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「思考入門 “よく考える” ための教室」第8回 〔テクノロジーでアタマをよくする!?〕 戸田山和久(文と絵)

お待ちかね、「思考入門」の第8回目ですよ。連載もいよいよ大詰め、今回のテーマは「テクノロジー」。みなさんのまわりにあるテクノロジーをうまく使いこなせば、アタマがばっちり良くなるというお話です。「テクノロジー」って何のこと? それは読んでのお楽しみ。気に入ったら「スキ」してくださいね~~

テクノロジーの2つの特徴

 受験シーズンたけなわだ。アタマのよくなる薬があったらいいなあ、と思っている受験生もいるだろう。ほんとうにそういう薬があったらいいね、と私も思う。自分も飲みたいし、みんなにも飲ませたい。ちょっとのあいだ記憶力を高める薬とかは、近い将来に開発されそうだ。だけどそうなったら、入学試験でもドーピング検査をすることになるんじゃないだろうか。答案といっしょにおしっこも回収するのか……イヤだなあ。
 というわけで、時事ネタをおりこんで始まった今回のテーマは、生まれながらのアホさかげんをのりこえる3つのやり方の2つ目、「テクノロジーを使う」だ。頭をよくするテクノロジーなんてあるのか、と思うだろう。頭のよくなる薬も、頭をよくするサイボーグ手術もいまのところ夢物語じゃないの? でも、私の答えはこうだ。頭をよくするテクノロジーなんて、もうすでにざらにありますよ。そしてキミも毎日使ってる
 この私の答えの意味をよーくわかってもらうためには、まずテクノロジーって何かをわかってもらう必要がある。テクノロジー、つまり技術ってなんだろう。テクノロジーってどういう特徴をもっているんだろう。そうねえ、まず第一に、自然界に最初からあるわけじゃなくて、ひとがつくった、ということかな。ハチミツは、ひとがつくったものじゃない。つくったのはミツバチだ。これにたいして、カロリーゼロの人工甘味料は、テクノロジー、正しくはテクノロジーの産物だよね。ひとがつくったものであって、自然界にはじめからあったものではない。こういうのを「人工物」という。
 自然のものと人工物は、きれいに分けることはできない。ハチミツだって、農家がハチを飼って、レンゲ畑をつくって、ハチにミツを集めさせて、そこからゴミを取り除いて、瓶〈びん〉に詰めて、スーパーの棚に並べたら、だんだん人工物に近くなってくる。だから、これは人工のもの、自然のものどっちでしょうとあまりこだわることはない。
 さて、テクノロジーの第二の特徴。それはヒトの生まれながらにしてもつ能力をひろげたり、強めたりしてくれるということ。ときには、ヒトがもともとそなえていない能力をヒトに与えてくれるということだ。
 たとえば顕微鏡。ヒトはものを見る能力がある。しかし、あまり小さなものは見えない。手についたバイキンなんか見えない。でも顕微鏡は肉眼では見えないものを見えるようにしてくれる。つまり、わたしたちの視覚を拡張してくれる。赤外線カメラなんて、そもそもわたしたちには見ることのできない光をとらえて、見たものが温かいか冷たいかまで「見せて」くれる。こっちは、もともと備わっていない能力(赤外線を見る)を与えてくれるテクノロジーだ。
 というわけで、テクノロジーをとりあえず次のようにとらえておこう。わたしたちの能力を拡張するための人工物。それがテクノロジーである

だいじな注意事項

 いくつか大切な注意をしておきたい。まず、「人工物」といっても、それをつくったひとが特定されていなくてもよい。電球というテクノロジーを発明したのは、ごぞんじトーマス・エジソンだ。でも、縄文土器をはじめてつくったひとは誰なのかわからない。
 つぎに、ひとくちに「人工物」といってもいろいろある。電球や土器やチェンソーやスマホみたいに、目で見ることができて手で触れる「もの」だけが人工物ではない。発明王エジソンは電球を発明してくれたからエラい、と思われているが、エジソンがつくってくれたもっとたいせつなテクノロジーがある。 
 ちょっと考えてみてほしい。電球ができましたよ。これからは夜でも明るいですよ。ランプみたいに面倒な手入れがいりませんよ。と言われて、わーい、となると思う? うちに電気が来てなけりゃ、せっかくの電球も無用の長物じゃん。だから、エジソンは電球を売るために、各家庭に電気を送り届けるためのしくみもつくりあげたんだ。具体的には、発電所、送電線といった電力供給システムね。そして、それを運営するための会社もつくった(それがゼネラル・エレクトリック社だ)。
 電力供給システムはたしかに発電機とか電線とか分電盤とかいろんなメーターとか、「もの」の集まりを含んでいるけど、それだけではシステムにならない。こういういろいろな「もの」がうまく組み合わさっている、その組み合わせかたそのものがエジソンの発明なんだ。それから、会社も「もの」じゃないよね。むしろ「組織」と言ったほうがよい。こういうシステムも、組織も、最初から自然界の中にあったわけではない。だけど、わたしたちの能力をうんと拡張してくれる。できなかったことをできるようにしてくれる。だから、テクノロジーだ。
 だいいち、キミが使っているスマホをうごかしているソフトウェアだって、「もの」じゃないでしょ。でも誰かがつくった(プログラミングした)人工物だ。というわけで、テクノロジーという人工物は、いろんな形をとる。手で触れられる「もの」のときもあるけど、そうでないときもある。

イラスト①

「電球だけ発明されてもなあ」

テクノロジーの代表選手は「ことば」

 さて、これで準備は終わり。キミの頭をよくするテクノロジーにどんなものがあるのかについて話をしよう。まず第一にあげたいのは「ことば」だ。
 「ことば」がテクノロジー? キミはいぶかしく思うかもしれない。でも、「キミのアタマをよくするための人工物」という点では、ことばだって立派なテクノロジーだ。
 ことばには人工物っぽいところがある。たいていのことばは、いつの間にか使われるようになったものなので、特定の作者がいないように思ってしまう。だけど、いつ誰がつくったのかがはっきりしていることばもある。たとえば、科学者を意味する「scientist」ということばは、1834年にウィリアム・ヒューウェルというイギリスの論理学者がつくったことがわかっている。
 いまの科学につながる近代科学が生まれたのは17世紀。たとえば、誰もが知っているニュートンなんてこのころのひとだ。このころ科学をやっていたひとは「philosopher」と呼ばれていた。当時は、科学をやるのは貴族階級のひとびとで、自宅に実験室をつくったりして、紳士のたしなみ、高級な趣味としてやっていたんだ。貴族だから、仕事はしないでも食べていける(ひろい土地をもっていて、そこからの収入で食べていけるからね。うらやましい)。
 だけど、19世紀のヒューウェルの時代になって、科学研究が貴族の趣味じゃなくなって、大衆化したんだ。もっぱら科学の研究にたずさわることで収入を得て食べていくひとたちが増えてきた。そこでヒューウェルは、こうした新しいタイプの科学研究者たちを表すために「scientist」ということばをつくったんだ。エジソンが電球をつくったように。ね、ことばが人工物だということが納得できたろう?
 もちろん、ヒトがどのようにして「ことば」をもつようになったのか、まだよくわかっていない。最初はそれこそ自然に「ことば」は生まれてきたんだろう。  
 アリは餌〈えさ〉のありかについてフェロモンで情報を伝え合っている。ミツバチはミツのありかについての情報(どっちの方角にどのくらい飛んでいけばいいか)を、ダンスで伝える。敵の種類に応じて叫び声を使い分けて、仲間にどう逃げたらいいかを教えるサルもいる。このように信号を使った情報伝達はヒト以外の生きものにも見られる。ヒトのことばも最初はそんなものだったろう。そのときは自然物、つまり進化がヒトに備えつけてくれたものだったはずだ。でも、途中から、ヒトのことばはすごく人工物っぽくなってきたのは確かだ。
 人工物らしくなる最初の一歩は「書きことば」つまり文字の発明だろう。ヒトは放っておくと文字を使うようになる、というわけではなさそうだ。いまでも文字をもたない民族がいることからも、文字は自然に生まれたものというよりは、誰かの発明品、つまり人工物だと言ってもいいだろう。

「春はあけぼの」を読めるのも、1年が何秒かを計算できるのも……

 文字と書きことば、これがキミの頭をよくするテクノロジーの代表選手だ。それを納得してもらうためには、ことば、とくに書きことばがどんなふうにキミの思考能力を拡張するかを考えてみればよい。
 まず第一に、文字はキミの記憶力をうんと増強してくれる。キミの思考はすぐに移ろって消えてしまう。1分前に考えていたことは、もう忘れてしまう。いまは別のことを考えている。いちど考えたことや思ったことがいつまでもアタマの中に残っていると、かえってすごく困る。アタマがパンクする。だから、わたしたちの脳はどんどん古い情報を消して、新しい情報を上書きするようにできている。だけど、これだけは覚えておきたい大切なこともあるはずだ。そういうとき、キミはメモをとる。考えたことをアタマの外に出して、文字に記してとっておく。文字はいつまでも残るからだ。
 キミだけでなく、人類ぜんたいもこれをやってきた。だから、わたしたちは昔の人が考えたことをいまでも忘れないでいることができる。平安時代に清少納言が「春ってやっぱりあけぼのよねっ」と思ったわけだけど、いまのわたしたちにそれが伝わっているのは、彼女が文字にして残してくれたからだ。
 第二に、文字はキミの思考力そのものを増強してくれる。いちばんわかりやすい例は、筆算だろう。キミはアタマの中だけで、7かける8を計算することはできるだろう。12かける11はどうかな。できるひととできないひとに分かれそうだ。じゃあ、60かける60かける24かける365はどうだろう。1年が何秒かを計算しようとしているわけだ。これは、そろばん塾に通っているひと以外は難しいよね。でも、紙とエンピツとガマン強さがあれば、誰にでもこの計算はできる。頭に入れておくのは、九九と足し算と掛け算を筆算でやるときのシンプルな規則だけでいい。
 おなじように、こんがらがったことを考えようとするとき、ひとは紙にポイントを書き出したり、図を描いたり、表をつくったりして考える。悩みごとを相談するために、文章を書いているうちにアタマがすっきりして悩みが解決してしまいましたというひとは多いよ。キミの脳だけをつかって考えるのではなく、脳と紙と鉛筆と、そして文字あるいは記号をつかって考えると、脳だけでは考えることのできないことがらを、ずっと上手に考えることができるようになる。ね、「人工物による思考力の増強」でしょ。

極めつきは「反省的思考」と「批判的思考」

 第三に、文字はキミがゆっくり考えることを可能にしてくれる。ゲームソフトで「落ちゲー」とか「積みゲー」ってのあるでしょ。テトリスとかが有名だよね。上から次々落ちてくるブロックをうまく積み上げて、横一列がそろうとパッと消えて、どんだけ消せるかでスコアを競うやつ。あれをやっている最中に、キミはどのようにブロックを回転させればうまく積むことができるかを「考える」わけだ。この「考え」は、ブロックが落ちきってしまう前にリアルタイムにおこなわないといけない。たいへんだ。ゆっくり考えることができない。
 わたしたちが生きていくときにやっている情報処理の多くは、その場その場でリアルタイムにおこなわないといけない。さもないと死んじゃう。むこうから何か大きいものが飛んできたら、ええとあれは何かしらと考える前に、さっと身をかわさないといけない。わたしたちの人生はテトリスっぽいところがある。その場で考えてことがらを処理して、はい次のこと、はい次のこと、って考えないといけない。お互い、つらいですなあ。
 でも、ゆっくりじっくり考えないといけないこともある。こういうことがらを考えるときに、文字は役に立つ。というのも、テトリスのブロックと違って、文字はそのままそこに止まって残っていてくれるからだ。たとえば、本を読んでいるとする。読みながらいろんな考えがキミの頭に浮かぶはずだ。そこで、途中で読むのをやめて、その考えを深める。たとえば「いや〜。ほんとうにそうだよなあ。そういえばオレにもこんなことがあったっけ」などと考える。考えているあいだ、文字は残っていてくれる。こうして、じっくり考えながら先に進む(この場合本を読みつづける)、ということができるようになる。
 ゆっくりじっくり考えることで、何ができるようになるかというと、反省的思考批判的思考ができるようになるんだ。文章を途中で読むのをやめて、「これってボクの考え方と正反対だな」とか「これってさっき書いてあったことと矛盾していない?」とか「この結論、サポート不足じゃないかしら」とか考えながら読むことができる。電光掲示板みたいな本を想像してごらんよ。本を買って開くと、冒頭からどんどん字が消えていく。そんな本だったら、読みながら自分の考えかたを振り返ったり、本の内容を批判的に吟味したりできないでしょ。読書がテトリスみたいになっちゃう。
 というわけで、書きことばと文字の助けによって、キミはこんがらがったことを深く考えることができるようになり、そして考えたことをいつまでも忘れないでいることができるようになるわけだ。まさしく思考力の増強でしょ。

「ことば」は苦しさから抜け出すための武器になる

 もうひとつ付け加えよう。これは書きことばに限った話ではないのだけど、ことばはキミが新しいことを考えることを可能にしてくれる。つまり、いままでそもそも考えることのできなかったようなことがらを考えさせてくれる。これはことばが発明品だということに関係している。
 すごくイヤな話になってしまうんだけど、ひとつ例をあげて説明しよう。「モラル・ハラスメント」ということばがある。これは1990年代に、フランスの精神科医であるマリー=フランス・イルゴイエンヌがつくったことばだ(だからもともとはフランス語)。わりと最近の発明品だね。モラル・ハラスメントは虐待やいじめの一種なのだけど、肉体的な暴力をふるうわけではない。精神的な虐待だ。カップル、親子、「友だち」、上司と部下、職場の同僚、教師と生徒、いろんなところで起こる。
 加害者は、被害者にことばの暴力をふるう。加害者は、長い時間にわたって、誰にも(ときには被害者じしんにも)気がつかれないように巧みに、いかに自分が正しく優れていて、被害者が間違いだらけの劣った軽蔑すべきダメ人間であるのかを刷り込んでいく。加害者はほかの人たちには、感じのいいひととしてふるまうので、被害者は「自分のほうが悪いんだ、このひとはわたしのことを愛しているから欠点を指摘してくれているんだ」と思うようになってしまう。いつも加害者の機嫌を損ねないようにビクビクしてすごすことになる。
 こういう加害者のえじきになると、何だかわからないけどすごくつらい。すごく傷ついてしまう。そういう被害者に「それはね。モラル・ハラスメントなんだよ」と言ってあげる。被害者は、このことばを知ることではじめて、自分が悪いのではなく、これは手の込んだ虐待の一種なのだ。そして自分の人権と尊厳が侵害されているんだ、と考えることができるようになる。
ことばというのは、自分の置かれた状況をうまく考えることができなくなってしまって苦しんでいるひとに、考えるための手段を与えて、その状況から抜け出すチャンスを与えてくれる。これまで考えることができなかったことを考えられるようにしてくれる。弱い者の武器になるんだ。武器って人類最古のテクノロジーのひとつでしょ。

だからキミは使えることばを増やさなければならない

 「モラル・ハラスメント」について話をしたのは、キミをイヤーな気分にさせるためではない。幸せに生きるためには、自分の置かれたややこしい状況について、じっくりと深く考えることが必要だ。考えても仕方ないや、という結論を出すときだって、いちどはよく考えなければならない。そして、じっくり考えるためには、ことばが必要だ。キミの思考を強化してくれるたくさんの適切なことばをアタマの中に入れておかねばならない。だから、キミは自由自在に使えることばを増やそうと努力しなければならないんだ。
 キミが身につけて使えるようになったことばの全体を「語彙〈ごい〉という。次に考えなければならないのは、じゃあどうやって語彙を増やせばよいのかだ。まず大事なのは、語彙を増やそうと思うことだ。しかも本気で。
中学に入ると本格的に英語を勉強することになる。このときはみんな単語帳をつくったり、本屋で単語集を買ってきたりして、英単語を必死に覚える。テストに出るからね。大学に入ると、もうひとつ外国語を勉強することになる。ちゃんとした大学だとそうなる。このときも、同じように単語を覚えようとする。最近ではスマホのアプリもあるみたいだね。
 日本語はどうか。古文という科目がある。テストに出る。だから、いまは使われなくなった古い日本語の語彙については英単語と同じようにして暗記しようとがんばる。「をかし」とか「あぢなし」とか、電車の中でぶつぶつ唱えている学生さんを見かける。じゃあ、いまの日本語については?
 英単語や古語と同じようにして、現代日本語の語彙を増やそうとしているひとを、わたしは見たことがない。とくにおとなになってからも語彙を増やそうと意識的に努力しているひとなんてほとんどいない。いったいなぜなんだろう。きっと、日本に生まれて日本に暮らしていると、自然に日本語の語彙は身についていくと信じているからだろう。うん、ある程度これは正しいね。子どもはそんなふうにしてことばを覚えていくんだからね。
 でも、これはあくまでも途中までだ。いつのまにか身についていくことばって、キミのまわりで使われていることばに限られる。つまり、いまのキミと同レベルのひとたちが使っていることばだ。キミの思考を拡張するために身につけなくてはいけないことばは、キミよりも賢いひとたちが使っていることばでなくてはならないはずだ。だから、自然に語彙が増えていくのに任せていてはダメなんだ。

語彙を増やすための冴〈さ〉えたやりかた

 といっても、たいしたことをする必要はない。まずは国語辞典を手にいれる。次に、ちょっと難しいなと思う、キミにとって「歯ごたえ」のあるものを読む。本でもいいし、ネット上の記事でもいいし、新聞でもいい。
 そうすると、おそらくキミの知らないことばがどっさり出てくるはずだ。その中には、なんとなく意味の見当がつくのもあるだろうし、まったく何のことやらというのもあるだろう。それどころか、どう読むのかわからない字も出てくるだろう。
 というわけで、けさの朝刊を見てみると……ありますよありますよ、難しげなことばが。「仮処分」「保全異議」「老婆心」「GDP」……。「阪神大震災25年 悼みつなぐ」って見出しの「悼み」なんてなんて読むのかわからんもんね。わからんかったら辞書で調べんさい。読みかたを知りたかったら、漢和辞典もいるね。パソコン上で読んでいるなら、「悼み」の部分をコピーして、辞書ソフトの検索ウィンドウにペーストすればいい。便利になったもんだ。
 とまあ、こんなふうにことばに注意しながら、すこし難しめのものを読む。知らないことばを調べる。で、次が大切だ。調べっぱなしにしておくと忘れちゃう。なので、そうやって調べたことばで、自分も使ってやろうと思うものを単語帳にメモしておく。ぜんぶメモする必要はない。そんなことやっていると、読むのが楽しくなくなるからね。あくまでも、キミが気になったことば、自分でも使いたくなったことばでいい。で、この自家製単語帳をときどきペラペラめくって眺めよう。そこにあることばを自分でも使ってみよう
 何を隠そう、私は60歳になってもこれをやっている。いちばん最近、こうやって覚えたのは「ほくそ笑む」の「ほくそ」って何? ということだ。原稿に「ほくそ笑む」と書いて、ふと、そういえばこの「ほくそ」ってナンジャラホイと思って調べた。ま、これでわたしの思考力が増強されたかはアヤしいけどな。この知識がいかされるときがくるんだろうか…… 
ともかく、わたしのように残り時間の少なくなった年寄りもまだ語彙を増やそうとがんばってるんだから、発展途上のキミたちはもっとおやんなさい。

イラスト②

これが「ほくそ笑む」の語源だ!

サイボーグに変身するためのテクノロジー①:「装置」と「方法」

 というわけで、「キミのアタマをよくするテクノロジー」の第一はことばだった。「すでにざらにあって、キミも毎日使ってる」と言った意味がわかってもらえただろう。
 じぶんの脳は出来がいいから、脳みそだけでなんとかやっていける、幸せに生きていける、幸せな世の中をつくれると思っているひとは、じつは愚か者だ。わたしたちは他のひとがつくってくれた人工物の助けを借りることで、ようやくまともにものを考えることができるようになる
 さて、思考力を増強するテクノロジーはことばだけではない。ほかにもいろいろある。ざっと分類すると次のようになる。①装置②方法、そして③組織とルールだ。
 装置については、電卓のことを考えてみよう。そろそろ税金を納める季節。わたしは給料のほかに原稿料ももらっているので、自分で税金の額を計算して納めなくてはいけない(確定申告っていうんだ。めんどくさいぞー)。その計算はとても暗算では無理だ。筆算でやってもすごい時間がかかる。電卓があってよかった、ということになる。電卓はこのように、わたしの計算能力(これも思考能力の一種)をものすごく拡張してくれる。思考力を増強する装置だ。
 もちろんパソコンもそうだ。コンピュータの歴史には、二つの考えかたがあった。人間の代わりに考えてくれる装置、という考えかたと、人間の思考能力を拡張するための装置、という考えかただ。一人ひとりがコンピュータをもつ、というアイディアは、このうち後者の考えかたに根ざしている。
何かをするためのやりかた(方法)も人工物だ。きちんとものを考え、いいアイディアを思いつき、問題をうまく解決するためのいろんな方法が提案されてきた。
 お客さんが来るのでディナーをご馳走しようと用意しているとする。短い時間で、いくつもの料理をいっぺんにつくりたい。そのとき、ダンドリをアタマの中だけで考えることはできない。肉をつけ汁につけたら、炊飯器をしかけてご飯を炊く。その間に、野菜を刻んで……みたいのを図にまとめて考えるだろう。これも「方法」の一種だ。
 科学はこういう方法の集まりだ。科学を学ぶということは、科学研究の成果としてわかったことがらを学ぶことだけじゃなく、科学をするためのやりかた(=方法)を身につけることでもある。
 たくさんのひとびとからなる集まりが、ぜんたいとしてどんな特徴をもっているかを知りたいとき、すべてのひとを調べるということはできない(たくさんすぎて)。だから、その集まりから少数のサンプルを選んで、そのサンプルについてわかったことから、ぜんたいについて推測する、ということをしないといけない。これをちゃんとやろうとすると方法が必要になる。そのための方法の集まりが統計学というものだ。
 ところが、統計学の方法は複雑すぎたり、たくさんの計算をしなければならないため、アタマの中だけではできない。そうすると、その方法じたいを装置という形でアタマの外に出してやってもらう、ということになる。これが、統計解析ソフトのような人工物だ。

イラスト③

アタマの中だけだとバクハツしてしまう!

サイボーグに変身するためのテクノロジー②:「組織とルール」

 前回、こういう話をした。個人の脳がもっている弱点を補うひとつのやりかたは、たくさんのひとが集まって考えることだ。しかし、みんなで考えると、よく考えることができるときもあれば、逆にかえってアホになってしまうこともある。つまり、たんにたくさん集めただけではダメだということだ。
 そうすると、そのたくさんのひとをどのように集めるか(どう組織するか)と、そのひとたちにどのように話し合ってもらうか(話し合いのルール)が大事になる。ヘタな組織をつくってヘタなルールで「いっしょに考える」をやると、集合知ならぬ集合愚になってしまうかもしれない。組織づくりとルールづくりをうまくやらないといけない。
 ビブリオバトルって知ってるでしょ。あれを発案した情報工学者の谷口忠大さんは、「みんなでやる思考」をよりよいものにするには、どのように組織とルールをつくったらよいかを研究している。いろんな提案があるけど、おもしろいのは「発話権取引」というしくみだ。みんなで考えて決めようとしているときに、一人のひとがずっと発言していると、みんながそれに引きずられて、結局よい考えに至ることができない。かといって、順番に話してもらうと、言いたいことの特にないひとにも発言を強制することになるし、何よりもいいタイミングでいいことが言えない。そこで、谷口さんは次のようなルールを考えた。

手順1 全員に発話権カードを何枚かずつ配る。
手順2 発言したいひとは、一枚ずつ発話権カードを使って発言する、自分は発言したいことはないが、このひとの意見が聞きたいという場合、ほかのひとにカードをあげてもよい。
手順3 手順2を繰り返した後に、すべての発話権カードを使い切ったら、議論は終了。

 このルールに基づいて議論してもらったときとそうでないときを比べると、発話権取引を導入したほうが、自分の意見にちゃんとサポートを与える論理的な発話が増えるということがわかったそうだ。
 というわけで、キミの思考力を増強するには、頭のよくなる薬を飲む必要などないんだ。うまいテクノロジーでキミの脳を補強すればいいんだ。で、人類はずっとそれをやってきた。人類は思考力を増強するテクノロジーを脳に装着したサイボーグなのである

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プロフィール

戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。発行部数24万部突破のロングセラー『論文の教室』、入門書の定番中の定番『科学哲学の冒険』などの著書がある、科学哲学専攻の名古屋大学情報学研究科教授。哲学と科学のシームレス化を目指して奮闘努力のかたわら、夜な夜なDVD鑑賞にいそしむ大のホラー映画好き。2014年には『哲学入門』というスゴいタイトルの本を上梓しました。そのほかの著書に、『論理学をつくる』『知識の哲学』『「科学的思考」のレッスン』『科学的実在論を擁護する』『恐怖の哲学』など。

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