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「思考入門 “よく考える” ための教室」第5回 〔論理的思考のようで論理的でないベンベン、それは何かと尋ねたら……〕 戸田山和久(文と絵)

はいこんにちは。早いもので11月、秋もふかまってきました。思考入門ももう5回目。前回まで「論理的」ってどういうことか、ネチネチ考えてきました。ここで新展開ですよ。世の中にはいっけん「論理的」に見えて、じつは筋がまったくとおってない、ってことがたくさんありますねえ。早い話がヘリクツってことです。ちゃんとした論理的思考とヘリクツをどう見わけたらいいんでしょう? ヘリクツにダマされないためにはどうしたらいいんでしょう? はい、戸田山さんきちっと教えてくれますよ。読めばあなたもカシコクなれる。いやあ、哲学ってホントにすんばらしいですねえ。それでは、お楽しみくださいね。

ここでクギをさしておこう、「論理的な愚か者」になってはいけない

 論理的によく考える・書く・話すというのは、思考・主張にできるだけ強いサポートを与えることに気を配りながら、思考や文をつなげていくことだと述べた。「強いサポート」というのは、ツッコミに負けにくいサポートのことだ。と同時に、どのくらい強いサポートがあればよしとするのか、同じことだが、いまはどのへんまでツッコんでもいいのか、というのは時と場合による。論理的な会話のケースでは、話し相手にもよる。
 というわけで、ツッコミとサポートのやりっこをどこでやめるか、つまり論理的思考をどこで切り上げるかはけっこう大事なことだ。それどころか、「いまは論理的に考え、語るべきときなのか」を見極めることも大事だ。どんな人とどんなときにどんなことがらについて話していても、サポートはしっかりしているのかがつねに気になり、ツッコミどころはどこかを探して、相手にツッコミを入れまくってしまう人がいる。そういう人は、「論理的な愚か者」と呼んでおこう。
 論理的な愚か者になってはいけない。たとえば、キミが久しぶりにおばあちゃんに会いにいったとしよう。小さいときにずいぶん可愛がってもらった。ふと、どうしているかなと気になったので訪ねてみよう、というわけだ。おばあちゃんは、キミの顔を見るなり「来てくれるんじゃないかと思ってたよ」と言う。なぜなの、ときくと、おばあちゃんは「今朝ね、お前の夢を見たからだよ」と答える。このとき、それではサポートとして十分じゃないね、とツッコまないでしょ、ふつう。おばあちゃんはキミと予知現象の有無について議論がしたいわけではない。おまえに会えてうれしいよ、と言いたいんだ。いまは論理的に考え、語る場合ではない。
 というわけで、キミがめざすべきなのは次のことだ。

 1)いまは論理的に考え、語るべきときなのかを見極めることができる
 2)論理的に考え、語るべきときにはそれができる
 3)時と場合(相手も含む)に応じて、どのていど論理的に考え、語ればよいのかの見極めができる

 こうやって書きだしてみると、難しそうに思える。だけど、これってまともなおとななら自然とできるようになっているはずのことだ。これが難しいということは、ひょっとしたらまともなおとなになるのが難しいということかもしれない。

では「論理的に考え、語るべきとき」ってどういうとき?

 わたしたちはいつも論理的に考えなければならないわけではない。たわいのない会話を楽しんでいるとき、落ちこんでいる自分をなぐさめようとしているとき、むしろ論理はジャマになる。前者においては、かえって連想で話題がどんどん飛んでいったほうが楽しいかもしれない。後者においては、あえて視野を偏〈かたよ〉らせて、物事の明るい面だけを見ようとしたほうがよいかもしれない。また、これは次回に述べることになるけど、わたしたちの頭はあまり論理的思考がうまくできるようにはなっていない。ちょっとがんばらないと論理的に考えることはできない。
 じゃあ、がんばって論理的に考え、語るべきときって、いったいどういうときなんだろう。
 みんなで悪巧〈だく〉みをしているときは、論理的に考えて語り合わねばならない。銀行強盗のプランを練っているときとかね。「警報を鳴らされちゃったらどうする」というツッコミに対して、「そういう縁起でもねえことを言うな」と答えるボスのもとでは、強盗はきっと失敗する。……なんでこんなことを言うかというと、「論理的に考える」ことじたいはいいことでも悪いことでもないということを忘れてはならないからだ。周到〈しゅうとう〉に綿密〈めんみつ〉に考え抜いたうえで悪いことをするヤツはいる。論理的思考というのは手段であって目的ではない。よい目的のために使われることも、そうでない目的のために使われることもある。どっちにも役立つ。包丁〈ほうちょう〉みたいなものだね。美味〈おい〉しい料理をつくるためにも、人殺しにも使える。

思考入門5 イラスト①

悪いヤツらほど論理的になる

答えは二つ、「学問するとき」と「政治するとき」

 そこで、さっきの問いをちょっとだけアレンジしよう。いま考えたいのは次のことだ。

 よい目的のために、がんばって論理的に考え、語るべきときって、いったいどういうときなんだろう?

 おそらく、答えは二つあると思うのね。一つは、この世が本当のところどうなっているかをなるべく正しく知りたいとき。もう一つは、そうやって知ったことがらに基づいて、みんなの幸せにかかわることがらについてみんなで議論してどうするかを決めようとしているとき。
 第一の活動がプロっぽくなって、専門家がやるようになったものを「学問」という。でも、この活動じたいは誰だってやっている(やらないといけない)。近所のラーメン屋が閉店したかどうかを知ろうとする、これも「この世が本当のところどうなっているかをなるべく正しく知る」の一部だよね。そういったごく日常的な「知る」もあるし、物質は電子とクオークでできているとか、「南京大虐殺」でどのくらいの人が殺されたのかとか、そういう学問的な「知る」もある。
 この世の本当のありさまをなるべく正しく知るためには、論理的思考が必要だ。すでに述べたように、「本当のありさま」は、直接目で見て確かめることができないものも多い。だから、間接的な証拠をいろいろ集めて、それを使って、「この世はこうなっていますよ」という主張をサポートする必要がある。そして、そのサポートが強ければ強いほど、主張は「きっと正しいんだろうなあ」と思ってもらえる。
 科学とか学問では、どういうことをすればサポートしたことになるのか、どういうツッコミは有効で、どういうツッコミはやりすぎなのかがだいたい決まっている。この決まりを身につけないと、学者・研究者にはなれない。そして、この決まりはおおむねまもられている。そして「決まり」じたいもだんだん改善されていく。なので、科学は発展してきたんだ。
 第二の活動、みんなに関係することをみんなで議論して決める、これもいろんなレベルで行われている。学級会、クラブ活動、おとなになると地域の自治会、父母会……、いろんなのがある。家族や恋人のあいだだって、ときには議論して決めないといけないことが出てくる。結婚後の姓をどうするか、結婚式はやるのかやらないのか、仕事をどう続けるか、子どもは何人つくろうか、どこに住もうか……。
 みんなに関係することを決める、二人から国際レベルまで、これをひっくるめて「政治」という。政治のやり方にもいろいろある。オレが偉いんだから、オレが全部決める、文句言うな、というやり方もある。この場合、論理的思考は必要ない。必要なのは腕力だ。
 でも、みんなに関係することはみんなで議論して決めよう、という政治のやり方もあって、これをちゃんとやるためには論理的思考が必要だ。なぜなら、みんなで決めるためには、みんなが納得しないといけないからだ。みんなを納得させるためには、主張がちゃんとサポートされていなくてはいけないし、ツッコミに耐えられるものでなくてはならない。
 わたしたちの国は「みんなのことをみんなで議論して決める」という建前で政治が行われる国だ。ただし、国民全員が議論に参加することはできないので、選挙を通じて選んだ議員が議論して「みんなのこと」を決める。議会制民主主義というやつだね。こっちにもプロっぽくなった人々が現れる。政治家だ。ところがこの人たちは、あまり論理的思考や論理的議論が得意ではないように見える。それどころか、それをする気があるのかも疑わしい。だから困っちゃう。
 このことを憂〈うれ〉えていると話が長くなってしまう。とりあえずここでは、論理的思考には科学と民主主義を支えるという大切な働きがあるということをわかってもらって、次へ進もう。

「論理的思考の敵」から身を守れ

 論理的に考え、語ることを避けようとする人がいる。それも、苦手だからやりたくないというんではなく。そういう人は、そもそも目的からしておかしいんだ。
 論理的思考・議論の目的の一つは、「みんなの幸せにかかわることがらについてみんなで議論して決める」だった。「みんなの幸せ」を目指していない人、あるいは「みんな」の範囲がごく狭い人。つまり、自分の「お友だち」、社会の特定の階層、自分と考えの近い人たちの幸せを優先させる人。ひどい場合は自分一人の幼稚なプライドを、いろんな成員からなる社会・コミュニティぜんたいの幸福に優先させるような人。こういう人は論理的思考・議論を避けようとする。なぜなら、そういう人の主張は、そもそもサポートが貧弱なうえに、ツッコミどころが満載〈まんさい〉で、しかもそのツッコミに耐えられないからだ。
 あるいは、「みんなで議論して決める」のがイヤな人も、論理的思考・議論を避けたがる。議論によってみんなを説得するかわりに、脅〈おど〉したり、忘れたふりをしたり、感情に訴えたり、外に共通の敵をでっちあげたり、突然キレたりする。そして、決まってこう言う。「議論は終わりだ。決断の時だ」
 キミたちは、こういう「論理的思考の敵」になってはいかんよ。と同時に、論理的思考の敵から身を守るすべを身につけることもたいせつだ。そのためにどうしたらよいのかを考えていこう。

疑似論理的思考って何だ?

 あからさまに論理的思考・議論を避けているのは、誰の目にもわかりやすい。やっかいなのは、いっけん論理的に見えて本当のところは論理的ではない思考や議論だ。つまり、主張や結論にサポートが与えられているように見えるが、その「サポート」がぜんぜんサポートになっていないというケース。これは、気をつけないと見逃してしまう。
 論理的思考のようで論理的でないもの。これは疑似〈ぎじ〉科学ってやつに似ている。疑似科学って、心霊現象やUFOとか、いわゆるオカルトとごっちゃにされるけど、ちょっと違う。科学では解明できない不思議がこの世にはある、と主張するオカルトは疑似科学ではない。疑似科学というのは、そういう現象を科学的に扱うと称する活動のことだ。あくまでも、科学のにせもの。だから疑似「科学」なのである。超能力を「科学的」に研究するとする「超心理学」、神が生きものを現在の形につくったとする聖書の記述を「科学的に」証明しようとする「創造科学」などが代表的な疑似科学だ。科学を名乗るので科学っぽくふるまっている。学会をつくったり、論文誌を発行したり、実験や調査をしたりする。大学に講座をつくったりもする。でも、中身をよく調べてみると、いろんな点でフツウの科学とは異なっている。
 ここで扱おうとしているのは、うっかりすると論理的思考・議論に見えてしまうが、本当はそうではないものだ。伝統的には「詭弁〈きべん〉」とか「誤謬〈ごびゅう〉」と呼ばれてきたけど、「疑似論理的思考」と呼んだほうがよいかもしれない。あるいは、日本語には「ヘリクツ」という表現がある。これってうまい言い回しだよね。リクツでは割りきれないこと、リクツを超えたものということではなくて、あくまでリクツなの。でも本当のリクツではなくて、「屁〈へ〉」のような実体のないリクツ
 ここから先は、疑似論理的思考・議論(ヘリクツ)の代表的なものを5つお目にかけよう。こういう考え方をする人、こういう議論をする人は世の中にたくさんいる。知らずにやってしまう人もいるし、知っててあえてやっている人もいる。こういう人たちから身を守ってほしいんだ。

その①──主張の中身ではなく「人」を攻撃する

 論理的思考・議論では、サポートしたりツッコんだりするのは、ほんらい主張の中身に対して行われるべきだ。ところが、主張の中身ではなく、それを主張している人そのものにツッコミを入れることによって、主張にツッコミを入れたと錯覚させることがしばしば行われている。「その主張をしているのはほにゃららなヤツだから、その主張は間違いだ(信用できない)」という具合。
 いろんなことがらが「ほにゃらら」のところにくる。その人の能力(アホである)、人格や性格(異性関係にだらしないヤツである)、経歴(もと過激派の活動家である)、学歴、職業(「反日」朝日新聞の記者である)、性別、民族的出自、社会階層など、ありとあらゆることがらが対象になる。
 たとえば、米国の陪審員〈ばいしんいん〉制度のもとでの法廷で、こんなことがあった。タバコ会社の社員が、会社による健康データ捏造〈ねつぞう〉をマスコミに告発して、秘密保持の契約違反で訴えられたという裁判があった。このとき、陪審員の「心証」を悪くするために、訴えられた社員は、告発事件とは何の関係もない若者時代の万引きの「前科」を批判された。
 こういうことが起こらないはずの科学の世界でも、次のようなことがあった。一九三〇年代のドイツでの話。ヒトラーひきいるナチス党が勢いを増しつつあった時代だ。フィリップ・レーナルトとヨハネス・シュタルクという、どちらもノーベル物理学賞をもらった大物が先頭に立って、「ドイツ科学運動」が巻き起こった。二人とも純粋ゲルマン人で、実験重視の伝統的立場、しかも熱烈な愛国主義者だった。彼らは、当時生まれつつあった量子力学と相対性理論(二〇世紀の新しい物理学の二本柱になった)にたいそう批判的だった。理論的・抽象的すぎて、実験の裏づけが足りなかったからだ。
 これだけだったらまともなツッコミだ。しかし、ナチスを支持していた二人は「量子力学と相対性理論はまちがった理論だ。なぜなら、それを推進しているのがユダヤ人だからだ。そしてユダヤ人は現実離れした抽象理論をもてあそび、真の創造性をもたない」という批判を行い、シュレーディンガーやアインシュタインといったユダヤ人物理学者の弾圧に乗り出した。けっきょく、シュレーディンガーもアインシュタインも他国に亡命せざるをえなくなった。
 言うまでもないと思うけど、物理学の理論の正しさと、それを唱えている人の人種とは何の関係もない。相手が唱えていることがらの中身に有効なツッコミができないが、とにかくツッコみたいとき、相手の無関係な属性をとらえてそれを攻撃する、ということがけっこう頻繁になされる。残念なことだけど。

思考入門5 イラスト②

これが人身攻撃だ

その②──「わら人形」論法

 自分の主張をサポートするのに、自分と対立する議論にツッコミを入れてやっつける、というやり方をとることがある。これは正当なやり方だ。ただし、ちゃんとやるなら。
 この場合「ちゃんとやる」には二つのことが大切だ。まず、やっつけようとする相手の考え方を正確にとらえたうえで批判する。そして、相手の主張の最も強くサポートされている部分、あるいは最も強いサポートを批判する。でも、これは「言うは易〈やす〉く行うは難〈かた〉し」の典型で、じっさいにはなかなかまもられない。
 たとえば、相手の考え方を歪〈ゆが〉めて解釈し、批判しやすくしたうえで批判する。それには、批判しようとしている相手の主張をうんと極端なものにしてしまえばよい。極端な主張はツッコみやすくなるからだ。最悪の場合、実際にはそんな考えの持ち主はいないよ、というような人をでっちあげて、その人の極端な考えを批判することで逆に自分の考えをサポートしてしまえ、ということになる。このときでっちあげられる極端な人(そんな人はめったにいない)を「わら人形」という。たとえば、こんな議論を見たことがあるだろう。

 子どもを虐待した母親はみなDV夫の被害者でもあるのだから免罪〈めんざい〉されるべきだという意見はまちがっている。子育ては母親の仕事なのだから、児童虐待のケースで処罰されるべきはまずは母親であるべきだ。

 ここで言いたいのは、児童虐待が行われた場合、母親もちゃんと処罰せよということなのだけど、そのサポートの一つとして、「虐待した母親はみな夫によるDVの被害者だから免罪されるべきだ」という主張をやっつけている。しかし、これはずいぶん極端な主張だ。まず、子どもを虐待する母親が全員DV被害者であるとは限らない。それに、夫の暴力の被害者である場合だって、母親の責任がすべて免除されるべきだと考える人もほとんどいないだろう。その事情を酌〈く〉んでやるべきだ、と考える人はたくさんいるだろうが。つまり、こんな極端なことを言っている人はほとんどいないのである。これはわら人形だ。

その③──細かい点に議論をすりかえる

 相手の主張を批判しようとするなら、その最も強くサポートされている部分、あるいは最も強いサポートにツッコミを入れないといけない。これをいいかげんにすまそうとすると、相手の主張やサポートのどうでもよい些細〈ささい〉な点を批判して、相手の主張の全体がダメであるかのように見せかける、ということになる。たとえば、次の会話を考えてみよう。

A ボクのいるところでタバコを吸うのはやめてくんないかな。誰もいないところで吸って、キミが身体を壊すのはキミの勝手だ。だけど、副流煙〈ふくりゅうえん〉でボクに迷惑をかけるのはやめてくれ。せっかくの料理の香りがわからなくなっちゃうし。
B 何言ってるんだ。そんなに敏感な鼻の持ち主じゃないだろ。

 タバコを吸わないでくれという主張に対して、Aが与えているメインのサポートは、「自分は副流煙の被害にあいたくない(あわない権利がある)」ということなのに、Bは料理の香りがわからなくなる、という、「副流煙の被害」のうちどちらかといえば些細な点をとらえて、そこにだけ反論している。

ヘリクツ父さん登場!

 というわけでヘリクツ・オン・パレードをやっているわけだけど、これまでに登場した二種類の疑似論理的思考は、どちらかというと議論とか論争といった場面で出くわすタイプのものだった。だからキミは、誰かがそれをやっているのに出会ったときに、ダマされないぞ、と注意しておけばよい。
 これに対し、いまから紹介するのは、考え方そのものにかかわっている。だから、誰かがそれを使ってキミをダマそうとするかもしれないし、それだけじゃなく、キミじしんがその思考法にハマってしまうかもしれない。だから、二重に注意が必要なアイテムだ。
 キミが学校から帰ってきて息抜きにゲームをしていると、めずらしく早く帰宅したお父さんがそれを見つけて、「勉強はどうした、勉強は。ゲームする暇があったら勉強しなさい。勉強していい大学行って、いい会社に入っていい給料もらえばいい暮らしができる。そんときゃ、いくらだってゲームもできるだろう。それとも、いま勉強サボってゲームして、大学にも行けずに一生棒にふるつもりか。えっ。どっちを選ぶんだ」。
 まあ、いたるところツッコミどころ満載〈まんさい〉な説教だけど、親はやらかしてしまいがちだ。で、ここで注目したいのは、この議論ぜんたいの構造。いちおうどっちを選ぶかを聞いているように見えるけど、お父さんの答えはもう決まってる。ゲームをやめて勉強する、だ。ということは、お父さんはキミ相手に次のような議論をしていることになる。

 A(勉強)するかB(ゲーム)するかのどちらかだ
 Aするといい結果になる(将来のリッチな生活)
 Bするとよくない結果になる(ダメ人間くん認定)
 誰でもよくない結果は避けるべき

 以上をサポートとして、結論は、

 だからAしなさい

 これは、サポート関係はまともだ。だから、いっけんまともな議論に見えてしまう。しかし思い出してほしい。サポートがちゃんとしているためには、サポートと結論の関係がちゃんとしているだけでなく、そこで使われている個々のサポートじたいも正しくないといけない、ってことをだ。
 この場合、怪しいのは最初のサポートだ。つまり、AするかBするかのどっちかしか選択肢〈せんたくし〉がない、というところ。「ゲームしないで勉強する」と、「勉強しないでゲームする」の他に、制限時間を設けてゲームを楽しみ、後の時間は勉強するという選択肢がある。しかも、その制限時間を何時間にするかで、いくらでもたくさんの選択肢がある。

その④──「AかさもなくばBか」

 お父さんの議論は、選択肢がたくさんあることを隠し、両極端の二つの選択肢しかないかのように思わせて、自分の好みのほうを選ばせる、疑似論理的議論だ。「強いられた二者択一」と呼ばれている。ようするに「AかさもなくばBか」ってやつ。
 これって、ものすごくよくない議論の仕方だと思う。なぜなら、とても暴力的だから。「国を愛さないヤツらは出ていけ」というヘイトスピーチ系お得意の言い回しってまさにこれ。そんな二者択一を受け入れる筋合いはないわい、と言っておけばよい。
 で、これって他人から押しつけられるだけでなく、自分からこうした思考に落ちこんでしまうこともあるから要注意だ。

 AするかBするかのどちらかだ
 Aすると困ったことになる
 Bしても困ったことになる
 ゆえに、いずれにしても困ったなあ

 こういう思考パターンを「ジレンマ」という。わたしたちの悩みのほとんどはこういう形をしているんじゃないかな。「義理と人情の板ばさみ」とか、「あちらを立てればこちらが立たず」とか、いろんな言い回しでジレンマを表現してるしね。
 ジレンマが本物であることもある。つまり本当に、「いずれにせよ困ったことになる」ことも多々ある。だけど、頭の中だけのジレンマにすぎない場合もけっこう多い。つまり、自分で勝手に二者択一を自分に強いているだけ、ということもある。なので、アドバイスはこうなる。ジレンマに陥〈おちい〉りそうになったら、AとBの他に選択肢が隠れていないかをつねに探したまえ。

ヘリクツ父さんの逆襲

 というわけで、お父さんの「強いられた二者択一」論法を斥〈しりぞ〉けて、ゲームに精を出すキミだ。でも、そんなキミの姿を見て、お父さんはすごく心配になったらしい。こんなことを言いだした。
 「ものの本によるとな、ゲームは依存性があるらしいぞ。ちょっとだけ、と思ってやっていても、そのうち夜も昼もずっとやり続けることになる。そうすると、もっとスリルのあるゲームをやりたくなる。スリルのあるゲームって、ギャンブル性の高いものだよな。だからギャンブルに手を染めることになるぞ。パチンコ屋とかに出入りするようになる。そうすると、お金が足りなくなる。足りないからローン会社で借金するようになる。借金が雪だるま式に増えて、どうにも返せなくなる。そうすると、盗みを始める。どこにしようか、そうだな。コンビニだ。お前はコンビニに押し入る。最近のコンビニはセキュリティがしっかりしているからな、警察に通報されてしまう。やばいと思ったお前は、つい店員を殺〈あや〉めてしまう。そうすると、お前は人殺しに目覚めてしまい、シリアルキラーになっちゃう。警察が放っておくはずはない。いずれ捕まって、死刑になる。だから、ゲームをやるとお前は死刑になる」

その⑤──「滑りやすい坂」またの名を「雪だるま」

 お父さん大丈夫? と言いたくなるが、これが「滑〈すべ〉りやすい坂」論法、またの名を「雪だるま」論法と呼ばれるものだ。だけど、これってめちゃくちゃな議論というわけでもない。だから、疑似論理的思考なんだ。どういうことかと言うと……。
 この論法って、次のような形をしている。

 AならばB
 BならばC
 CならばD
 DならばE
 EならばF
 FならばG
 GならばH
 よって、AならばH

 これね、場合によっては正しい。数学の場合だ。長~い証明ってあるでしょ。それって、こういう形をしている。数学ではこれは十分なサポートになっている。それは、そこで使われる前提(AならばBとか、この例では7つある)のどれもが100%正しいからなんだ。
 でもね、ここに出てきた「ならば」が、「しかじかしたならば、かくかくの結果になる」という因果関係の「ならば」のとき、こういう形の議論は滑りやすい坂になってしまうことがある。因果関係の「AならばB」はたいてい例外があって、100%正しいことがまずないからだ。パチンコをやる人の全員が、お金がなくなるまでやり続けるわけではない(そうなっちゃう人もいるけど)。借金ができた人の全員が、盗みをするわけではない(やっちゃう人もいるけど)。人を一人殺した人がみんなシリアルキラーになるわけではない。
 そうすると、ここに出てくる「◯ならば△」のほとんどが、「そうなることもあるけど、そうならないこともある」、あるいはせいぜい「そうなることも多いけど、そうならないこともある」なんだ。そうすると、ぜんぶをくぐり抜けて「AしたためにHしちゃった」になるケースって、ほとんどないということになる。
 この論法あるいは思考パターンって、けっこう危ない。「強いられた二者択一」論法のときのお父さんは高圧的で権力的だったけど、今回のお父さんは心配性でしょ。「滑りやすい坂」論法は心配とか恐れと結びつきやすい。そして二つが結びついたとき、すごくよくないことが起こる。ロシア革命によって社会主義国のソビエト連邦ができ、第二次大戦直後、こんどは中国が社会主義国になった。アメリカはこれをものすごい脅威〈きょうい〉ととらえた。冷戦の始まりだ。放っておけば、わが国も共産主義化してしまうかもしれない。それは何としても避けなければならない。
 労働者の権利のための運動にちょっとでも関心をもつと、いずれ共産主義者になり、ソ連のスパイになり、共産主義革命を企〈くわだ〉てるようになる、そして、いずれアメリカも共産主義国になってしまう。お父さんと同じだ。こうした恐怖心にかられて「赤狩り」が始まった。共産主義者かもしれないと疑われた人々が次々と逮捕され、密告が強いられ、牢屋〈ろうや〉に入れられたり社会的地位を失ったりした。

思考入門5 イラスト③

心配のタネが雪だるま式に大きくなっていく!

 というわけで、ちゃんとした論理的思考と疑似論理的思考をきちんと区別して、疑似論理的思考に陥らないように気をつけることができる人が増えることは、わたしたちの社会が健全であるために、とても重要なのだぞ。

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プロフィール

戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。発行部数24万部突破のロングセラー『論文の教室』、入門書の定番中の定番『科学哲学の冒険』などの著書がある、科学哲学専攻の名古屋大学情報学研究科教授。哲学と科学のシームレス化を目指して奮闘努力のかたわら、夜な夜なDVD鑑賞にいそしむ大のホラー映画好き。2014年には『哲学入門』というスゴいタイトルの本を上梓しました。そのほかの著書に、『論理学をつくる』『知識の哲学』『「科学的思考」のレッスン』『科学的実在論を擁護する』『恐怖の哲学』など。

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