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アリスの憂鬱、キャロルの幻滅——「不思議の国」の「感情」について 「言葉が・言葉で・言葉を作る『アリス』の世界」第3回(最終回)

 誰もが知る名作『不思議の国のアリス』。子供の頃、アニメ映画などで見た方も多いでしょうが、原文を読んでみると、驚きの発見が詰まっています。そんな『アリス』の世界の深淵(アビス)を、気鋭の英文学研究者、勝田悠紀さんがご案内します。
 ※本文で引用する『不思議の国のアリス』の日本語訳は勝田悠紀さんによるものです。
 ※第1回から読む方はこちらです。


「挿絵も会話もない本が何の役に立つのかしら」——退屈

 連載最終回になってようやく作品冒頭に辿りつくのも、『不思議の国のアリス』を扱うこの連載にはふさわしいかもしれない。

土手でお姉さんの隣に座っているのにアリスは飽き飽きして(tired)いました。何もすることがないのです。お姉さんの読んでいる本を一度か二度覗き込んでみましたが、そこには会話がありません。「挿絵も会話もない本を読んで何の役に立つっていうのかしら」とアリスは思いました。

 最終回のテーマは「不思議の国」における「感情」である。幕開けの一文に書き込まれているアリスのどこか大人びた感情は、改めてじっくり見てみるといささか意外な感じがしないだろうか。「退屈」「倦怠」、あるいは「憂鬱」……そこまで訳すのはさすがにやりすぎだとしても、刺激に満ちた愉快な「不思議の国」のイメージとは裏腹に、アリスは世紀末のデカダンさながらの雰囲気をまとって読者のまえに登場する。

 お姉さんの読む本の何がそんなに退屈なのかが一段と興味をひく。「挿絵も会話もない」ことが不満なのだ。「挿絵」はともかく「会話」とは、随分不思議な注文ではないか(この冒頭部分については、日本で『アリス』といえばこの人、高山宏が多彩な視点から読み解いている。『アリスに驚け アリス狩りⅥ』など参照)。

 けれど考えてみれば、「挿絵も会話もある」本こそが『不思議の国のアリス』、会話を生みだすのは何を隠そうアリス本人にほかならない。アリスは不思議の国の色々な生き物と会話するのみならず、そもそも自分と、、、会話する。うさぎ穴に落ちるそばから猛烈に喋りだすアリスには、奇妙な独り言癖があるのだ。

「さあ、そんな風に泣いたって仕方ないでしょ! いますぐ出発しないとだめよ」とアリスは自分に向かって厳しく言いました。(......)このおかしな子は一人二役をするのが好きだったのです。

 ここでアリスの独り言が、あくまで「二人のふりをすること」、みずから演じる二人の会話だと言われていることに注目しよう。これは前回扱った「私はだあれ?」の問いにもつながってくる。

“Curiouser and curiouser!”(どんどんおかしなことになっていく!)——好奇心

 こうしてアリスは「退屈」を逃れ、「好奇心」(curiosity)に駆られて不思議の国を冒険する。うさぎ穴に落ちて以降、この単語はいくども使われており、アリスをつき動かす感情は何よりもまずこの「好奇心」だと言える。

 けれどここで問題が生じる。自分ひとりでおもしろい会話を演じられてしまうなら、それをおもしろがる気持ちは本当に「好奇心」と言えるのか。「好奇心」とは普通、自分の外からやってくるものに気をひかれることを言うのではないのだろうか。

 実は先ほどの引用に、すでに「好奇心」が隠れている。「おかしな」という部分、原文ではこれが “curious” なのだ。“curious” という単語には厄介な二面性がある。 この単語はもともと、「〜に対する配慮がある」「〜に念入りである」「〜を知りたがる=好奇心がある」など、主観的な状態、性質を表す単語だった(このうち最後の意味が現在まで使われている)。しかしある時期以降、 “curious” は対象の性質も表すようになる。「好奇心をそそるような奇妙なものだ」と言いたいときにも、 “curious” が使われるようになったのだ。このような両義性は「奇妙な」という意味を表す “strange” や “weird” といった類義語には備わっていない。上記の引用にあった「おかしな」は、後者の意味で使われた “curious” だったのである。

 “Curiouser and curiouser!” 「イート・ミー」ケーキを口にした途端伸び始めた身体に、比較級を正しく使うこともできないほど驚きながら、アリスは声をあげる(三音節語の “curious” の比較級は “more curious” でなければならない!)。ここは「どんどんおかしなことになっていく!」と対象の性質を言い表す箇所ではあるのだが、「おかしくなっていく」のもアリスならばそれに「好奇心をもっている」のもアリスである(さらに読者もそんなアリスを好奇の目で見つめる)。好奇心をそそる[キュリアス]アリスに好奇心をいだく[キュリアス]アリス。どっちのアリスが先なのか。この鶏と卵のような関係自体が、“curious” という「言葉」の特異性から生じているのである。

 この自作自演めいた「好奇心」の論理は、「ノンセンス」的なゲームの論理にも通じている。自分で作ったおもしろいものを自分でおもしろがるなんて、ひどく空虚な話に思えるかもしれないが、しかしそれこそゲームの本質ではないだろうか。チェスにしろ将棋にしろ、そのルールは人間が勝手に決め、勝手に守っているだけのことにすぎない。こうした全き人工性こそ、ゲームとしての「ノンセンス」の性質だ。

「首を切れ!」——怒り

 アリスに取り憑くのが「好奇心」だとすれば、不思議の国の住人を支配しているように見えるのは「怒り」である。代表格はハートの女王。クロッケーでも裁判でも、何をしていても「首を切れ!」が口癖の女王は、「怒り」の権化のような存在だ。  

 それはもはや「不思議の国」全体に蔓延する空気でもある。公爵夫人も白うさぎもイモムシも狂った帽子屋も、ときにはアリスまでもが感染(うつ)ったように怒りだす。ここで思い出されるのは、第六章「ブタとコショウ」(Pig and Pepper)でアリスが訪ねる公爵夫人宅だ(章題のこれでもかと破裂する “p” の音!)。入るだに鼻がムズムズするこの不思議な家には「空気中にあまりにたくさんコショウが漂って」おり、公爵夫人も料理人も怒り狂って、ハートの女王さながら「首を切れ!」と叫んだり調理器具を投げ飛ばしたりしている。

 しかしいくらコショウでくしゃみが止まらないからといって——不快ではあるだろうが——なぜ「怒る」ことになるのかと疑問に思わないだろうか。実はこれも言葉が先の現象だ。“take the pepper in the nose”(鼻にコショウを入れる)で「怒る」という意味の慣用句。公爵夫人は香辛料としてのコショウを吸ってくしゃみをするだけでなく、言葉としての「ペッパー」を吸い込んで怒っているわけだ。

 こうして一見いかにも混沌としていそうな「怒り」でさえも、『アリス』の世界では言葉の、ノンセンスの論理に従っている。第九章で公爵夫人がふたたび現れ、温和でなれなれしくすらある態度を目にするとき、そのあまりの変貌ぶりに読者のわれわれはびっくりしてしまう。あんなに乱暴だったのはコショウのせいに違いないと考えるアリスは、疑似科学めいた知恵を働かせて、「酢なら気難しく、カミツレなら苦々しく、大麦キャンディーなら優しくなる」という「新たな法則[ルール]を発見」するのだが、ひょっとしたら不思議の国では本当にこれが真理なのかもしれない。ふつう一貫した性格や個人の内奥から湧き上がるものとされる感情も、この世界ではその場ごとのゲームのルールに従って、いかにもノンセンス的に表出しているようなのだ。

 その証拠に、彼らの感情はしばしば突発的だし、長続きしない。アリスが怒るときはたいてい突然だし、先ほどの公爵夫人も、あるいは王様も、人が変わったかのように怒りだしたり怒り止んだりする。ハートの女王だけはつねに怒っているが、それだって彼女がたまたま「ハート、、、のクイーン」であるからにすぎない(「マインド」が「理性」の場所なのに対し、「ハート」は「感情」を代表する)。

 そうしたわけだから、「不思議の国」が感情に満ちた世界なのか、感情が欠けた世界なのかは、判断のわかれるところだ。一方では、どこに行ってもコショウが漂っているかのごとく、みんなが怒っている世界ではある。けれどもそれがまさにコショウのせいなら——ゲームのルールに則って怒っているだけなら——それは本当の感情だと言えるのか。

「アリスは走っていってしまいました」——幻滅

 感情があるようでない、ないようである『アリス』の世界。そもそもこうした世界を創造しようとする人物の感情というのは、どのようなものだろう。最後にこれまでとはいささか位相のちがう、作者ルイス・キャロルの「感情」を、すこしだけ考えてみよう。

 「アリス」にはモデルがいる。オックスフォード大学の数学講師だったルイス・キャロル(本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)の上司にあたる学寮長ヘンリー・リデルの、三人娘の二番目アリス・リデルだ。キャロルはこの少女に特別な愛着を寄せていた。三姉妹を連れてボート遊びやピクニックに出かけ、子どもらにせがまれて即興で語り聞かせたお話を書き起こしたのが、『不思議の国のアリス』なのだ。

 『アリス』誕生の日となったとされるお出かけの日が一八六二年七月四日。当時キャロル三十歳、アリスは十歳だった。興味深いことに、作品内のアリスは七歳に設定されている。つまり実際よりも三歳おさなく設定されていたわけだ。当然ながらこの差は『不思議の国のアリス』初版本が出版された三年後にはさらに開いていた。キャロルとリデル一家は一八六三年あたりから疎遠になっていくが、その原因は大人の女性に近づくアリスとキャロルの関係を、両親が問題視したからだとも言われる。

 この連載は、アリスの身体の伸び縮み、“grow” という語の両義性に注目することから出発した。ここにいたってわたしたちは、巨大化・矮小化のモチーフの、キャロルにとって切実な意味合いに気がつく。「エターナル」では決してありえないアリス・リデルの「成長」、それはアリスがキャロルから離れていくことを意味し、彼にとって必ずしも喜ばしいことではなかった。「成長」を異様な「巨大化」に移し替え、大きくなったかと思えばすぐに小さくしてしまうキャロルの筆致に、否応ない時の経過への諦念と、それをどうにか押し留めたいという願いとを読み取ることは、そう難しくないだろう。

 『不思議の国のアリス』全体に漂う「感情」をひとつあげるとすれば、それはアリスの「退屈」でも「好奇心」でも、ハートの女王の「怒り」でもなく、キャロルの「哀感」、「幻滅」ではないだろうか。「成長」にせよ「感情」にせよ、ノンセンス的な永遠不変の論理を呼びだすことが、つねにその裏返しで否応なく変化していく現実を想起させてしまう。どれほど奇想天外で愉快な語りにもそこはかとなく漂うこの幻滅だけが、『不思議の国のアリス』の感情らしい感情なのかもしれない。

(了)

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プロフィール
文・勝田悠紀(かつた・ゆうき)

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程。専門はイギリス文学。最近は魚料理と将棋にハマっている。「フィクションの手触りを求めて」(『文学+WEB版』)をnoteにて連載中。

イラスト・はしゃ
マンガ家・イラストレーター。『さめない街の喫茶店』など。健康で活発なおばあちゃんになるのが夢。

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