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対談 鈴木 晶×岸見一郎 フロムの「愛」と アドラーの「勇気」に学ぶ

2019年3月24日、梅田 蔦屋書店にて、1月にNHK出版新書『フロムに学ぶ 「愛する」ための心理学』を刊行した著者・鈴木晶氏と、ベストセラー『嫌われる勇気』でおなじみの哲学者・岸見一郎氏によるトークイベントが開催されました。ここでは、心理学者のフロムとアドラーの話を中心に、大いに盛り上がったイベントの様子をお届けします。

進行・三砂慶明(梅田 蔦屋書店 人文コンシェルジュ)
写真提供・梅田 蔦屋書店

エーリッヒ・フロムについて

――鈴木先生、岸見先生、本日はご来店いただきまして、誠にありがとうございます。早速ですが、鈴木先生、会場の方でもしかしたらご存知にならない方もいらっしゃるかと思いますので、フロムがどういう方だったのか教えていただいてもよろしいでしょうか。

鈴木 エーリッヒ・フロム(1900~80)はドイツ人で、同時にユダヤ人です。この人を話すうえで忘れてはならないのが、同じユダヤ人のジークムント・フロイト(1856~1939)ですね。フロイトはご存知のとおり、19世紀の終わりに精神分析学というものを創立した人物です。「精神分析」というのは主にユダヤ人のあいだで広まった学問で、ユダヤ人以外に広まっていくのはもう少しあとになります。
 フロムはフロイトよりもだいぶ年下で次の世代にあたり、一般的には「ネオフロイディアン(新フロイト派)」と呼ばれている人たちのうちのひとりです。フロイトの直接の弟子ではありませんが、人間の心に興味を持って精神分析学を勉強しました。
 しかし、フロイトに反発するところもあって、フロイト理論を修正しなければいけないと考えました。なぜかと言えば、マルクス主義の影響が当時非常に大きかったから。つまり、人間の心理の問題も、やはり経済、政治、社会といった問題と絡めないといけないと考えたわけです。
 フロムが国際的に有名になったのは、ナチスについて分析した『自由からの逃走』(1941)ですね。一般にナチスというと、「どうしてナチスが出てきたのか?」「なぜヒトラーが出てきたのか?」などについて政治経済的に分析されますが、フロムの場合は、それらの問いを「ドイツ国民の心理」という視点から分析しました。
 人類は長いこと、「自由」というのを目指してきました。反対に言うと、人間というのはずっと不自由で、いろんなものに縛られていた。それが近代になってだんだん解放されていきます。しかし、いざ自由になったときに、みんな自由を持て余してむしろ重荷になってしまった。それで誰かに預けたくなって、結果的にみんなヒトラーに任せてしまった。そういう形でナチスは出てきたのだ――と、明快に解説した本が『自由からの逃走』です。これは、国内外問わずベストセラーになりました。
 そのあとにフロムが出して、同じくベストセラーになったのが、私が翻訳した『愛するということ』です。日本では、すでに1959年に紀伊國屋書店から邦訳が出ていましたが、誤訳が多く、文章も読みにくいものでした。しかし、タイトルがよかったからか、毎年増刷して30年間で30万部も売れていました。そうしたら、たまたま紀伊國屋書店の編集部にいた、私の大学の後輩が「先輩、これを訳し直しませんか?」と声をかけてきた。なぜ私に話をもってきたかといえば、当時、私は心理学関係の本をたくさん訳していたからです。
 1991年に私が訳した新訳のほうも、幸い売れ続けて今に至っています。とくにバレンタインデーの時期になると、版元でもある紀伊國屋書店ではフェアをやっていますね。新宿本店などではケーキのように積んであります。

岸見 私は、高校生のときに『自由からの逃走』を原書で読みました。今は『嫌われる勇気』の影響で、アルフレッド・アドラー(1870~1973)の名前と私の名前がセットで知られるようになりましたけれど、実はフロムとの出会いのほうがアドラーよりもはるかに前なのです。バートランド・ラッセル(1872~1970)の『西洋哲学史』を読み終わって、図書館司書の方に次は何を読んだらいいか尋ねたら「Escape from Freedomという本があるからこれを読んでみたら」と勧めてくださったのです。
 フロムは、ネオフロイディアンでもありますが、ネオアドレリアンでもあるのではないかと思うくらい、アドラーの思想に近い考えを持っていると私は考えています。フロムを読んだあとにアドラーに触れることになりましたが、はじめ「これはフロムが言っていたことではないか」と思いましたから。もちろん時代的にはアドラーのほうが古いのですが、フロムに引きつけてアドラーを読んだのです。
 これを話していいのかなとは思いますが、鈴木先生が『愛するということ』の新訳を出されたときに、私は誠に失礼ながら先生の本と英語の本を照らし合わせました。というのも、当時翻訳を始めたころだったので、優れた訳の秘密を探ろうとしたわけです。そういった意味では思い出深い本ですね。

恋と愛、愛と結婚の違い

――鈴木先生は今回『フロムに学ぶ 「愛する」ための心理学』(以下、『フロムに学ぶ』と略)を刊行されました。ここからは、この本にも書かれている恋と愛についてうかがいたいと思います。
 一般的な理解では、恋は「落ちるもの」と考えられていて、「どうすれば愛されるか」というような本もたくさんあります。しかし『フロムに学ぶ』では、「恋に落ちること」と「愛すること」は違う、とおっしゃっています。これは、岸見先生もご自身の著書で述べていることですが、両者の違いを教えていただけますか?

鈴木 NHKの「世界の哲学者に人生相談」という番組で、恋愛相談に対してフロムが答えるという回がありました。そのときも「恋に落ちる」というのが話題になっていて、「恋に落ちるとは言うけれど、愛に落ちるという言葉はない」と出ていました。
 恋は日本語ですが、愛は、実は中国語です。中国語では「I love you」を「我愛你(ウォー・アイ・ニー)」と言って、愛という漢字が使われています。それがそのまま日本に入ってきた。だから、愛は訓読みではなく音読みです。6、7世紀に漢字が入ってきたとして、それから千数百年経っているにもかかわらず、愛は外国語のままなのです。なので日本人には使いにくい。「好きだぜ」「好きだよ」とは言えるけれど、普通に「愛しているよ」と出てこないのはそのせいです。
 日本人にとって男女の関係はすべて恋で、愛という言葉は、どちらかと言うと親が子どもに対する感情に対して使っていたようですね。その後、明治時代に西洋のものが入ってきて、西洋の「love」という感覚がよくわからなかったので、恋と愛をくっつけて「恋愛」という言葉を作ったという経緯があります。
 フロムの本を読むとわかるように、西洋では伝統的に大きなlove、つまり全体を含める愛というのがあって、その中に男女や親子の関係などがあるというのが基本です。全体を含める愛は人類愛だけではありません。ペット、あるいはもっと生命のないものに対する愛情、日本語だと「愛着」といったほうがいいかもしれませんが、「仕事を愛する」というときにも使われます。
 このような全般的な愛という感覚が日本にはなかった。それでいろいろ修正しなければならなかったのかなと思います。日本では恋と愛は別物だった、日本人にとっての特殊事情があったというのを、ひとつ指摘しておきます。

岸見 重要なのは「対象」の問題ではなく、「愛し方」の問題であるということですね。多くの学生さんに長く講義をしてきましたが、「相手さえいれば恋愛は成就する」という人がたくさんいました。看護学校の学生はほとんどが女子生徒ですが、男性もクラスに数人はいました。でも、失礼な話なのですが、彼女たちにとってその男子生徒は全然眼中になかったのです。とにかく人がいない、相手がいないから恋愛は成就しないと言っていました。
 ただ、フロムもそうですしアドラーも言っていますけれど、問題なのは対象ではなく愛し方なのです。そこがうまくいかないと、人が変わっても同じ失敗を繰り返します。アドラーに即して言うと「この人を愛そう」という決心(目的)がまずあって、愛さなければならない理由(原因)を事後的に探し出す、と考えたほうがいいのです。
 というのも「この人は優しいから好き」といった場合、最初はよくてもやがて関係がこじれて別れ話が出てくると、この人に惹きつけられた理由であるはずの「優しさ」が違う意味で見えてきます。優しい人ではなく優柔不断な人、自分では決められない人だと見るようになってしまう。自分をぐいぐい引っ張ってくれて頼りがいがある人だったのが、関係がこじれてくると支配的な人にしか思えなくなるのです。
 なので、まず「この人を愛する」、あるいは「この人を愛さない」という決心があって、事後的に理由を探し出していくと考えたほうがいいと、学生さんたちには何度も強調して話してきました。人は変わっても同じことをするから、まず愛し方を学びましょう、と。この「愛し方」というのが、まさに「愛する技術」です。

鈴木 フロムの『愛するということ』の一番の主張は、今、岸見先生がおっしゃったように「愛するというのはひとつの技術だ」というものです。一般の人は「誰でも愛することができる」と信じています。愛し方を習う必要なんかない、すでに身についているものだから、と。それにフロムはあえて逆らって、「愛は技術だ」と主張しているのです。
 またフロムは、「愛されることよりも愛するほうが大事だ」と強調しています。これはどういうことかと言うと、「生まれついての愛する能力はない」という意味です。つまり人間は、生まれたときには愛することはできないのです。
 では、どうしたら愛することができるのか。それは「真似」からです。人間というのはほとんどコピーでできあがっています。赤ちゃんはあまり情報が入っていないコンピュータみたいなものですが、母親からいっぱい愛を注がれます。でもこの段階では、まだ自分から愛することはできません。
 それが3、4歳から5、6歳、個人差がありますからもう少し後かもしれませんが、自分を愛してくれる母親をコピーするようになっていきます。要するに、今度は自分が愛する立場になる。そのときにはじめて「愛する」という能力を身につけます。ですから、もし反対に親から不幸にして愛されなかったら、愛するという行為を知らないまま成長する、ということにもなってしまいます。

岸見 愛され続けていても、今度は自分が愛する立場に身を置こうと決心したい子どもはいるかもしれないですね。愛されていない子どもはそんなに多くないと思います。親は子どもが生きているだけで愛することになりますから。フロム的に言うと、「自分は無条件に愛されている」ということになりますかね。ただその状態に甘んじて、決して自分から愛そうとしない人もきっと多いでしょう。
 私には1歳3ヶ月の孫娘がいますが、3歳くらいになったら私にバースデーカードを送ってくれるようになるかもしれません。これも後天的に身につける能力と考えるとわかりやすいです。自然に身につくものではないので、もちろん学ばないといけません。そういう意味でアート(技術)なのです。
 不幸なラブストーリーというのが世の中には氾濫していますね。不幸なラブストーリーを読むことで、人々はそこから「私には恋愛などとても無理」ということを学んでいます。それと、人と関われば摩擦が生じます。普通は、最初からお互いに好きであることはないので、付き合い始めたら何らかの形で摩擦が起こる。そのうち嫌われることもあるし、裏切られるようなこともある。そういうことが予想されるので、初めから対人関係の中に入っていかないでおこうと決心する人がいてもおかしくはありません。不幸なラブストーリーを読む人は、その決心をしなければいけない自分を合理化するために読むのです。

――岸見先生は、アドラーの『個人心理学講義――生きることの科学』の中で、「愛と結婚に対する準備を教えてくれる本はどこにあるのだ。確かに愛と結婚を扱う本は数多くある。どの文学も恋愛物語を扱っている。しかし幸福な結婚を扱っている本に出会うことはほとんどない」とアドラーの言葉をご紹介されていますが、この愛と結婚、その違いには何かあるのでしょうか。

岸見 愛と結婚の違いを言うのは難しいです。特に未熟な人たちの愛、知り合ったころの「愛されて幸せ」という段階の愛はイベントでしかありません。イベントというのは、たとえば「今週末どこかに遊びに行こう」と言ってふたりで旅行に行き、帰ってくるまでの間の時間です。旅行に行くと上げ膳据え膳で、自分では何もしなくても料理は食べられるし、掃除もしなくていい。そういう状況で過ごしていると、たぶん喧嘩は起こりません。
 それが愛だとすれば、結婚はライフ(生活)です。そうなると朝から晩まで顔を突き合わせなければいけないので、それまではいいとこ取りができたふたりの関係が崩れてきます。お互いにあまり相手に知られたくないところを知るようになる。そういう意味で、「結婚は愛の先にある段階だ」と私は理解しています。

「愛すること」と「愛されること」

――多くの方が人を愛して結婚していくと思いますが、今のお話からすると、人生のステージの中でただそれを通過するだけでは学びにはならない、ということでしょうか。

岸見 「愛されること」は、小さい子どものように本能的にできることです。しかし、結婚してより関係が近くなると、ただ愛されるだけでは済まなくなります。相手を愛していかなければいけません。そこで難易度が高くなるのです。

――鈴木先生は、『フロムに学ぶ』の中でご自身の経験を振り返られて、奥様と幸運な出会いがあったことを書かれています。奥様との愛とフロムの『愛するということ』の間には何か関係があったのでしょうか?

鈴木 フロムと関係したのかどうかはわかりませんが、『愛するということ』を訳していて耳が痛いというか、自分が未熟だなと感じさせられるところはありました。私の場合、母親にとても可愛がられた記憶があります。その後もすごく可愛がってくれた女性が何人かいて、死んだ家内もその系列にいた。そういう経験もあって「愛されること」には慣れているのですが、私自身の愛する能力は未発達かもしれないですね。

岸見 愛されるためには「条件」が必要になります。たとえば結婚を考えたときに、多くの人たちは、収入がどのくらいかとか、仕事をしているかというのを気にします。私の場合はそれ以前に、恋愛の段階ですでに自分などとうてい人から愛されないだろう、という強い確信を持っていました。かつて「三高」という言葉が使われていましたが、私は身長は低いし、お金も持っていませんから、全然当てはまらない。そんな私を恋愛対象として選んでくれる人がいるはずはない、という思いがありましたので、そもそも人から愛されるということを期待せずに生きてきたような気がします。鈴木先生はどうでしたか?

鈴木 高校のときの親友が、すごく女の子にもてる人で。一緒にいると女の子はみんな彼のほうに行くのです。劣等感ですね。アドラーの言った「人間の頑張ろうという気持ちをはじめとするすべての意識の底には劣等感がある」というのは、とてもよくわかります。
 アドラーは「承認欲求というものが人間にはある」と言っています。そして「この承認欲求を克服しないといけない」と強調しています。なぜかと言うと、人から褒められる、人に愛されるというときに、それをしてくれるのは自分ではないからです。向こうにイニシアティブがある。アドラーの心理学は、それではダメだと言うのですね。フロムも同じことを述べていますし、カール・ユング(1875~1961)も形を変えて論じています。
 ちなみに20~30年前、大きな書店であればひとつの棚は全部がユングの本でした。日本では、ユングを紹介した、京都大学名誉教授の河合隼雄さんなどもいたので、フロイトよりもずっと多くの人がユングに関心を持ち、大ブームでしたが、最近はなくなってしまいました。
 心理学にはそうした流れというものがありますね。岸見先生のおかげで今やアドラーの時代になっていますけれど、これもひとつの流行で、次はまた別のものがくるかもしれません。フロイト、ユング、アドラーが心理学界の三大巨匠ですが、これまでアドラーは日本ではほとんど紹介されてきませんでした。岸見先生の努力でやっと少しずつ定着してきているというのが現状です。
 話をユングに戻すと、ユングは「人間は外向型の人間と内向型の人間とふたつに分かれる」と述べています。これは有名な言葉ですが、実は誤解もされていて、「あの人は内向的だ」と言うと少し暗いイメージで、社交的ではない人を意味するようになっています。それと重なることもありますが、自分の評価基準が外にある人と内側にある人というのがユングの基本的な分類です。
 つまり、外向型の人間とは「人に評価されることを大事にしている人」、内向型の人間とは「人の評価は関係なく、自分で自分をどう評価するかという人」です。そういう視点も、フロムとアドラーとユングを繋いでいる線かなという気がしますね。

岸見 鈴木先生が今おっしゃったように、「愛されること」を考えたときにイニシアティブは自分ではないですよね。私は少し屈折していたと思うのですが、「愛されないのであれば愛そう」と考えていました。相手が自分をどう思うかということに関係なく、相手を愛することはできます。フロムとは違うかもしれませんが、かなり早い時期に「私にはこれしか生きる道はない」と思っていましたね。
 承認されなくても愛することができる自分になりたいと思いましたし、たとえ世間的に評価されなくても、「自分という人間をきちんと見てくれる人が、少なくともひとりはいるだろう」という比較的無邪気な信頼感は持っていたことを、鈴木先生の話をうかがって思い出しました。承認欲求と「愛されること」を重ねてみる――というのは、とても興味深い考察だと思います。
 そう考えると、フロムやアドラーの言っていることは厳しいですね。書店によく並んでいるような「愛されるためにどうするか」というたぐいのものとは一線を画しています。翻訳されている鈴木先生はもとより、読んでいる我々にも非常に耳の痛いことが書かれている。途中でしばらく読むのをやめたくなるくらい厳しい内容の本だと言えるのではないでしょうか。

――先ほど、フロムはユダヤ人であるという話がありましたが、アドラーもユダヤ人ですね。もしかすると、彼らの「愛」に対する考え方というのは、ユダヤ教やキリスト教の系譜で考えてもよいのでしょうか? 日本人はキリスト教やユダヤ教を「文化」としては知っていますが、生活の中で宗教の理念が行き渡っているかと言われたら、そうではないと思います。フロムやアドラーは対人関係を超えたその先の「人類愛」「隣人愛」についても書いていますが、日本人にも人類愛や隣人愛というのは可能なのでしょうか。

岸見 「人類」と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、アドラーは「共同体」という言葉を使っています。共同体の一番大きな意味は宇宙まで含みますが、最小の単位は「私」と「あなた」で、その共同体のことを考えたほうがわかりやすいと思います。
 アドラーの考え方は、ギブ・アンド・テイクではありません。つまり「あなたが私を愛してくれるのであれば、あなたを愛してあげましょう」ではなく、相手が自分をどう思うかは関係ない、そういう「取引」ではないことが大前提としてあります。
 一方で、それは「怖い」と言う人もいるでしょう。好きな人に告白しても受け入れてもらえるとは限らない。だから、そういう冒険をしたくない人にとっては、ギブ・アンド・テイクというものが基礎にある恋愛と言えます。
 たとえば、「あなたは好きだけれど、あの人は好きじゃない」と告げられたとします。もしもそんなことを言われたら、少しも愛されている気がしないのではないでしょうか。なぜなら「明日は我が身」、今日は愛されているけれど、明日になったら急に気持ちが変わって愛されなくなるかもしれません。もしも他者を排斥して恋愛が成り立つとしたら、それはおそらく「未成熟な愛」と言えると思います。「あなたも好きだし、あの人も好き。でも、あなたと一緒にいるときが一番楽しい」ならわかりますが、隣人愛というのは相手が誰であれ関係ありません。誰をも愛することができるのが隣人愛です。そういうことは可能ではありますが、実際は難しいかもしれないですね。

鈴木 親子の愛や友情などさまざまな愛がある中で、恋愛が排他的になりやすいというのは大きな特徴であり、欠点です。ひとりの相手だけ大事にして他の人のことはどうでもよくなるというのは人類愛、隣人愛には広がりにくいですよね。親子愛でもそれがあって、冗談ですが「小さな赤ちゃんを連れている母親には近寄らないほうがいい」と言われます。母親は、子どもをとにかく守ることだけに100%エネルギーを使っているわけですから。
 フロムは、「その排他的になるのをやめて、広げるのではなく相手を愛することそのものの奥のほうにいけば隣人愛に繋がる。そういう愛し方でないといけない」と言っていますね。ただ、社会を見渡していると、これはなかなか難しいことかなという気はします。
 旧ユーゴスラビアの紛争を見てもわかるように、ついこの前まで近所で付き合っていた人たちが突然に殺し合いをしてしまう。そのくらい「憎しみ」というエネルギーは無視できない大きな力です。でも私は、隣人愛を持っている人のほうがヘイトの気持ちを抱く人よりも多いとは期待していて、人類はずっと55対45の割合で、何とかバランスをとって生き延びてきたのではないかと思っています。だから、ちょっと悲観的ではありますが、これからもその流れでやっていくしかないかなというのが実感で、人類みんなが愛し合う世界というのはなかなかイメージできませんね。

愛は「持つもの」ではなく「営むもの」

岸見 ただ、現状を受け入れてしまったら、先に進まないですよね。理想かもしれませんが、「排他的でない愛というものがある」と考えたほうが、「最初からそんなものは無理だ」というよりもはるかに進んでいる考え方だろうとは思います。
 それで、どれくらい難しいかということを、ひょっとしたらうまく表現できるかもしれないたとえ話をすると、シャンソンで『ラストダンスは私に』という曲があります。社交ダンスというのは、ふたりで踊るものです。社交ダンスの場にあるカップルが踊りに行く、そこではほかのカップルの異性とも踊らないといけない、それが嫌なら、そもそもそういう場所に行ってはいけない、という決まりです。
 そのとき、女性であれば「あなた、行ってらっしゃい」と気持ちよく送り出さないといけません。パートナーが自分ではない人と踊っている様子を見て、「あの人、あんなに楽しそうにしている」と喜べるのが愛です。これも難しいですね。でも、付き合っているふたりだったらひとつだけ要求していいことがあります。それは、「いろんな人と踊ってもいいけれど、その日のラストダンスだけは私と踊ってね」と言える権利です。
 どんなときに自分が愛されていると感じるかと言えば、限りなく自由にさせてもらっていると思うときです。たとえば、「今日は飲み会がある」と彼女に言ったときに、「どこであるの?」「誰と一緒に飲むの?」「何時に帰ってくるの?」と尋問されたら、愛されている気はしないでしょう。「今日は楽しんできてね」と快く送り出してくれることで、自分がその人にとても愛されていると感じられる気持ちになれるのです。
 「恋愛」というのは、そういう意味では自由を求めます。ところが、この自由が恋愛の危機を生む。相手を大甘にさせておいたら、別の人に惹かれてしまうということが当然ある。『テネシーワルツ』はそういう歌でしたね。付き合っている彼が友だちとダンスしたことで、その友だちのほうに心変わりしてしまった。そういう難しさを伴うのが愛ですね。

鈴木 今の話もそうですが、岸見先生の本を拝読していて面白いなと思うのは、必ずダンスの話が出てくることですね。実は、私の一番の専門はクラシックバレエ史の研究なので、最も興味があるのが「踊り」なんです。岸見先生は「今を楽しまなければいけない」という話をされるときもダンスの比喩を使われますが、私はそこに大きく反応してしまうのです。

岸見 フロムが『生きるということ』という本の中で愛を論じる箇所があるのですが、そこにラテン語で「Hic et nunc」という言葉を使っています。英語では「Here and now」、日本語では「ここ、そして今」という意味ですね。愛というのは「持つものではない」と。
 別のところでもフロムは「持つ」という様式と「ある」という様式をはっきりと区別していて、「愛というのは実体ではなく、愛するという行為しかない」とも言っています。「愛という営みしかなく、愛という実体でないものを持つことはできないのに、多くの人は愛を持てるというふうに考えている」というような議論です。私は大学生のころにこの本を読みました。ある読者会の課題図書で取り上げられたのですが、「今、ここ」を強調しているところがあり、それがひとつのヒントになって、ずっと私の頭の中に残っていたのです。
 他方で、アリストテレス(前384~前322)が、人間の運動の形としてふたつのものを挙げています。ひとつは「キーネーシス」という、始点と終点のある動きのこと。もうひとつは「エネルゲイア」で、鈴木先生がおっしゃってくださったダンスが例に挙げられますが、始点と終点がない動きのことです。
 ダンスというのは、どこかに行くためにするわけではありません。音楽が始まったらダンスが始まり、音楽が止まったらダンスは終わるけれど、ダンスをすることでどこかに行こうと思う人はいません。ダンスのどこに意味があるかと言えば、「今、ここを楽しむということ」「今、踊っているその時々が楽しいと思えること」、そこしかないのです。
 そういう意味では、過去もないし未来もない。このあたりのこともフロムは見事に紹介しています。私は『嫌われる勇気』の中で、キーネーシスとエネルゲイアという言葉を紹介しましたが、もともとはギリシアの哲学者アリストテレスが言っていたことなのです。

哲学と心理学

――今、お話に出た『嫌われる勇気』では、「心理学」という言葉を使っていないですね。アドラーの教えを「哲学」として紹介されたのには何か理由があるのでしょうか。

岸見 心理学は、もともと「心理学」という学問が「哲学」と別にあったわけではなく、哲学の一分野にしか過ぎません。そう言って心理学の先生を怒らせることがありますが、ともに人間を扱う学問なので、私は哲学と心理学を区別しなくていいと思っています。もっと言えば、哲学は学問でもない。英語の「philosophy」がギリシア語の「philosophia(知を愛すること)」という言葉を語源にすることからもわかるように、哲学は知識ではないのです。それで私はアドラーを心理学者としてではなく、広い意味での人間の生き方を教える、あるいは「幸福とは何か」を教える哲学者と理解しています。
 ですから、『嫌われる勇気』にしても、そのあとの『幸せになる勇気』にしても、サブタイトルに「アドラーの教え」とはありますが、心理学とは書いていません。もしも「心理学」と入れたら、おそらく心理学のコーナーに置かれたのではないでしょうか。でも、心理学書のコーナーに立ち寄る人はあまり多くはないですよね。おそらく、ビジネス書のコーナーに置かれたから多くの人の目に留まったのかな、と。とはいえ、読んでみると、「自己啓発というよりは哲学の本だ」という印象を持たれた方も多かったのではないかと思います。

――フロムの『愛するということ』も、もちろん心理学のコーナーに置かれるべき本ですが、哲学や女性エッセイのコーナーにもあって非常に幅の広い本だと思います。鈴木先生は、『愛するということ』について、岸見先生がおっしゃられたように「哲学」として読めるとお考えでしょうか?

鈴木 哲学と心理学の違いというのはよくわからないですよね。ただ、どちらも結局は「人間とは何か」に直結するもので、それについて科学的ではなく「考えを巡らす」学問だというふうに考えています。
 『愛するということ』に関して言えば、抽象的な恋愛を分析したものではなく、現代の資本主義社会で「愛するということがどうなっているのか」を解説することが内容の半分を占めています。そういう意味では社会心理学にもなってきますよね。あと、マルクス主義や労働の阻害というようなことも頻繁に出てきますので、現代を生きる人間を論じている本であることは確かです。
 私たちは結婚=恋愛結婚というのが当たり前だと思っていますが、これは人類の歴史の中ではごく最近のものです。日本で普及したのは戦後ですから100年も経っていません。西洋でも19世紀まではないでしょう。しかし、人間はある意味で忘れっぽい生き物ですから、昔からあったような気になっています。
 フロムが書いたときの現代と私たちが生きている現代は60年ほど違いますが、資本主義は今も続いています。これから革命が起きるとはほぼ考えられないので、どういう資本主義になるかはわかりませんが、資本主義社会はまだまだ続くと考えられます。そういう意味では、フロムがこの本で述べていることはこれからもそう変わらないでしょう。

――鈴木先生、岸見先生、本日はありがとうございました。


プロフィール

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鈴木晶(すずき しょう)
1952 年、東京生まれ。法政大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。専門は文学、精神分析学、舞踊学。著書に『フロムに学ぶ 「愛する」ための心理学』(NHK出版新書)、『フロイトからユングへ』(NHKライブラリー)、『フロイト以後』(講談社現代新書)など、訳書にフロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)など多数。


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岸見一郎(きしみ いちろう)
1956 年、京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。専門の哲学に並行してアドラー心理学を研究。著書に『嫌われる勇気』(共著、ダイヤモンド社)、『アドラー 人生を生き抜く心理学』(NHKブックス)、『NHK「100分de名著」ブックス アドラー 人生の意味の心理学』(NHK出版)など多数。

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