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白川で暮らすカモの親子、そこに咲くザクロの花――「熊本かわりばんこ #15〔運動として街を歩くその前に〕」吉本由美

本がひらく

 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。


運動として街を歩くその前に

 前にも書いたが、家から歩いて20分ほどのところに阿蘇の根子岳ねこだけから始まり熊本の街を二分して有明海に流れ出る一級河川、白川がある。どこでもそうだが川堤というものは空気が瑞々しく空は広く、そばを通るだけでも気分がリフレッシュする。3年くらい前までは散歩と称しここまでは来ていた。堤防に佇むと川の向こうに街が見える。そこには美術館がありデパートがあり映画館があり橙書店がある。ヤッホー!
 
 けれど運動不足のせいか年のせいか、そのときも川を渡る元気はなくなっていた。よしんば無理して渡ったにせよ、その先街を歩き回る気力や体力はもうない……に等しい。家に戻るために体力はわずかでも残さねばならない。それで渡るのはあきらめてすごすごと引き上げるのが常だった。若い頃は橋を渡って行けたのに。家から街までいったいどのくらいの距離になるのか。そのときは万歩計を買って測ってみようと決めたのだったが、結局買っていない。万歩計というものは実際歩いてみないと数字は出ないのだ。歩くのが不安だからこそ歩数を知りたいわけなのだが。
 けれど先日、梅雨入り前に山紫陽花やイチジクなど好みの植物の手入れをしようと庭に出たとき、そんなモヤモヤは吹き飛んだ。
 
 テラスに置いたラジオからインタビューに応じる五木寛之氏の艶やかで張りのある声が聴こえてきたのだ。ファンでもないから逐一聴いていたわけではなくインタビューのテーマはわからず仕舞いだったが、終始氏は軽快にいろんな話をされていた。そんな中、今年突然イチジクの木に取り付いて葉っぱを齧りまくっている深煎りコーヒー豆そっくりの害虫を潰していた私の指が止まったのは体重についての話のとき。氏は今年の秋90歳になられるそうで、まずはお年を知ってびっくりしたが、さらに驚かされたのは若いときから体重を55・5キログラムに維持されているということだった。「五木にちなんで5を3つ並べてみたってだけのことですけどね」と軽くおっしゃる。若い頃から体重が変わらないということもすごいし、それが55・5キログラムってこともすごい。
 
 男性で体重が55・5キロといえばフェザー級ボクサーかマラソン・ランナーくらいだろうか。つまり五木さんは超スリムなのである。聞き手のアナウンサーも驚き「どうやってその数字を維持するんですか?」と訊ねる。氏は「毎朝体重計に乗るんですよ。増えたら運動や食事制限で調整してね」とこともなげにおっしゃる。毎朝か……毎朝とは。もうすぐ90歳にならんとする方のこの飄々とした自己管理ぶりに参った。素敵だった。自分もこうありたいが、最近の自分の体重も、体重計に乗ったのはいつだったかも覚えていない。少しは氏を見習おうと庭仕事が終わった後、玄関脇に仕舞い込んでいた体重計を取り出して乗ってみた。するとなんと東京時代より4キロも増えていた。ギョッとした。小さい人間の4キロ超えったら大きい人の10キロ超えに等しい。しっかり肉が付いているのだ。どうりで今までの服をどこかしら窮屈に感じたはずだ。どこかしらどころか正真正銘窮屈になっていたのだ。
 
 それで目が覚め、さすがに運動しなけりゃならぬと思い至る。とりあえずは歩きだろう。歩くと言ってもあくまでも運動としての歩きである以上そこらへんをタラタラと散歩……では意味がない。無理だと思える距離をぐいぐい歩くしかない。ぐいぐい歩く、それが重要。しかし、久子さんのように家の裏が山なら運動としてのハードな山歩きもぐいぐいとできようが、我が家周辺の平べったい住宅地をぐいぐいと歩いたってなあ。イマイチ気分が乗らない。そこで課題にしていた“歩いて街に行く”を、運動の一環として実行しようと閃いた。4キロ超えの今実行しないでいったいいつやるというのか。ぼんやりしてたら逝く日はすぐに来てしまうぞ。
 
 体重計をもとあった棚に戻し玄関脇から表の庭を覗くと今が盛りと咲き誇っているドクダミの花(白いのは花ではなくほうなのだが)が見えた。ドクダミはたくさん摘んで部屋に飾ると青臭く泥臭く清々しいルームフレグランスになるので重宝している。その上乾燥させてお茶にすると痩せる効果もあった気がする。よく歩いてドクダミ茶を飲む、を習慣にすれば、五木さんのようなスリムなお年寄りになれるかもしれない。「ドクダミ? ああ好きなだけ持ってって! 増えて増えて困ってるのよ」ということで頂いてきたドクダミだが、当然のように繁栄して、5月ともなると表の庭に美しい白十字のお花畑を作り出している。ありがたいことだ。

 昔は街に歩いて行った。子供の頃も、18歳で東京へ出てそれからの帰郷のときも、歩いたり走ったりして街へ行った。特に40代は走ることにのめり込んでいた時期で、何分で鶴屋(街中央のデパート)にゴールしてみせると母に宣言などしていた。休暇だろうと休養だろうと走ることは止められなかった。
 走りだとアッという間に街に着き、家から20分も掛からなかった気がする。そのままお城まで走ってあの広い二の丸広場を何周もしたことさえある。今思うと考えられない体力だ。恐るべし40代!
 
 或るとき、走り終え銀杏の樹の下にバッタリ倒れているとジャージの上下を着て黒縁眼鏡を掛けたおじさんが近づいて来て「頑張っとるねえ」と言った。「学校はどこ行っとると? 陸上部ね?」。ランニング用のサングラスを掛けていたので学生と間違っておられるらしい。おじさんの全体から伝わってくる雰囲気は教師のそれである。引き抜きか? または補導かもしれない。今は平日の昼過ぎだ。慌てて「いえ、その」とサングラスを取ると、おじさんはこっちの顔をまじまじと見た。そして一言「あ、すんまっせん」。見た目若かね、とか言えばいいのにそれは口にせず静かに退場あそばした。残された者として、こういうの、複雑な気持ちになる。すんまっせん、って、何がですか? その一言の真意をはっきりさせてほしい。このままじゃすっきりしない。腑に落ちないというか、納得いかないというか。
 
 私は40代の10年間、東京は千駄ヶ谷駅前の古い6階建て共同住宅に住んでいた。千駄ヶ谷アパートメントという洒落た名前のこの建物は1964年の東京オリンピック時にオリンピック事業関係職員用住宅として建ったという社宅のようなもので、家族用の2LDKは10部屋しかなく、他は独身用だったのか1DKのコンパクトな部屋が30室ほどあった。懇意の不動産屋さんに入居斡旋を申し込むと空いていたのは1DKのみ。それではあまりに狭く(スタイリスト当時の荷物が山のようにあったので)、少し待って6階の2LDK角部屋に入居した。
 このアパートメントについては東京ならではのいろんな思い出があるけれど、それはひとまず横に置き、ここではどうして走るようになったかについて語る。
 
 借りた部屋の窓から地上を見下ろすと朝から夜までひっきりなしに人が走っているのがわかった。ここまで人は走るのか、と最初の頃は気持ちが悪かった。しかし目の前に新宿体育館のグラウンドがあり、右に国立競技場、背後に控えしは神宮球場と神宮外苑の広い森である。なるほど走るにうってつけの環境ではある。運動は苦手な人間だったがそのような光景を毎朝毎晩見ているうちに体の奥がむずむずしてきた。自分も同じように走ってみたい衝動に駆られ始めた。どうぞ走ってくださいな、と、道路が、グラウンドが、森が、誘っているのだった。
 
 それで走るようになったのだが、何せスポーツ音痴もいいとこだから自己流のゆっくりゆっくりのスタートである。ランニング通の目から見れば初めのうちはカタツムリほどの速度だったかもしれない。それでも15分、30分と走ってはいっぱしにぜいぜいと息を上げ充足していた。そんな或る夜、外苑の周りを走っていたら後ろからひたひたひたという音が近づいて来た。ひたひたひた、ひたひたひた……。気持ち悪くなって振り向くと“競歩”歩きの男性が8メートルほど後方に接近していた。練習中のようだ。体の軸は微動だにせず右に左に腰を揺らして一人ひたひたと追いかけて来る。まるでサスペンス映画の怖い場面のようで緊張したが、ひたひたひたと追って来て並んだと思った瞬間ひたひたひたと追い抜いて行った。自分の走りは歩きより遅いのかと愕然として立ち止まったのだが、どう考えても実業団の選手のようだったから、それじゃ仕方ないよね、と腑に落ちたというか気持ちを収めた。
 
 1、2年経つと新宿体育館の200メートルトラックを50周、10キロ50分のタイムで走るようになっていた。50分を切ったらハーフマラソンに参加できるかもしれないので、もう少しガンバ! と自分のお尻を叩いた。熱が入った。体ひとつで行えるからかランニングってやればやるほどハマるのだ。
 
 走るのは仕事が終わった後でいつも夜だった。疲れていても部屋に戻り6階の窓からトラックを見たらもう我慢できなかった。確か体育館は夜の9時まで開いていたと思う。そのおかげで私の走りは成長できた。日中とは違い潤ってひんやりした夜の空気の中を走るのは最高に気持ちよかったのだ。外苑周辺は真っ暗で、この体育館のグラウンド周りだけが、白い世界にひそっと輝いていた真冬の夜の女満別空港そっくりにポツンと明るく浮かび上がっていた。さらに200メートルトラックには3つ照明灯があって、その下だけがスポットライトを当てられたように輝いている。その光景は梶井基次郎の短編小説「檸檬」に出てくる夜の果物屋の情景を思わせた。タッタッタッと近づき、その光の輪の中に入ってすぐにくぐり抜け再びタッタッタッと闇に戻って行くのだけれど、その瞬間、「檸檬」の話の中に入った気分になるのが楽しくて仕方なかった。闇と光が創り出す都会の街のささやかな幻想である。それをやめることができなくて走り続けた。
 
 ランニングについて書いていくとまたまた長くなるのでこの辺で止め、本題の“運動としての街歩き”をスタートさせよう(いつも前置きが長くてすみません)。
 
 白川沿いでも街に近い付近には“新屋敷”という地名の、その名の通りにお金持ちの住む一角がある。清正公時代には武家屋敷だったのだろう。明治時代には熊本第五高等学校に英語の教師として赴任していた夏目漱石の三番目の家もここにあった(漱石は熊本にいた4年間に6回も転居している)。運動としての街歩き初日は、漱石三番目の家のあった新屋敷1丁目の「BROT HAUS SHINYASHIKI」というパン屋さんに寄って白川河畔へ進み街へ入る計画である。「BROT HAUS SHINYASHIKI」は数年前そのお屋敷町に移転オープンした。熊本にはハードパンを扱う店が少なく、ここはその少ないうちの一軒だ。私はハードパンが好みなのだが家からは少々歩くので数えるほどしか行っていない。だから運動としての歩きのもとで、この店は運動と食欲その二つを満たす願ったり叶ったりの存在というわけだ。
 
 家を出るとすぐ隣に広がる大学構内を抜け、昔通った中学校の前を過ぎ、10分ほどぐいぐい歩いて店に到着した。トータルで約20分。小さな店頭からパンを焼く香ばしい匂いが漂い出して近所の家々の庭まで広がる。朝目覚めると窓からこのような匂いが流れ込んでくるとは、さすがはお金持ち、幸せな一角だ。これまでだったらたまにしか来ないから1週間分のパンを買うところだが、運動に目覚めた私はまた来るからとささやかに、明日の朝食用ライ麦パンとこのあと食べる3種のベリーがのっかったパイを購入して店を出た。

 住宅地を抜け白川遊歩道に出た。かつてはどこかの所有地だったのか通行人侵入禁止の区画で、雑木が繁り荒れた土地が広がっていた。そこに数年前護岸工事と共に公共の手が入り、すっきりとした遊歩道に生まれ変わったのだ。変わる直前、桜の巨木も切り倒すのかと工事の人に聞いたことがある。「いいや、橋のあっちに移すんですがね、これがまあ大変で。正直生きた心地がしないんで」と造園技師らしいおじさんが答えた。 その桜は大甲橋を越えた向こうの堤防へと居を移し、今も堂々と花を付けている。
 
 造園の手の入った遊歩道は最初の1、2年はひょろひょろした新顔ばかりでどことなく白々しい雰囲気だった。しかしすぐに若木は育ち、葉を付けた。枝は伸びて、葉も繁った。するとみるみる間に気持ちのいいプロムナードが出来上がった。ここ数年、3月には「お花見マルシェ」、9月には「白川夜市」という市が立っている。さすがに去年はコロナで中止を余儀なくされたが、今年はとりあえず「お花見マルシェ」は開催されたと聞く。なので9月の夜市が楽しみだ。川のほとりだから9月は月が真上に煌々と輝くだろう。夜のそぞろ歩きのざわめきが早くも頭の片隅に渦を巻く。早く行きたい。まだ梅雨の手前というのに夜市好きの心はいたく揺さぶられるのである。

 遊歩道の柵にもたれてパイを食べる。3種のベリーの調和がいい。ぺろぺろと唇の右左を舐め、対岸の街の方を眺めると空に黒い雲が筋を描き始めた。明日は雨ということだけど、夜から崩れるのかもしれない。それが嫌だというのではない。私は被害が出ない限りにおいて雨降りが好きだ。特に、雨が降り出しそうな“気配”が好きだ。その意味で今目の前に広がる空の不穏な様子はなかなかよろしい。

 街に接した対岸にも徹底的に整備の手が入り、あちらには堤のような一段階かさ上げの遊歩道が走っている。そこもかつてはほったらかし系の、樹木が鬱蒼と重なる遊歩道だった。川に崩れ落ちそうな角度で大きな桜の古木が何本も生き延びていた。誰も手入れなどしていそうには見えなかったが、それでも自然の力で地面には小さな花たちが顔を出していた。白川までのランのあと、人のいない雑草だらけの片道200メートルほどのプロムナードを私は何十往復もした。
 
 走り疲れると石段を下りて川辺に出た。その頃は船着場のような石を組み合わせて作られた立派な足場があり、そこでどなたかが給餌されているのだろう、人の気配がすると水鳥たちが寄って来た。私もときどき持参のパンを投げ入れた。カモが来て、バンが来て、少し離れたところにシラサギ、アオサギが立っていた。
 
 或る年、不思議な光景を見た。つがいと思われる2羽のカモに寄り添って白いアヒルのような鳥が泳いでいるのだ。カモより二回りほど大きいし、顔もくちばしもどう見てもアヒルに思える。それがどうしてカモと一緒に? そのときは2週間くらいの長い帰省だったので毎日様子を見に訪れたが、2羽のカモの後を追ったり間に入ったり寄り添ったりして、アヒルはいつもいつも一緒にいた。その姿は親子のように見えた。血の繋がらない親子である。
 
 そこで考えた。これは鳥類に特徴的な卵がかえり殻から出たとき“生まれて初めて見たものを親と思う”習性の一つの例ではないだろうかと。岸辺のどこかにカモが巣を作り卵を産んだ。そこにいたずら好きな人間が来てアヒルの卵をそっと置いた。何も知らないカモ夫妻はせっせと育て、そして孵化。何やら大きめの子供がいるが気にせず餌を運び育てたのだろう。カモの子供は習性として巣立つのである。ところがアヒルにはそれがない。いつもいつまでも両親といたい。変だけどまあいいかとカモご夫妻もそれを許した。ガアガアとうるさく付き纏うアヒルだが夫妻は少しも嫌な顔はしてない。
 
 この一家のことが気になって毎年帰るようになった。親は私の度々の帰省を「なんでね?」と喜んでいたが、血の繋がりのないカモの一家を観察に、とは言えなかった。しかし3羽の幸せな姿を見られたのはそれから4年くらいだろうか。いつの間にかアヒルが姿を消し、そうなるとカモは何羽もいるので誰が誰やら区別がつかず一家のその後はわからなくなった。
 
 ぼんやりと思いに耽っていたら薄暗くなってきた。まだぜんぜん運動としての歩きには至っていないが帰る方が安全かもしれない。つまり計画は白紙に戻るってことである。自分っていっつもこんな具合で中途半端に終わってしまう。たぶん死ぬまでこんなことを繰り返すのだろう。帰りの時間を来たとき同様20分と計算すると、本日の運動はたった40分ほどの歩きということになる。つくづく竜頭蛇尾というか、大口叩きというか、嫌になるなあ、自分のことが。
 
 トボトボと歩いていると目の前にザクロの木があり花が咲いていた。かわいい花だ、実は付くのだろうか。それはいつ頃になるのだろう。ザクロの実は美味しいから、こっそりいで食べてみようか。するとこれからも観察に定期的に来ることになるし。多少は運動にいいかもしれない。

(次回は田尻久子さんが綴ります)

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プロフィール

吉本由美(よしもと・ゆみ)
1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『イン・マイ・ライフ』(亜紀書房)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

田尻久子(たじり・ひさこ)

1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)、『橙が実るまで』(写真・川内倫子/スイッチ・パブリッシング)がある。

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