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日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話――エッセイ「日比谷で本を売っている。」第11回 〔バンドマンと壺〕新井見枝香

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 髪の長い人には、定期的に「バッサリいきたい」という発作が訪れるようだ。髪は1年間に、約12センチほどしか伸びないと言われる。襟足を刈り上げるようなショートカットから背中の真ん中辺りまで伸ばすとなると、最低でも3年はかかるだろう。なんてことをしてくれたのだ。
 発作の度にファンから全力で止められていた私の推しが、この度ついに、その美しい長髪を「バッサリ」やってしまったのである。SNSに投稿された写真を見て、目眩がした。コロナの影響で半年以上LIVEが開催できず、我々の「どうか切らないで!」という悲痛な叫びは、彼に届かなかったのだ。
 ビジュアル系バンドマンの彼には、爽やかなショートヘアが似合わない。短くした前髪は顔を大きく、露わになった首筋は彼の中性的な美貌の邪魔をする。彼の髪を切った美容師が憎い。もし私がその場に居合わせたら、手近にあるのが国宝級の壺でも、迷わず美容師の頭を殴って昏倒させただろう。
 壺で思い出したが、彼と同年代の元ビジュアル系バンドマンは、現在、古美術を扱う仕事に就いている。彼のインスタを開くと、丸っこくて茶色い壺や、蓋付きの白い壺、なすびみたいな壺や、花を描いた壺が並んでいた。どれも地味で渋すぎる。かつてステージでベースを床に叩きつけ、奇声を上げていた人とは、到底思えない。偏見で申し訳ないが、キンキラキンの壺をファンに売りつけているほうが、よっぽど違和感がなかっただろう。私は彼のインスタをフォローしなかった。いくら見ても、彼が絶賛する壺に何の魅力も感じなかったからだ。

 戌井昭人氏の小説『壺の中にはなにもない』は、26歳にして恋愛経験が一度もない男が主人公の物語だ。彼の祖父で高名な陶芸家・繁松郎は、複数の愛人を抱えて枯れる気配がなく、恋愛にも美術にも興味を示さない繁太郎とは全く違う価値観を持っている。しかし、何故か孫の繁太郎を気に入っていて、何かとかまいたがるのだ。祖父の壺を《元をただせば、ただの土》と言い捨てる繁太郎には、高い金を払ってまで手に入れようとする人々の感覚など、全く理解ができない。はたして、壺の価値もわからない繁太郎が愚かなのか。それとも、ただの土塊(つちくれ)に大金を払う人々が愚かなのか。ただ言えるのは、壺にどれほど高い値が付いても、それは自分以外の人間が付けた価値で、繁太郎が感じる価値には影響しないということだ。その年齢で恋をしたことがないことも、祖父のコネで銀座のギャラリーに入社したことも、そこでポンコツと思われていることも、温かいごはんに常温のままのレトルトカレーをかけて食べることも、おかしいと思うのは周囲であり、彼にとってはおかしくないことなのである。
 それなら繁太郎は、何を美しいと思うのか。たとえば彼に作らせたら、どんな壺を作るのか。そして、どんな人間に魅力を感じ、愛するのだろうか。物語が進むうちに、繁太郎の価値観を知りたくなる。むしろ理解できない自分は、思い込みに囚われたつまらない人間のような気がしてくるのだ。
 元バンドマンがインスタに上げた壺を、私は色眼鏡でしか見ようとしなかった。髑髏(どくろ)の指輪を嵌め、赤い髪を逆立てていた彼に、裏切られたような気持ちになっていたのかもしれない。頑なにならず、推しの新しい髪型を受け入れてみよと、この小説は私に教えてくれたのである――。

 なんていうのもまた思い込みで、小説も壺と同じだ。国宝級と聞けば、壺の中の空気にまで価値があるように感じるものである。本の中に詰め込まれた文章を、私が冷静に判断できているかは、甚だ怪しい。
 繁太郎が職場にいたら、ただただ迷惑なだけであるはずなのに、本の中にいるだけで、たちまち彼から何かを学び取らなければならないような気になっているではないか。
 小説が面白かったことは、私の“感覚”として間違いがない。しかし、ないものをあるように見せるなんて、小説家の得意技であるから、用心が必要だ。
 繁太郎はただのダメ人間で、この小説から学ぶべきことは何もなく、やっぱり推しがショートヘアにしたのは失敗だった、という判断もなきにしもあらずなのである。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら
*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら

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