
あの日を境に失った、関係性と心を取り戻すため――中山七里「彷徨う者たち」
本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。事件解決の糸口となる「方法とチャンス」が揃った。笘篠刑事と蓮田刑事は、残るピース「物的証拠(凶器)」と「動機」を見つけ出すため、次なる一手に踏み込む――。
※当記事は連載第17回です。第1回から読む方はこちらです。
五 援護と庇護
1
掛川勇児は後頭部を鈍器で一撃されていた。よほど重量のあるもので殴打されたらしく、創口は石榴のように割れていた。
解剖報告書には創口について更に詳細が記述されている。
「鈍器と言っても創口は凹型になっている。所見には記述されていないが、担当した解剖医は角張ったものが使われたんだろうと言っていたらしい」
笘篠の説明を聞いた時、蓮田が咄嗟に思いついたのは角材だった。重量があり、力任せに殴れば頭蓋骨を破砕できる。形状も創口を想起させる。
そして角材なら〈祝井建設〉に山ほど置いてある。
「現場付近に残っていたベンツのタイヤ痕は一往復分だった。お前はどう考える」
「掛川の行動はバス運転手の証言で途中までは分かっています」
掛川はバスで仮設住宅最寄りの停留所に降りている。役場の公用車は閉庁後で使用できなかったからだろう。
「おそらく森見貢は掛川に連絡し、バス停付近で落ち合った。彼のスマホが未だ見つからないのは、その痕跡を見られたくなかったからでしょう」
「その仮定だと、犯行はバス停と仮設住宅の中間地点で行われたという解釈になるな」
蓮田の思い描く経緯はこうだ。
貢と森見善之助を乗せてきたベンツが料亭〈くにもと〉の敷地を出たのは午後八時十五分。貢は犯行現場で掛川と落ち合い、彼を殺害。死体をベンツに積んで吉野沢の仮設住宅に向かい、空き家に放り込む。その後〈くにもと〉に取って返し、午後九時二十二分に戻ってくる。
「死体を仮設住宅まで運んだとすれば、車内には掛川の血痕なり毛髪なりが残存している可能性があります」
「捜査令状がなけりゃ調べられる内容じゃないな」
「捜査会議に上げてみますよ」
直後に捜査会議があり、蓮田は容疑者の一人である貢のアリバイが防犯カメラによって破られたことを報告した。
「容疑者の本業を考えれば凶器はいくらでも揃えられる。建設業に従事しているから短時間で現場の採光窓を外せる。おまけにアリバイもなしか」
東雲は抑えた口調ながら明らかに興奮している様子だった。
「問題は動機と物的証拠だ。森見貢が実家の稼業のために仮設住宅の撤去を急いでいたというのも頷ける。ただし被害者の掛川勇児も災害公営住宅への移転を推進しなければいけない立場であり、森見貢と理由は違えど目的は同じだ。掛川を殺害しなければならない積極的な動機がまだ明らかになっていない」
一瞬、蓮田は返事に窮する。貢を最重要の容疑者にできない最後の壁がこれだ。
反面、最後の壁のお蔭で貢に手錠を掛けずに済んでいる。焦燥が同時に安堵でもあるのは皮肉としか言いようがない。
「動機は取り調べで吐かせるしかありません」
「何とも乱暴な方針だな」
珍しく東雲は苦笑する。𠮟責に至らないのは余裕ができた証拠だ。
「実は二課がこの案件に興味を示している。予てより県議会では選挙がある度に不法なカネが動いているという話があった。二課は出処不明のカネが最大派閥から流れていることまでは突き止めたが、今回の捜査で更に出処が特定できるのではないかと期待している」
「容疑者の義父である森見善之助は〈祝井建設〉の役員に名を連ねています」
「〈祝井建設〉が公共工事に絡めば、当然森見善之助の懐が潤う。任意で娘婿を引っ張って、殺人以外にも森見善之助の錬金術について証言が得られれば一石二鳥という訳だ」
森見議員の秘書を務める貢なら、カネの流れを詳細に把握しているに違いない。二課の読みはさすがに的を射ている。
「森見貢が、先日逮捕された板台の所属する〈シェイクハンド・キズナ〉を雇っているという情報もある。任意同行を求める理由としては充分だ」
貢が掛川を殺害したと立証できる物的証拠がない以上、東雲の方針は至極妥当なものであり反論の余地はない。
会議が終わるや否や、蓮田は石動の許に駆け寄った。
「森見貢は俺に取り調べさせてください」
普段は滅多に直訴などしない蓮田が頭を下げているためか、石動は胡散臭そうな目でこちらを見ている。
「容疑者とは顔馴染みだそうだな。私情が入らないか」
「顔馴染みだからこそ、相手の隙を把握できます」
「相手の隙を把握できるのは、向こうも同じじゃないのか」
「こっちは隠すことがありません。隠し事がある人間は必ず劣勢に立たされます」
「いいだろう、やってみろ」
そう告げてから、石動は笘篠に視線を移す。
「ただし笘篠が横につくのが条件だ」
「了解しました」
石動から離れると、蓮田は己を落ち着かせるために深呼吸を一つする。
尋問役を買って出たのは子どもじみた執着心からだ。
誰にもあいつに手錠を掛けさせたくない。誰にもあいつが首を垂れる姿を見せたくない。
俺以外には。
考えごとをしていると、いつの間にか目の前に笘篠が立っていた。
「もう、いいか」
それだけで、ずっと自分が見守られているのを知った。
「大丈夫です」
「行くぞ」
「場所は」
「森見議員のスケジュールは議会に照会して分かっている」
笘篠と蓮田が向かったのは石巻港だった。石巻港は県北部の物流の拠点であり、木材・食品飼肥料・鉄鋼・造船・製紙関連の産業を支える臨海型工業港だ。石巻市の製造業就業人口の約三割の雇用にもなり地域経済の中核を担っている。
ところが東日本大震災により、岸壁、民間護岸、航路泊地等の主要な港湾施設は大打撃を受けた。また、三陸沿岸の広範囲に及ぶ地盤沈下に伴う高潮冠水が地域全体の課題となっている。
森見議員は石巻港復旧工事の進捗状況を視察するために足を運んでいた。もちろん秘書の貢も同行している。裏ガネ作りやら選挙工作やら黒い噂はあるものの、地域社会の復興に尽力しているのはさすがだと思う。
漁業が再開している傍ら、復興工事も同時に進んでいる。港湾には建機が行き来し、ヘルメット姿の作業員が動き回っている場所を離れると、漁師らしき男が岸壁に漁網を広げて手入れに余念がない。四角い木槌のようなもので漁網を軽く叩き、細かいゴミを取っている。
蓮田が森見議員と貢の姿を探している間、笘篠は作業員と漁師らしき男の動きを漫然と見ている。
「何しているんですか、笘篠さん」
「港の風景を眺めている」
「見たら分かりますよ。何か興味を惹くものがあったんですか」
「宮城県民なら興味あるはずの風景だぞ。港湾の復旧工事と、以前と変わらない仕事。両方とも復興の槌音だ」
「そんな吞気なことを」
「吞気じゃない。切実なんだ」
蓮田は何も言えなくなった。
港湾の工事を請け負っているのは〈祝井建設〉だ。本来なら現場を指揮するはずの貢も、今日は視察のお供という立場だった。ところが肝心の視察団の姿がまだ見えていない。何か手違いでもあったのかと焦り始めた時、ようやく公用車の一団が現れた。
急いで森見議員と貢を探す。
いた。
森見議員は先頭のクルマから降りてきた。だが、それに先んじるはずの貢の姿が見えない。以降、次々に他の議員や秘書がクルマを降りたが貢はいない。
どういうことだ。
その時、最後列が見覚えあるベンツだと知った。ナンバーからも森見家のものであると分かる。
蓮田はとっさに駆け出したが、クルマから降りた人物を見て足を止めた。
沙羅だった。
彼女は蓮田の姿を捉えると、脇目も振らずに歩み寄ってくる。今更、蓮田に逃げ道などなかった。
「面食らっているみたいね」
「どうしてお前が、こんなところに」
「旦那は来ないわよ」
そのひと言で疑問が氷解した。
事前に情報が洩れているのだ。
「議員の秘書だろ。どうして貢が同行せずに沙羅がやってくるんだ」
「捜査本部じゃ旦那の方に照準を絞ったみたいね。議員視察の場に将ちゃんがいるのはそのためなんでしょ」
「捜査本部の話を、どうしてお前が耳にしている」
「県議会議員を長く務めていれば知り合いも増えるのよ」
クソッタレめ。
捜査本部の中で、議員に情報提供をしている不埒者がいるに違いなかった。すぐにでも裏切り者の名前を訊き出したいところだが、今は他に優先事項がある。
「旦那が人を殺したと、本気で疑っているの」
「お前に言ったところで仕方がない。どうせ捜査の妨害をして貢を庇うつもりなんだろう」
「逆よ」
「何だと」
「捜査本部が照準を定めた以上、わたしやお父さんがどれだけ頑張ったところでいつかは逮捕されるに決まっている。将ちゃんたちの噂は聞いた。とても優秀な刑事さんとコンビを組んでいるんだってね」
どう答えたものかと迷っていると、当の笘篠が背後からやってきた。
「つもる話か」
「いや、あの」
「悪いが俺は用事を思い出した」
笘篠は場違いとも思える言葉を平然と口にする。
「そっちは任せた」
信じられないことに、そう言い残すと笘篠は足早に立ち去ってしまった。何度かその背中に声を掛けたが、笘篠は振り返ろうともしなかった。
混乱する中、沙羅から事情を訊かなければならないという意識が辛うじて勝った。
「妨害するつもりはないと言ったな。どういう意味だよ。目の前で旦那に手錠を掛けられる姿を見たいとでも言うのかよ」
「そんな訳ないじゃない」
沙羅はきっと抗議の目を向けてきた。
「逮捕するつもりで来たのよね」
「関係者に話す義務はない」
「馬鹿。そう打ち明けているのも一緒よ。どうせお父さんと旦那の間柄も調べ上げたんでしょ」
「普通の婿と舅の関係じゃないことは聞いている。そもそも公の場では議員と秘書の関係だ。普通の家庭と同列に語れるものじゃない」
「取り繕ってくれなくてもいい。お父さんが議員控室に不特定多数の女の人を連れ込んでいるのも、旦那が下僕みたいな扱いを受けているのも知っているんでしょ」
自嘲気味の言葉が少し震えている。喋るのをやめさせたい気持ちと先を促したい気持ちが綯い交ぜになっていた。
「義父の性欲処理を庇う婿なんて醜悪以外の何物でもない。ウチは異常な家庭よ。もちろん諸悪の根源はお父さん。でもね、昔はあんな風じゃなかった」
「知っている」
「家では普通のお父さんで、他の女の人に興味を持つことなんて一度もなかった。でも、お母さんを亡くしてから一変しちゃった。まるで心の一部をお母さんと一緒に津波に流されたみたいだった」
「貢の扱いもそうなのか」
「旦那が婿に入ったのは、わたしの気持ちをお父さんが汲んでくれたからだけど、間違いなく自分の選挙区を継がせる意味があった。要するに親心のある政略結婚よ。だけど秘書を務めさせると、次第に婿という感覚が薄れていったみたい。議員と秘書の関係って聞いたことあるかな」
「秘書は議員の影、だったかな」
「議員のためなら一命を賭すのも当たり前。歪んだ考え方だけど、その世界にいると慣れてくる。ウチはこの数十年は政治家の家だから、わたし自身も慣れちゃっていた部分がある。だから旦那がお父さんにいいように扱われても、どこかで諦めていたフシがある。お母さんを亡くしたお父さんに同情していなかったと言えば噓になる」
蓮田は唐突に理解した。自嘲気味だったのは家族に対してではない。歪んだ家族を肯定していた沙羅自身に対してだったのだ。
「この間は、万が一にもウチの家族に手錠を掛けるような真似をしたら、二度と家に立ち寄るなと言っていた。どういう風の吹き回しだい」
「あの時はあの時で必死だった。でも捜査本部が乗り出したのなら何かの証拠が出てきたんでしょ」
蓮田は返事に窮する。まだ物的証拠は見つかっていない。貢を任意で引っ張ろうとしているのは見切り発車と言ってもいい。だが、折角沙羅が誤解してくれているのなら、それを利用しない手はない。
「物的証拠があるなら、もうわたしの手には負えない。将ちゃん、旦那が〈祝井建設〉の仕事欲しさに人まで殺すと思う?」
「個人的には信じ難い。いや、信じたくない」
「お父さんの命令じゃないかな。お父さんは〈祝井建設〉の役員であると同時に、県議会最大派閥を率いる古参議員でもある。政治におカネはいくらあっても足りない。仮設住宅の再開発で儲かるのなら、きっとお父さんは手段を選ばない。旦那に命令して実行させる」
歪な構図だが、森見議員と貢の関係を知れば眉唾とも思えなくなる。
「自首させて、将ちゃん」
沙羅は懇願するように、こちらを上目遣いで見る。
「自首したら罪は軽くなるんでしょ」
「仮に貢が犯人だったとして俺なんかの言うことを聞くと思うか。昔、俺の親父があいつの父親に何をしたか忘れた訳じゃあるまい」
「忘れていない。それで旦那が将ちゃんと仲違いしたままなのも知ってる。でもお願い、あの人の罪を少しでも軽くしてやって」
貢がおとなしく自首してくれれば事件は早期解決する。沙羅には気の毒だが、森見議員の錬金術も白日の下に晒される。二課も県議会絡みで腰を上げるに違いない。
「貢が全てを自白したら森見議員にも累が及ぶぞ。それでもいいのか」
「構わない」
決然とした口調に、蓮田は救われる。
「今までが変だった。それなのに気づかないふりをしていた。わたし、旦那が好きで結婚したのに、いつの間にかお父さんの奴隷にしていた。もう、嫌なの。旦那を楽にさせてあげたい。お父さんを軛から解放してあげて」
「軛だって」
「お父さん、とても悔しかったのよ、お母さんと家を津波に流されて。昔の思い出も根こそぎ奪われて。お父さんが災害に強い街、被害に遭わないような街づくりを目指しているのは正しいことかもしれないけれど、そのためならどんな犠牲も厭わないなんて本末転倒している。お父さん、津波に遭った日からすっかり歪んでしまった。それもこれも、まだ軛に囚われているから」
沙羅の言い分は決して荒唐無稽には思えない。あの日を境に、人生と、考え方と、生き方を狂わされた人間を少なからず見てきた。あの震災はそれほどまでに強大な暴力だったのだ。
「今なら、まだ間に合うかもしれない。お父さんも旦那も」
「貢は今どこにいる」
「分からないの」
一転、沙羅は面目なさそうに顔を歪める。
「捜査本部が視察先で待ち伏せしているのを聞いて、何も言わずに外出した」
「ベンツは沙羅が乗ってきたよな」
「軽がもう一台あるのよ。もっぱらわたしの買い物用だけど」
どうしてこんな単純なことに気づかなかったのかと我ながら呆れる。沙羅がベンツに乗って買い出しに行くなど、却って滑稽ではないか。裕福な家庭に育ちながらバランス感覚の取れた沙羅がそんな真似をするはずもなかった。
「車種とナンバーを教えてくれ」
沙羅から訊き出すと、蓮田は別動隊に連絡を入れる。沙羅名義のベンツを捜索する手筈もこのとき整える。
「お願い、将ちゃん」
懇願を背中に浴びた蓮田は、振り向きもしないまま片手を挙げて応える。笘篠が中座してくれて助かった。あの男がいたら、貢を説得する言葉が制限される。
自分と貢にしか通じない言葉もあるのだ。
覆面パトカーを駆りながら、蓮田は貢の逃走先に頭を巡らせる。
仙台空港に直行して高飛びする可能性は真っ先に思いついた。急いで笘篠に連絡を取ると、空港に向かうことを快諾してくれた。
『森見貢を見つけたら必ず応援を待て。一人で何とかしようなんて考えるな』
不思議に切羽詰まった口調ではなく、むしろ定型文を諳んじるようだった。
次いで捜査本部の石動にも事情を報告する。無論、沙羅とのやり取りまで仔細には伝えない。細君から得た情報というだけで石動は納得した様子だった。
逃走を図ったのは自らの容疑を認めるようなものだ。これから捜査本部がどう動くかは手に取るように分かる。主要な道路に検問を配置し、貢を県外に出すまいとするだろう。従って蓮田は県内で貢が立ち寄りそうな場所を潰していけばいい。
貢は議員秘書でもあり〈祝井建設〉の役員でもある。立場のある者は立ち寄る場所も限定される。議会と会社の主だった関係者の許には捜査員が送られているはずだ。
残る可能性はどこか。
一瞬の後に思い出した。まだ捜査本部には上がっていない連絡先がある。蓮田はスマートフォンを取り出すと、相手は二コール目で出た。
『どうしたの、将ちゃん』
知歌の背後からクルマの走行音が聞こえる。どうやら出先らしい。
「最近、貢と会うか話すかしたか」
『ううん』
「もし連絡があったら、どこにいるか聞いておいてくれ。そして俺に教えろ」
『……何かあったの』
「俺の口からは言えない。聞きたきゃ沙羅に聞いてくれ」
それだけで事情を察したらしく、知歌は質問を重ねてはこなかった。
『警察の仕事なのね』
「そうだ。だけどそれだけじゃない」
発するのは偽善めいた言葉だと思った。
だが決して偽善ではない。
「あいつを救うためでもある」
『分かった』
「頼む」
知歌との電話を切った後、本部の石動からは断続的に連絡が入る。空港にも主要道路の検問にも、貢は未だに引っ掛かっていない。県議会のある県庁にも自宅にも後援会長の自宅にも立ち寄っていない。
蓮田自身も〈祝井建設〉と森見議員の自宅にクルマを向けたが、空振りに終わる。一足早く張っていた捜査員たちは、彼が一度も戻っていないと首を横に振った。
いったい、どこに消えた。
捜索を開始して数時間、そろそろ陽が落ちてきた。暗くなれば探す方は分が悪くなる。
考えろ。貢をよく知る自分なら、捜査本部より先に居所を察知できるはずだ。それすら後塵を拝して何が幼馴染みか。
様々な場所が浮かんでは消える。思い出の場所、ともに通った場所、既に地図から消失した場所。
やがて蓮田はたった一つ残った可能性に辿り着く。考えられる場所はもうそこしかない。
蓮田はその場所に向けてハンドルを切った。
現地に到着した蓮田は、クルマから降りて薄明かりを頼りに周囲を見渡す。
志津川地区八幡川周辺。震災以前、ここには民家があり商店があり工場があった。人々の営みがあり、賑わいがあり、諍いがあった。
だが今は防波堤の建設が計画される、ただの更地だ。建物の残滓は基礎すら残っていない。瓦礫は全て撤去され、事情を全く知らぬ者が見れば、ここに集落があったことなど想像もしないだろう。
『防波堤建設予定地』の立て札の前に軽自動車が停めてある。沙羅の教えてくれたナンバーと一致していた。
石動に一報を入れてから海岸に降り立つ。
海からの風が直接全身に吹きつける。この季節の海は穏やかで風は湿り気を帯びている。海辺に沿って歩いていると、やがて彼方に人らしき輪郭を発見した。
小走りに駆け寄ると、相手もこちらに気づいて顔を向ける。
貢だった。
「やっと来たか」
蓮田が来ることを予測していたような物言いは、不快で少しくすぐったい。
「思い出すのに時間が掛かったか」
「お前が感傷的な人間だったことを思い出すのに時間が掛かった。場所ならナビなしで来られる。何度も来たからな」
元あった集落の中には前の〈祝井建設〉の工場兼自宅があった。今、二人が立っている場所がちょうどその跡地となる。
「どうして逃げた」
「視察先で警察が待ち伏せしているなんて聞けば、誰だって行きたくなくなる」
「疚しいことをしてなけりゃ物怖じする必要もないだろ」
「警察は怖がられていると思っているのか。違う、嫌われてんだよ。お前だって嫌いなヤツに待ち伏せされたら避けるだろうが」
「先日、器物損壊の容疑で逮捕された〈シェイクハンド・キズナ〉の板台という男が、お前の指示で仮設住宅を破壊したという証言がある。話を訊きたい。本部まで同行を求める」
ほう、と貢は意外そうな顔を見せた。
「器物損壊の指示。そんな容疑か。もちろん別件逮捕なんだろうが」
「板台に指示した事実は否定しないのか」
「否定も肯定もしない。こんな場所で安上がりな仕事をするんじゃねえ」
「じゃあ、一緒に本部まで来てくれ」
「断ると言ったら」
「言わせるなよ」
しばらく睨み合った後、貢は疲れたような溜息を吐く。
「お前、地上げは悪だと思っているのか」
「置かれた状況とやり方による。現状、人の住んでいる建物を破壊するなんてヤクザのやり口だろうが」
「どうせ撤去の決まっている建物だ。破壊するのが早いか遅いかの違いでしかない」
「ここで喋っていても埒が明かない。どうしても来てもらうぞ」
話している最中、他の警察車両が続々と到着したようだった。
「何だ。お前が一人で同行するんじゃないのか」
「規則だ」
「お前の口から規則なんて言葉を聞くとはな」
やがて姿を現した笘篠とともに、蓮田は貢を捜査本部に同行していった。
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
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