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元スタイリストが愛するホームセンターと名選手を生む名門校――「熊本 かわりばんこ #09〔味噌天神まで〕」吉本由美

 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。

味噌天神まで

<秋の庭事情>

 庭が晩秋の装いになるのを待って草毟(むし)りをした。ひさしぶりの庭の手入れ、草たちも夏場の意気軒昂から「早く毟ってくださいな」という枯れ草顔に様変わりしている。草毟りといえば普通は夏やるべきものだが、私は“秋こそがそのとき”と思っている。夏場の草はさしあたり20代の若者で、葉も根もやたらと元気があって向かうところ敵無し状態。とても老女の腕力では対戦できない。以前はシルバー人材センターの草毟り隊に来てもらっていたが、自分で何とか処置できるよう2年前、“年寄りにやさしい庭”に造り変えている以上頼めない。なので庭が草生い茂る廃虚のような荒んだ光景となろうとも、目をつぶって、10月後半までは放っておく。

 熊本に戻って再確認したのだけれど九州の夏はやたら長い。10月に入っても暑さは続き陽差しも強く、ここに四季というものはないのだろうか、と、あきれてしまうが、よくしたもので10月後半、急に朝晩冷え込んでやっと草木が秋に目覚める。庭ぜんたいに黄色味が増し、噴かしまくっていた草たちもしだいに勢いを失っていく。雨風に当たってはうなだれたり倒れたり。そのときがいよいよ庭主の出番である。待ってました、と腕まくり……まではやらないけれどゴム長にジーンズの裾をたくしこみ満を持して庭に出る。今や相手も“たそがれ”となった以上、戦の条件は同じである、対峙するに怯むことなし。

 夏の草々の根力(ねぢから)には老女の力ではとても対応できなかったが、秋の彼らは驚くほど弱々しく、というか従順になっている。今年の夏の主なる支配者はツユクサで、のさばりまくっていたけれど、今はちょっと引っ張るとづるづるづると芋づる式に繋がってごっそり根っこごと引き抜ける。この引き抜くときの瞬間がソートーに気持ちいい。不祥事だらけの議員さん方の名を口にして引っこ抜くと、馬力も上がるし憂さも晴れる。引っ張っても引っ張っても抜けなかった強敵メヒシバ・オヒシバなどのイネ科の連中も、手前をちょっと引き上げて、あとは巻き寿司を巻く要領でぐるぐるぐるぐる巻いていく。するといとも簡単にずっぽりずっぽり抜けていく。それを40リットルゴミ袋に入るサイズに丸く纏(まと)める。ぐるぐる巻いて丸めてポン。そして並べる。やたらと愉しい作業である。牧草ロールのミニチュア版のように庭一面に並んだそれらを眺め回して一人ほくそ笑む。

 そうやって二日かかって毟り取った草ゴミはなんと40リットルゴミ袋14個分にも及んだ。一気にゴミ出ししてはご近所から顰蹙(ひんしゅく)をかうので少しずつ出し、まだ幾つか残ってはいるが、やはり雑草たちが消えた庭は清々しい。そしてそれを喜んでいるのは私だけじゃない。最近見かけなかった雀の集団、ムクドリ、ヒヨドリ、ジョウビタキ、そして可愛いハクセキレイたちが、久しぶりに掘り返され深い匂いを醸し出している地面に集まり、地中に眠っていた虫たちをチュンチュクチュンチュク啄(ついば)んでいる。するとそれを狙って庭猫のマミ一家が庭を駆け回る。鳥を狙うのは猫の習性なので駆け回ってもしかたないが、困るのはそのついでのように、特に丁寧に草毟りしたゆえ土の最もやわらかい“動物たちの墓”の上を掻き回し掘り返すことだ。

 除雪機か?と思うほどに激しく掘り返したあとは、おもむろに腰を落としてオシッコをする。その後再び除雪機と化し、右や左から土を振りかけ小山を作る。やわらかい土の上でオシッコをするのはそりゃあ気持ちのいいことだろうが、“動物たちの墓”の上がモーグルの試合会場のようなことになって、それはそれで気にかかるのである。“動物たちの墓”には歴代愛した猫や犬、ウサギやインコ、カエル、トカゲ、ヤモリたちがたくさん眠っているが、彼らはもはや土に返っているはずだからかまわない。かまうのはそこに2年前参加した田尻久子さんの愛猫チャチャオくんと1年前参加の私の愛猫コミケが埋まっていることだ。2匹ともまだ骨になったばかりと思う。もちろん深く埋めたから掘り出される心配はないにしても、その上にマミ一家のオシッコが連日続々投下されるのは、ちょっと気持ちが落ち着かないわけである。

 それで対策として、畑を作ったとき使って残っている緑色の猫侵入防止ネットを上に広げた。翌日見るとそれまでも掻き回されて丸まっていたから、広げ直し四隅にレンガを置いて重しにした。けれど見栄えが悪い。せっかくすっきりした庭にボロの繕いあとのようなネットが目障りだ。そこで、何か良い対策はないものかとホームセンターまで材料探しに出かけた。
 
 ホームセンターが好きだ。様々な材料や資材の中から求めるものを探し出すのが愉しくてしかたがない。あ、こんなのがある、という新しい発見も多く、これを使ったら何ができるかとあれこれ思い巡らせるのも堪(こた)えられない。インテリアのスタイリストをしていたときは仕事と趣味の二本立てで郊外のどでかいホームセンターによく行った。ロケバスでホームセンターに行く日は朝からうきうき、遠足に行くのと変わりなかった。それが1978年に様変わりする。渋谷に東急ハンズがオープンしたのだ。DIY(Do It Yourself)を謳い文句に、素人が自分の手で何かを作ったり修繕したりするための材料や部品が、日本でいちばん繁華な街のど真ん中に集まった。プロも大いに活用する郊外のホームセンターほどではないが、素人あるいはスタイリストには充分すぎる品揃えだった。残念だったがその時点で私の“ホームセンター遠足”は終わった。

 それが再開したのは熊本に帰ってきてからだ。すでにスタイリストはやっていないが、何しろ古い家なので修理仕事には事欠かず、ホームセンターがお助け場なのだ。しかし(これはどこでも同じと思うが)広大な土地を要するホームセンターはどうしても郊外に建ち、車のない私には行けない距離にある。それでも何とか、弟が帰省するのを待ってとか、車で遠出の取材仕事のとき編集者に頼んで寄るとか、いろいろと策を講じときどき出かけていた。

 年は取ってもホームセンターはやはり遊園地だ、行くと愉しい。何時間でもいることができる。近くにあったらなあ、というのが長年の願いだったが、それがついに叶って数ヶ月前、ウチから自転車で10分ほどのところに全国有数のホームセンターが進出したのだ。九品寺(くほんじ)という街の中心部入口に位置する一角である。今までは日常の必要物ならスーパーと併設のミニホームセンターに毛の生えたようなところで探してお茶を濁してきたが、今度は本格的店舗である。探し甲斐がある。夏場は豪雨や猛暑が続き自転車お出かけは見送っていたが、今は秋。猫侵入防止対策が見つかるかも知れないその場所へ、他のいろいろな必要リストも携えて、いざ馳せ参じるぞと自転車を出した。

<電車通りで思いに耽る>

 ホームセンターで遊ぶこと2時間。微に入り細を穿(うが)ち探した結果、収穫物はほぼ8割。しかし小さな砂利を敷き詰める以外肝心の猫侵入防止対策の妙案は浮かばない。時間が経ち土の表面が固くなったら掘り起こしもやむかも知れない。もう少し様子を見ることにして外に出た。外は電車通りである。熊本のトラム(市電)は、市街東部のその先に動植物園や湖のある健軍(けんぐん)から街中を抜け、辛島町(からしまちょう)の先でY字形に分かれ市街西部の熊本駅方面と市街北部の上熊本駅まで走っている。ここ九品寺の電停はその長いY字の半分より東の方に位置する。

熊本1

 天気が良かったので自転車を降りて舗道を歩いた。2、3分おきに西から東から、ドイツだか北欧だかの車体の低いエコ車両は音もなく、昭和から引き続き頑張っている古い車両はゴトゴトと音を立て、トラムが行き交う。抜けるような青空である。まさしく秋、のどかなり。せっかくだから「ジェイ」に寄ろう。九品寺から電車通りに沿って健軍方面に5、6分歩くと味噌天神である。より子さんの営む画廊喫茶「ジェイ」はその味噌天神前電停の真ん前にある。お腹も空いてきているし、そこで美味しいランチをいただこう。今日は歩くのに絶好の日だ。

 左に九州学院が見えた。久しぶりに見たらあれ? どうも様子が変わっている。まず門が新しい。確か昔はごつごつした石造りだった気がするが。門から見える構内も建物が違う。確か昔は楚々とした風情の校舎で向こうに見える礼拝堂がほどよく厳かで美しかった。共にウィリアム・メレル・ヴォーリズの建造物だ。ヴォーリズは明治の終わりに宣教を目的に来日したアメリカ人の建築家で、昭和初期まで日本各地にホテル、銀行、ミッションスクールの洋風建物を建て続けた。九州学院は今年で創立110年というから大正年間に建ったのだろう。私が校舎を眺めたり礼拝堂に忍び込んだりしていたのは小学校高学年のときだから60年も前の話だ。近くにサキという親友が住んでいて、そこに遊びに行った帰りにときどき探検した。子供ながら礼拝堂の何もかもが美しく清らかに思えた。薄暗くなり始めた頃忍び込むとステンドグラスが重々しく輝き、その暗い色調にうっとりした。

 100年以上超えた建造物だから建て替えられていても不思議ではない。が、しかし今目にしている、どこかしら人を威圧するような大きな建物には違和感を覚える。九州学院に何ら関わりのない人間が違和感を覚えてもしょうがないけど、でもいくつかは関連事項があり、今その一番が、ここから東京ヤクルトスワローズの4番打者である村上くん(村上宗隆選手)が巣立ったということだ。ここ数年私たちスワローズ・ファンに喜びを与えてくれている彼はこの学校の野球部出身なのである。彼がスワローズに入団した年、街を歩いていたら見知らぬ女性から声を掛けられた。「ヨシモトさん! 私も今年からヤクルト応援しますよ!」と。突然の話でぽかんとしていると「息子が村上くんと同じ野球部の後輩なんですよ。もう、ゼッタイ目指せ優勝!ですね」と笑ってエイエイオーのように腕を振り上げ去って行かれた。よく私がお判りでスワローズ・ファンであるのもご存じだったなあ、と振り返りながら感心したのだが、熊本には数少ないスワローズ・ファンが村上くんのおかげで増える予感がして喜んだ覚えがある。

熊本2

 そして九州学院の野球部にはもうひとつ思い出がある。それは柳田俊郎くんだ。中学校のときクラスメートで机が隣同士だった。大きな柳田くんの隣に小さな私がいた。すでに彼は少年野球チームのスターで中学の野球部主軸、野球好きの私とは話が合った。中学3年生のときのある放課後、学校中が大騒ぎになった。ジャイアンツの川上哲治監督が柳田くんを見に来たのだ。私も走ってグラウンドへ行く。野球の神さま川上さまがベンチのそばに確かにおられて柳田くんのスイングを見学されていた。これは事件だと私は思った。それで翌日、なんで見に来られたのか、アドバイスか、スカウトか、うるさく聞いたことを覚えている。

 中学を卒業すると彼は九州学院へ進み野球部に入った。私は別の学校だったから九学のときの彼の活躍はよく知らないが、ときどき泣き言のような手紙が来た。あまり調子が上がらなかったようだ。九学を卒業すると1967年、ドラフト2位で西鉄ライオンズに入団した。そしてまた、泣き言のような手紙がときおり届く。見た目はあんなに大きくて頑丈そうなのに心はガラス細工のように繊細ってか、と私は思った。こちらとしてはがんばって下さいね、という返事しか書けない。その頃私は東京で「セツ・モードセミナー」や「アテネ・フランセ」に通ったりして忙しかった。ライオンズの試合がテレビ中継されることなどほとんどなかったから彼の活躍もわからなかった。泣き言手紙も来なくなった。

 それからどういう経過があったのかは知らないけれど、1968年、突然のジャイアンツ入団発表である。なんで! と私は逆上する。ジャイアンツなんかに! 私はジャイアンツが自民党と並んで嫌いだ。そんなところへ行くなんて。 裏で川上さんが動いたのだろうか。
 私はジャイアンツの試合は観ないので詳しくは知らないが、「巨人軍(なんで軍を付けるんだい?!)史上最強の5番打者」と騒がれその後しばらく柳田くんは大活躍したらしい。どのくらいまでジャイアンツで現役を続けていたのかは知らない。気が付けば名前を聞かなくなっていたが、数年後ひょっこり“歌手デビュー”なんて噂が風の便りに聞こえてきて腰が抜けそうになった。なんで?と思ったが、人の就職に他人があれこれ言うものじゃない。何かしら俊郎くん(のちに「真宏」に改名)も数奇な運命を歩んでいるなあ……と思うだけである。

 みたいな話を、5年前だか地震お見舞いに村上春樹氏と都築響一氏ご来熊の際、ついお酒に絆(ほだ)されてしゃべってしまったのだ。「エーッ、あの柳田と付き合ってたの?!」と、聞かされた2人の喜び様といったら尋常ではなかった。付き合っていたわけではない、と弁解しても、「今からでも会いに行こう、柳田くんに!」と騒ぐ。響ちゃんすぐにスマホで検索、現在の柳田くんを捜し当てる。「お、八王子にいるよ! 八王子でスナックやってるよ! スナックならいつでも行けるじゃない、行こうよー」とはしゃぐ。「ヨシモトさん、こうなったら行くしかないよ」と春樹さんも煽る。その夜は2人のはしゃぎぶりを押さえるのに大変だった。
 
 なんて、歩いているといろんな思い出がそれこそ走馬燈のように頭を過(よ)ぎる。この近所にサキとよく行った美味しいうどん屋さんがあったな、とか、この先に確か床屋さん(今は理髪店と呼ぶそうだが当時は床屋さんだった)があったな、とか。その床屋さんのドア脇には小さな窓があり、そこに公衆電話が置かれていた。ある日の夕方、サキの家から電車通りに出ると薄暗くなっていた。ウチに電話して迎えに来てもらおうと思った。暗くなったらそうするように固く親に言われていたのだ。

 電話しようとお財布を広げるとカラッポに近い。今日はうどんを食べて漫画を買ったから10円玉1枚しか残っていない。1枚でもあって良かったと10円玉を左手に持ち公衆電話の受話器を上げると、ピャーッと店の奥から何かが走り出て来て10円玉を摑んで去った。驚いて、ちょっと先の小棚の上にいるその何かを見ると、黄色い小さなポケット・モンキー(当時この名で呼ばれていたリスザル。飼育するのが流行っていた)で、得意げに片手に10円玉を持ち、二本脚ですっくと立ってこっちを見ている。お腹が真っ白なのに驚きつつ、それっ、と手を伸ばしたら10円玉をパクリと咥(くわ)えた。わわわわーと叫んだ私である。10円玉はあれっきりだ。猿は嬉しそうに口の中で10円玉をぐるぐる動かす。猿の両頬が10円玉の動きに合わせ右に左に膨らんで、それが何かに似ていると思ったら歯磨きをしている父親だった。すみませーん、と、奥にいる白い仕事着のおじさんを呼んだ。わけを話してレジから新しい10円玉を出してもらった。ホッとして受話器を取り10円玉を入れ、繋がるのを待っていると、おじさんが猿の口から10円玉を取り出した。筋を引いて猿の口から出た10円玉は涎(よだれ)にまみれていた。

 なんて思い出し、いちいち立ち止まっているからなかなか味噌天神に到着しない。電停はもう見えているのだけれど、話長すぎ……か。味噌天神のことは次回に回そうと思う。

(次回は田尻久子さんが綴ります)

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プロフィール
吉本由美(よしもと・ゆみ)

1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。

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