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捜査とともに埋められていく14年の空白、呼び覚まされていく幼馴染との思い出――中山七里「彷徨う者たち」

本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。幼馴染・大原知歌の思わぬ過去を知った蓮田刑事は、複雑な思いを抱えて捜査会議を迎えるが――
※当記事は連載第4回です。第1回から読む方はこちらです。

 一回目の捜査会議は事件発生と初動捜査の成果を報告する場に留まった。
 司法解剖についてはまだ報告が届いていないため、唐沢検視官の見立てで話が進められる。
「後頭部頭蓋の陥没による脳挫傷。他に目立った外傷もなく、簡易検査では毒物摂取の痕跡もなかったことから、現状はこれが致命傷と考えていいだろう」
 東雲(しののめ)管理官は会議の当初から物憂げな表情を見せている。現時点で判明している事実は事前に知らされているはずなので、死因より厄介な問題に悩んでいるに違いない。
「鑑識」
 東雲の求めに応じて両角が立ち上がる。
「現場から採取できたものは数人分の不明毛髪と下足痕でした。前の住人が退去した後で引っ越し業者数人が出入りしているので、彼らのものが混在している可能性が高く、現在は作業従事者を抽出して協力を仰いでいる最中です」
「しばらくの間、人の出入りが絶えていた場所だ。被害者や犯人の遺留品も分別しやすいだろう」
「断定はできません」
 東雲に促されても慎重居士の両角は明言を避ける。
「次、地取り」
 笘篠が立ち上がったものの、訊き込みの対象が三軒しかないので報告はすぐに終わってしまう。これには東雲も拍子抜けした様子だった。
「それで終いなのか」
「当該仮設住宅は公営住宅への移転が進んでおり、三軒しか残っていませんからね。しかも三軒とも死体発見現場から離れており、物音を聞いた者は一人もいません」
「住人以外に近辺を通った者はいないのか」
「仮設住宅自体、住宅街から外れた高台に建っています。宅配業者の担当者からも聴取しましたが、死亡推定時刻の午後八時から十時にかけて付近を配達した記録は見当たりません」
「陸の孤島か」
 東雲が雛壇で独り言を呟くのは珍しいが、現場を見ている蓮田は思わず頷いてしまう。
 仮設とはいえ、最先端の建築技術の粋を集めた建物だ。居住性も耐久性も一級品に相違ない。ところが、その一級品の建っている場所は市街から隔離された地域だ。陸の孤島という表現はあながち的外れでもない。
「鑑取りはどうだ」
 これは掛川の上司や家族から話を聞いた蓮田の役割だ。
「被害者の勤める南三陸町役場建設課の上司、並びに同居している妹から聴取しましたが、被害者掛川の仕事ぶりは真面目で恨みを買うような人物とは言い難く両親は震災で死亡、現在は妹と二人暮らしであり、財産狙いや家族間の怨恨の線は薄いものと思われます」
「勤務先での金銭トラブルはなかったのか」
「現状、聞き及んでいません」
「だが本人が所有していたはずの携帯端末が見当たらない。自宅にも現場にも残っていないところをみると、犯人が持ち去った可能性が高い。つまり被害者の携帯端末には犯人を特定する情報が保存されていたと考えるのが妥当だ。そして携帯端末に情報が保存されていたのであれば、その人物は被害者と接点があったことを示している」
 説得力のある推論に蓮田はまたも頷く。だが、東雲の歯切れがいいのはここまでだった。
「問題となるのは現場の状況だ。玄関と裏口のドア、掃き出し窓には内側から鍵が掛かっていた。ドアの鍵はピッキングされた痕跡もなかったので、犯人の逃走経路が未だに判然としない。空き家となっていた現場の鍵の管理はどうなっている」
 これには所轄の捜査員が答えた。
「現場となった住居は前の入居者が退去してからは南三陸町役場建設課の管理物件になっており、純正キーもスペアキーも役場内の保管庫に現存しています」
「持ち出された可能性はないのか」
「保管庫も閉庁時にはキーの本数を確認した上で施錠するそうです。事件当日も本数はぴったり合っていたとのことです」
「合鍵が作られた可能性は」
「純正キーとスペアキー両方を鑑識に預けて分析中です」
「結果が出たら、鑑識は速やかに報告するように」
 従前とは勝手が違う東雲の困惑に、既に多くの捜査員が気づいていた。
「現場は犯行時点、所謂密室状態だった」
 東雲は「密室」という言葉を無理に絞り出しているようだった。
「知っての通り、送検し公判を維持するには犯行の動機・方法・チャンスを明らかにする必要がある。無論、状況証拠だけで送検するのは不可能ではないし、容疑者の自供さえあれば公判でも闘える。しかし充分ではない。捜査本部としては公判に不安な材料は全て解決しておきたい」
 ふと隣を見ると、笘篠がつまらなそうに東雲を見ていた。長らくコンビを組んでいるので誤魔化されない。笘篠がこういう顔をしている時は逆に奮い立っている証拠だった。
「不可能犯罪など、この世に存在しない。表面上はそうであったにせよ、必ず何らかの人為や偶然が働いている。そんなものは我々の捜査能力と科学捜査の力で覆せるはずだ。鑑取りを継続し、被害者と接点を持つ人物を洗い出すこと。鑑識は分析を進めて犯人が現場から逃走した経路を明らかにすること。当面の捜査方針は以上だ」
 会議が終了した後、捜査員たちは石動(いするぎ)課長の指示で各担当に振り分けられる。
「笘篠と蓮田は鑑取りの続行」
 近づいてきた石動がそう命じると、すぐに笘篠が頷いてみせる。もっとも頷いてみせても全てを了解しているとは限らず、笘篠は命じられた以外にも捜査の手を伸ばすことがままある。厳密な意味では越権行為だが、笘篠の場合はそれなりの成果を上げてくるから石動も不問に付しているのが現状だ。
 会議室を出た笘篠はちらと蓮田を見る。
「鑑取りだが、当たってみたい対象はあるか」
「現場で出くわしたNPO法人の大原職員から再度話を訊きたいですね」
「さっき話したんじゃないのか」
「先程のは世間話みたいなものです」
「世間話と事情聴取を使い分けできるのか」
 やはり読まれているか。
 知歌は被害者の掛川を知っていた。仮設住宅に足繁く通っていた者同士だから当然とも言えるが、聴取を続ければ別の情報を得られるかもしれない。事件当時に失念していたことが後になって思い出されるのは、よくある話だった。
 だが一方、失われた知歌との十四年間を埋めたいという気持ちも否定できない。ともすれば私情が混じりそうだが、逆手に取る方法もある。
「むしろ世間話をエサに情報を引き出そうと考えています」
 ほう、と笘篠が感心したような、あるいはこちらの意図を見透かしたような声を上げる。
「それなら俺が同行しない方がいいな」
 この提案には少なからず驚いた。
「いいんですか、俺一人で」
「関係者からの聴取がスムーズになるなら、それに越したことはない。俺も鑑取り以外に調べてみたいことがある」
 個別に密室のからくりを解くつもりだと直感したが、敢えて尋ねることはしなかった。
「ただ、見聞きしたことは細大漏らさず報告しろよ」
 最後に念を押してから、笘篠はその場から立ち去っていく。

 翌日、蓮田は知歌から教えてもらった〈友&愛〉の事務所へと向かっていた。所在地は南三陸町志津川沼田(ぬまだ)〇〇〇、ベイサイドアリーナ駅から少し歩いた場所で幼稚園の隣だった。すぐ向こう側には南三陸町役場の庁舎も見える。
 事務所自体は平屋建てのプレハブ住宅で、ひどく安普請に見える。NPO法人の予算ではこれが精一杯の事務所なのだろう。
 ドアを開けてすぐの場所に受付がある。座っていたのは知歌だった。
「将ちゃん」
「この時間ならいると聞いたからさ」
 事務所の中を見渡してみたが、知歌以外に人影は見当たらない。
「一人きりかよ」
「スタッフ、そんなに多くないから。受付も交代制」
「少し喋っていいか」
「捜査の一環なの。それとも私用なの」
「どちらかでなきゃ話もできないか」
「そんなことはないけど」
 知歌の顔が警戒心で翳(かげ)ったので、すぐに誤魔化すことにした。
「冗談だって。ずいぶん間があったから、ゆっくり話がしたかっただけだよ。他意はない」
「世間話するために、わざわざ南三陸町まで来たの」
「捜査の一環と言っとけば誰からも責められない」
「ひでえ不良刑事」
「これでも信頼されてる」
 ふた言み言話せば警戒心はすぐに解ける。これは幼馴染みならではの利点に違いなかった。
「この状態だけ見ると暇そうなんだけど」
「お留守番だからね。それでも結構問い合わせや申し込みの電話があるし、巡回に行けばへとへとになって帰ってくるし」
「巡回というのは、皆本さんのところみたいに世話をするのか」
「介護業務はあくまで一部。それ以外に生活の悩み相談とか各種申請書類の書き方とか要するに何でも屋よ」
「しかし、それだとやっぱり暇になっていくんじゃないのか。吉野沢に限らず、県内に建てられた仮設住宅は次から次に撤去されているらしいじゃないか」
「そうなると、ますますわたしたちの仕事は増える」
 知歌は軽くこちらを睨んだ。
「仮設住宅までは維持されていた地域のコミュニティが公営住宅へ移転した途端に消滅する。働き盛りの壮年夫婦や就学児童を持つ家庭はともかく、老夫婦や独身者は新しい環境に馴染み難いのよ」
「全然知らない集団の中に放り込まれるから孤独になるっていうのは理解できる。しかし、それだけの理由で知歌たちの手助けが必要なのか」
「それって今までずっと家族と暮らしていたか、ずっと一人きりで生きてきた人の感覚よ。人間ってね、一度家族とか仲間とかの繫がりを知ってから独りになると、途端に孤独感に襲われるものなの。現に自殺しちゃう人もいるしね」
 聞いた瞬間から、またぞろ例の罪悪感に苛まれる。知歌もそうだが、震災と津波に家族を奪われた人間を引き合いに出されると、どうしても腰が引けてしまう。両親が息災、震災被害からも免れて今は独立して所帯も持っている。厳密な意味で孤独になったことは一度もなく、自分の人生は恵まれている。家族を喪失した者たちに対して申し訳ない気持ちになる。
「仮設住宅撤去が急ピッチで進んでいるからウチみたいな小所帯のNPO法人はてんてこ舞い。正規スタッフやボランティアを募集しているけど、なかなか集まらなくて」
「こういうのに応募するボランティアは多いと聞いたけど」
「有資格者を条件にしているからね。介護福祉士、臨床心理士、公認心理師、その他」
「人手が足りないのに、募集する側がハードル上げてどうするんだ」
「あのね。いくらボランティアといってもやる気だけの真っ直ぐ君はいても邪魔なだけなの。災害だとか介護だとかケアにはそれぞれに応じた専門的なスキルが不可欠なの」
「厳しいな」
「被災者の置かれている立場自体が厳しいんだもの。そんな場所に、いそいそ自分探しや自分語り目的に来ないでほしい」
「えらく嫌ってるんだな」
「現在進行形でいるのよ、そういう迷惑系ボランティア。ほとんど物見遊山でやってきて中途半端な活動して途中でさっさとやめていく。後からフォローするのに二倍三倍の労力が要るのよ」
 顔馴染みが相手のせいか、知歌は本当に迷惑そうな顔をする。きっと日頃から迷惑系ボランティアとやらには手を焼いているのだろう。
 なかなかに興味深い話ではあるものの、蓮田が訊きたいのはボランティアの現状ではない。
 自分が知り得ない知歌たちの十四年間のことだ。
 最初、祝井貢が森見沙羅の家に婿入りしたと聞いた時は呆気に取られた。自分が殺人の捜査にやってきたことを忘れそうになったくらいだ。
 まさか貢が沙羅と結婚するとは思いもよらなかった。高校卒業まで貢が付き合っていた相手は知歌だったからだ。
 困惑している最中に声を掛けられた。
「何、考えてんの。心ここにあらずみたいなんだけど」
「別に」
「将ちゃんはさー、自分じゃ気づいていないんだろうけど〝サトラレ〟だからね」
 サトラレ。
 昔、知歌たちに何度かからかわれたことがある。自分は考えが全て顔に出るらしいのだ。
「変に隠し立てされると、こっちの気分が悪くなる。いいから言いなよ。答えられることには答えてあげるからさ」
「じゃあ言う。どうして貢と沙羅が結婚する羽目になった」
「へっ」
「貢が付き合っていたのはお前だろう。俺がいない間に何があったんだよ」
「ストレートねえ」
「答えられないことなら、いい」
「心変わりなんて珍しい話じゃないでしょ」
「それにしたって経緯ってものがあるだろうよ」
「言っとくけど、ふったのはあたしの方だから」
 知歌は胸を反らせて言う。
「貢の何が気に食わなくなったんだよ」
「何もかも。腐れ縁もあって付き合っていたけど、結婚相手じゃないなって。それでふってやったら、さっさと沙羅とくっついちゃって。昔馴染みなら誰だっていいのかよって感じ」
 心変わりも、失恋した男が別の幼馴染みとくっつくのも珍しい話ではない。
 だが、貢と沙羅の結婚には納得できない点が多々あった。
「貢の実家、建築屋だったよな」
 知歌の表情が一瞬、固まる。サトラレは蓮田の専売特許ではないらしい。
「昨日、少し調べた。〈祝井建設〉、まだ立派に商売続けているじゃないか。確か俺たちが高校生だった時分、かなり経営が苦しかったんじゃないのか。下手したら廃業だって、貢の口から聞かされた憶えがある」
「持ち直したんじゃないの」
 わざとらしい口調だった。
「あそこのお父さん、辛抱強いから」
「片や沙羅の親父さんは県議会最大派閥の領袖(りょうしゅう)で、元から羽振りも良かったよな。ひょっとしたら沙羅の親父さんからの資金援助で持ち直したんじゃないのか」
 甘酸っぱい感傷に生臭いカネの話が割り込む。喋っていて愉快な話ではないが辻褄は合う。
「刑事なんて仕事をしていると、将ちゃんでもそんな思考回路になるのかな」
「刑事でなくたって考えるさ。一種の政略結婚じゃないかって」
「時代錯誤もいいところ」
「そうかな。カネに纏わる話に昔も今もない。持たざる者は持っている者より立場が弱い。資金提供を交換条件に持ち出されたら、貢も仕方なく森見家への婿入りを承諾するんじゃないのか。森見家には沙羅しか子供がいなかったし、その沙羅はとてもじゃないけど議員になれるようなタマじゃない。違うか」
「貢くんと沙羅の相性がぴったりだったとは思わないの」
「相性ならお前と貢の方がぴったりだった。だから二人が結婚したと聞いて驚いたんだ」
 いつもの詰問口調になるのを抑えて喋るが、再び相手の表情には警戒の色が宿る。
「昔の恋バナをこんなかたちでさせられるとは思わなかったな」
「で、違うのか、違わないのか」
 知歌は束の間こちらの目を覗き込んでいたが、やがて諦めたように視線を外した。
「人の心は悪魔でも分からないって言葉、知ってる?」
「日々、痛感している」
 捜査一課に配属されてからは尚更だった。
「調べたら分かっちゃうだろうから事実だけ言うけどさ。貢くんが婿入りしてから〈祝井建設〉が持ち直したのは確か。それまで縁のなかった公共工事を沢山受注するようになってから、はっきり風向きが変わったみたい」
 やはり公共工事絡みなのかと、蓮田は合点する。
 公共工事は競争入札制度を採用していて一見公明正大に思えるが、競争参加資格については発注者に決定権がある。つまり発注者が都道府県である場合は各自治体の首長や議会が決定権者ということになる。県議会最大派閥の長である森見議員なら、競争参加資格について己の意見を捻じ込むのも可能だろう。
「ただし、それはあくまでも現象面だから」
 知歌は釘を刺すのを忘れない。
「公共工事の受注も貢のお父さんが頑張った成果だし、沙羅のお父さんはお父さんで、何の援助もしなかった。そう考えた方がずっと健全」
「ああ、健全だな。健全過ぎて中学生が聞いても笑える」
「ひどい言い方」
「じゃあ、肝心の貢は今何をしているんだよ」
「……森見議員の秘書」
 県議会議員の秘書には国が人件費を負担するような公設秘書制度はないので、全て私設秘書扱いとなる。報酬も公設秘書ほど多くはない。だが娘婿なら報酬が少なかろうと多かろうと大きな問題ではない。親が子供に小遣いを与えるようなものだ。
「秘書ということは、やっぱり森見議員の後継者に予定されているんだろ。俺の予想通りじゃないか」
「貢くん本人の口からは何も聞いてないのよ」
 知歌は俄に弁明口調となる。
「もう、この話はお終い。ふった相手は逆タマに乗って幸せに暮らしましたとさ。それでいいじゃん」
 捜査でもないのに、相手が嫌がる話題を続けても仕方がない。蓮田はあっさりとこの話を切り上げた。
 後に続いたのは〈友&愛〉の設立主旨とスタッフの苦労話だ。NPO法人ならどこも似たようなものだが、非営利活動なのでスタッフによる有形無形の犠牲がつきものになる。
「病院勤めの頃から給料は上がったけど、拘束時間がそれ以上に長くなったから結局どっちが良かったんだか」
「不満か」
「不満というより無力感。被災者の力になりたいと思って始めたけど、どこまで役立っているのか分からなくて」
「会員は感謝しているさ。年寄りは話し相手がいるだけで喜んでくれるだろう」
「被災して家族を失ったお年寄りは、少し事情が違うのよ。決してあたしたちを自分の子どもや孫代わりに見てくれない。どれだけこちらが親身になっても、あの人たちの中には一番優しかった時の子どもや孫が生き続けているんだもの。どんなに頑張っても死者に敵うはずがない」
 無力感は死者に対するものだったのか。
「所詮他人なんだと割り切ってケアはしているけどさ。それでも担当している会員さんが自殺なんかすると、その日一日は落ち込んじゃうよ」
「お前も担当したのか」
「二人もいた。一人は仮設住宅で、もう一人は転居先の公営住宅で」
 知歌は力なく項垂(うなだ)れる。
「災害の後は〈ハネムーン期〉といって被災者同士の連帯感が強まるんだけど、〈幻滅期〉になると立ち直りの個人差が広がるの。その後、仮設住宅の供給が終わって住宅の再建や家賃のかかる公営住宅への移転が始まる〈復興期〉になると、経済的支援やコミュニティを失った人の精神的負担が一気に増える」
「自殺者が出るのはそのタイミングか」
「うん。だから今の時期は一番ケアが必要なの。震災から七年。東北以外の人たちは復興が進んで、もう震災なんて過去の出来事くらいに感じているかもしれないけれど、被災地の感覚は全然違う」
 知歌の声には、ありありと疲労感が漂う。
「震災は、まだ終わっていない」
 そろそろ交代の時間が迫っているというので、蓮田は事務所を辞去した。知歌はいつでも来てくれて構わないと言ったが、今後は彼女のシフトを考慮するべきだろう。
 知歌と別れてからも充足感はない。いくつか質問をしたが結局は不完全燃焼に終わった。蓮田にはその理由も分かっている。
 自分が知歌に距離を取っているからだ。だから相手を傷つけるような直截な質問を吞み込んでしまう。二人を隔てているものは被災経験の有無だけではなかった。
 知歌本人に話したことは一度もない。彼女が察しているかどうかも確かめていない。
 知歌が貢と付き合う前から、蓮田は密かに彼女を想い続けていたのだ。

 知歌を苛めていた女子たちが転校の憂き目に遭った翌日、珍しく蓮田と知歌二人だけの下校となった。その道すがら、何の前触れもなく知歌が口にした。
『貢くんから告られてさ』
『うん』
 心臓が高鳴る。
『あたしたち、付き合うことになったから』
 貢の気持ちと今回の騒動の一部始終を知る蓮田には、表立って反対する理由が何もなかった。
 そうか、と答えると沈黙が流れた。
 胸の裡(うち)では様々な感情が、頭の中では相反する二つの考えが渦を巻いて、何を言っていいのか判断できなかった。
 やがてそれぞれの家に別れる時、知歌が一瞬足を止めた。
 蓮田が何か言うのを待っていたのか、それとも気紛れだったのかもしれない。
 数秒か、数十秒だったか。
 やがて知歌は背中を向けたまま言った。
『じゃあ、また明日』
『うん。また明日』
 しかし次の日はそれまでの毎日とは明らかに違う日だった。
 未だにあの時に交わした言葉を後悔と苦さとともに思い出す。
 だが高校卒業後、蓮田と他の三人が疎遠になった理由はまた別にある。これより先、蓮田は知歌に会う度に己の瘡蓋(かさぶた)を剝がす羽目になるのだ。

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プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)

1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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