わると、彼女は「ありがとう」と言って、わっと机に突っ伏して泣き出した。そしてしばらく伏せていた後、急にすくっと起き上がってこう言った。
 「お腹が空いたから、ご飯食べに行こう!」
 そんな“がちまやー(食いしん坊)”の彼女に、まだまだ教えてもらいたいことがある。そして彼女を通して磨かれた琉球から沖縄へと続く文化を、できるだけ記録しておきたい。だから私はコロナ禍を縫って、また南の島に通い始めることにした。

題字写真・宮濱祐美子

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プロフィール
山本彩香(やまもと・あやか)

1935年、東京都生まれ。2歳で伯母の養女となり、那覇の花街「辻」に移る。5歳から琉球舞踊を習い、61 年に琉球舞踊の新人賞、82年に沖縄タイムス芸術選賞大賞を受賞。58歳で舞踊の世界を引退し、99年「琉球料理乃山本彩香」を開き、予約の取れない伝説の店と評判に。77歳で同店を閉めてからは、琉球王朝から辻へと受け継がれた琉球伝統料理を知る数少ない一人として講習会やメディアを通じ、その普及に努めている。

澁川祐子(しぶかわ・ゆうこ)
1974年、神奈川県生まれ。フリーのライターとして活動するかたわら、『民藝』の編集にも携わる。現在は食や工芸のテーマを中心に執筆。『にちにいまし ちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(山本彩香著、文藝春秋)、『暮らしを手づくりする 鳥取・岩井窯のうつわと日々』(山本教行著、スタンド・ブックス)の構成ほか、著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎 人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)。

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