見出し画像

今の私には人殺しができない――日常に潜む狂気を描いたサイコサスペンス小説「ここからは出られません」藤野可織

 妊娠が判明した鳩里鳩子だが、その信条は確固として変わらない。自分より強い者しか殺さない。そんな彼女は、複数の「女性だけ」が殺された事件を「無差別通り魔事件」と報道するニュースに憤る。しかし、その後に訪れた未体験のつわりという悪夢が彼女の心をかき乱し――。
 ※当記事は連載第3回です。第1回から読む方はこちら。

 吐き気にもいろいろある。二日酔い。風邪。胃腸炎。食中毒。そういうのはただただ最悪だけど、そうでもないのもあって、それは高揚と緊張と集中がぴんと張り詰めたときに感じる吐き気だ。金槌を振り上げているとき、脇を締めてナイフを腰のあたりでしっかりかまえているとき、どのくらいの力でぶつかったら相手が転落し且つ私自身にダメージがないか狙いすましているとき。そういうときにこみあげてくる軽いうわずったような吐き気は、季節や時間がいつであっても、真冬の真新しい朝のようなしんとした清潔な吐き気だ。
 はじめは、それだと思い込む。なんだかわからないけれど私は澄み切っているのだと感じる。いつもにくらべてあまりものを食べられないのも、どことなく私を清潔な気持ちにさせる。吐き気は空腹感とあいまってますます私を高揚させ、緊張させ、集中させてくれるような気がする。私は嬉々として大量のメールの返信を済ませ、書類を作成し、チェックし、スケジュールを管理し、事務室のみんなに仕事を割り振る。助けを求められると、こころよく応じる。後輩たちのささやかなミスは私の有能さを発揮するための祝福だ。私はいつにも増して美しくコピーを取る。コピー機の閉じられた原稿カバーとガラス面の隙間から、給紙トレイの隙間から、濃く赤い血が一筋二筋と垂れてくるさまが浮かぶ。常勤の先生に頼まれて台車で大量の本を運ぶ。乱雑に床に投げ出された本の端々から先生の体の一部が見え隠れしているさまが浮かぶ。非常勤の先生に頼まれてケーブルがごちゃごちゃに放り込まれた箱から正しいケーブルを見つけ出し、今はもうあまり使われなくなってきているオーバーヘッドプロジェクターをつなぎ直す。非常勤の先生を絞殺するのはどのケーブルでも事足りそうだ。
 そしてそれらの合間合間に、私はもちろん私の相手を探している。私は冴え渡っていて、誰もが隙だらけだ。どうしてみんなあんなに無防備でいられるんだろう? まるで自分だけは犠牲者にならないと確信しているみたいだ。今年はなかなか寒くならなくて、ちょっと用事を済ませに事務室から出るくらいならトレンチコートを引っかける必要もない。総務へ持って行く書類をたずさえ、去年セールで買ったトリー・バーチのバレエシューズで、私は行き交う学生たちの中へ踊るようにすべりこむ。私の視界を一瞬陰らせ、私の体重の二倍はありそうなラグビー部の学生がすぐ横をすりぬけていく。彼だって殺してしまえそう。つぶれて分厚くなった耳介にぽっかりと開いた耳の穴は暗くて大きくて、私がもし袖の中に錐(きり)を隠し持っていたとしたら……私は思わず利き手の手首の内側を押さえる。
 私はちょっと落ち着かなければならない。白昼で、あたりには学生がたくさんいて、殺人を実行すべきときではないのに、私は今にも巨体の男子学生に飛びかかりそうになっている。私は内心の興奮を抑えて何食わぬ顔をして歩く。確信めいた考えがこみあげる。この場で私と同じ空気を吸っている者みんなを私は殺すことができる。みんなが生きて私とすれちがっているのは、私が殺さないでおいてあげているからだ。私は無敵の気分で、本当に無敵なのだとほとんど信じ込みそうになっている。でも、だからこそだめだ。無敵の人間には殺していい相手なんかいない。無敵の人間は孤独だ。しかたがない。
 でもそれから12時間も経たないうちに、すべて錯覚だったことが明らかになる。
 翌土曜日は休みで、私は吐き気で目が覚める。その吐き気は最悪のほうのやつで、けれど二日酔いみたいに頭が痛いわけじゃなくて、体の中心に何かとりかえしのつかない大きなダメージを食らったその余韻が吐き気として残っているのだという気がする。頭の中に、振り子の大きな鉄の玉がお腹にぶち当たってくるイメージが浮かぶ。同時に私はとても空腹で、もしかしたら空腹のあまり吐き気を感じているのかもしれないとも思う。そうであればいい、それなら食べれば解決するから。きっとそうだ、私はその可能性に必死にすがりつきながら起き上がる。夫は出勤日でいない。一時間ほど前に出て行く音を夢うつつで聞いた。
 冷蔵庫を開ける。庫内は閑散としている。卵。トマトジュースのペットボトル。牛乳。ブルガリアヨーグルト。梅干し。豆腐のパック。納豆のパック。とろけるチーズにブルーベリージャム、調製豆乳の200mlパックがたぶん20本くらい。トロピカーナのグレープフルーツジュースにアップルジュースの250mlパックがそれぞれ1つ。DEAN&DELUCAのピンクソルトとブラックペッパー。減塩味噌。開封したのをクリップで留めたソーセージ。近所の精肉店の包みのままのベーコン。それから、一つ一つ確かめたら半分以上は賞味期限が切れていると思われるスパイス、調味料、使いかけのココアや食べかけのお菓子の小袋が醜くひねられて輪ゴムで留められたやつや得体の知れないもろもろの何か。冷凍庫には小分けにしたご飯と一枚一枚アルミホイルでくるんでジップロックにまとめた食パン、アイスクリームがいくつか。いつカットして冷凍したかちょっと正確には思い出せないキャベツが、ジップロックの中で霜だらけになっている。野菜室には米とじゃがいもと玉ねぎとにんじんとトマトで、にんじんは触るとかすかにぶよぶよしはじめているが、このくらいならぎりぎり煮て食べられる。
 私は背中をゆるく曲げている。目やにをぬぐう。上体を折ったまま動かさないようにし、ほとんど息を止めるくらい慎重に息をしながらくるりと方向転換する。するとそこには食器棚も兼ねたキッチンカウンター兼レンジ台で、引き出しの前板には強化プリント紙化粧繊維板が貼ってあるため落ち着いた木製家具に見える。その深い引き出しを私は開き、中を覗き込む。レトルトカレーの箱がきっちり並び、チキンラーメン五食パックの袋はひしゃげて中身はたぶんあと二食くらい、シーチキンの缶とサバ缶とレトルトスープ、レトルトのスパゲティソースとスパゲティの乾麺、夫が買ってくるポテトチップスが二袋。 
 この凶悪な吐き気に対抗できるのは体に悪い食品であるような気がして、チキンラーメンに手を伸ばす。しかし、手に取った袋がぱりぱり音を立てるともうだめだという確信に満ちて、結局冷凍の食パンにとろけるチーズを乗せて焼く。バルミューダのトースターがじりじり音を立てているあいだ、いつもやってるようにトマトジュースをイッタラのタンブラーに注ぐ。トマトジュースはどろどろしていて、若いころの経血の質感に似ているけど色はぜんぜんちがう。むかし、漫画で吸血鬼がトマトジュースを飲むんだったか、あるいは血を飲んでいるところを人間に見つかってこれはトマトジュースだからとごまかしているんだったか、そういうシーンがあったのを思い出すけれど、血とトマトジュースは似ていないし、そんなシーンはなかったかもしれない。私はトマトジュースを一口飲み、うえっとなってシンクに吐き出す。潰され閉じ込められていたトマトのにおいが襲いかかってきて、とても飲めない。私はイッタラを傾けてトマトジュースをシンクに流す。シンクを太い筋になって流れていくそれを蛇口の水で散らし、ついでに口もすすぐ。私はベッドに戻る。もうそのころには、これはつわりだと認めざるを得ない。しかしどういうことだろう。まったくふつうに過ごしているさなかにとつぜんうっと口を押さえたかと思うとトイレでちょろっと吐き、それで妊娠に気付く。そういうステレオタイプのつわりとこれはまったくちがう。そもそも私は妊娠の確定がつわりに先行した。私はきちんと自分の体を管理し、生理の予定日を過ぎて三日で産婦人科を受診し、妊娠を確認した。母子手帳はまだもらっていない。産科の医師は、まだ私にその手続きをするよう指示していない。
 私はベッドに横たわり、これからどうなるんだろうかと考える。これがピークなのか。それともこれよりひどくなるのだろうか。私はアイフォンで検索をはじめる。ダイニングでチーンと音がしてパンが焼けたのがわかる。トースターはそれでもしばらくはこと切れる前の呼吸のように弱々しくじり……じり……とうなり、それから完全に沈黙する。熱いチーズと熱いパンが固く冷えていくのがわかる。それはまだ起こっていないが、確定した未来としてそこにあるのがわかる。
 
 夫が帰ってくるまでを、私はトロピカーナのグレープフルーツジュース250mlを一口一口啜りながら過ごす。私はベッドにいて、トロピカーナの紙パックはベッドサイドに持ってきた白のラッカー塗装のスツール60の上にある。アルテックのスツール60の特徴は、曲げ木の三本脚だ。高い技術で獲得された脚のカーブの美しさ、そしてその脚が三本であることがこのスツールの高いデザイン性を保証している。しかし120度の角度で開いているこの三本脚が、その三本のあいだに均等な二つの空間を取って安定して見えることは日常ではほとんどない。ネットショップの商品写真なんかではそう見えるように撮影されていることが多いが、そこに置かれた実物をふとした瞬間に目にしたとき見えるのは、三本脚のうちの二本が不自然に寄っていたり、あるいは一本がぜんぜん見えなかったりする姿だ。私には、このスツールはあるべき四本目の脚を欠いた、傷ついた生き物のように見える。バランスを欠いたその姿は、私をいつもほんのりと不安にさせる。美しいというのはこの不安を指すのだろうか。平板なスツールの座面を、窓のカーテンの合わせ目から入った光が半分に割っている。トロピカーナの紙パックは、その光より少し手前にある。紙パックから落ちた結露が、妙に大きな水たまりになって紙パックから離れたところに雪だるまを横倒しにしたみたいなかたちで落ちている。中のジュースはもうぬるい。
 私はだいたい目を閉じて過ごし、目を開けているときは顔の前にアイフォンを持ってきて、母子手帳ケースを検索している。母子手帳ケースはいろいろある。一万二千円もするミナ・ペルホネンの専用ケースからレザーケース、ムーミンやミッフィーなどのキャラクターもの、無印良品、ベビー用品のブランドのもの。上の一辺がファスナーになっているポーチ状のもの、三辺にわたってめぐらされたファスナーを開くとシステム手帳カバーのようになっているもの、一見クラッチバッグのようでなんならちょっとしたパーティーで持っていても違和感のなさそうなもの、手に通すストラップつきのもの、肩紐のつけられるもの(肩紐はナイロン製であったりチェーンであったり)。
 自分にふさわしい母子手帳ケースはどれだろうかと考える。私はキャラクターものは好きじゃない。ミナ・ペルホネンや本革製のものがいいかもしれない。シックで上等なものしか持ちたくない。私は商品のレビューを読み、「#母子手帳ケース」でSNSを検索し、グーグルで画像検索する。一般人のレビューを、モデルやインフルエンサーのレビューを読む。「すぐパンパンになっちゃいました。ちょっと取り出しづらいかな」「やっぱりお気に入りのケースを持つと気分上がる♪」「マリメッコの布を買ってきて手作りしました」「無印のメッシュケースでじゅうぶん」「母子手帳ケースとしての役割を終えたあとも別の用途で愛用していきたいから……」「母子手帳ケース、市販のものを買って使っていたこともあったのですが結局はジップロックに落ち着きました。なんといっても乳児連れは荷物が多い! 一つ一つの物の重量を最小限にまで切り詰めなければ荷物が重くて重くて……」「サイズをまちがえました。入らない!」「このケースはペンとメモ帳をセットするスペースもあってとっても便利」
 息を長く吐くようなごく短いきれぎれの睡眠があり、私ははっとする。サイズ?
 私は「母子手帳 サイズ」で検索し、母子手帳は自治体によってサイズがちがうことを知る。なぜそんなことになっているのかわからないが、それよりももっと重大なことに私は気付く。デザインだ。表紙のデザインも、自治体によってちがう。しかもこのデザイン、どういうことだ……。
 激しくえずきながら私は必死でアイフォンの画面をスクロールする。アンパンマン、ミッキーマウス、くまのプーさん、ポケモン、ミッフィー、ミニオン、いわさきちひろ、その他私には特定できないイラストレーターたちによる戯画化された笑顔の母子あるいは笑顔の赤子の頭部のみのイラスト。ディズニー関連のものは従来の平面的な彩色のものから妙に立体感のある彩色のものまである。どれをとっても私には受け入れられない。いわさきちひろを除いては、けばけばしい色合いと笑顔&笑顔の暴力だ。だからといっていわさきちひろならよいというわけでもない。いわさきちひろの絵が哀悼を捧げる過ぎ去った時間のきらめきを、私は好きにはなれない。水彩絵の具のはかないにじみの上に醤油やポン酢をたらしたくなってくる。この中では……私はぬるい苦しい息の下からトロピカーナで唇を湿らせ、ミッフィーが表紙になっている母子手帳の画像を拡大する。これだ。ミッフィー。これしかない。私はこれまでほとんど関心を持ってこなかったディック・ブルーナのデザインの妙をはじめて認めざるを得ない。一つ一つの色は濃くはっきりしているが色数が抑えられているために、全体の印象はうるさくない。オレンジ色の強さは今の弱った体にはきついが、大部分を占めるのが紺と緑ならばむしろシックにさえ見えてくる。それに表情だ。点とバッテンで構成されたミッフィーの無表情。その顔が心にすーっと沁みてくる。もはや他人に感情を押しつけることのない、いや、他人に押しつけるべき感情の抜けていったあとの、筋肉の弛緩の次に来る清潔な硬直。この顔はそれだ。お腹の子のためにキャラクターグッズを買わざるを得ないのであれば、すべてこのミッフィーにしよう、と私は決意する。さしあたって重要なのは、私の住む市がどのデザインの母子手帳を採用しているかだ。ミッフィーだ、ミッフィーしか許さない、ミッフィー、ミッフィー……念じながら検索するが「○○市 母子手帳」でヒットする画像は私が特定できないイラストレーターによる笑顔と色彩の暴力のいくつかのバリエーションのみ。
 私は目を閉じる。メッシュポーチやジップロックはだめだ。この表紙が透けて見えてしまう。ミナ・ペルホネンだ。そうでなければ本革だ。そうだ、作家モノでもいいかもしれない……私は前々から目をつけている、オリジナルの革製品をつくっている作家のサイトを訪れる。この作家は自分のオンラインショップに在庫を積んでいることもあるが、どちらかというと受注生産に近い体制をとっている。つまり、皮革の色を選ぶことができる。彼女がデザインし商品化しているものの中に母子手帳ケースはないが、ノートカバーやブックカバー、パスポートケースならあるし、オーダーメイドにも応じるとはっきり書かれている。
 私は目を閉じる。これ以上は目を開けていられない。無理をして小さなアイフォンの画面を注視しすぎて具合がさらに悪くなってきている。口の中に戻ってきたものがあって、しかたなく半目でよろめきながら洗面所へ行き、その酸っぱすぎる液体を吐き出す。口をゆすぎ、余熱のかけらも感じられない冷たくしずかなトースターを通り過ぎてベッドに戻る。私は枕に額を押しつける。お腹の子は私を殺す気なのだろうか? 私はジル・サンダーのショルダーバッグから淡いグレージュのシンプルかつスタイリッシュなケースを出す自分を想像する。その中から母子手帳をすっと取り出すさままで想像する。「えっそれって母子手帳ケースなんですか⁉」驚きと賞賛の声。私にこんなことを言うのは誰だろう? ママ友? ママ友の前で母子手帳ケースを取り出す機会というのはあるのだろうか。小児科や保健所での健診のときなんかに、そういうチャンスが得られるだろうか。もちろん私はインスタグラムにもその一点モノのオーダーメイドの母子手帳ケースの写真を載せるだろう。そうすると通りすがりの知らない人から「すてきですね! これってどこの母子手帳ですか?」とコメントがつくにちがいない。私は教えてやるだろう。そうするとその人や、そのコメントを盗み見た人たちもが、こぞって私の真似をして作家にオーダーをかけるかもしれない。私の母子手帳ケースのオリジナリティは損なわれる。が、それに腹を立てるほど私は傲慢ではない。私にオリジナリティなどない。そもそも誰にもオリジナリティなどありはしない。自分の生活をいろどるモノ選びになんとか自分だけの個性を見出そうとしながら、それぞれの経済状況に応じて似たようなところに収束していくのだ。私がほしいのはオリジナリティでもアイデンティティでもなく、この人は趣味がいいと思われるときのたった一瞬の快楽だ。SNSにはこの嗜好品のジャンキーがあふれかえっている。私は熱い共感で満たされる。だって私たちはみんなここからは出られないのだから。

 夫が、私がメールで指示した食料をすべて買って帰ってくる。ポテトチップス。ヨーグルト。ハーゲンダッツのアイスクリーム。コンビニのベーコンときのこのスパゲティ。冷凍の餃子。冷凍のうどん。レトルトのおかゆ。トロピカーナのジュース。水。ノンカフェインの紅茶のティーバッグ。
 スツール60の上のトロピカーナのグレープフルーツジュースは、まだパックの底に少し残っている。私は夫の手にすがってなんとかベッドから起き上がる。お腹が猛烈に空いている。脂っこいものが食べたくてたまらない。しかし、ベーコンときのこのスパゲティは二口食べただけでだめになる。トイレで私は吐く。吐くといっても、大して出るものはない。二口分のスパゲティと胃液だけだ。夫がおかゆをレンジであたため、梅干しを乗せて待っている。私はそれを一口ふくむ。少しずつ飲み込む。しかしそれも五口ほどで戻すことになる。私は夫に、あたたかい紅茶を淹れるように頼む。マグカップに入ったそれは、マグカップの傾きがじゅうぶんでないせいでなかなか口に入ってこない。私は紅茶を飲もうとして、何度も湯気だけを口にする。それからやっと、紅茶が口に入ってくる。口内が紅茶の熱さでひりひりする。私はそれを飲み下す。私は時間をかけてマグカップ一杯分飲む。夫はコンビニで売られている、本来ならラーメンかうどんでも入っていそうな大きなパックに入った千切りキャベツとパプリカのサラダを食べている。私はあの千切りキャベツが紙みたいな味しかしないことを知っている。その味がまざまざと舌によみがえって、私はまた吐きに行く。胸のすぐ下あたりで筋肉が引きつり、よじれているのがわかる。この筋肉が胃なんだということもわかる。
 翌日も同じように具合の悪い一日だ。閉め切った寝室の向こうで、夫が洗い上がった洗濯物を干しに行く音がする。こうして聞いていると、夫は足音を立てすぎだ。あんなにばたばた音をさせなければ歩けないのだろうか。スツール60には、トロピカーナのアップルジュースが乗っている。ぬるくなるにつれてだるくなるような甘みの増すそれを、私はほんの数滴ずつ飲んでいる。アイフォンの小さな画面で、音を最小限に絞って、私はソフィア・コッポラの映画『マリー・アントワネット』を流している。私はそれを見もしない。目を閉じてひたすら吐き気と空腹に耐えている。頭の左上のほうに置いたアイフォンの中で、物語が進行していく。英語しかしゃべらないオーストリア人とフランス人たち。ロックとクラシック。おしゃれと放蕩によって、彼女を虐待する家父長制に復讐する少女。私は公開当時、映画館でこれを見たときのことをおぼえている。映画館はとても空いていて、キルスティン・ダンストと私は何度も目が合ったのだ。キルスティン・ダンストは私に目配せをしていた。私も彼女に目配せをしていた。私は彼女が逃げられなくて処刑されるのを知っていたから。でも彼女のほうも、私が逃げられなくて処刑されるのを知っていた。彼女が逃亡をはかるラストシーンの朝の光は、本物のようにまぶしくて、私は目を細めた。カーテンを半ば開いた馬車の中で、彼女の夫は言った。「並木を眺めているのか?」。彼女は答えた。「お別れを言ってるの」。それから誰もいない彼女たちの寝室。扉は傾き、椅子は引き倒され、カーテンは破られ、壺か何かは割れ、真ん中では引きずり下ろされたシャンデリアが横倒しになっている。
 私は自分のマンションのことを考える。私と夫が住んでいるこのマンションは、立地のよさと値段を勘案した結果、新築ではなく中古を購入しリフォームした。トップがステンレスで側面にはややヴィンテージ調の木目の表情のある特殊樹脂化粧板の貼られたシステムキッチン、YAMAGIWAのシンプルなシーリングライトのリプロダクト品みたいなぜんぜん別のメーカーのライト、明るくてやや濃淡があり味わい深いメイプルのフローリング、無垢のチークのダイニングテーブル。四脚買いたかったけど、私と夫の二人分しか買えなかったハンス・J・ウェグナーのYチェア。私は年賀状のことを考えている。今年の年賀状はネットで注文できるものの中から適当なものを選んでつくればいいが、来年は子どもの写真でつくるつもりだ。私たち夫婦と子どもの写真か、子ども単独の写真とするかは生まれてきた子どもの容姿によって決めたい。私たちあるいは子どもの背景は、このマンションの部屋でいいだろうか。その写真を撮影するためにカメラを買うかあるいはカメラマンを雇ったほうがいいだろうか。スタジオで撮ってもらうという手もある。いずれにせよ、子どものやわらかで細い髪の毛の質感と、明るくそれでいて落ち着いた木の質感の感じられる写真を用意したい。子どもはそのころはまだ低月齢なので、素材のよさが感じられる白い綿の衣類を着せるのがいいだろう。写真にごてごてと装飾をほどこすようなことはしない。丸ゴシックのあっさりとした文言を添え、シンプルであるがゆえに私たちが味わっている幸せの上質さをいやがうえにも感じさせるような年賀状にしたい。目指すのは、どこに宛てて出してもその各家庭が受け取る全年賀状の中で、マウント年賀状オブザイヤーとして輝くような年賀状だ。そのためにはやはり下手にカメラを買うよりもカメラマンを雇うべきだろう。鳥の声がする。キルスティン・ダンストがやさしく弾んだ声で話している。見なくても、白いシンプルなドレスのマリーが花と草と光の中で髪や袖を風に揺らしているのが見える。
 月曜日、私は衰弱しきっているが、仕事に出れば気持ちの持ちようで何とかなるのではないかと見積もる。乾燥しクマのできた顔にいつもの化粧をし、私は出勤する。土日の二日間、ろくに食事をしていないので私は飢えている。とにかく何か食べたい。私はふらつく体で地下鉄に乗る。ほとんど息を止めるようにして私は立っている。最寄り駅で降りても、いつものサインを見にホームを延々と歩くなどという体力の余裕はない。私は地上へ向かって一段一段階段を上る。私の隣を、ランドセルの女の子が四、五人連れ立って、階段を一段飛ばしにして追い抜いていく。私は自分が最弱だと思う。今なら誰でも殺していいと思う。子どもでさえも。私にはその資格があると思う。けれど伸ばそうとした手は、跳ねて遠ざかっていくランドセルには届かない。私はあまりにも弱すぎるので誰かを殺すこともできない。

次を読む

ひとつ前へ戻る

プロフィール
藤野可織(ふじの・かおり)

1980年生まれ、京都府出身。2006年「いやしい鳥」で文學界新人賞を受賞しデビュー。13年「爪と目」で芥川龍之介賞、14年『おはなしして子ちゃん』でフラウ文芸大賞を受賞。精緻な描写表現により、単なるホラーとは違う、異質な「怖さ」が漂う作品を生み出している。著書に『ファイナルガール』『ドレス』『私は幽霊を見ない』『ピエタとトランジ <完全版>』『来世の記憶』など多数。
*藤野可織さんのTwitterはこちら

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信中です。ぜひこちらもチェックしてみてください!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!