中野京子「異形のものたち――絵画のなかの怪を読む 《古今東西、世にも奇妙なキメラたち(1)》」
画家のイマジネーションの飛翔から生まれ、鑑賞者に長く熱く支持されてきた、名画の中の「異形のものたち」。
大人気「怖い絵」シリーズの作家が、そこに秘められた真実を読む。
※当記事は連載第5回です。第1回から読む方はこちらです。
「キメラ(英語chimera)」という生物学用語がある。一個体の中に異なる遺伝子型の細胞が共存する現象、またその個体を指す。一九〇七年にドイツの植物学者ハンス・ヴィンクラーが、トマトとイヌホオズキを接ぎ木して作ったものをキメラと命名した(ちなみに「ゲノム」の命名と定義もヴィンクラー)。
以降、世界中のマッドサイエンティスト、もとい優秀な科学者たちが、ヒトと動物の掛け合わせ実験をくり返し、一九六一年にはヒトの精子で雌チンパンジーを妊娠させることに成功した。チンパンジーは妊娠三カ月で死んだが、今やそうしたハイブリッド型の生き物を作る技術はあるらしいので、フランケンシュタインや「モロー博士の島」の恐怖は絵空事ではなくなってきている。
昔々には想像の中だけで、あるいは絵画の中でのみ生きていた異形のものたちが、早晩リアルな世界に躍り出てくるのだろうか?
その合体は「失敗作」?
キメラの語源は、ギリシャ神話に登場するキマイラだ(ギリシャ語Chimaira)。異質なものの合成体という意味では人魚やケンタウルスなどと同じでも、キマイラは人間との混交ではなく、また二種ではなく三種の生物から成る。即ち、頭はライオン、胴体は山羊、尻尾は毒蛇(ないし竜)。
紀元前四〇〇年ころの青銅像『アレッツォのキマイラ』(制作者不詳)が発掘されたのは、十六世紀半ばだった(現イタリアのアレッツォで見つかったのでこの名が付く)。
(制作者不詳『アレッツォのキマイラ』、フィレンツェ国立考古学博物館)
見てのとおり、非常に奇妙な形態である。ライオンの尾が蛇というのはこれまでの例でも自然な連想だが、背に雄山羊の頭部を載せる意味がよくわからない。
それぞれの造形はすばらしいのだ。咆哮(ほうこう)するライオン頭部の迫力は凄いし、四肢を踏ん張り、しなやかな筋肉を弓なりに反らせた胴体の流線も美しい。あちら向きの雄山羊も、長い角を振り立てるように首をめぐらす様が生き生きとしている。メディチ家がすぐさま家宝としたのは当然と思える青銅像だろう。
しかしそうはいっても、ライオンの背に瘤(こぶ)のような山羊の頭は……。
神話のクリーチャーたちは、メドゥーサにせよハルピュイアにせよ、いくら気味悪く、醜く、おぞましくとも、そこには目が離せなくなる(絵に描きたくなると言い換えられる)強烈な魅力があったが、キマイラにはどうもそれが足りなかったのではないか。奇抜な組み合わせを考えて創ってはみたものの失敗作だった証のように、後世の画家からさほど興味を持たれず、エピソードが少なく、図像も少なかった……これまでは。
キマイラは現代、アニメやゲームの世界で蘇った。ネットで画像検索すると多くの個性的なイラストが出てくる。生き生きしたそれらキマイラに、多くの若者が惹きつけられているのだろう。もとより発生段階からキマイラ好きは男性だ。とにかく足し算。単に余計なだけの失敗も多いが、そこから思いがけない発明品も生まれる。船にもなる自動車やSF映画定番の戦闘スーツなど、メカニックな新製品がキマイラ的発想の賜物なのは間違いない。
日本のキマイラ
閑話休題。
実はキマイラという言葉は「雌山羊」からきており、本来はアレッツォの青銅像とは違って、胴体はライオンではなく、雌山羊のそれだった。したがって乳房も付いており、さらにヘンテコな姿だ。十九世紀半ば、フランスのオータンで発掘された古代ローマ遺跡のモザイク画『キマイラと戦うベレロフォン』(制作者不詳)を見るとよくわかる。
(制作者不詳『キマイラと戦うベレロフォン』、ロラン美術館)
ライオンは口から火を噴いたという。そのためキマイラは火山の象徴との解釈もある。哮(ほ)えるライオンで噴火口を示し、山岳地帯に棲息する野生の山羊が山の稜線で、毒蛇は火砕流。合体させれば、災害と不毛をもたらす怪物ということになる。退治されてしかるべきだ。というわけで、キマイラは英雄ベレロフォン(彼もまた天馬ペガサスに乗っている)に殺される。本モザイク画はそのシーン。ベレロフォンが山羊の口に槍を突き刺したところ。
いろいろ足し算してゆくうち何だかよくわからなくなった日本産のキマイラは、鵺(ぬえ)。もとは山鳥トラツグミの異名で、真っ暗な夜に森の奥から聞こえてくるその不気味な鳴き声(キーンという金属的な響き)に、平安時代の貴人は恐れ戦(おのの)き、凶兆とみなして祈禱したという(まさしく「鵺のなく夜は恐ろしい」)。
『平家物語』によれば、夜な夜な清涼殿の上から怖しい声が聞こえ、とうとう天皇が病に伏せってしまう。そこで弓の名手、源頼政が呼ばれ、その妖怪をみごと射落とし、天皇は快癒した。めでたし、めでたし。
これが鵺だと語り伝えられたのだが、その姿は――顔は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇。または背が虎で足が狸、尾は狐。いやいや、顔は猫で胴は鳥というのもある。干支をあらわして虎(寅)と蛇(巳)と猿(申)とイノシシ(亥)の合体説、さらに雷獣説も。
得体の知れぬ、つかみどころのない人間が、「鵺のよう」と形容されるのも道理だ。
さまざまな絵師が筆をとった。江戸末期の浮世絵師、歌川国芳(1798~1861)の作品がその一例。
(歌川国芳 木曽街道六十九次之内「京都 鵺 大尾」、1852年)
周りを稲妻が走っているので、雷獣としての鵺だ。空から地上の館をうかがう。顔は狒々(ひひ)のようだ。赤い。胴体も四肢も虎だが、背中だけ別の毛(たぶん狸の毛)に覆われ、尾は蛇。ギリシャのキマイラほど「変」ではない。
地獄の門番は佇む
キマイラの父は巨神族のテュポーン(Typhon)。台風(typhoon)の語源となったほどだから、その威力たるや、推して知るべし。
母エキドナ(マムシの女の意)もなかなかだ。有翼の女怪で、上半身は女性、下半身は蛇という。
この夫婦の間にはキマイラだけでなく、おおぜいの合成児(?)が生まれた。前回登場した多頭の蛇ヒュドラ、プロメテウスの肝臓を毎日喰いにきた鷲エトン、百頭の竜ラドン、上半身は美女で下半身が魚、腹には六頭の犬の頭というスキュラ(画家の食指は動きそうにない)、地獄の番犬ケルベロス、有名なスフィンクスetc……。
彼らを全部、血のつながった兄弟姉妹にしてしまうのだから、古代ギリシャ人の空想の羽ばたきは何と自由なことか。
最後の二体を見てゆこう。
まずケルベロス。冥界の王ハデスの飼い犬で、地獄の門番の役目を担っている。もちろんそのへんの犬とは大違いで、頭が三つもあり、逃亡者や密入国者(亡き妻を取り戻しに来たオルフェウスの例あり)を見張る。尾は毒蛇。しかも首や胴体のあちこちにも毒蛇がうごめく。
フランスの画家ギュスターヴ・ドレ(1832~1883)の銅版画(『ケルベロス』)に描かれた地獄犬は、犬というより何百年も生きながらえてきた大亀のようだ。特大の甲羅の下からにょろりと長い首を出し、それぞれの頭が凶悪な面構え。前脚の長さが左右で違うので、足は速くはなさそうだが……。
(ギュスターヴ・ドレ『ケルベロス』)
いずれにせよ、こんなものが門の前に陣取っていれば、脱走を試みようとする亡者などおるまい。
しかし凶暴なケルベロスも半神半人のヘラクレスには敵わず、ある時、力づくで地上へ連れ出され、陽光に当てられてしまった。苦しさのあまり口から涎をたらすと、その涎が沁みこんだ地面から最強の毒草トリカブトが生えたのだという。
謎かけをするスフィンクス、その視線
もう一体はスフィンクス。
ただし間違えてならないのが、エジプトのスフィンクスとの違い。両者は別物である。エジプトのスフィンクスは紀元前三十世紀と歴史が古い。頭巾をかぶったファラオの顔とライオンの体を持ち、前脚を折って悠然と寝そべるのが決まりのポーズだ。この世の王者ファラオと獣の王者ライオンが合体した巨像――権力と栄光の誇示であり、神聖視されぬわけがなかろう。
一方そこから二〇〇〇年もの時を経た紀元前十世紀ころ、ようやく生まれたギリシャ型スフィンクスは、見た目がすっかり女性化した。エジプト型の直線から、曲線への移行だ。女面獣身で、翼を持ち、マーメイド同様その顔は美しく、両の乳房は豊満。その下はライオン。
そんな彼女はテーバイの町外れの山あいで、前脚をまっすぐ立て、胸を張って岩の上に陣取り、通りかかった者に謎をかけ、解けない相手を喰い殺していた。
答えられないと命にかかわる「なぞなぞ」は、「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。それは何?」。オイディプスが「人間」と、初めて正解した時、スフィンクスは崖から身を投げて死んだ。自殺である。
これはかなり衝撃的だ。神話中の悪のクリーチャーで、退治されるべきものが自殺したなど、他に筆者は寡聞にして知らない。もちろん無限といえるほどヴァージョンのある神話なので、皆無とは断言できないが、少なくとも有名な怪物では聞いたことがない。人間と問答できる知能があったので、人間に負けて恥を感じ、また絶望して死んだのなら、知識人の脆弱さとも言えよう。スフィンクスは外見より内面のほうが異形かもしれない。
さて、フランス新古典主義のドミニク・アングル(1780~1867)作『オイディプスとスフィンクス』を見よう。
(ドミニク・アングル『オイディプスとスフィンクス』、1808年、ルーヴル美術館)
画面中央に大きく描かれているのは、槍を二本抱えた裸体のオイディプス。場面は切り立つ崖に挟まれ、木の一本、草の一つもない剝き出しの岩場。遠くにテーバイの町並み。画面左下、オイディプスの足もとには、スフィンクスの犠牲者たちの白骨、そして殺されてまだ間もない人間のなまなましい足裏が見える。
オイディプスはスフィンクスと対峙しており、現場にゆき合わせた男が、恐慌をきたして引き返そうとしている(後景)。男のあわてぶりが、オイディプスの冷静さを引き立てる。オイディプスはそうと知らずにすでに父王を殺しており、この後はそうと知らずに母を娶(めと)って新王になる定めだ。ここでは黒い縮れ毛、顎鬚(あごひげ)、まっすぐなギリシャ鼻、若々しく逞しい青年として、スフィンクスに向き合う。ちょうど謎かけに答えたばかりらしい。
スフィンクスは、どうせ正答できまいと高をくくってか、早くも鋭い爪を立てて前脚を伸ばしかけたところだ。白い翼、形の良い豊かな胸とふっくらした腹が、そのまま痩せたライオンの四肢につながっている。だが全貌は画面におさまっていない。肝心の顔も、ちょうど岩陰が光を遮り、闇に沈んでいる。
もちろんアングルは故意にそうしたのだ。どんなふうにスフィンクスを表現するかが、画家の腕の振るいどころだということは鑑賞者もよく知っている。スフィンクスの顔が見えにくいとストレスになる。必死に眼を凝らす。「夜目、遠目、笠の内」というように、ぼんやりとしか見えない女の顔は、想像力を刺激する。そこにこの作品の仕掛けがある。
鑑賞者は眼を凝らす。とうぜん、スフィンクスはオイディプスと見つめあっていると信じている。ところが……このスフィンクスは、横目でぎろりと我々鑑賞者を睨んでいるではないか! これは怖い。
プロフィール
中野京子(なかの・きょうこ)
作家、独文学者。著書に『「怖い絵」で人間を読む』『印象派で「近代」を読む』『「絶筆」で人間を読む』『美術品でたどる マリー・アントワネットの生涯』、「怖い絵」シリーズ、「名画の謎」シリーズ、『ヴァレンヌ逃亡』、『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』『(同)ハプスブルク家12の物語』『(同)ブルボン王朝12の物語』、最新刊に『画家とモデル――宿命の出会い』など多数。2017年に特別監修を務めた「怖い絵」展は、全国で約68万人を動員した。 ※著者ブログ「花つむひとの部屋」はこちら
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