日比谷で働く書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――「日比谷で本を売っている。〔焼き野菜と短歌〕」新井見枝香
※当記事はエッセイ連載の第14回です。第1回から読む方はこちらです。
知人の作家が、Twitterのリプライで焼き野菜の作り方を質問され、なぜそんなことを聞くのかと困惑していた。彼女は料理研究家でも野菜の専門家でもない。そもそも焼き野菜は、野菜を焼いただけである。投稿した写真には、焦げ目が付くほどしっかり焼いた白菜と、茹でて酢味噌を添えたホタルイカ、皿にたっぷり盛っただけの生ハムが写っていた。統一感がなく、器もバラバラである。つまり今日は何でもない日で、いつも通りの晩酌タイムの一コマなのだ。だが手の込んだ料理でなくとも、自分が食べたいものだけを脈略なくテーブルに並べた時のわくわくが伝わる。こちらまでビールをぷしゅっとやりたくなるではないか。私が「いいね」したのは、その意味でだ。Twitterやインスタは、その人の心が何に動いたのかを読み取るものだと私は思っている。もし私があの投稿でホタルイカの茹で方を知りたくなったら、リプライなどせずググるだろう。なぜかと問われたら、そういうものだからとしか答えようがない。
私がよくインスタに投稿するのは、面白かった本と美味しかった食べ物の写真だ。しかし、寒い季節に大好きなかき氷の投稿をすると、きまって「寒くないんですか?」とリプライが付く。真冬に氷を3杯も食べたら寒いに決まっているだろう。だが、真のかき氷好きは、寒い時こそ張り切ってかき氷を食べるのだ。暑いからかき氷を食べているわけではない。
そういう独特の感覚や常識は、どんなコミュニティにも存在するらしい。たとえば短歌の世界では「銀座で寿司を食べたら美味かった」と詠むことは、まずもってない。本当はそういう贅沢をしていても、隠さなきゃいけないことになっているという。確かに貧しくてひもじいとか、寒くて死にそう、といった歌が多く詠(うた)われている。そうでなければいけないなどと教科書に記されているわけではないが、そういう趣きのほうが、高く評価されている。
歌人の穂村弘さんが対談を重ねた『あの人と短歌』には、プロの歌人だけでなく、漫画家や詩人も登場する。短歌には詠われないテーマがあるのかと聞いたのは、作家の三浦しをんさんだった。その答えが、先のバブリー短歌というわけだ。逆にタレントの知花くららさんは、ご自身の海外でのチャリティー活動をテーマに《「たからものみせてあげる」と小さき手にのせた楊枝のやうな鉛筆》と詠む。だが、短歌の世界では貧困の現場を詠うこともまた、難しいとされている。短歌そのものより、その現状に対する感情が先立つからだ。
一方、セーラー服歌人の鳥居さんは、ホームレスも経験した自身の貧困をテーマに《大根は切断されており上78円、下68円》と詠む。同じテーマでも、詠う人の視点によって受け取り方が変わり、すんなりと短歌そのものに集中できる。善し悪しが感覚で判断されるだけに、そりゃ歌会でも意見が割れることだろう。
ミステリ作家の北村薫さんとの対談では、「もしTwitterに投稿できる文字数が140字ではなく31字だったら」という短歌好きならではの愉快な妄想が始まっていた。それは本を閉じたあとも、私の中でふくらみ続けている。確かに短歌は俳句より自由度が高く、文字数さえ大体合えば、偶然にも短歌らしくなることはある。無駄を排除し、本当に伝えたいことをセンス良く31文字に詰め込もうとするうちに、全員が歌人となり、Twitterには写真を添えた短歌が流れ続ける。分厚いステーキやいくら丼は短歌が"映えない"写真となり、それこそ焼き野菜のような、何やら趣きのある短歌向きなメニューばかりがタイムラインに並ぶのだ。
焼き野菜好きな野菜を好きなだけ好きなオイルで好きに焼くだけ
プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
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*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら
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