“映像に想いを重ねる良心、集団感情に惑わされない「個」の確立”スーザン・ソンタグ――連載「アメリカ、その心の生まれるところ~変革の言葉たち」新元良一
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“映像に想いを重ねる良心、集団感情に惑わされない「個」の確立”スーザン・ソンタグ――連載「アメリカ、その心の生まれるところ~変革の言葉たち」新元良一

 自由・平等・フロンティアを旗印に、世界のリーダーとして君臨してきたアメリカ。様々な社会問題に揺れるこの国の根底には何があるのか? 建国から約230年。そこに培われた真のアメリカ精神を各分野の文化人の言葉の中に探ります。
 第2回は、母国アメリカの独善性を批判し、国民感情的な非難にもひるむことなく論を展開したアメリカを代表するリベラル派の知識人であり、オピニオンリーダー、スーザン・ソンタグ(1933-2004)です。
 ※第1回から読む方はこちらです。

第2回「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」スーザン・ソンタグ

 その17歳の少女はとっさに、自分のスマートフォンで動画を撮り始めた。衝動と呼んでいいかもしれない。
 彼女がどんな心情だったのか、詳しくは知らない。だが少なくとも、自分の目の前で起こっている出来事が “あってはならない”ことだと直感し、思わずスマートフォンで撮影したはずである。
 ショッキングな映像であったのは間違いないが、さらに驚かされたのはそれが世界に与えた影響だった。
 アメリカのミネソタ州ミネアポリスの一角、どこにでもありそうな町の風景は、ネットを通じて瞬く間に全世界に伝達され、アメリカ国内はもとより、国外からも大きな反応が寄せられた。直接声を上げなくても、映像を見て心に宿るものがあった人たちを含めれば、夥(おびただ)しい数になるだろう。
 日本も例外ではない。ジョージ・フロイドという黒人男性が、白人警官に取り押さえられ、膝で首の側面を締め付けられて窒息死したその映像に、動揺し、感情を駆り立てられた人は少なくなかった。

イメージの力

 映像を通じて、大多数の人たちが心を揺さぶられ、痛みを分かち合った状況に、アメリカ人作家スーザン・ソンタグの代表作『写真論(On Photography)』(1977)が頭をよぎった。
 タイトルから、撮影技術の関連書と想像する向きもあるかもしれない。だがその内容は、写真という情報伝達媒体の存在意義を、撮影者と鑑賞者双方の観点から深く考察し語る思想書である。
 大衆にイメージがもたらす効果について様々な視座を紹介する『写真論』だが、そのなかにあって、写真が広い層にインパクトを及ぼすことに関する次の記述がある。

 写真――と引用文――は、それが現実の小片ととられるために、引き伸ばされた文学の語りよりも本物らしくみえるのである。ますます多くの読者にとって信頼できると思える唯一の散文は、エイジー(筆者注:写真家ウォーカー・エヴァンスとの共作のフォトエッセイで知られる文筆家ジェイムズ・エイジー)のようなひとのきれいな文章ではなく、なまの記録――(略)めそめそと自分を責める、しばしば偏執狂的な一人称ルポルタージュ――である。(引用:『写真論』(晶文社) 近藤耕人訳より)

 ソンタグがここでいう「引き伸ばされた文学の語り」とは、詩や小説などの文学と呼ばれる表現媒体において、作者が人間の深層心理に近づき、生死を始めとする主題を掘り下げた作品のことだろう。引用文の文学的な価値はともかく、イメージの受け手にとっては、なにが実際に起こっているのか見せられることの方にインパクトがある、と本書は指摘する。
 写真とのメディアの違いこそあれ、視覚効果の意味においては、動画も文字では言い表せない伝達の力を備えている。先のミネソタ州ミネアポリスの事件の映像は、誰かが解説や分析をしなくても(むしろ、そうした言葉の介入がなかったからこそ)、ソンタグの表現を借りるなら、“なまの記録”として人びとにこんなことは許されるべきではないと訴えかけ、もし自分がフロイド氏と同じ立場だったらと思わせたのではなかったか。
 縁もゆかりもない人間が亡くなる瞬間を、受け手が視覚で捉えることによって、たとえ異国の地にいても、現場で事件を目撃した17歳の少女が感じたように心を痛める。こうしたビジュアルの持つ力は、被写体と鑑賞者の間の精神的な距離を縮め、われわれに思いやり、つまり遠くの人を想う心をもたらしてくれる。そしてこの“遠くの人を想う”ことが、2004年に他界するまで、スーザン・ソンタグの著述活動の基盤であったといっても過言ではないだろう。アメリカとの対戦の真っ只中の60年代のヴェトナム、90年代に民族紛争が起きたボスニアのサラエヴォへと赴き現地の様子や人びととの交流からインスパイアされた、ジャーナリズムの領域での執筆もさることながら、『写真論』や『他者の苦痛へのまなざし(Regarding the Pain of Others)』(2003)では、前述の通り、離れた土地にいて困難を強いられる人たちを被写体にした写真や映像がわれわれに与えるインパクトや影響を、その言説で展開させた。

イメージの裏側を見る冷静なまなざし

 モラリストとも称されたソンタグだったが、遠くの人への想いは抱きつつも、感情だけで訴える人では決してなかった。むしろ過剰に感傷的になりがちな心理を諌め、ときに、歯に衣着せぬというなまやさしい表現では括りきれない、受け取る者をときにはたじろがせるほど真摯で、辛辣な思考を言葉で表現した。
 その代表例が、9.11直後に複数の書き手に大惨事についての心境をたずねた、「ニューヨーカー」誌での文章だ。

 これが“文明”や“自由”、あるいは“人類”、“自由世界”に対する“卑劣な”攻撃などではなく、アメリカ主導による特定の連合と行動の結果を発露とする、自称“世界の超大国”への攻撃だったという認識はどこにあるのか? どれほどの数の市民が、現在進行中の米軍によるイラクへの爆撃に気づいているのか? “卑劣”なる言葉を使うとするなら、自ら死を選んで殺そうとする人間より、報復の名の下に上空から殺戮する連中へ向けた方が道理にかなっている。(拙訳)

 今から20年前の同時多発テロは、ハイジャックされた二機の旅客機がワールド・トレード・センターへ激突し、二棟の高層ビルが崩壊するショッキングな映像がテレビやネットを通じて流れ、国を揺るがし、いつまた襲撃されるかわからないと、アメリカの一般市民の心に不安と恐怖を植えつけた。アメリカ政府が事件の首謀グループの捜索と拘束に躍起になるなかで、ジョージ・W・ブッシュ元大統領は、イスラム社会全体を敵対視しないよう促したが、イスラム系の人びとへのまなざしが変わったのは、誰もが認めるところだろう。
 その最中にあって出た、あたかもイスラムの過激派グループを擁護し、自国を“卑怯”と呼ぶかのようなソンタグの主張は、当時様々な方面から激しい非難を浴びた。それから20年という長い年月が流れたが、彼女の舌鋒鋭い問題提起と毅然とした姿勢を振り返ると、アメリカの根幹にある民主主義が機能していることに気づく。
 その中核部分には、もちろん言論の自由の存在がある。

言論の自由が支える民主主義

 前述の通り、未曾有の同時多発テロはアメリカ国民に恐怖を植えつけた。筆者も当時、ワールド・トレード・センターがあったマンハッタンのダウンタウンで暮らしていたが、こうした襲撃はまたいつ起こるかしれない、といった不安が募ったのを記憶している。不測の事態に備えて、それを未然に防ぐ対策を講じてほしいと多数の国民が願う状況だった。
 生命が危険に晒されるなかで、自分たちの身を守ることが第一と考えているときに、自分たち“以外”のことを考える余裕はあまりない。まして海外、それも過激派グループを出した国のイスラム教徒たちに目を向けるのは難しい。
 生命の安全や攻撃してくる側への対抗措置の期待が高まる国民感情に、アメリカが世界の他地域でどのように受け止められているのかを、ソンタグは問いただした。今でこそ、イスラム系作家の小説が取り上げられるなど、文化を始めとする多方面でイスラム世界への関心は顕在するが、この当時、ソンタグのように、その地域での軍事、政治両面でアメリカが関与したことが同時多発テロの起因となった、と発言するのは稀であった。
 正論だと自信があれば、声に出すのは当たり前と見る向きもあるかもしれないが、テロ攻撃に対し報復措置をといった気運が高まる周囲の声をよそに、この悲劇にはアメリカにも非があると主張するのは並々ならぬ勇気がいる。この勇気は、自説を曲げずに主張できることが憲法で保障される言論の自由に支えられていると同時に、多数派とはいえない意見や主張にも耳を傾け、これに賛同する受け皿が社会で築かれていることの表れだろう。
 そしてこの言論の自由が、権力が極端な方向へ邁進しないために、社会に一定のバランスを保たせている。
 第二次世界大戦以降、国際社会で巨大勢力の座を手に入れたアメリカだが、冷戦時代が終わり、ソ連の崩壊をともない、2000年前後には文字通り、並ぶもののない超大国となった。しかしそれはまた、大量破壊兵器の存在を理由に、国連安保理の決議を経ずに2003年、軍事介入したイラク戦争といった例もあるように、ときに独善的な行動に走る危険を孕む。
 高ぶる周囲の感情に惑わされず、自省を求めるソンダグの主張は、体制に抗うものであり、国家が遮二無二(しゃにむに)突き進もうとする行動への歯止めの役割を担う。国家としてまとまりに欠け、分断を引き起こす要因になるという意見もあるだろうが、進む方向性が大勢(たいせい)だけで決められてしまうと、社会全体が硬直化し、先のイラク戦争のように後戻りできないリスクが生じる。
 それに比べて、異なる意見を出し合い、活発に議論できる場とそこから選挙などを通じ、国民一人ひとりが判断できる機会を設けることは、民主主義に則ったシステムである。こうした国民参加の土壌が形成されると、アメリカがより良い社会になるための変化につながる柔軟性も増していく。
 このような社会の硬直化を問いただすなど、論議を呼んできたソンタグの言説が際立つのは、離れた場所にいる人たちへまなざしを送りつつ、近くの場所の人たちに批判的な視線を送ることだが、批判の矛先は、政治などの権力側に限ったことではない。先の「ニューヨーカー」誌では、アメリカが中東でどんなことをしているのか知るべきだと訴え、個々人が冷静な判断を下したうえで行動を起こすよう求めたが、その主張は現在にも通用するというより、ますます重要性を帯びてきた感すらある。

個の思考の必要性

 たとえば、『写真論』の中に、写真という媒体に対する受け手の解釈について論じる次のような記述が見つかる。

 どんな一枚の写真にも多様な意味が含まれている。実際なにかを写真の形で見るということは、内に魅惑を秘めた対象に出会うということである。写真映像の基本的な知識は、「そこに表面がある。さて、その向うにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」といってみることである。(引用:『写真論』(晶文社)近藤耕人訳より)

 写真に代表されるイメージは、様々な情報を提供してくれる。被写体となるのは、戦争による被害者かもしれないし、異国のどこにでもある町の風景かもしれない。そこに写っているものを視覚に収めることで、人びとは知識を得たり、感情を呼び起こされたりもする。
 しかし、情報を得るだけに終始し、一面的な見方になってしまうことはないだろうか?
 媒体の奥に潜んでいるものを感知し、思考をめぐらして、鑑賞者自身が探しあてることがわれわれには必要だ、とソンタグはここで説いている。同じ映像や写真を鑑賞しても、感じるところはひとつに留まらず、「多様な意味」があるのなら、多様な受け止め方があっていい、といった提唱にも聞こえる。
 さらに、多様に受け止め、それぞれが思考をめぐらすのは、「個」の確立を目指すこととも読み取れる。
 1990年代半ばにインターネットの利用が普及しはじめ、2000年代にソーシャル・メディアが浸透して以降、情報は氾濫し、錯綜する時代へと入った。そして昨年の大統領選挙前後から、検証もされない、虚偽の情報や陰謀論がそのネットで跋扈(ばっこ)するに至り、2021年1月6日の米国連邦議会議事堂襲撃事件のように、民主主義の有り様を脅かしかねない、混乱を招く事態に発展するケースも出てきた。
 個人主義の国といわれるアメリカだが、流布される不確かな情報に振り回されれば、自分を見失うような事態も起こりがちだ。そんな時代にあって、自省を含め、個々人が思考することの必要性を訴えるスーザン・ソンタグの提言は、様々な深刻な問題を抱えた現状を見つめ直し、パンデミック後の新たな社会の建設に邁進していく意味において、今さらに説得力を増しているように思える。

(了)

*写真 ©ZUMA Press/amanaimages

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プロフィール
新元良一(にいもとりょういち)

1959年神戸生まれ。作家。元京都造形芸術大学教授。1984年から22年間ニューヨークに在住した後、2006年京都へ移転。2014年、NHKラジオ「英語で読む村上春樹」の番組ホストを1年間担当。2016年に活動拠点を再びニューヨークへ移す。著作に『あの空を探して』(文藝春秋)、『One author, One book』(本の雑誌社)など。現在、「ワイアード日本版」「TOKION」にて連載コラムを執筆中。

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