蜘蛛と雲~安らぎをもたらす美しさ――「熊本 かわりばんこ #05〔熊本の暑い夏〕」吉本由美
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蜘蛛と雲~安らぎをもたらす美しさ――「熊本 かわりばんこ #05〔熊本の暑い夏〕」吉本由美

 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。

この夏いちばんのできごと

 日頃はのっぺりとした私の壁掛けカレンダーも7月はわずかだけれど書き込みが増える。通常は、自分の誕生日、ついで庭猫一家の登場記念日、さらにかつて愛したノラ猫ミケヤマが命を落とした日、福岡で独り在宅介護のもとに暮らす7歳年上の従姉妹の誕生日を記入。今年はそこに“発売日”やら“送本日”やら“取材の日”やらの書き込み追加で、人並みにとは言えないけれど賑やかになった。自分もいっぱしの社会人という気分が漂う。実はひさしぶりにエッセー集を出したのだ。

 タイトルは『イン・マイ・ライフ』。自著について語るのはちょいと恥ずかしくて内容は端折(はしょ)るが、若い頃の仕事三昧の東京暮らしと還暦過ぎのヒマのような多忙のような熊本生活の2部構成にした。その前の『みちくさの名前。雑草図鑑』(NHK出版)からなんと10年も経った出版で、引退の道を探っていた人間にはこのひさしぶり感がとても刺激的なのだ。で、つい自己宣伝……してインスタグラムにも上げてしまった。老人(70歳以上)になると、何かしら、どこかしら、自分が世の中からはじき出されているような気がしてくる。だからたまに、こういう“仕事してます感”というか、社会参加の気分を得られるとソコハカトナク嬉しくなる。自分がそうなってわかったのだが、年よりって、気持ちや行動をひっくるめ、ソコハカトナク生きているのだ。だからこそ本は目立つよう、装丁も思いきり、くっきり、シッカリ、若作りにした。私のことなど知りもしない若者を“ひっかけよう”という狙いである(冗談)。

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 本の形となった以上もう直せないのだが、心配性なので幾度も誤字脱字がないか読み返した。そして気付かされたのは、自分の中の庭に対する怨念だった。庭への苦情ばかり書いている。我ながらしつこいと思う。そんなに嫌なら庭など売っちまえばいい、と思う。けれどそうはいかない事情があるから怨念になる。まあ怨念といっても自分の庭相手だから誰に危害を与えるでなし、カワユイものではあるけれど、なかなか思い通りにはならない庭への徒労感が高齢者となった自分の非力を炙り出す。老後は淡々と洒脱に過ごす、との計画も、後半の熊本暮らしに綴られているのは非力なせいでの庭とお金のマジヤバ話になってしまった。その涙と笑いの内容に喜んだ友だちも多かったが。

 そういう思いで改めて庭を見渡すと、本にも再三書いたけれど、猛暑続きの7月後半、そこはもう当然の如く草だかりの場になっている。前回書いた“年よりにやさしい庭”でも6月の雨続きにはお手上げである。そこに7月の晴天続きで草どもが繁ること繁ること、分別というもの微塵もなし。もう老女の手には負えなくなっている。そうなる前に毟(むし)るなり刈るなりやっておけば良かったのに……と毎年繰り返す猛省に自己嫌悪を感じながらも、「炎天下の庭仕事は特に高齢者の場合死を伴う危険行為ゆえおやめ下さい」という天気予報の警告に深く頷く。 

 さらにテレビの健康番組で「老人は筋肉量が落ちる。筋肉は体内に水分を備蓄しているオアシスで、筋肉量が少ないと体内の水分補給率も落ちる。老人に熱中症に罹る人が多いのはそのためである。ゆえに高齢者は特別こまめに口からの水分補給をするほか、ゆるやかな筋トレで(特に下半身の)筋肉を鍛えることが大事である」と医者が言っていたので、なるほど、と膝を打った。年よりが熱中症に罹りやすいのは、暑さを感じるセンサーが鈍ったり電気の無駄使いが嫌でエアコンを使わないからと思っていたが、それだけではなかったのだ。では自分も筋トレしなくては……と思ってスクワットを始めたが3日で終わった。弟(68歳)や先輩(78歳)は続いていると聞くと続かない自分が不甲斐ない。

 このように夏場は庭や体力に関することでいろいろと落ち込んでしまう。それで知らない間にレモンの実が大きく育っていたことが唯一の喜びに思えてくる。5月から6月にかけての悪天候でその果実の多くが落ちてしまっていたのだ。今年も収穫はダメかとあきらめて以後チェックするのも止めていた。ところが少し前、涼しさ残る早朝に見に行ったら6個のみだが育っていた。おお、ありがたや、と記念撮影。レモンは摘果(てきか)が大事と聞いているがたった6個なのでそれも忍びない。そのままにして元気に育てと祈るほかない。

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夏の訪問者

 生い繁る草どもをどうするか。去年のように涼しくなるまでほったらかしでいようか。悩み、迷う。去年は10月の台風あとまでそのままにして、草の勢いがなくなった頃いっせいにグルグル巻いて引っこ抜いたのだ。最初を小さく丸め、巻き寿司を作るときの要領で巻いていくのだが、これはこれで気持ちの良い草抜き法だった。雨上がりあとのゆるんだ地面から続々と、ばりばりと、草の根っこが引き剥がされ巻かれていく。今現在頭に来ていることを思いながら巻いていくと、その剥がれ具合がうっぷん晴らしにちょうどいい。ただし巻き巻きするその10月まで、草むんむんの庭の荒廃状態を我慢できればの話だけれど。

 草が繁ると蜘蛛がすごい。あらゆるタイプの蜘蛛たちがこの草あの草と網を張る。ジョロウグモ、クサグモ、オニグモ、そのほかいろいろな蜘蛛たちの、さしずめ庭は“網のショールーム”だ。それらは遊歩道を跨いで、枝から枝、草から草へ張られているので、ぼんやり歩いていると顔に肩にふわっと纏わり付く。蜘蛛好きなので騒ぐことなく「破いてごめんね」と謝りながら歩く。いったん網が破れると蜘蛛はまた一から出直して編まなくてはならない。編まれた網が彼らの食料確保場なので網を編むのは彼らにとって命をかけた行為なのだ。

 昨年、2月から8月いっぱいにかけて表の門柵の左片隅に1匹のコガネグモが住み着いていた。最初は1ミリほどの小ささだった。それが日ごと成長していき、台風にも豪雨にも、人間の無神経な門の開け閉めにもめげず、網が壊れても壊れてもそのつど立派に編み直し、成熟期には円網の真ん中にX文字を描く「隠れ帯」という美しい網を編んだ。さらに獲物をグルグル巻きにする「アタック・ラッピング」という編み物も見せてくれた。最終的には脚も入れて45ミリに成長した。毎朝、毎夕、声を掛けたり触ったりの交友を続けていたが、8月末の或る朝ぷっつりと姿が消えた。コガネグモは夏と共にその一生を終えると聞いていたので「ああ、これがそうか」と納得はできたものの、心にぽっかり穴が開いて、しばらくは周辺を探し回った。もちろんそんな小さな蜘蛛など見つかるわけはなく、成仏を祈って秋を迎えた。

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 この夏コガネグモは見かけない。反面ジョロウグモより小さいクサグモが表にも庭にもやたらいる。コガネグモの美しい編み目に比べこちらはメチャクチャと言おうか、長くて不規則な形の糸の先にレース地のように密集した網が張られて、見た目少々暑苦しい。その点ジョロウグモは相変わらずの律儀な職人技を披露してさすがと見惚れる。細かくきっちり編み込まれた円形模様はそのまま花瓶敷きにもできそうな出来映えである。
「こんなにたくさん蜘蛛がいる家は他にないですよー」と毎週野菜を配達してくれる八百屋さんが言う。「ヨシモトさんが網を壊さないで甘やかすからですね」とも言うこの人は去年のコガネグモコ(たぶん雌と判断したので呼び名をグモコにした)のこともよく知っていて、「この家は蜘蛛には甘いとわかってこんなにたくさん来るんですかね」と笑う。

 蜘蛛がたくさんいるからかヤモリも多い。東京の白金台のお寺の下の共同住宅1階に住んでいたときも、お寺の下だったせいか庭付きだったせいか、都会のど真ん中であってもヤモリはよく現れたが、ここ熊本の住宅地、しかも蜘蛛だらけ虫だらけの雑草屋敷となるとその出現率は比べものにならない。さしずめうちの庭はヤモリにとって献立豊かな食堂だろう。家の外壁、常夜灯の周り、窓の外、玄関、廊下、台所の流しの窓、いたるところで虫や蜘蛛を狙う姿をお見かけする。

 ヤモリも好きなので部屋の中にいても私はかまわないのだが、そこには狩猟名人の猫が2匹いて襲われる確率が高い。これまでも赤ちゃんヤモリからどでかいヤモリまで何匹も殺されている。庭の隅にはそれらが埋まった“ヤモリ塚”までできたくらいだ。なので見かけたらすぐに笊(ざる)と新聞でパパッと捕まえて外へ逃がす。外にも猫が何匹もいるが草むらに放てば姿を眩(くら)ましやすいだろうと。

 夜、台所の流しで洗い物をしていると視界の端にニョニョニョという動くものが入る。お、いるな、と顔を上げて窓を見やるとやはりヤモリ殿のお出ましだ。窓の向こうにくっついているので、こちらからは裏側しか見えないが、体や指の大きさで、いつものヤツかニューフェースかお子さんかの判別が付く。動きも、タテに動くのが得意なヤツ、斜め横への移動が好きな輩、ぐるぐる回ってばかりの子など、みな個性的で親しみが湧く。ガラス戸にしっかり吸い付いている指の吸盤に触ってみたいのだが、すばしっこくてなかなか捕まえられない。触れられたのは死体だけだ。体はモチロン手のひらもヤモリは死んでも固くならずにフニョフニョなのはどうしてだろう……なんて考えて時が流れる。人間の友だちは少ないがこういう友だちは多いので、年よりの独居もけっこう楽しいわけである。

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空が広い

 自分の住んでいる街を悪くは言いたくないが、どう甘く見ても熊本市内の街並み、景観は、美しいとは言えない。帰ってきた当初それは何故かと考えていたが、しだいに腑に落ちてきたのは道路と街路樹が美しくない、ざっくり言えば“醜い”からなのだった。美しさの判断基準など人によって様々だからあくまでも私の基準で言えば、のことだが、4車線6車線の主要幹線道路はまだしも、2車線の幹線道路の幅がとにかく狭く、歩道がないに等しいところが多くあって、それが美しさとは真逆の思いを抱かせる。美しさとは安全=心の安らぎから派生した感情表現の一つだろう。ヨーロッパの街並みが美しいのは広い歩道が醸し出す安心感ではないだろうか。もちろんパリやローマのように狭い道路が編み目のように錯綜している街もあるが、そこはほぼ皆一方通行で車は1台しか走れない。熊本のように、そこを2台の車が、バスが、接触ぎりぎりの間隔で行き交うなんてことはない。
 土地の狭い日本の場合どこでも同じようなものとは思うけれど、特に熊本の街にその醜さを感じるのだ。しかも道が曲がりくねっているからますますその思いが強くなる。他の地から来た知り合いは皆が皆「熊本市内を車で走るのは怖い」と言う。仙台から来た友人は狭い道に対向車が入ってきたことに驚愕してつい叫んだ、「仙台ならこの道幅は一方通行だよッ!」と。

「熊本の街はどうしてこんなに道が狭くてグチャグチャしてるんですかね」と一度タクシーの運転手さんに訊いたことがある。運転手さん曰く「新町・古町のほうはせいしょこさん(加藤清正の愛称)が敵の襲撃から城を守るため曲がりくねらせて行き止まりにしたとか、わかりにくい道にしたとか、聞いていますけどね」。そして他の区域は先の戦争(太平洋戦争)で焼け野原となったあと区画整理をして道を広げる計画だったが、それを待たずに土地持ちが自分勝手に家を建ててしまったため以前からの狭い道路が続いている……ということだった。「自分勝手で計画性のなさは熊本人の県民性ですかね」と運転手さん。ううむ、確かに、熊本人はお上の言うことにすんなり従うことはない、と言われている。将来を筋道立てて考えられない、とも言われている。自分にもそのケがあるので大きい声では言えないが、そういう県民性が街の美化を阻害しているのなら残念なことだ。

 そして今、問題になっているのが久子さんが前回書いていた街路樹の伐採計画だ。これも根っこには計画性のない(と言われる)県民性が関わっている。私も熊本に帰ってきてからしばらく続けた街歩きで、街路樹のその景観の気持ち悪さには気が付いていた。一つ、狭い歩道に大木が並びすぎて息苦しい。一つ、そのせいで歩道のデコボコが目立ち美観損傷に輪を掛けている。一つ、行き過ぎた剪定で“この木なんの木?”状態になっている。
 これらはすべてその昔、大きくなる木を、考えなしに、狭い歩道に、ふさわしい間隔も空けずに、植えまくった熊本市の土木行政の将来を思い描けなかった失態の結果だ。この問題は街中の道路ならずとも家の近くでも起こっていて、すぐ近所の県立劇場の巨木数本(確かではないが少なくとも5本)がこの春見事に消えてしまった。見上げると4階建てのビルほどの高さに育った楠の巨木が車1台分の細い道沿いに間を置かずラッシュ状態で並んでいたのだ。自転車でよくそこを通る私は台風などでこれが倒れたら恐ろしいなと思っていた。その前に住む人たちならさらに切実な心配事だったろう。

 大きく育った木を切り倒すのは切ないことだ。伐採問題に反対している人の気持ちは大いにわかる。すべての責任はかつてこれらを植えた行政にある。しかし今それを責め立てても詮無いことで、二度とこのような間違いをしでかさないためのルール作りが大切と感じている。それにはどうすればいいか。我々市民が、市が企てる街の美化という名の下の伐採計画に介入し大声張り上げる道しかないのか、何か他にないだろうか、と考えては頭が痛い。

 そんなクサクサするとき見上げるのが広い空だ。その広さにホッとする。絡まった頭の中がさらさらとほどけていく。東京で空が広いと感じるには、大きな公園へ行くか高いビルに上るか川辺に行くしかないが、熊本はどこから見ても空が広くて楽である。そういえばこの前こういう不思議な空を見た。

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 複雑な雲の形と微妙な色彩がまるで絵画のようなこの空を何と呼ぶのか、と『空の名前』(写真・文/高橋健司)を広げてみた。この本には空や雲や雨や雪や光の呼び名がきれいな写真と簡潔な文章で紹介されている。何かというと広げてきた一冊である。それによると複雑微妙なこの空は二重雲(にじゅううん)と呼ばれるものの一種らしい。同じ類に分類されている雲が、形状や色を変えわずかな高さの違いで重なりこういう姿になっているという。天気が悪くなる前によく現れるそうだが、その夕方、この美しさには何もかも忘れさせてくれる力があった。そのとき抱えていた鬱々した悩みがその空に吸い込まれ消えて行った。笑いながら家路を急いだ。

(次回は田尻久子さんが綴ります)

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プロフィール
吉本由美(よしもと・ゆみ)

1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。

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