
時代はいよいよ飛鳥へ。蘇我氏登場!――周防柳「小説で読み解く古代史」第10回(謎4 その1)。
「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。
謎4 馬子と推古と厩戸皇子
継体から欽明へ、そして蘇我氏登場
応神天皇から始まった河内王朝は、仁徳天皇、雄略天皇などの威勢によって一時繁栄を誇りましたが、徐々に衰微し、五世紀末の武烈天皇のときに継嗣となるべき皇子が絶えてしまいました。
今回の「謎4」より、その危機を乗り越えた先に始まる「飛鳥時代」に入っていきます。

皇統の危機に瀕した群臣は頭を寄せあい、ある人物に白羽の矢を立てました。応神天皇の五世の裔で、越の国一帯(福井県、富山県、新潟県あたり)に大きな勢力を張っていた男大迹王です。五世も隔てがあるとなると嗣子としてはぎりぎりですが、武烈天皇の妹(前大王の仁賢天皇の一女)の手白香皇女を皇后とすることで権威を補い、大王として迎えました。これが二十六代継体天皇です。継体推戴を推進したのは大連の大伴金村といわれています。
しかし、大和の古参の中には反対の声も根強く、一枚岩ではありませんでした。ために、継体は河内の樟葉(枚方市)、山背の筒城(京田辺市)といったはずれの地に宮をもうけざるをえず、歴代大王の住地として伝統ある三輪山のふもと、磐余玉穂宮(桜井市)に遷座できたのは、即位から二十年ものちのことでした。
――というのが、記紀の伝える代替わりの梗概です。
しかし、この言葉どおり継体天皇が応神天皇の五世の子孫であったのかはわかりません。出自がはっきり書かれていないのです。
継体天皇に関してはいくつかの説があり、前王朝とは無関係な地方の一豪族が軍事力をもって大和盆地に進出し、長期戦ののちに王座を勝ち取ったのだともいいます。すなわち、完全な王朝交代です。歴史学者の直木孝次郎氏などがこの説を唱えられており、考え方としては明快なので、賛同したくなります。
ところが、それでは説明しきれないところもあります。もしそうならば、この国は二世紀の「倭国大乱」のときのような騒乱に陥ったはずなのに、その気配がないからです。また、実力次第で誰でも大王になれるのなら、そのころ有力氏族であった大伴や物部あたりがさっさと取って代わっていそうなものです。しかしそれもないのですから、やはり、大王には「大王になれる資格」を備えた者しかなれないという認識が厳然として共有されていたのでしょう。かといって、大和の豪族の実力もかつてより格段に上がっていたので、おいそれと協力はしてやらぬという空気も強かったのだろうと推測します。
では、「大王になれる資格」とはなんなのでしょう。
これはまったくの想像ですが、継体天皇と応神天皇は非常に古い段階、すなわち朝鮮半島から倭列島へ渡ってくる前に、なんらか血統の根拠となるようなつながりを持っていたのかもしれません。五世の子孫などというあいまいな書き方をするところをみると、あるいは、という気もします。
続く安閑、宣化の両大王(継体天皇の長子、次子)は、尾張の豪族の娘の所生であったために影が薄く、在位も短く、新たな王朝が本格的に始動するのは、手白香皇后所生の広庭皇子(欽明天皇)が二十九代の位について以降のことでした。
欽明天皇は大王としてなかなかの実力者であったらしく、この時代に大和政権は国家らしい形がぐんと整います。その体制作りに貢献して頭角を現したのが蘇我氏でした。とりわけ出世著しかったのは欽明天皇の側近として重用された大臣の稲目で、娘たちを次々に大王の妃とし、外戚の地歩も固めていきました。
蘇我氏のルーツについてはこれまた諸説あるのですが、比較的耳にするのは、百済王族の重臣、木刕満致がすなわち稲目の曾祖父の蘇我満智であるとする説です。蘇我氏が百済びいきなのはたしかなので、あるいはそうかもしれません。個人的には、蘇我氏が武内宿禰を始祖としていることと、葛城一帯を本貫のように称していることから、葛城氏の血縁か後裔ではないかと思ったりしています。いずれにしても、比較的新興の氏族です。
蘇我氏の「臣」という姓は、物部や大伴らの「連」よりは格上なので、由緒ある一族であることは間違いないと思われます。そうでなければ、いかに政治的に有能であっても大王家の縁者にはなれないはずだからです。
ちなみに、古代豪族はほぼ全員朝鮮半島由来なので、渡来人か否かという問いはあまり意味がありません。違いは渡来の時期が早いか遅いか――古参になるほど倭国の原住民化し、新参はよそ者とみなされる――だけであり、本稿でも渡来人という場合は、歴史が浅い人々という意味で使っています。
もっとも、出身が伽耶なのか百済なのか新羅なのか、または漢人(たとえば旧楽浪郡、帯方郡などにいた中国系)なのかといった違いはあるはずですが、朝鮮半島は国境も民族も入り乱れているので、その判別も難しいところがあります。
蘇我氏は自身が新興であったためか渡来人に対して懐深く、どんどんみずからの傘下に取り込んでいきました。
当時の朝鮮半島は前代にも増して不穏な情勢になっており、とりわけ伽耶(任那)が両側の百済と新羅に蚕食されて危機に瀕していました。これにともない倭列島に逃れてくる民が引きも切らなかったのですが、その中には建築、造仏、金属加工、史(筆記)など、最新の技術を持った人々が大量に含まれていました。彼ら今来の才伎(新来の職能民)を配下に置くことは氏族としての実力を上げることにもつながり、一石二鳥だったのです。
蘇我氏の私兵となることに生き場所を見出した人たちもいました。飛鳥の檜隈に住地を与えられた東漢の人々などが代表です。東漢氏は氏族というより集団です。
稲目の取り組みとしては、全国各地に「屯倉」と呼ばれる大王家の直轄領をもうけ、国庫の充実をはかっていったことも有名です。その開拓や管理のための戸籍作りなどにも、渡来人の力が使われました。物部氏や大伴氏が古いタイプの軍事氏族であったのに対し、蘇我氏は財政や経済を得意とする新手の政治家であったのです。
飛鳥時代とは、狭義には推古女帝が飛鳥の豊浦宮で即位(五九二年)してから、持統女帝が藤原京に遷都する(六九四年)までの百年を指すのですが、ここでは十年ほどさかのぼり、稲目の子の馬子が大臣として活躍を始めた敏達、用明、崇峻朝のころ(欽明天皇の子たちの時代)も、プレ飛鳥時代として大括りにとらえたいと思います。
そのうちの前半を、この「謎4」では取りあげます。
崇仏論争と女帝と摂政
飛鳥前期を舞台とする小説では、蘇我馬子と推古女帝と厩戸皇子の三人を三つ巴的に描くのが王道です。この三者が織りなす人間模様はある種の大河ドラマのような趣があり、作品もたくさんあります。三人のうちの誰に視点をもうけ、どのキャラクターを善玉とし、また悪玉とし、どの事件に重きを置くかで景色の見え方ががらりと変わるところが、この時代の小説のおもしろいところです。
いずれの作品もベースとなる事項は共通しているので、あらかじめ三点ほど要点を記します。
一点目は、仏教受容をめぐって繰り広げられた争い、とりわけ蘇我馬子(崇仏派)と物部守屋(廃仏派)の対立です。

仏教は欽明天皇の五三八年に百済から伝わったのですが、アニミズム的な自然崇拝をもっぱらとしていた当時の人々にとって、仏などは得体の知れない異教神でしかありませんでした。当然ながら、神祇にゆかり深い物部氏や中臣氏は拒絶反応を示しますが、蘇我氏はなんのためらいもなく受け入れました。よほど進取の気性に富んでいます。
とはいえ、それは求道心よりも合理的な理由によっていたと思われます。
この国が原始的な豪族連合を脱するためには、氏族がてんでに敬っている祖先神を超越した宗教が革命的な求心力になる、と読んだのかもしれません。あるいは、仏像彫刻、寺院建築、装飾美術といった、モノをともなう文化の側面に惹かれたのかもしれません。さらに言えば、仏教の持つ尊貴性が、大王の権威に対抗しうると踏んだ可能性もあります。この国の大王は天に輝く太陽神の子孫(日の御子)であるとみなされることによって、人々の頂上に立ってきました。人々が仏を崇めるようになれば、相対的に大王の神秘の力を弱めることができそうだからです。
守屋と馬子は激しくいがみあい、互いの悪い噂を流したり、大王に密告したり、仏塔を焼いたり、尼僧を迫害したり、泥仕合を繰り広げました。
二点目は、三十代敏達天皇の死後に起こった、熾烈な皇位継承争いです。
新たな大王の候補としては、敏達の長子の彦人大兄皇子、敏達の弟の橘豊日皇子(のちの用明天皇)、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)などがいました。このころは長子相続よりも兄弟間相続が効力を持っていたので、それぞれに将来を見込んだ支持勢力がつき、大揉めに揉めたのです。
馬子はもっとも血の濃い橘豊日皇子をかつぎ、守屋は穴穂部皇子を擁して対抗しました。この勝負には馬子が勝ち、三十一代用明天皇が誕生しました。用明天皇は初の蘇我系の大王で、しかも仏教に心酔していたため、馬子にとっては大きな追い風となりました。この天皇の影響を受け、仏教の伝道師的な存在となったのが、その子の厩戸皇子です。
しかし、馬子の喜びもつかのま、用明は疱瘡にかかって二年足らずで没します。
すかさず守屋と穴穂部皇子が巻き返しますが、馬子は穴穂部が亡夫敏達の服喪中の皇太后炊屋姫を犯そうとしたことを咎めて葬り去り、さらに対立鮮明となった守屋に全面戦争をしかけ、これにもみごとに勝利します。
そして、最後に残った気弱な泊瀬部皇子を傀儡的大王とし(三十二代崇峻天皇)、狭隘な谷間の倉梯宮(桜井市)へなかば押し込めのように遇します。ところが、意のままになると甘くみていた崇峻は思いのほかの野心家で、言いなりにならぬばかりか敵意まで見せるようになりました。そこで、馬子はまたも謀略をめぐらせ、暗殺してしまいます。
かくしてすべての邪魔者を片づけたところで、馬子は満を持して、お気に入りの姪である炊屋姫をこの国初の女性大王として誕生させました。三十三代推古女帝です。自身はその宰相として、以後三十有余年になんなんとする超長期政権を実現します。
三点目は、女帝という例のない存在が誕生するにあたり、英邁の誉れ高い厩戸皇子が補佐として「皇太子」に立ち、同時に「摂政」という国政の責任者となったことです。
厩戸皇子は別名を「上宮太子」といい、直系の一族を「上宮王家」と呼ぶのですが、これは父用明天皇の磐余池辺双槻宮の南にあったという住まいの名、すなわち「上宮」に由来します。
この宮に皇子が住していたのは三十少しまでで、その後は奈良盆地西部の斑鳩宮に移り、法隆寺などを建立し、仏教の拠点のようなものを創ります。
厩戸皇子に関しては、綺羅星のような事績が知られています。たとえば、身分や血統によらず有能な人材を登用するための「冠位十二階」、「和をもって貴しとなし……」の文言で知られる「憲法十七条」、法隆寺や四天王寺などの諸寺院の建立、「法華経」「勝鬘経」「維摩経」などの注釈、推古女帝への仏典の講義、小野妹子らを使節とする遣隋使の派遣……等々です。
ただ、その人物像に関しては近年かなり見直しがなされ、数々の偉業も懐疑的にみる傾向があります。「聖徳太子」というおなじみの尊称もあまり用いられなくなりました。

これに関しては私も少し考えるところがあるのですが、のちに触れるとして、そろそろ具体的な作品を見ていきましょう。
ちなみに、小説の世界では、聖徳太子否定説にのっとった作品はほとんど見かけません。
プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)
1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。