
森の中ではいのちがつながっている――「熊本 かわりばんこ #10〔柚と落ち葉――冬の到来〕」田尻久子
長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。
柚と落ち葉――冬の到来
朝起きたら台所に柚が枝ごと置いてあり、一筆添えられていた。
今年は柚(ゆず)がたくさんなったので お鍋のお供にどうぞ。
手紙があるってことは手渡されたわけではなさそうだと思い、家人に訊いたら、縁側に置いてあったという。お隣さんが朝早くに剪定して、起こさぬようそっと置いてくださったようだ。お隣さんからの到来物など、集合住宅ではついぞなかった。家が変わると、生活もちょっとだけ変わる。
とはいえ、店を営業していると到来物は日常茶飯事だ。それをお客さんにおすそ分けすることもある。この間は、クリスマスバージョンのパッケージに入った「クルミッ子」をいただいた。クルミがぎっしり詰まった焼き菓子。鎌倉紅谷の人気商品。おなじみのリスはサンタの帽子をかぶって、煙突から出てきたところを描いてある。私と吉本由美さんは月がきれいだと教え合う「月友だち」だが、「クルミッ子友だち」でもある。二人とも「クルミッ子」が大好きだから、いただいたときは分け合うという暗黙の了解がある。通販で買えるよと人から言われたりもするのだが、私たちには「買っちゃだめ」という暗黙の了解もある。いつでも、どこでも手に入るなんてつまらない。それに、私たちは「クルミッ子」を食べるとある人を思い出すのだ。どうせなら一緒に思い出したい。
もともと出不精だが、庭のある家に引っ越してからは、以前にも増してどこにも行かなくなってしまった。庭の木を眺めるだけで満足している。数年間、空中(4階建て集合住宅の4階)で暮らしたので、身近にある土の恩恵をしみじみと感じている。庭と言っても、縁側の前に1メートルくらいの幅の地面があるだけだが、吉本さんいわく、「広いと大変なんだから、そのくらいがちょうどいい」そうだ。
仕事以外で出かけるのは、スーパーか病院か銀行くらい。最近では店舗営業以外の仕事が増えてしまってこなしきれず、休みもたいてい家で仕事をしている。ひとりブラック企業だとお客さんによく言うのだが、「もう若くないんだからほどほどにしなさい」と最近では笑ってもらえなくなった。
家から見えている立田山(たつだやま)にも、引っ越してからまだ行っていなかった。引っ越し先が立田山に近いってあんなに喜んでいたのにまだ登ってないの? とこの間、友人にも呆れられてしまった。家から歩いて数分のところに地元の人にしかわからないような登り口があるのだが、引っ越してすぐに入り口付近に行ったきり。次に会うときには、胸を張って「立田山に行ってきた」と言いたい。仕事は相変わらず山積しているが、久しぶりに切羽詰まった案件はない。ほんの小一時間散歩するくらいの余裕はある。
次の定休日は、秋晴れの散歩日和だった。ついでに食材を買いに行きたかったので、家の近所の登り口ではなくて、少し離れた、駐車場のある登山口まで行くことにした。と言っても、車で2、3分の場所。
たどり着いて車から降りるとすぐに、猫の鳴き声が聞こえてきた。誘われるように声がする方へ歩いていくと、道をはさんだ向こう側に池がある。案内板には「サクラ池」と書いてある。春にはサクラが咲くのだろうか。猫はサクラ池のほとりで、鳴きながら視線を送ってくる。呼ばれているのかと思って近寄ってみると、あと1メートルほどの距離で逃げ、今度は私が来た方向へと渡っていってまた鳴いている。何かくれよ、でも触んないでよ、といったところか。そう訴えられたところで、私は携帯電話と車のカギしか持っていない。耳先がV字にカットされているからおそらく地域猫で、ごはんももらっているようだ。切羽詰まった感じでお腹が空いている様子もなく、痩せこけてもいない。
サクラ池
何度もつかまえて無駄に怖い思いをさせないように、不妊手術を施された野良猫は、手術のための麻酔が効いている間に目印に耳先をちょこっとカットされる。カットされた耳はサクラの花びらのように見える。不妊手術も地域猫の証も、猫が望んだものではないだろうが、現時点での日本社会ではこうしないと野良猫は地域住民から疎まれることもあるし、最悪の場合、殺処分になってしまう。サクラ猫と呼ばれるそうだが、地域猫の証があれば首輪をしていなくても捕獲されることはない。野良猫は野生動物ではない。人間の財産の番人として連れて来られ、屋外で飼育されているうちに繁殖してしまったり、棄てられたりして、野良猫になった。
サクラ猫
自分の耳がサクラの花びらのようであることなんておそらく気にもしていない黒猫は、いつまでもにゃおにゃお鳴いているのだが、もう一度近づいても相変わらずつれない。手ぶらの私には用がないらしい。あきらめて周囲を見渡すと、頭上には満開の山茶花(さざんか)。最初は椿かと思った。次の日に、撮った写真をお客さんに見せたら、「山茶花では」と言われて写真を見返すと、木の下には花びらが散っていた。椿なら花ごと落ちるはずだから、確かに山茶花だ。子どもの頃、落ち椿でままごとをしていたのになぜ気づかないのかと、自分の観察眼のなさにがっかりした。
しばらく歩いていると、鳥の大合唱が聞こえてきた。いろんな種類の鳴き声が聞こえてくるが、カラスしか聞き分けられない。これが人間だったらさぞやうるさいだろうが、鳥の声はちっともうるさくないどころかなんて心地いいのだろう、と思いながら歩いていると、急に話し声が聞こえてきた。山にいる人は、あまりしゃべらない。一人で歩いたり、走ったりしている人が多く、すれ違いざまに挨拶をするぐらいだ。珍しいなと思って声が聞こえてくる方を見ると結婚式の前撮りをしている。そういえば、駐車場にでかいワゴン車が駐まっていた。
「いいですよー。はい。ちょっとそのままで」
せっかく人間の営みの場をしばし離れて山に来たのだから、彼らには悪いが、方向転換をした。鳥のさえずりや落葉の音にまじって、遠く工事の機械音がする。人間のたてる音だけが騒々しい。
しばらく登ると分かれ道に出た。頂上へ向かう道とは別に「椋の木展望所」と書いてある矢印があった。ずいぶん前だが、頂上へは別のルートから登ったことがあるので、椋の木展望所へ向かってみる。ひっそりとした道で、行き交う人もいない。頂上を目指す人の方が多いのだろう。落ち葉のじゅうたんを踏みしめ、ときおり巻かれている木の名札を眺めながら登る。ツブラジイ〈円椎〉の説明には、果実がまるいからこの名がついたと書いてあり、クリやクルミに次ぐほど実が美味、とも書いてあって気になる。倒木は街中にあると脅威だが、森の中では、木や草はそれぞれが独立して存在しているようには見えず、りっぱな大木だろうが、倒れた木であろうが、土の中でいのちがつながっているのだと感じる。ごく自然にそう思える。
突然、視界が開けたかと思うと街並みが遠くに見え、すぐに紅葉した山が眼前に現われた。いちばん見晴らしのいいところまで行くと、なるほど椋の木が一本たたずんでいる。こちらへどうぞとばかりに丸太が一本、椋の木のうしろに、椅子代わりのように地面に埋め込まれている。方角を確認すると、見える街並みは私が住んでいる住宅街の方向だ。丘と言ってもいいような低い山だが、見事に秋の色で彩られている。新参者のくせに、なんだかとても誇らしい気持ちになる。宅地開発が途中でとまったので残った緑地だ。なくならなくてほんとうによかった。壊すのは簡単だが、戻すことは難しいどころではない。
眺めに満足して下山していると、真っ赤に紅葉したヤマモミジの前に初老の男性が立っていた。近づいても歩き出す気配がないので、「きれいですねえ」と声をかけてみた。実は人見知りで、店で接客をしていても知らない人にはなかなか自分からは声をかけられないのに、なぜか平気で話しかけていた。紅葉の美しさを誰かと共有したい気持ちが勝っていたのだろうか。おじさんははにかんだような笑顔を浮かべ、こうおっしゃった。
「おるはこがんして眺むっとが好きですもん。とにかく見っとが好き」
ひととき二人で紅葉を眺めていたが、私が写真を撮りはじめると、「次に行きますけん……」と分かれ道の先へと登っていかれた。こんなふうに眺めるのがとにかく好きだとおじさんは言い、たまにしか来ない私のような人間はつい無粋なことをしてしまう。毎日のように歩いていらっしゃるのかもしれない。どの道がどこに続いているかもすっかりわかっているだろう。おじさんには、挨拶をしてまわる木がたくさんあるはずだ。またいつかすれ違いたいなと思いながら背中を見送った。
落ち葉の上を歩くのは、ふかふかしてとても気持ちがいい。歩きながら、関東に住んでいる友人の言葉を思い出した。先日、彼女が熊本に久しぶりに帰省したときに会ったのだが、熊本に着いたら道路に葉っぱが落ちていてうれしかった、と言っていた。最初、意味がわからなかったのだが、彼女の住む街では街路樹は強剪定(きょうせんてい/枝を長く切り取ること:編集部注)されていて、葉っぱはまったく落ちていないそうだ。あとから街路樹の写真を見せてもらったのだが、枝がまったくなくて電柱のようだった。私の家のまわりだって道路はすべてアスファルトなので、落ち葉を散らしっぱなしというわけにはいかず、各々の家で掃除しなければいけない。けれど、数日掃かないくらいで目くじらを立てられたことはない。
歩きながら、彼女とこの道を散歩したいなと思った。落ち葉を蹴散らしながら歩いてほしい。
山から下りると、もうひとつの目的地を目指した。周囲のスーパーはすべて把握していると思い込んでいたのだが、こぢんまりした、いかにも地元のスーパーという風情の店が近所にあることについ最近気がついた。
入り口には産地直送の野菜が安価で並んでおり、期待が高まる。店内に入ると、狭いながらも活気があって、季節の飾りつけもしてある。スーパーなのに、メダカを売りはじめました、という謎の貼り紙もある。品数は多くないが生鮮食品が充実していて、とりわけ魚が安くて新鮮だった。魚と蕪を買って満足して会計をすませ袋詰めしていると、お客さんの声が聞こえてきた。
「この間はどーもー」
「いいえー。若っか人はあんパンなんかは好かんもんねえ。洒落たとが好いとらすけん。最近はお洒落かお菓子のあっでしょうが。贅沢だもんねえ」
知り合いとばったり会って、いただきもののお礼でも言っていらっしゃったのだろう。私はまだスーパーでご近所さんと遭遇したことはないが、そのうち会うこともあるのかな、と思いながら店を後にした。
スーパーの前で出張販売していたコロッケを、お昼ごはん代わりに車の中で食べながら家に帰ると、猫たちに「どこ行っていたのさ」という感じでにゃーにゃー文句を言われた。出勤するときに家を出るのと、ちょっとそこまでのつもりで家を出るのでは、出かける前の行動が変わるが、猫にはそれがばれる。ちょっとそこまでという感じで出かけたのに2時間以上かかってしまったので、遅いと非難されたのだ。しばらく猫のご機嫌をとり、仕事でもするかと思ったが、うちの落ち葉も散っているかもと急に気になる。
落ち葉を掃くのは正直面倒だが、「落ち葉を掃く」という行為がしごくまっとうな人間になれたような気分にさせてくれるから、嫌いではない。
夏の楽しみだったイチジクの木は、いまでは風に吹かれて葉を散らしている。寒いのにいくつか残った実が熟れていて、この小さな庭にまで気候変動が影響しているのかと思ったりもする。椿は、まだつぼみをかたく閉じている。イチジクと椿の間になぜか一株だけあったバラは、秋になるとピンク色の花が一輪だけ咲き、枯れた。
ヤモリが冬眠して、柚をいただいて、落ち葉が散り、枝と枝の間からは陽が差し込むようになった。冬がきたな、と思う。
(次回は吉本由美さんが綴ります)
プロフィール
田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。
吉本由美(よしもと・ゆみ)
1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。