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三輪王朝とは何か? 「神武東遷」は何度も繰り返された?――周防柳「小説で読み解く古代史」第6回(謎2 その3)

本がひらく

「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。


謎2 記紀神話と初期大和王権  (その3)

三輪王朝とはなにか

 三作それぞれの東遷、、によって、どうにかこうにか大和の初期王権にたどりつきました。
 では、いま一度、邪馬台国やまたいこくから三輪みわ王朝への道筋を歴史的な視点で整理しておきたいと思います。
 大きく言って、そこには三通りの可能性があります。
 一つは、邪馬台国が大和盆地に存在し、同じ地域で新しい王権として発展的に継承されたという考え方。
 二つ目は、邪馬台国は九州に存在し、卑弥呼の後継者(台与とよ、または別の子孫)が一党を率いて大和に移ってきたという考え方。安彦さんの作品がこれに近いです。梅原さんも、邪馬台国を天孫族に置き換えて考えるならば、これに近いかもしれません。
 そして三つ目は、邪馬台国は邪馬台国として九州で滅び、別にやってきた無関係な集団が大和で新しい王権を樹立したという考え方です。邦光さんがこれにあてはまります。
 私自身の考えを言いますと、三番に近いです。すなわち、もともと大和には邪馬台国とは無関係の「先住者」がいて、同じく邪馬台国とは無関係な「後からやってきた人々」によって席巻せっけんされたという見解です。
 「先住者」は、出雲だと思います。ただし、べったりと出雲の民が住んでいたかどうかはわかりません。出雲の勢力圏内にあった、という程度の言い方がふさわしいのかもしれません。ともあれ、二世紀以前、出雲の文化的影響力が及んだ範囲は広く、山陰から北陸にかけての日本海側、近畿、瀬戸内の一部、紀州のほうまで覆われていた可能性は高いと感じています。
 大和が出雲の文化圏にあったと考える根拠の一つは信仰です。大和最大の甘南備かんなびの三輪山にオオクニヌシ(オオモノヌシ)が宿り、葛城山麓の一帯に息子神のアジスキタカヒコネ、コトシロヌシ、シタデルヒメ、妻のタギリヒメなどが祀られていること。これはやはり重要です。三輪山と葛城山はともに、大和盆地ののど元をやくす交通の要衝です。土地の支配者は入れ替わることはあっても、このような場所の神様は容易にすげかわることはありません。

大和の古道「山の辺の道」から三輪山を望む。手前は額田王の万葉歌碑

 考古学的な理由もあります。弥生時代において、九州地方は銅鉾どうほこ、銅剣の出土が多く、大和や出雲は銅鐸の出土が多いことで知られていますが、銅鐸は辰韓(のちの新羅)から出雲に入ってきて、のちに大和へ伝わった公算が高いのです。
 考古学者の佐原真さはらまこと氏によると、銅鐸はもともと小型の馬の鈴で、次第に大型化して祭祀の呪具になったそうです。『日本書紀』の一書によると、出雲の祖神のスサノオは子のイタケルとともに新羅からやってきたとあります。馬の鈴である銅鐸と、馬にかかわりの深いスサノオのイメージがつながります。
 もう一つ注目すべきは、出雲から大和に入ってきた銅鐸が、二世紀の終わりごろ相次いで破壊され、土中に埋められていることです。副葬品として扱われたのではなく、壊されて棄てられたのです。祭祀の呪具は以降、「鏡」に変わります。古代史学者の三品彰英みしなしょうえい氏が言うところの地的宗儀しゅうぎ(銅鐸)から天的宗儀(鏡)への文化の転換です。
 してみると、このとき、大きな支配構造の変化があったと考えられます。つまり、鏡を持ちこみ、銅鐸を壊した人々が、大和に「後からやってきた人々」です。これは一種の「神武東遷」であり、また、「出雲の国譲り」ともいえるのではないかと思います。纒向遺跡が形成されはじめるのも、まさにこの二世紀末です。
 では、この人たちは何者なのか? それは、騎馬民族云々と特別な推測をする必要もなく、たぶん、朝鮮半島からふつうに、、、、やってきた弥生人だと思います。ただし、かなりまとまった人数と強さと文化を持った集団ではあったかもしれません。もう少し言うなら、たぶん伽耶かやの人々で(あるいは伽耶を経由してやってきた人々)、九州はすでに飽和状態だったため素通りし、より東のフロンティアを目指して瀬戸内海を進んでいったのではないでしょうか。
 と言うと、なんらドラマチックではありませんが、ここにことさらな物語がつき、名前がつくと、「天孫族」という特別なものに変身したりするのです。
 その彼らはその後五十年か百年かのあいだに、周辺国や周辺氏族(たとえば尾張おわり伊勢いせ吉備きび河内かわち)と戦ったり和睦したり同盟したりして強大になり、その中で最終的にリーダーとしてもっともふさわしいミマキイリヒコという人が、みなに推戴すいたいされて大王(崇神天皇)になったのでしょう。とすると、同じく連合国家だった邪馬台国と、実態はあまり変わらないような気もします。言ってみれば、邪馬台国のようなもの、、、、、、が九州と大和の双方に存在したわけです。
 なお、いま尾張や伊勢などの名をあげたのは、纒向遺跡から出土する土器に、これらの地域のものがたくさん混じっているからです。
 もう一つ付言すれば、彼らと出雲勢との争いは、一度で決着したわけではないのでしょう。ある程度の年月をかけ、取ったり取り返したりが繰り返され、その末の「国譲り」だったのではないかと感じます。 
 記紀には、出雲と大和の不和を思わせる逸話が数多く載っています。三輪山の蛇神と大和王権の皇女ヤマトトトビモモソヒメの箸墓はしはか伝説、三輪山のオオモノヌシ神が大和の民に疫病の祟りをなしたという話、また、アマテラスの御霊みたま倭大国魂やまとおおくにたま(おそらくオオクニヌシのこと)を宮中でともに祀ることができないため、他所よそにいつき奉る場所を探したという伊勢神宮の起源譚……。
 このあたりの確執を、私は『高天原』という連作集の中で、スサノオとアマテラスの異様な関係に重ねて書いたことがあります。必ずしも史実にのっとらぬ、イメージ主導の短編ではありますが、大和と出雲のいわく言いがたい所以ゆえんは表現したつもりです。

周防柳『高天原』(集英社文庫)

 それから、大和と九州の関係については、次のように考えます。
 歴史上の邪馬台国は、卑弥呼の跡を台与とよ壱与いよ)が継いでいくばくか経った三世紀後葉、南のクマソ(『魏志倭人伝』に言うところの狗奴国くなこく)に敗れて滅んだのではないかと想像しています。であるとすれば、その後の九州では、なおのことクマソの力が強くなったはずです。
 同じころ、大和に成立した三輪王朝の大王たちは、おのれらの勢力拡大のために東奔西走しました。崇神天皇は諸国に四道将軍しどうしょうぐんを派遣し、二代のちの景行けいこう天皇は九州に遠征し、その息子のヤマトタケルもたたみかけるようにして救援に赴きました。邪馬台国のライバルだったくらいですから、クマソはそうとう手強かったはずです。武力制圧だけでなく、婚姻を含む慰撫いぶや取引もかなり行われたのではないかと思われます。
 こうした和平交渉の記憶が時代をさかのぼって神話の中に投影されたものが、「日向の神話」――天孫ニニギが日向の高千穂へ降りたのち、三代かけて現地の海の民や山の民と結んだ話――なのではないでしょうか。
 神話では、この三代ののちにイワレヒコ(神武天皇)が大和へ東遷することになっています。が、古代世界では、先進的な文物はつねに西から東へ進みます。人間の流れもそうです。したがって、「神武東遷」は一度ではなく、象徴的な意味において、何度も繰り返されるのです。
 この後の「謎3」で触れることになる神功皇后じんぐうこうごう応神おうじん天皇の凱旋がいせんも、一種の「神武東遷」だと思います。

英雄ヤマトタケルの物語

 では、最後に、いま名前が挙がったヤマトタケルについて少し触れ、「謎2」の章を終わることにいたします。
 ヤマトタケルは三輪王朝の外征事業における最大の英雄で、記紀神話の中でもっとも多くの紙数を割いて語られている人物です。
 活動が多岐にわたるため、複数の武人を一つの人格にまとめたものではないかと見る向きもあります。そうかもしれません。が、実在と考えてもよいと思います。
 むろん、不明な点もありますが、神話の人物にありがちな齟齬そごや矛盾は比較的少なく、感情移入もしやすいです。猛々しい武勲の側面と悲劇的要素を兼ね備え、英雄の条件に適っています。
 ただし、『古事記』と『日本書紀』とでは、かなり描かれ方が違います。 『古事記』では、ヤマトタケルの父のオオタラシヒコ(景行天皇)はかなり横暴な人物で、源義経みなもとのよしつねを恐れる兄の頼朝よりともよろしく、強すぎるわが子を恐れ、なかばやっかい払いのように、西のクマソ征伐に向かわせます。無事に凱旋すると、休む間もなく東のエミシ討伐に遣わします。ヤマトタケルはこれも平らげて帰路につくのですが、伊吹いぶき(現在の岐阜県と滋賀県の県境の山)で重傷ふかでを負ってしまいます。そして、懐かしい故郷を胸に描きながら哀しい白鳥の魂となり、能褒野のぼのから河内を経てあの世へ飛び去るのです。
 傷ついたからだで鈴鹿すずかの山中をさまよいながら、「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あおかき 山ごもれる やまとしうるはし」と望郷の歌を詠むくだりは永遠の名場面で、二千年の時を超えて涙を誘われます。
 一方、『日本書紀』のほうは親子の相克などが強調されることはあまりなく、父親の景行天皇はみずから軍をひきいて筑紫遠征に出かける勇敢な大王として描かれています。ヤマトタケルのほうも父王によく尽くす孝行息子です。全体的なトーンはかなり異なります。
 一般に、抒情的な『古事記』版を好む人が多いようですが、『日本書紀』の精細な内容もおもしろいと個人的には感じます。
 前後の天皇より紙数を割き、熱を入れて事績が記されていることから、じつは天皇位についていたのではないかという説もあります。あるいはそうかもしれません。
 小説の題材としても人気があり、たくさんの作品になっています。以下にまとめて紹介します。
 梅原猛さんの『ヤマトタケル』は、スーパー歌舞伎の脚本の一作目として、『オオクニヌシ』より前に書き下ろされました。梅原さんはもともと『古事記』派なので、哀感強めの描き方になっています。ご本人によると、脚本を書くための人物造型は、ヤマトタケルよりオオクニヌシのほうが格段に難しかったそうです。
 安彦良和さんも『ヤマトタケル』を描かれています。下敷きとなっているのは小椋一葉おぐらかずはさんの『天翔あまがけ白鳥しらとりヤマトタケル』で、ひねくれたところのない、天真らんまんな人物像が魅力です。『ナムジ』『神武』のあと百年かそこらの空白はありますが、続編として読んでみるのもおすすめです。
 ヤマトタケル小説の決定版といえるのは、黒岩重吾くろいわじゅうごさんの『白鳥はくちょう王子おうじ ヤマトタケル』シリーズです。黒岩さんは筋金入りの『日本書紀』派なので、そのぶん盛り込まれている情報量も膨大で、青少年時代の「大和の巻」から、筑紫のクマソの川上タケルとの闘いを描いた「西戦の巻」(上・下)、焼津やいづ走水はしりみず筑波つくばなどの逸話でおなじみの「東征の巻」(上・下)、そして、長い遠征から凱旋するも、むなしく最期を迎える「終焉の巻」まで、全六巻の超大作です。

黒岩重吾『白鳥の王子 ヤマトタケル』大和の巻(角川文庫)

 この他、ヤマトタケルものに加えてよいか迷いますが、思いきった変化球として、諸星大二郎もろほしだいじろうさんの『暗黒神話あんこくしんわ』があります。
 主人公は武蔵野に住む少年のたけしで、オリオン座の形の聖痕せいこんをからだに持ち、永遠に時を旅しながら、何千年かに一度ずつ地上のすべてを暗黒に陥れる破壊神スサノオ(馬頭星雲ばとうせいうんの呪い)と戦います。古代神話、神道、密教、インド仏教、西洋占星術などの要素が混然一体となって、竹内(武内)宿禰たけうちのすくね、熊本の菊池彦きくちひこ弟橘姫おとたちばなひめといった人物がモザイクのように交錯する、ぶっ飛んだ一冊です。

諸星大二郎『暗黒神話』(集英社文庫)

 正統派のヤマトタケルを読んだあとには、このような作品も頭に新風が吹き込んでよいのではないでしょうか。
 さて、国土の西の果てから東の果てまで、命を削って駆け抜けたヤマトタケルですが、その労は結局のところあまり報われることなく、三輪王朝は先細り、子のタラシナカツヒコ(仲哀ちゅうあい天皇)のときに終焉したのではないかと私は思っています。
 時代は海路と河内を活動拠点とする新しい王朝へと移り変わっていくのです。

次回(7月20日公開予定)に続く

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プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)

1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。

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