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保険適用が待たれる、近視治療薬「低濃度アトロピン」とは?

 スマートフォンやタブレットの使用、ゲームのやり過ぎが、子どもたちの目を脅かしている。眼球が伸びて、形が変わってしまう「軸性近視」が、将来の白内障や緑内障のリスクを高めるほか、最新の研究によってうつ病などにもつながりうることがわかってきたのだ。科学的根拠のある治療法から、生活習慣の見直し、眼鏡・コンタクトレンズの正しい選び方までを詳しく紹介した、好評発売中のNHK出版新書『子どもの目が危ない――「超近視時代」に視力をどう守るか』
 大反響のNHKスペシャルを書籍化した本書から、当記事では世界で行われている最新の治療法についてお届けする。
 ※6月10日に公開した関連記事はこちらです。

「低濃度アトロピン」とは何か

 いま、「近視進行を遅らせる最も有効な治療法」とも言われているのが、「低濃度アトロピン」を用いた点眼薬だ。
 この発見は、近視を研究する専門家たちに大きな衝撃を与えた。なぜなら、近視が薬を使って治療できることが証明されたからだ。この研究を皮切りに、次々とほかの近視の対策の効果も確かめられていくことになる。
 低濃度アトロピンの実用化の可能性が示されたのは2012年。シンガポールで行われた大規模な研究による。近視対策の研究がホットになってきたのが、いかに最近なのかがわかるだろう。
 もっとも、アトロピン自体の近視に対する効果は、古くから知られていた。1989年に台湾で行われた研究でも、アトロピンを使った目薬によって子どもの近視進行のスピードが遅くなることが確認されている。しかし、問題は副作用だ。参加者247人のうち、半分以上の151人が研究から脱落してしまったのだ。論文を調べてみると、その原因の多くが「羞明感(しゅうめいかん)」とある*1 。
 この症状は、アトロピンの原料となる薬草・ベラドンナ(belladonna)の語源に関係している。イタリア語で「美しい女性」だ。使用すると瞳孔が開き、目が大きく見えるからである。アトロピンには近視抑制の効果だけでなく、瞳孔を開いたままにする副作用があるということだ。だから、被験者がまぶしさを感じて(羞明感)、日常生活に支障をきたしてしまい、多くが臨床研究から脱落してしまったのだ。
 このほかアトロピンには、調節麻痺薬の作用もあるため、近くを見る時に焦点が合わなくなるという副作用もある。こうした副作用のため、多くの専門家たちには長年、「アトロピンは、近視の対策として効果はあるが、副作用のために実際には使用できないだろう」と思われてきた。
 しかし、転機が訪れる。それがシンガポールでの研究だ。シンガポールは、世界で最も近視の割合が高い国の一つと言われ、20歳以下のじつに8割以上が近視というデータもある。そのため近視対策の拠点として、国立眼科センターが設立された。

近視の進行を抑える目薬の発見

 ここで行われたのが、400人を対象にした「ATOM2」と呼ばれる、アトロピンの研究だった。1日1回、就寝前に点眼薬を使用するというもので、この研究にシンガポール政府は日本円にして150億円以上を投じている。
 この研究が大発見につながったきっかけは、1989年に台湾で用いたアトロピンの濃度(1パーセントに薄めて使用)を、さらに100倍も薄めて使ったことにあった。ここまで薄めると、元々の瞳孔や調節機能を麻痺させる機能も、ほとんど失われてしまう。この研究を担当した研究者らも、「さすがに効果はないだろうから、もっと濃い濃度のアトロピンと比較するための材料として使おう」くらいにしか、考えていなかったという。
 ところが副作用となる元の薬としての効果を失うほど薄めて点眼しても、近視の抑制効果が残ることがわかった。科学研究のセレンディピティ(偶然や予想外の発見)の一例と言えるだろう。
 この研究では、近視の進行を表す「屈折度数」(ジオプトリ―)が効果を示す指標として使われた。アトロピン不使用のグループは、3年で平均1・6ジオプトリー悪化したのに対し、使用したグループでは、5年が経過しても悪化が平均1・4ジオプトリーだった。2年長く経過しても、近視の進行度数が使用していないグループよりも少なかったということだ*2。

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「一時的に進行速度を遅くすることができたとしても、時間がかかるだけで、結局、最終的には近視の悪化度合いは同じになるのではないか」と思われる方もいるかもしれない。だが、ほとんどの人の眼軸長の伸びは、20~25歳前後で止まる。
 つまり、対策によって進行を遅らせることができれば、対策を行わない場合に比べ、最終的に到達する度数を軽微に抑えられる可能性が高いのだ。近視になること自体を完全に止められなくとも、対策によって強度の近視になる人の数を減らすことは可能かもしれないということだ。
 シンガポール国立眼科センターに通う小学生を持つ母親を取材したところ、「ここ3~4年、娘の目は急激に悪くなっていたのに、いまでは進行がほとんど止まっています」と本当に嬉しそうに答えてくれた。しかし、まだまだアトロピンも研究中の薬だ。

・屈折度数だけでなく眼軸長の伸びをしっかり抑制できるのか。
・人種によって効果に違いはないのか。
・なぜ副作用となる効果が消えても近視の抑制は持続するのか。

 このほかにも、まだ確かめるべきことはたくさんある。いずれにせよ、低濃度アトロピンの研究開発は世界中から注目の集まる分野になっていることは間違いない。

低濃度アトロピンの効果は日本国内でも!

 日本でも、アトロピンの効果を確かめる大規模な研究(「近視学童における0・01パーセントアトロピン点眼剤の近視進行抑制効果に関する研究:ATOM -J Study」)が、行われた。京都府立医科大学病院を中心に、全国の7大学病院が協力して実施。6~12歳の子ども168人を対象に、アトロピン使用(就寝前1日1回)/不使用のグループで近視の進行(屈折度数・眼軸の長さ)に違いが表れるかを検証した。
 その結果、不使用のグループが2年後に1・48ジオプトリー悪化、眼軸長が0・77ミリ伸びていたのに対し、使用したグループは悪化が1・26ジオプトリー、眼軸長の伸びが0・63ミリと、統計的に有意に進行が抑えられていたと結論付けられた*3。
 日本人であっても近視の進行抑制に科学的に効果がある、というエビデンス(論拠)が得られたことは大きな一歩だ。一方で、ATOM2ほどの効果が出ない可能性も示唆される結論となった。また、点眼を行った全員に効果があるとは限らない。日本人についても、今後さらに様々なデータが取られていくはずである。
 現在、日本では低濃度のアトロピンを使った目薬は保険適用外となり、自由診療になってしまう。進め方や、価格などは医療機関によってそれぞれだが、目安としては副作用が出ないかを検査した後に処方。点眼薬1本3000円程度(5mlであれば1ヶ月分)で、副作用の検査などを含めて数千~1万円程度が目安となる。
 一方、新薬開発のための臨床試験も始まっており、結果次第では、保険適用で近視の治療薬としてアトロピンの目薬を眼科で処方してもらえる日が来るかもしれない。

*1 M. Y. Yen et al.: Comparison of the effect of atropine and cyclopentolate on myopia. Annals of Ophthalmology21(5): 180–182, 187 (1989)
*2 A. Chia et al.: Five-year clinical trial on atropine for the treatment of myopia 2: Myopia control with atropine0.01% eyedrops. Ophthalmology 123: 391–399 (2016)
*3 O. Hieda et al.: Efficacy and safety of 0.01% atropine for prevention of childhood myopia in a 2-year randomized placebocontrolled study. Japanese Journal of Ophthalmology 65(3): 315–325 (2021)

※続きはNHK出版新書『子どもの目が危ない――「超近視時代」に視力をどう守るか』をご覧ください。

プロフィール
大石寛人(おおいし・ひろと)

NHKディレクター。NHK制作局・第3制作ユニット(科学)番組ディレクター。筑波大学大学院数理物質科学研究科修了後、2011年にNHK入局。広島局・福井局を経て現部署へ。NHKスペシャルやクローズアップ現代、ガッテン、サイエンスZEROなどの番組を担当し、「防災」「原子力」「近視」などのテーマを中心に取材。

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