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ロシアとウクライナは仲の悪い「兄弟国家」? プーチン大統領がウクライナに固執する歴史的理由

 国際社会の懸命な説得もお構いなしに、2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始した。なぜプーチン大統領はウクライナにこだわるのか? そもそもウクライナとはどのような国なのか? ロシア政治研究の第一人者・下斗米伸夫さんの著者『プーチンはアジアをめざす』から、第2章「ウクライナで何が起こっているのか」の一部抜粋記事を緊急公開します。

ロシアとウクライナの兄弟関係

 ウクライナ問題とはいったい何なのだろうか。
 ウクライナはソ連崩壊後に誕生した人口4500万人ほどの国、ロシアに次ぐスラブの大国である。こう書くと新興国のように見える。しかし国連が1945年に設立されたときには、ウクライナは51の原加盟国の一つで、憲章に署名した国でもある。さらには、二度にわたって安保理の非常任理事国でもあった。つまりソ連の構成国でありながら、同時に国連では独立国でもあるという、「半主権国家」とでも言うべき立場だったのである。
 なぜこのような奇妙なことが起きたのか。まず理解すべきことは、ウクライナとロシアとが、歴史的に特殊な関係にあるということだ。
 ウクライナはロシアの「兄弟国」と称される。そのような関係が成立したのは、988年にキエフ・ルーシ国家(ロシアの起源とされる国家)が、キリスト教の一派である東方正教を受け入れて以来、というのが通説である。あまりに昔の話ではないか、と思われるかもしれない。しかし両国の関係を読み解くうえで、これほど見過ごしてならない要素はないと考える。それは、次のことからも明らかだろう。
 プーチンは、ロシアには1000年以上も前から、多民族国家として共通の連続した歴史があると発言したことがある(2012年末の大統領教書演説)。つまり、ロシア革命によってソビエト権力が成立する1917年でも、ソ連が崩壊してロシア連邦が成立した1991年でもなく、キエフ・ルーシ国家の成立以来という10世紀以上の長い時間軸にもとづいてロシアという国家を論じたのである。
 言うまでもなく、現在のキエフはウクライナの首都であり、ウクライナも当然キエフ・ルーシ国家の系譜に連なる。その意味において、ロシアとウクライナを兄弟関係と称するのは当然のことと言えよう。いな、キエフでは自分たちウクライナのほうがロシアの「兄」とする説もあるようだ。たしかに歴史から言えばそちらが古い。
 兄弟国家と言ったとたんに、主権の平等という現代国際関係の基本であるウェストファリア(1648)体制とは別の関係が現れてくる。もっともチンギス・ハンの軍隊によって13世紀に滅びたのちは、ウクライナは国家を持つことなく、ポーランド、そしてロシア帝国の「周辺」(ウクライナ)となった。コサック国家として17世紀半ばに、そして1917年の革命後にごく短期に国家となっただけで、残りは「弟」のロシア、そしてソ連の一部でしかなかった。

ロシアの正教外交

 国家と国家の関係を語る際、宗教的なルーツがどこまで有効なのかと訝しむ向きもあるもしれない。だが、近代になって社会が世俗化されるまで、どこでも宗教とは、文化や言語から絵画や音楽にいたるまで、およそ文明の基礎であった。
 それはロシアも同様だ。正教を受け入れたキエフ・ルーシは、東スラブおよびそこで生まれるルーシ国家群の発祥地となった。現在のロシアを意味する「偉大なルーシ」、ウクライナの「小ルーシ」、あるいは「ベラ(白)ルーシ」などがそうだ。そのほか「赤いルーシ」は西のガリツィアあたりを指したが、ここはロシアとは無関係だった。
 もちろん現在のロシアは世俗国家である。しかし宗教という紐帯は長い歴史を通して、ロシアとウクライナとの関係にも影響を及ぼしつづけてきた。
 象徴的なエピソードを紹介しよう。2009年にロシア正教のトップ、総主教になったキリルは、同年ウクライナを訪れている。キエフにおいて総主教は、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシといった「歴史的ルーシの統合」について語るとともに、ウクライナの首都キエフこそ「ロシアのコンスタンチノープル、そしてエルサレムである」と指摘した。つまり、キエフという“聖地”を中心に、ロシアとの「兄弟」的団結を求めたというわけだ。
 同じメッセージは、2013年7月のロシア正教受礼1025年祭でも繰り返された。このとき総主教に同行したプーチン大統領も、受礼1025年を祝うとともに、これがロシアの「文明的選択」であったと述べている。
 もっとも、「ユニエイト」と呼ばれるウクライナ東方カトリック教会(半正教、半カトリックの性質を持つ教会)は、この受礼1025年祭には参加することなく、独自の記念日を祝っている。2013年の秋、同派は自分たちが「ヨーロッパ人」であると宣言し、カトリック内部で人事権を持つローマ教皇の代表と会見した。
 ここから言えることは、ロシアとウクライナは兄弟関係にあるといっても、決して仲睦まじいわけではない、ということだ。ロシアは兄弟関係を強調する一方、ウクライナにはこうした「正教外交」に反発する人々も存在する。それが両国関係の現実であり、今回の危機の歴史的原因でもある。

ウクライナの二元外交

 1991年にソ連から独立して以来、ウクライナはロシアとヨーロッパのあいだで揺れ動いてきた。2010年に政権に就いたヤヌコビッチ大統領は、一般に“親ロ派”と称される。日本の報道を見ても、「ヤヌコビッチは親ロシア派だったために、2014年の“革命”で親EU派によって追い落とされた」という俗説がある。しかし、ウクライナという国の大統領は、そうした一面だけでは務まらない。実際、“親ロ派”のヤヌコビッチ政権においても、ロシアとヨーロッパとの二元外交が行われていた。
 ウクライナ政治は“親ロ派”と“親欧派”といった二元論的なレッテル貼りで済まされるほど単純ではない。そのことがわかる端的な事例を紹介しよう。
 ヤヌコビッチの政敵となった親西欧派の元首相ユーリヤ・ティモシェンコは、ヤヌコビッチ政権下の2011年に政治犯にされた。その理由も「ティモシェンコが“親欧派”だから」と誤解されていることが多い。しかし実際には、ロシアとの天然ガス契約に関連して、ティモシェンコが職権を濫用したことが“罪状”となっていた。腐敗はウクライナの宿痾である。ティモシェンコはプーチンとも良好な関係を築いており、単純に「親欧派だから失脚させられた」とは言えない。
 ウクライナ情勢を理解するためには、まずもって安直な二元論に飛びつくことを控えるべきだろう。“親ロ派”と呼ばれるヤヌコビッチも、“親欧派”と呼ばれるティモシェンコも、やはりウクライナの政治家なのである。したがって、自国の利益を追求する観点から、必要とあればロシアにも近づくしEUにも近づく。それがウクライナ外交の実相なのである。
 それでも際立つのがヨーロッパ志向で、とりわけウクライナのエリートは、自分たちをヨーロッパ人と思いがちである。ところがプーチンを含めたロシア人は、そのようなウクライナには距離を置く。ロシアのために、ウクライナを少しでもEUから引き離したいというのが、2011年秋に「ユーラシア連合」を提唱したプーチンの本音だろう。
 そこでロシアが行使したソフト・パワーが、エネルギーである。ヤヌコビッチ大統領は、当時、EUとの連携協定重視か、それともプーチン政権とのエネルギー契約重視か、で揺れていた。しかし2013年12月、ウクライナはEUとの連携協定締結に失敗。それを見たプーチンは、ヤヌコビッチ大統領に対して、ロシアから供給する天然ガス代金を値引きすると約束したのである。
 このときプーチンは、ウクライナをロシア側につなぎ止めることに成功したと考えただろう。いや、それはプーチンだけではない。当時の様子を見ていた誰もが、ウクライナはロシアを選んだと思った。
 しかし、まさにこの選択こそが、“革命”の引き金となった。

※続きはNHK出版新書『プーチンはアジアをめざす――激変する国際政治』をご覧ください。

『プーチンはアジアをめざす』目次

第1章 シー・チェンジの国際政治
第2章 ウクライナで何が起こっているのか
第3章 ロシア外交の核心
第4章 素顔のプーチン
第5章 プーチンはアジアをめざす
第6章 変貌する国際政治地図

写真=Photographer RM/Shutterstock.com

プロフィール
下斗米伸夫(しもとまい・のぶお)

1948年、北海道生まれ。法政大学名誉教授。専門はロシア政治論、比較政治論。法学博士。東京大学法学部卒業後、同大学院法学政治学研究科修了。おもな著書に『ソ連現代政治』『ロシア現代政治』(ともに東京大学出版会)、『アジア冷戦史』(中公新書、アジア太平洋賞特別賞)、『ロシアとソ連 歴史に消された者たち』(河出書房新社)、『宗教・地政学から読むロシア』(日本経済新聞出版社)、『神と革命』(筑摩選書)など。

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