過去の後悔との対峙。友との再会がもたらす感情にざわめくものは――中山七里「彷徨う者たち」
見出し画像

過去の後悔との対峙。友との再会がもたらす感情にざわめくものは――中山七里「彷徨う者たち」

本がひらく
本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。震災復興のための公共工事がらみの汚職の可能性を探る、笘篠と蓮田。蓮田の旧友である貢の義父・森見善之助議員に疑いの目が向けられるなか、聞き込みのため、蓮田は自ら旧友のもとへと足を向ける――
※当記事は連載第9回です。第1回から読む方はこちらです。

三 公務と私情

 非番の日に個人的な理由で捜査する日がくるとは夢にも思わなかった。しかもかつて住んでいた場所で。
 蓮田は南三陸町志津川地区を訪れていた。高校を卒業してから一度も帰っていなかったが、記憶にある故郷の姿はまるで一変していた。
志津川地区は国道45号線を中心に志津川に面する町だ。小規模店舗が多いが買い物となると町外への依存度が高く、蓮田がいた頃から人口の減少が始まっていた。
 この辺りは津波の直撃に見舞われた場所であり、一般住宅はもちろん地域の基幹病院だった志津川病院をはじめ、警察署、防災対策庁舎などの公共施設が根こそぎ破壊された。貢たちと通っていた頃、通学路沿いには個人経営の書店や文房具屋、駄菓子屋、パン屋、食堂などが軒を並べ、よく店先で時間を過ごしたものだ。知歌はファンシー・グッズに目がなく、新製品が発売されるとしばらくその前から離れようとしなかった。沙羅は読書家だったので別段買う本がなくても書店に寄り道をした。貢は真冬にアイスクリームを舐めるのが好きで、蓮田たちに無理に勧めるものだから引かれた。
 だが、あの文房具屋も書店も駄菓子屋も今はない。更地であったり、月極駐車場であったり、別の店舗が建っている。
 そこは故郷であるにも拘わらず見知らぬ町だった。
 蓮田は無常感を抱いたままかつての通学路を歩き続ける。
 以前、警察署からさほど離れていない場所に五階建ての集合住宅があり、蓮田は両親とそこに住んでいた。借り上げ社宅だったが十余年も暮らした家だからそれなりの愛着や記憶があった。
 その集合住宅が今や姿もかたちもない。
 基礎部分のみの惨めな骸(むくろ)を晒している。蓮田一家が退去した時点でかなりの築年数が経っていた。いかに鉄筋コンクリート造りといえども、あの凶暴な津波の前では為す術もなかっただろう。
 蓮田たちの生活の跡も建物と一緒に流されていった。
 甘酸っぱい感傷もなければ自分の足跡もない。あるのは虚しさだけだった。
 蓮田は基礎部分に向けて手を合わせると、踵を返してその場を立ち去る。自宅跡に立ち寄ったのは単なる思いつきだ。志津川地区を訪ねた主目的は別にある。
 貢が婿入りした森見家は保育園の前を通り過ぎ、表通りから一つ裏に入った場所にあるはずだった。当時から立派な屋敷で、小中学生の頃はそうでもなかったのだが、高校生になってからは敷居が高いように感じて立ち寄らなくなった。
 果たして当該の場所に記憶の森見宅はなかった。建物の外観も門扉も別物の家が建っている。以前の家は沙羅の母親ともども津波に流されている。元通りになっているはずもない。
 だが門柱に立てかけられた看板でやはりと思った。〈県議会議員 森見ぜんのすけ連絡所〉とある。
 蓮田は近くに寄って門柱の表札を確認する。
〈森見善之助
   貢
   沙羅〉
 ここが森見宅に違いなく、被災した後で建て替えたらしい。森見の表札に貢の名前があるのは妙な気分だった。
「宮城県警の蓮田と申します。ご主人はいらっしゃいますか」
 インターフォンで来意を告げると『えっ』という驚きの声が返ってきた。玄関ドアが開けられたのは、ものの数秒後だった。
「将ちゃん」
 沙羅は心底驚いたように細い目をいっぱいに見開いていた。女は変わると言うが、十四年経ってもどこか野暮ったい服装は昔のままだ。
「久しぶり。でも、どうして。元気だったの。さっき宮城県警って言ったよね。警察の仕事で来たの」
 矢継ぎ早に質問され、蓮田は言葉を挟む余地もない。
「待った。全部話すから、ちょっと落ち着け」
「あ、ごめんなさい。とにかく上がって」
 招かれて蓮田は敷居をまたぐ。当然ながら中の様子も以前とは全く違う。
「家、建て替えたんだな」
「うん」
「居住禁止区域じゃないから別に構わないだろうけど、高台に移転する計画があったんじゃないのか」
「あったんだけど、お父さんが元の場所がいいって。昔から変なとこが強情」
 部屋に通されそうになったので、先に申し入れる。
「まず焼香させてくれないか」
 沙羅は無言のまま蓮田を居間に誘う。居間の壁に立派な仏壇が設えられ、中央の額の中では沙羅の母親が微笑んでいる。
 蓮田たちが遊びに来ると、いつも眩しそうな笑顔で迎えてくれた。そうだ、あの笑顔が脳裏から離れなかったために、蓮田の父親がスクープを飛ばした後で敷居が高くなってしまったのだ。
 線香に火を点けて頭を垂れる。これしきのことで父親がしたことを償えるはずもないが、今はただ彼女の冥福を祈るばかりだ。
「震災の時、わたしは県外、お父さんは県庁にいて難を逃れたけど、家にいたお母さんが逃げ遅れて……将ちゃんの方はどうだったの」
「ウチは全員、大丈夫だった」
「そう。よかったね」
 沙羅にその気がなくとも、疎外感を覚えるには充分なひと言だった。
 客間に通されると、早速沙羅の質問が再開する。仙台に移り住んでから警察学校を出て、所帯を持ったところでいったん説明を終える。
「将ちゃん、子どもは」
「男の子が一人」
「おめでとう」
 お前の方はどうなんだと訊こうとしてやめた。表札に子どもの名前はなく、家の中にも幼児が走り回っているような気配は感じられない。
「それにしても将ちゃんが警察官かあ。噂は聞いていたけど、実物を見たらそれらしい雰囲気があるわね。あの頃から体格がよかったし、何となく体育会系の雰囲気だったし」
「偏見だぞ。別に腕力や脚力で捜査する訳じゃない」
「それで、将ちゃんは誰に会いにきたの。警察の仕事なんだよね」
「貢に会いにきた」
 蓮田の答えが意外だったらしく、沙羅は眉間に皺を寄せる。
「妙な顔をするんだな。想定していた答えと違っていたか」
「お父さんが目当てだと思っていた。政治家だし、今までも色々疑われてきたから」
「そんな話があったのか」
「もちろん全部根も葉もない言い掛かりに近かったんだけどね」
「親父さんが県議会議員だからこその言い掛かりか」
「派閥を纏めているってだけで汚職しているんだろうとか、選挙の度に実弾攻撃しているんだろうとか、対立候補や地元紙から中傷されるなんてしょっちゅう。でも将ちゃんがウチの旦那に会いにきたのなら、どうしてわざわざ宮城県警だなんて名乗る必要があるの」
 相手の言葉尻を捉えて追及する癖は昔のままだ。蓮田は微かな胸の痛みを感じながら、一方で懐かしく思う。
「警察の仕事で訪ねたのは本当だ。今調べている事件が南三陸町の土地に絡んでいる。事情を知るには地元の業者に訊くのが一番いいと考えてさ」
「確かに旦那は今でも〈祝井建設〉の役員だけど……将ちゃん、事前に連絡したの」
「いや」
「あの人、まだ将ちゃんと会うことにわだかまりがあると思う」
 非難や同情などではなく、冷静な判断からの忠告に聞こえた。
「これも仕事でね。仕事なら自分を嫌っている相手にも会わなきゃいけない。今、どこにいる」
「実家。〈祝井建設〉」
「議員秘書をしているんじゃないのか」
「二足の草鞋(わらじ)を履いているのよ。〈祝井建設〉の役員に名を連ねているって言ったでしょ。中間決算が近づいてきたから、その打ち合わせに朝から出掛けてる」
 居たたまれない気持ちも手伝い、そそくさと立ち上がってから思い出した。
「〈祝井建設〉は移転したんだったな」
「元の工場は全部流されちゃったよ。今は高台に移転している。ちょっと待って」
 沙羅はスマートフォンを取り出して何度かタップすると画面を突き出した。〈祝井建設〉の住所と地図が表示されている。元より土地勘があるので、それだけで工場の位置は把握できた。
「将ちゃんがウチに立ち寄ったこと、旦那に知らせるけど」
「構わない。却って驚かせずに済む」
「会うかどうか分からないわよ」
「あのスクープは親父がしたことだ。俺は関係ない」
「そう考えているのは将ちゃんだけかもしれない」
「……だから怖いんだよ、沙羅は。皆が遠慮して黙っていることをしれっと口にする」
「ごめんなさい」
「いいよ。それで結局は助かったことが多いから」

 高台に移転した工場はすぐに分かった。下からでも〈祝井建設〉の看板が確認できるほど大きい。前の場所に建っていた工場の倍はあるのではないか。
 見れば、工場に隣接するかたちで住宅が建っている。近づいてガラス扉の向こう側を眺めれば、中が事務所になっているのが分かる。
 事務所に向かって歩き出そうとした時、蓮田はいつになく緊張している自分に気がついた。
 噓だろう。
 そう思うほど意外だった。わだかまりがあるのは貢ではなく、自分の方ではないのか。
 いったん足を止め、深呼吸を一つする。特段に怖れはない。罪悪感にも似た緊張が胸をまさぐるが、公務だと言い聞かせて押しとどめる。
 ゆっくりと歩き出す。ガラス戸の前に立つと、受付に座っていた女性がこちらに気づいた。
「いらっしゃいませ」
 いつものように宮城県警の名前を出そうとした寸前に思い直した。
「蓮田将悟といいます。貢さん、森見貢さんはいらっしゃいますか」
「お約束はございましたでしょうか」
「蓮田と言っていただければ分かります」
「少しお待ちください」
 受付の女性がスマートフォンを取り出したその時だった。
「待たせる必要はない」
 聞き覚えのある声のした方に振り向くと、事務所の奥から作業着姿の男が入ってくるところだった。
「さっき沙羅から連絡が来たから、そろそろだと思っていた」
 久しぶりに見る貢は顔つきに精悍(せいかん)さが加わり、体格も以前よりがっしりとしている。ただし何を考えているか分からない目だけは変わりない。
「ついてきてくれ」
 こちらが喋ろうとする前に機先を制された。貢は事務所の奥ではなく外に向かう。蓮田はその後に従うしかない。
 貢は外に出ると工場の裏に回った。従業員の休憩場所になっているのか、自動販売機の横に頑丈な造りのベンチが設えられている。
「座っとけ」
 貢は自動販売機からコーヒーをふた缶取り出し、うちひと缶をこちらに投げて寄越す。
「まるで体育館の裏まで来いっていう感じだな」
「工場は親父から受け継いだものだ。悪いが、お前に敷居をまたがせる訳にはいかない」
「それでもコーヒーは奢ってくれるんだな」
「せめてものもてなしだ」
 二人でベンチに並んで座り、缶コーヒーのプルトップを開ける。一瞬だけ、時間が高校時代に戻ったような気になる。
「元気そうだな。高校生の時分より逞しく見える」
「工場を継いでからは現場にも出掛けている。ガタイもよくなる」
「沙羅の親父さんの秘書と兼任なんだってな。両立できるものなのか」
「何とかこなしている。県議の秘書はそれほど多忙じゃない」
「お前の親父さん、どうしている」
「震災の翌年、脳溢血で倒れた。取締役だけに任せるんじゃ心許なかったから、当時勤めていた会社を辞めて〈祝井建設〉の役員に就任したんだ」
 そういう事情だったか。
「意外そうだな」
「貢はサラリーマンで出世するか、起業すると思っていた」
「お前こそ。親父さんと同じ新聞記者にでもなるかと思っていた」
「新聞記者にだけはなるまいと思っていた」
「他人の隠したい秘密を暴く。刑事も新聞記者も似たようなもんじゃないのか」
「少なくとも刑事は被害者と被害者遺族の無念を晴らすために靴底をすり減らしている。一緒にするな」
 本音だった。父親が祝井健造の贈賄をスクープしてからというもの、蓮田の中で新聞記者は決して誇れる職業ではなくなった。職業の選択肢からいち早く除外したのは、今でも後悔していない。
「で、その刑事さんが俺に何の用だ。沙羅の話じゃ南三陸町の土地絡みで捜査しているんだってな」
「八月十五日、吉野沢の仮設住宅で死体が発見された」
「知っている。町役場の職員だったそうだな。それが俺に関係あるのか」
「居住している被災者が公営住宅に移転すると、仮設住宅は撤去される。撤去された後の更地については再開発が予定されているそうだ。その件は知っているか」
「そんな計画があるとは聞いていない」
「正式な公表はまだだが、土地の売買は計画発表の前から進行しているものだろう。何か小耳に挟んだ話はないか」
「どうして俺に訊く。不動産や建設に関わる話なら在京のゼネコン大手に訊くのが常道じゃないのか」
「復興事業の一環だから地元業者が優先されると聞いた。南三陸町で一番大きな建設業者は〈祝井建設〉だ。だったら役員であるお前に訊くのが常道だろう」
「言葉遊びをするつもりはない。忙しいんだ」
 貢は言葉を尖らせる。
「はっきり言えよ。時間の短縮になる」
「吉野沢の物件売買に〈祝井建設〉は関わっていないか」
 脳裏に伊庭の説明が甦る。
『随意契約でいくなら業者との間に癒着が生じる。競争入札にしたところで事前に入札価格が分かれば商売相手を出し抜ける。いずれにしても跡地の再開発が公になる前から実弾が飛び交うのは目に見えている』
 伊庭の説を信じれば、〈祝井建設〉が実弾を抱えて暗躍している可能性が捨てきれない。仮にそうだとしたら〈祝井建設〉の関係者が掛川勇児の死に関わっている可能性も否定できない。
 貢はしばらく黙っていた。貢が黙っているのは相手の真意を見透かそうとする時だ。果たして、こちらに向けて皮肉な視線を投げてきた。
「ウチの実家が義父と結託しているとでも言いたそうだな」
 本人から切り出したのであれば遠慮する必要はない。蓮田は自分の疑念を打ち明けることにした。
「森見善之助議員は県議会最大派閥の長だ。再開発に関わる許認可権は知事にあるが、その前段階の業者選別には議会の力が及ぶらしいじゃないか」
「計画の存在すら知らないと言ったはずだ。ましてや随意契約なのか競争入札なのかも決まっていないだろう」
「それでも事前に運動していれば事を有利に運べるだろう」
「刑事は疑り深いんだな。お前は建設業者を色眼鏡で見過ぎだ」
「『家には胡散臭い客がよく来る』。昔、それを俺に教えたのはお前だぞ。忘れたのか」
「ふん」
 貢は返事をする代わりに唇の端を歪める。
「阪神・淡路大震災は憶えているよな」
「当然」
「あれも神戸の街を壊滅させた大災難だったが、復興事業自体は修繕と改築に留まった。ところが宮城県に起きたそれは海岸沿いからの移転を含めた、ゼロからの街造りだ。事業の規模も動くカネも桁違いだ。県議会が大手ゼネコンの台頭を抑えて地元にカネを落とそうとするなら、ウチみたいな業者が絡んでくるのはむしろ当然だ」
 強気なようで、どこか弁解じみている。これも昔のままだ。
「森見議員が根回しして、再開発事業は〈祝井建設〉が随意契約を取るか、もしくは落札するように仕向ける。県議会の最大派閥が後ろに控えていれば不可能な話じゃなくなる。そういう次第か」
「慌てるな。ウチみたいな業者が絡んでも当然と言っただけだ。絡んでいる事実はない。第一、そのくらいの読みならお前もしているだろう」
「県議会議員の義理の息子が地元建設業者なんだ。刑事でなくたって勘繰るさ」
「勘繰りたければ勘繰ればいい、噂はどこまでいっても噂。邪推はいくら重ねても邪推だ」
「前の工場は流されたんだってな」
「ああ、母親と妹もろともな。あれだけ造りのしっかりした建物が流されるなんて想像もしなかったんだろうな。工場の中で身を潜めているうちに逃げ場所を失ったみたいだ」
「以前より大きな工場をここに再建した。その費用は、いったい誰が出した」
「お前に教えなきゃいけない謂れはない」
「資金の出所は森見善之助じゃないのか」
「煩い」
 煩がっていても、蓮田の問いに否定はしなかった。
「お前が森見家に婿入りしたのも議員の秘書になったのも、工場再建の資金を提供してもらう交換条件じゃなかったのか。前の工場を流されて、働く場所を失った従業員たちのために、お前が人身御供(ひとみごくう)になったんじゃないのか」
「妄想も大概にしておけ」
 貢は一刀両断に切り捨てる。
「だったら資金はどこから出た。言っちゃあ悪いが、俺たちが高校生の頃から〈祝井建設〉は経営が楽じゃないと聞いていた。他ならぬお前の口からだ。そんな経済状態の工場が津波で流された。土地の取得から工場の再建までの莫大な費用、いったい誰が出せた。考えられるとしたら森見善之助くらいだぞ」
 口に出してから後悔した。いくら友人相手でも憚られる言葉だった。蓮田が貢を友人だと信じている限り、彼に吐いた言葉はそのまま自分に跳ね返ってくる。
 それまで強固に見えた貢の表情がわずかに歪む。対象者から真意を引き出す警察官としては有効ポイントだが、一個の人間としては思いやりの欠片(かけら)もない中傷だ。
「証拠がない以上、どんな推察をしても憶測にしかならない」
 挑発気味の台詞だが、負け惜しみにも聞こえる。それだけで、蓮田は己の推測が中(あた)らずと雖(いえど)も遠からずなのだと知る。
 あとひと息で貢の自制心は崩れる。刑事としての勘と旧友としての手応えが蓮田を後押しする。口に出せば貢との関係がさらに悪化するのは目に見えている。
 だが訊かずにはいられなかった。
「ひょっとしてお前が知歌を捨てて沙羅とくっついたのも、全部カネのためじゃなかったのか」
 途端に貢が顔色を変えた。
 こちらの胸倉を摑み上げると怒りを露わにしてきた。
「本気で言っているのか、クソ刑事」
 警察官の胸倉を摑み上げた時点で公務執行妨害だが、咄嗟に言葉が出てこない。
「今の台詞は俺だけじゃなく、知歌や沙羅も侮辱する言葉だぞ」
「イエスかノーで答えろよ」
「答えるような義理はない」
 貢は蓮田を突き放すように手を解(ほど)く。
「事情聴取拒否か」
「そんなに他人の懐具合が知りたいか」
「捜査に必要なら」
「俺も〈祝井建設〉も失ったものが多過ぎるんだよ。家族も従業員も工場も失った。元の生活に戻すのにどんな思いをしているか、お前に想像できるか。ええ、おい」
 予想もしなかった方向からの詰問で返事に窮する。
「知歌も両親、沙羅も母親を奪われた。家も何もかも根こそぎだ。奪われたものを取り返したい。だから以前にも増して働きたい、カネを稼ぎたい、また家族を作りたい。それが大切なものを奪われたヤツの願いだ。なあ、お前に分かるか。沙羅から聞いたぞ。お前は震災でも何一つ失わなかったんだってな」
 貢は勝ち誇るように言う。大切なものを奪われたはずの被害者が誇る姿は、痛々しいものがあった。
「これ以上、話しても無駄だ。お前に被災した人間の痛みは分からない。俺たちの話を聞いても理解できない」
 そう言い捨てると貢はベンチから立ち上がり、蓮田に背を向ける。
 蓮田の方は立ち上がることもできなかった。
 貢の言い分が一方的であるのは承知している。会話を拒絶するための方便であるのも分かっている。
 だがひと言も言い返せなかった。震災を機に奪われた者とそうでない者は明確に分かたれている。
 喪失感と罪悪感、劣等感と被害者意識、失意と安堵。両者を分かつ溝は深く、長い。
 貢の背中が遠くなっても蓮田は声を掛けることに躊躇する。そして彼の姿が視界から消えた時、ようやく呪縛から解放された。
 馬鹿かお前は。
 もう一人の自分が脳内で嘲笑する。
 震災で何も失わなかった。そんなものを負い目にしたまま捜査を続けるつもりか。
 笘篠に合わせる顔があるのか。
 蓮田はベンチに腰掛けたまま、しばらく憤然としていた。

ひとつ前に戻る  次を読む

プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)

1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

関連書籍

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信しています。ぜひこちらもチェックしてみてください!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!
多謝! 励みになります。涙
本がひらく
NHK出版の書籍編集部が、多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!