
大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)、その名は……――周防柳「小説で読み解く古代史」第9回(謎3 その3)。
「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。
謎3 河内王朝と朝鮮半島 (その3)
大悪の王ワカタケル
続きまして、二冊目の本は池澤夏樹さんの『ワカタケル』です。
ワカタケルとは二十一代の雄略天皇のことで、別名をオオハツセといい、応神天皇の孫の允恭天皇(ワクゴノスクネ)の末の子です。
河内王朝の大王たちは宋へ朝貢の使者も出したため、向こうの史書である『宋書倭国伝』に、讃、珍、済、興、武、という名が記されています。いわゆる「倭の五王」です。この五人がこちら側でいうところのどの大王に相当するかは、やや意見が割れているのですが、雄略天皇が「武」であることについては異論がありません。埼玉県行田市にある稲荷山古墳からは、『獲加多支鹵大王』と銘のある鉄剣も出土しており、これらによって、雄略は四七〇年から五〇〇年あたりに在位した大王と判明しています。
その雄略天皇を取り巻く人間と神話のロマンを描き出したのが、本書です。

池澤さんといえば『古事記』の現代語訳でも知られ、それだけに、古代らしい質実な抒情が描かれるのですが、そのうえに、そこはかとない飄逸味と独自の史観とが搗き捏ねられ、ほかのどの小説にも似ていない香りのする作品となっています。黒岩さんとはまったく違う視座から、五世紀の大和王権の風景を見せてくれます。
主人公の雄略天皇は、「大悪天皇」というあだ名があり、一般には、専制的な恐怖政治を行った人物として知られています。とりわけ有名なのは即位の前記で、兄の安康天皇(アナホ)が亡くなったあとの暴力的な逸話が伝わります。
記紀によると、それは安康天皇が弟の婚姻の相談を河内日下の叔父、オオクサカ王にもちかけたことから始まりました。オオクサカ王は妹のワカクサカを雄略にやることを了承するのですが、あいだに入った使者のせいで話がこじれ、安康天皇はオオクサカ王を無礼討ちし、妻のナガタノオオイラツメをおのれの妻にしてしまいます。ナガタノオオイラツメには眉輪王という幼い息子がいたのですが、因果はめぐると言いましょうか、この少年がやがて父のかたきとして安康天皇を殺すのです。
それからあとの雄略天皇の素早さは、鬼神のごとくでした。おのれが確実に次期の帝位につくため、邪魔者を片端から始末していきます。
まずは実兄のクロヒコを殺し、続いてシロヒコを殺し、あわれな窮鳥となった眉輪王が葛城の円大臣のところへ助けを求めて逃げ込むと、大軍勢を繰り出して館を包囲し、眉輪王もろとも大臣も攻め滅ぼしてしまいました。葛城氏は父祖の応神、仁徳のころから深いかかわりを持ってきた外戚であるのに、大王独裁を目指す雄略にとっては、目障りな存在にすぎなかったようです。
雄略によるライバル潰しはさらに続きます。叔父の履中天皇(イザホワケ)の子で葛城系の従兄弟のイチノヘノオシハ王を近江の蚊屋野へ猪狩りに誘い出し、卑怯な方法で葬ります。イチノヘノオシハ王の子たち(オケとヲケ。のちの仁賢天皇と顕宗天皇)は恐怖に震え、散り散りになっていずこかへ逃げ去っていきました。
こうして、おのれの位置を脅かすすべての者を除いた雄略は、ようやく安堵して大王の座に就くのです。
即位にあたって、雄略はワカクサカを大后としました。日下のオオクサカ王の妹で、かつて縁談が持ちあがったのに立ち消えになっていた相手です。ワカクサカにしてみれば、雄略は自分の兄や甥をむごく葬った敵方ですから、求婚には応じたものの、最初から見えざる膜に隔てられたような王妃となります。
しかし、憎みあうわけではありません。むしろ雄略はこのワカクサカをこそ、他の妻たちとは異なる格別な女人として愛するのです。
ワカクサカについては記紀にはさしたる記述がなく、所生の子もなく、謎の存在です。けれども、池澤さんは存分に想像をふくらませ、雄略に対峙する重要なヒロインを造形しました。
小説の序盤のあたりは、『古事記』でおなじみのエピソードに添って比較的淡々と進むのですが、ワカクサカが登場してくる中盤あたりからストーリーが重層的に立ちあがり、躍動感がぐっと増します。
ワカクサカは夢を見る力を持つ巫女なのですが、ヰトという姿かたちのそっくりな分身を持っていて、表裏一体のように夫雄略のかたわらに寄り添います。
一方の雄略の前には、しばしば奇妙な神たちが現れ、考えや行動に影響を与えます。その一人は、この国の初代の大王カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)、また一人は雄略の荒ぶる魂をくすぐって悪行をそそのかす正体不明の男、そして、もっとも特異な存在感を放っているのが、伽耶から渡りきたって五代の大王に仕え、数百年の長寿を誇ったという、伝説の忠臣建内宿禰です。本作ではタケノウチと呼ばれ、白髪白鬚の姿に狐の群れを従えています。
タケノウチは葛城氏の祖神ですから、葛城が大和王権にいかに深く貢献したかを縷々と語ります。そして、おのれと神功皇后がかつて韓土で遂げた壮挙をことさら意味深長に説きます。
タケノウチの影響もあって、雄略は内政よりも半島政策に執心するようになります。
そんな夫の姿を、ワカクサカは冷めた目で眺めます。そして、無用な外征が民を圧迫し、疲弊させていると批判します。海の向こうでいくさなどする必要もない。この大倭の国は美しい海に囲まれて成り立っている島国なのだから、心やすらかに、ここだけを治めればよい、と。
かくして二人の差異が際立ってくるのですが、やがて、それは単なる意見の相違などではなく、そもそもの始原からの相容れぬ運命なのだとわかります。
ワカクサカの日下氏らは、その淵源を日向に持ち、天孫族の大本アマテラスをいつき奉る巫女の一党であったのです。
ワカタケルに葛城のタケノウチやカムヤマトイワレヒコの祖霊がついているのと同じように、ワカクサカにも守護神がついています。その一人は高天原のアマテラス、もう一人は女王ヒミコなのです。
この国の皇統譜には、初代の神武から十代の崇神までのあいだに「欠史八代」といわれる空白があります。本作では、その期間にヒミコがまつりごとを執っていたとみなすのです。ヒミコとは、日輪の子たる天子を意味する「日の御子」です。
物語も終盤に近くなって、このような種明かしが始まると、それまで迂闊に読み進んでいた部分に、巧みにいろいろな伏線が張られていたことに気づきます。
ワカクサカが大切にするのは夢を見、神の声を聞く直感の力ですが、雄略が大切にするのはいくさに挑み作戦に勝つ現実的な力です。また、雄略は文字を重視し、この世の事象を文字で表現することにこだわりますが、ワカクサカは耳と声と語りにこだわり、それを文字に書き留めることは冒瀆と考えます。
ことごとく対極の二人のありようは、万世一系のごとくにみえるこの国の皇統はじつは二筋からなっており、女系(母系)と男系(父系)の二つの性質が、あざなえる縄のように撚りあわさっていることに気づかせてくれます。
ワカクサカは熟考を重ねた末、夫に進言します。
まつりごとというものは、たしかに軍事によって厳然と勝負をつけねばならぬことがある。そのときは男の大王が必要である。しかし、そうではないときには、女の大王が治めるほうがよい。じっさい、この国の大本はアマテラスの女神に始まり、ヒミコは女王であるがゆえに平和な世を実現した。
いまこの国は乱世がうち続いて弱くなっている。貴君もまた疲弊して神通力が減じている。ゆえに、どうか勇退したまえ。そして、このワカクサカに座を譲りたまえ、と。
雄略は激昂します。妻の謂は晴天の霹靂であり、とうてい容れられるものではなかったのです。カッと頭に血がのぼり、勢い余ってワカクサカを殺してしまいました。
反目しながらも誰よりも愛していた后を失い、雄略は悲嘆に暮れます。そして、みるみる憔悴していきました。
二人の仲は出会いの最初からいわくつきでありましたが、互いになくてはならぬ存在でした。ゆえに、ワカタケルも間もなく世を去ります。いわば相討ち、もしくは共倒れになったのです。
記紀にはほとんど登場しないワカクサカをここまで立体的に描き、雄略との特異な関係を表現したことは、たいへん興味深いです。
さらには、男の王はできるだけ多くの妻を娶って子孫を増やそうとするが、女の王は自身が光り輝く日輪そのものであるから、子を生まないとも、本書は言います。
誤解を恐れずに言うならば、この物語は一種の女帝論の側面もあるように思います。
なお、前回(第8回)、私は「日向」についてやや否定的なことを述べましたが、黒岩さんの作品でも、この作品でも、重要なタームとして登場してしまいました。
いま少し再考の余地がありそうです。
眉輪王とシェイクスピア
四、五世紀の日本は歴史小説のテーマとしては敬遠されがちですが、そのかわり、文芸作品にはすばらしいものが存在します。二作紹介いたします。
一つは野溝七生子さんの『眉輪』、もう一つは高尾長良さんの『影媛』です。
野溝さんの『眉輪』は、日下のオオクサカ王(本作では大日下王)の子、眉輪王を主人公とした小説です。安康天皇(本作では穴穂王)に父親を殺され、母親も奪われた王子が父の仇を討ったのち、葛城の円大臣とともに雄略天皇(本作では大長谷王子)の軍と戦う、ドラマチックな物語です。

時代背景は、池澤さんの『ワカタケル』とまるきり同じなので、併せて読まれると、きっと楽しみが増すでしょう。
この小説は「奇蹟の書」と評されており、なにが奇蹟かというと、書かれたのがなんと大正十四年なのです。
私は五、六年前にたまたまこの本を人からいただいたのですが、最後の解説の頁に至ってそれを知り、びっくりしました。たしかに言葉遣いは旧仮名の文語調ではあるのですが、ふつうに読めますし、わざとクラシックな言葉でつづられた現代作品と言われたら、そのまま信じてしまうかもしれません。それほど古びていないのです。
そして、もっとも大きな特徴は、いささかも日本の小説らしくないことです。いわば西洋の翻訳文学の趣で、読んでいるうちにここが古代日本であることを忘れてしまいます。まぶたの裏に浮かぶのは、石造りの牢固たる古城と、花園に遊ぶ金髪碧眼の美女と、黄昏の野を駆ける騎馬の若者と……。しかし、それでいて、父の仇討ちに幼い命を懸け、敗北を悟ると潔く死地に赴く少年のいじらしさは、すぐれて「大和魂」を感じさせもするのです。
じつに不思議な感覚で、なるほどこれは奇蹟であるよと納得しました。
古代文学研究者の三浦佑之氏は、眉輪王の物語はシェイクスピアの『ハムレット』と構造がそっくりだとおっしゃっています。まさにその通りです。もしかすると、野溝さんも西洋文学になじんだまなざしで記紀神話を眺め、数あるエピソードの中から吸い寄せられるようにこの話を取り出したのかもしれません。人を感動させる物語は、時代と場所を超えて共通なのでしょう。
ストーリーの説明が不足だったので、じゃっかん補足します。
そもそも穴穂王が大日下王を討った理由は、大日下王が縁談を肯ったにもかかわらず、仲立ちをつとめた家来の根臣が応諾のあかしとして託された首飾りを着服し、穴穂王には「大日下王は不承知であった」として、無礼きわまりないホラ話を吹き込んだからです。穴穂王はこの奸臣の報告をほんのちょっとでも疑ってみればよかったのに、鵜吞みにしたため、大悲劇が招かれてしまいました。
耳かき一杯ほどの勘違いから思いもよらぬ運命が展開していく感じ、また、小悪党のちょこざいな細工によって舞台がまわっていく感じも、シェイクスピア劇そのものです。
眉輪王は子供なので、ハムレットとオフィーリアにあたる要素に欠けるのですが、それを補うのが大長谷王子と若草香王女の関係です。本作の若草香は気高く、なにものにもなびかず、肉体は許すけれども心は与えず、事件が終着したのちは、端然として廃墟の日下の御殿へ去っていきます。
非常に印象的な姫君で、池澤さんの小説のワカクサカに通じるところがあります。
物部の影媛、そして河内王朝の終焉
対照的に、高尾長良さんの『影媛』は古代そのもの、倭国の原初の風景とはかくやと思わせる静謐な作品です。
『古事記』にはなく、『日本書紀』のみにみえる逸話に取材した物語なのですが、さほど長くもなく、またさほど知られているわけでもないエピソードに着目し、巧みに膨らませて小説化した点は、これまたたいへんな目利きであると感じます。

時は雄略天皇から四代のち、二十五代の武烈天皇(オハツセ)の即位前のこと。大連物部麁鹿火の娘で、すぐれた巫女でもある影媛は、ある日、森で鹿狩りをする若者に出会います。それは大臣平群真鳥の息子、志毘。恐れを知らぬ豪胆さで獣を追う姿に、影媛は胸をときめかせます。志毘のほうも美しい影媛に心射抜かれ、二人は恋に落ちます。
しかし、影媛にはすでに太子(武烈)の妃となる話が持ちあがっており、自家の繁栄を望む物部の者たちは、みなその日を待ち望んでいるのです。野性的な男の魅力に満ちている志毘。対して、わずか十歳の稚い太子には、影媛はなんの魅力も感じません。影媛はほんとの想いを口にすることができず、思い悩みます。
しかも、古い氏族である物部に比して、平群はにわかにのしあがった成りあがりなので、両家は犬猿の仲なのです。ことに最近は大王すらないがしろにする増長ぶりで、影媛の父も兄も平群を目の敵にしています。
許されぬ身の上の二人が愛しあったことで、悲劇への扉が開かれます。
やがて、太子が影媛に求婚する日がやってきます。その舞台となったのは人々が群れ集う海石榴市の歌垣の場でした。
父親の麁鹿火から娘をもらう内諾も得ている太子は、さしたる設けもなく婚おうとします。そこへ志毘が敢然と現れ、闘歌(交互に詠みあう勝負)を挑みます。しかし、年若く作歌も未熟な太子は志毘に勝る作を出すことができず、苛立って影媛本人に詠みかけます。
「琴頭に来居る影媛玉ならば吾が欲る玉の鰒白珠」(琴に寄り添ってくる影のような影媛よ、そなたこそ私の求める真珠である)
すかさず、志毘が脇から奪って歌を投げ返します。
「大君の御帯の倭文服結び垂れ誰やし人も相思わなくに」(大王の倭文服の帯などに、私の思いはありません)
影媛は恋人の歌に呼応して太子の足元に平伏します。
「私の思う男は、志毘だけでございます」
そして、二人は手に手を取って逃げるのです。
衆人環視の中で恥をかかされた太子は射抜かれた鵠(白鳥)のように絶叫し、麁鹿火も王家との婚姻をぶち壊され、憤怒を爆発させます。かくして、物部、大伴、久米部らの軍勢が二人を追跡し、その果てに、志毘は影媛の目の前でむざんに切り刻まれるのです。
先ほど私は本書と『眉輪』は対照的だと言いましたが、ある意味で読み味はきわめて似ています。敵対する家同士の恋という点では、『ロミオとジュリエット』を彷彿させるかもしれません。
本書はほとんど全編、隠喩で表現されており、影媛は虚空を逍遥する翠鳥、志毘は森を疾駆する若鹿、逢瀬は手を取りあい木の枝で水面をこおろこおろと混ぜること、滾りたつ欲望は血の滴る生肉を嚙みしめること……といった具合なのですが、その語感から立ちのぼる手触りと音感と湿気が、なんともいえず素敵です。
作者高尾さんがこの作品を書いたのは二十二歳というので驚きますが、若いからこそ可能であった、大胆な試みかもしれません。
さて、本作は志毘が惨殺されたところで幕となりますが、歴史的にはこののち志毘の父の真鳥も殺され、平群一族は勢いを失します。
また、大王に即位した武烈天皇は、史上稀にみる残虐な君主として、言うのもはばかられる悪行を重ね、後継者もなく、王朝は終焉を迎えることになります。もしかすると、影媛と志毘に味わわされた手痛い失恋が、この人を狂気に向かわせたでしょうか。
ただし、どこの国でも最後の支配者は愚昧に描かれますので、事実かどうかはわかりません。
この先には、越前から迎えられる継体天皇(オオド)を経て、いよいよ飛鳥の時代が見えてきました。
プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)
1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。