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応神天皇の大和入りは「神武東遷」のモデルか?――周防柳「小説で読み解く古代史」第8回(謎3 その2)。

本がひらく

「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。


謎3 河内王朝と朝鮮半島 (その2)

聖母子による「神武東遷」

 長い前置きになりました。では、黒岩さんの『女龍王 神功皇后』に行きましょう。
 じつは、私はこの本にはちょっとした思い出があるのです。それは西暦二〇〇〇年が近づいたあるときのこと。作家の永井路子ながいみちこさんとさる雑誌で対談させていただくことになり、その折、刊行されたばかりだったこの本の話題になったのです。当時、ジャンルを定めぬライターだった私は古代史などにはまったく詳しくなく、神功皇后についても初めて知ったので、目からうろこが落ちるほどおもしろく、感動もし、かなり熱を入れて内容の説明をしたように記憶しています。
 永井さんはときおり質問をはさみながら熱心に聞いてくださったのですが、話が終わったあと、「私はこの人(神功皇后)は嫌いです」と、ぴしゃりとおっしゃったのです。いつも柔和で、きついことは決しておっしゃらない先生なので、私は驚き、𠮟られたような気がしてシュンとなったのでした。
 その後、遅まきながらいろいろ調べ、戦前の史観をご存じの方には、神功皇后はかなりの嫌悪感をもよおさせる人物なのだと知りました。
 それから四半世紀近くたちますが、この皇后を主人公とした新作にはいまだにお目にかかりません。つまり、それほど扱いづらい存在ということであり、逆に言えば、黒岩さんがいかに果敢な挑戦をされたかがわかるのです。
 このたび私は本書をじっくり読み返しましたが、やはりおもしろいです。非常に多作で古代史を総なめにされている黒岩さんですが、テーマの貴重さと、勇気に敬意を表する意味で、個人的にはもっとも推したい作品です。

黒岩重吾『女龍王 神功皇后』上下(新潮文庫)

 さて、黒岩さんは『日本書紀』を重視されているので、本作も基本的には書紀の内容にのっとっているのですが、さらに新たな視点や、独自の解釈、地方で掘り起こされた伝承などがふんだんに盛り込まれています。
 とくに独創性を感じるのは、以下の三点です。
 一つは、神功皇后の生い立ちの設定です。『日本書紀』は息長宿禰王おきながのすくねおう葛城高額媛かずらきのたかぬかひめの娘としていますが、黒岩さんは高額媛とひそかに愛しあうムジナ(建人たける)という同族の若者を登場させました。媛は宿禰王に輿入れする直前、龍神に取り憑かれ、神がかりの状態で建人と交わり、息長姫を身ごもるのです。
 高額媛がしたのち、建人は日向ひむかへ渡るのですが、十数年後、航海中に遭難してこし敦賀つぬがへ漂着します。そして、折しも当地の海神に仕えていた息長姫と再会します。
 息長姫は不思議な流れ者の建人に恋心を抱きますが、やがて実の親子であると知って想いを断ちます。建人は忠実無比の宰相として、終生娘の傍に仕えることにします。この建人こそが、のちに名を変え、建内(武内)宿禰となるのです。
 建人にはもう一人、日向時代になした渦刺うずさしという息子がおり、こちらは葛城氏の始祖(氏族をまとめた中興の祖)の葛城襲津彦そつひことなります。
 二つ目は、仲哀天皇の死後、神功皇后が新羅を攻めなかった、、、、、、ことです。この点が黒岩さんのもっとも配慮されたところだと思います。
 一般に、神功皇后は、「熊襲くまそよりも、西方にもっと素晴らしい金銀財宝に満ちた国がある」との神託が下ったため、朝鮮半島に渡ったといわれます。しかし、本書はそう簡単には話を運ばず、皇后の腹心である建人に存分に知略を発揮させます。
「熊襲を攻撃するな」という神託は、仲哀天皇の失策によって失われた南九州勢の信頼を取り戻すために使われます。一方、北九州勢は伽耶と一衣帯水いちいたいすいで、たびたび領土を侵す新羅に反感を持っているので、「新羅を討つ」という匂わせをもって首長らを糾合します。かくして、九州の南と北がまとまったところで、にわかに方角を変え、「攻めるべきは大和」と、光る神の矢を射るように、東向きに託宣を発するのです。
 説明が後先になりましたが、本作では、前半のほうでかなりのボリュームを割いて大和における仲哀天皇と異母兄弟、従兄弟たちとの皇位継承争いを描いています。そのくだりはややしつこい印象があるのですが、最後に「大和を討て」と号令する段になって初めて、なるほど、これは絶対にあらかじめ打っておかねばならぬ布石であったと気づきます。
 すわや新羅攻めが始まるかと思わせておいて、一転、聖なる赤子を擁した大船団が東へ流れだすその光景には、なにか鳥肌が立つような迫力があります。
 そして、三つ目は、物語の中に、「日向」という土地の要素を巧みに混ぜ込んだことです。
 記紀神話の仲哀天皇、神功皇后のくだりには、敵対する熊襲を討つという要素はありますが、それ以上南九州への深入りはありません。しかし、本作では建人と渦刺を長いあいだ日向に住まわせ、当地の諸県王もろあがたおうの重臣として過ごさせます。
 そのことが後々に効いて、南九州勢を味方につけるための交渉人ネゴシエイタ―として、建人が縦横に活躍することになるのです。
 建人の子の渦刺が賜る襲津彦という名の「襲」は、熊であるそうです。つまり、「熊襲の海の男」という意味です。
 なぜ黒岩さんが日向にこだわったかといえば、応神天皇の大和入りを、「神武東遷」のモデルと見なしているからです。であるならば、その出発地点は北九州ではなく、ぜひとも日向でなければならないでしょう。
 加えてもう一つだけ言うならば、本書は仲哀天皇のキャラクターがおもしろいです。粗雑で、単細胞で、美しく賢い皇后に最初から最後まで翻弄ほんろうされる亭主殿です。赤子も自分の種ではなく、妻が神と交わって授かった子なのに、それもご存じない。一種のコキュといえましょうか。このような憎めない暴れん坊の人物造形は黒岩さんの作品の中でも出色のような気がします。
 読みどころはいろいろと尽きません。

日本人の来た道

 では、先ほど言いさしになった、応神天皇はどこから来たかという点について、私自身の考えを少し述べたいと思います。
 仲哀天皇から神功皇后、応神天皇にいたる神話は、あまりにもいろいろなものがまとわりついていて骨組みが見えにくいのですが、上澄みを少しずつ取り払っていくと、底のところに残るのは、結局、
「大和の大王が不在になった」
「朝鮮半島で倭人を含めた戦乱があった」
「新しい大王がやってきた」
 という、ただその三点のような気がします。
 当時の朝鮮半島には、高句麗の急激な拡大にともなう緊迫した情勢がありました。だからこそ、かの地から倭列島へ想像以上の人間の大移動があったのではないでしょうか。その中にぬきんでた王子のような人物がいて、諸氏族を束ねる力を有していた。一方の倭国のほうは、前王朝が衰微すいびして王者がいなかった。これが、応神天皇と呼ばれる人物が誕生することになった背景なのではないかと想像します。
 その際の半島側の蛇口、、は、やはり伽耶でしょう。伽耶は新羅や百済と違って統一国家の体をなさぬ小国群であったので、さまざまな目的、さまざまな理由を持った人々が流れ込み、行ったり来たりする通路になりやすいのです。
 加えて言えば、このたびの波は北方の扶余ふよ族などの影響を受けた、騎馬民族文化の色の濃い人々だったと推測します。五世紀の古墳からしばしば馬具の類が出土するのはそのゆえです。しかし、朝鮮半島に下りてきている扶余族は、生活習慣などもよほど農耕民族化していたので、チンギス・カン率いるモンゴル軍のようなものを想像すると違います。
 この時代には学問や、土木技術や、各種モノづくりの手技を持った職能民もたくさん渡ってきています。
 ちなみに、松本清張さんは五世紀の外征の記事にしばしば登場する名前、すなわち、葛城、平群へぐり巨勢こせなどは伽耶の土着豪族で、応神天皇とほぼ同じ時期に渡ってきたのだろうと推測しておられます。ここに少し遅れて蘇我が加わるのですが、そう考える理由は、彼らが全員、大本の祖先を武内(建内)宿禰としているからです。これは興味深く、納得できる説明と感じます。
 武内宿禰というのは典型的な架空の人物と思いますが、たとえて言うなら、この時期の渡来集団を総称するインデックスのような存在なのではないでしょうか。
 また、一言に渡来人といっても、必ずしも一族が根こそぎ渡ってきたとは限らず、実家、、親戚、、を故地に残したままの場合も多かったでしょう。してみれば、四、五世紀に朝鮮半島で新羅や高句麗と戦った倭人というのは、倭列島と朝鮮半島の両方を股にかけていた人たちだったのかもしれません。それを、あとからことさらに外征将軍であるかのように表現したのかもしれません。
 渡来人の話題をもう少し続けます。
 われわれは、日本人のルーツを考えるとき、しばしば「縄文人」「弥生人」という言い方をします。そして「弥生」という言葉から、その流入は弥生時代(~三世紀)までに終わったようなイメージを抱きがちです。しかし、じっさいの渡来の波はそんなものではなく、いまお話ししたように、弥生時代が終わり、古墳時代に入っても、何波も何十波も、ことによると何百波も続いたと推測されます。
 じっさい、古墳時代に倭列島の人口は爆発的に増えているそうです。かつてはそれを水稲農業の発展による食糧生産の増大で説明しようとしたのですが、もはやそれだけでは追いつきません。となると、人間そのものが大量に移動してきたという以外に理由は考えられぬのです。

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)

 日本人のDNA研究をされている篠田謙一しのだけんいち氏は、現代日本人のDNAに近い形が完成するのは古墳時代(~六世紀)であるとおっしゃっています。本土人(沖縄、北海道以外)の全DNAにおける縄文人の割合は、わずか一、二割でしかないそうです。
 また、最近、『日経サイエンス』の「ヤポネシア」という特集でおもしろいデータに出会いました(二〇二一年八月号)。全国の現代日本人のゲノム比率を都道府県別に解析し、縄文人、渡来人のどちらに近いかを比較したものなのですが、これを見ると、畿内は予想どおり渡来人由来のゲノム比率が高いのです。ところが、朝鮮半島ともっとも近しかったように思える北九州は、意外なことに渡来人比率があまり高くありません。南九州に至ってはもっとも低いレベルです。
 これはなにを意味するかというと、朝鮮半島から倭列島へやって来た人々は、思ったほど九州にとどまらず、東のほうへ向かったということです。
 むろん、渡来の初期は九州に居を定め、そのため、九州に先進の文化が栄えたのでしょう。しかし、その後わりあいすぐに九州は素通りされるようになったわけです。
 したがって、日向をはじめとする南九州と皇統とのつながりは、あまり濃厚に考えぬほうがよいのではないかという気が、私はしています。たしかに神話では天孫族てんそんぞくは日向の高千穂たかちほに降臨しますが、だからといって皇統のルーツがそこにあるかのように解釈することには、あまり賛成できません。先の「謎2」でそれに類することを申しあげましたが、これがその理由です。 
 とはいえ、DNAと渡来人の問題だけで、河内王朝の謎がすべて解けるわけではありません。まだまだわからぬことだらけです。
 個人的には、神功皇后は架空の存在だったと考えたいです。小説の中では大いに活躍していただきたいですが、史実となると頭の整理がつきません。
 しかし、調べてみると、北九州に残るその足跡はあまりに多いのです。事実無根として一蹴するには気配が濃厚すぎ、やはりモデルとなるなにがしかの人物が存在したのだろうかと、気持ちがぐらつきます。
 さらに、「神功皇后二人説」という考え方もあります。すなわち、大和の大王の后となった息長氏のオキナガタラシヒメと、応神天皇の母として九州に足跡を残した神功皇后は別人というのです。日本の古代氏族の研究者の宝賀寿男ほうがとしお氏が提唱されているのですが、たしかに、神功皇后の伝説は地域の広がりも時代の幅も大きすぎ、一人分の事績とするにはやや無理があります。よって、この説もなかなかおもしろい。
 ということで、神功皇后の実在に関しては、いまのところ結論保留です。

次回(8月10日公開予定)に続く

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プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)

1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。

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