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研究者は「極道者」――「マイナーノートで」 #10〔役に立つ、立たない?〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。

役に立つ、立たない?

 教師にはなりたくてなったわけではなかったことは前回書いた。だが、なってみると、教師はよい職業だった。老いも若きも年齢を問わず、目の前で人が成長していく姿を見るのは、喜びだった。子どもを産まなかったが、実の親には子どもが身体的に成長する姿を見ることができても、筍が皮を脱ぐようにぐんぐん知的に成長していく姿を見ることはないだろう。教育はなにがしか洗脳装置だから、教師をしながら思ったものだ、「他人さまの子をかどわかして……」気分はハメルンの笛吹き女だった。

 研究者には? なりたいと思った。
 大きくなったら何になる?……この近代の子どもを悩ませる問いに、13歳のときには、考古学者、と答えるつもりでいた。歴史の墓掘り人、すでに消えていなくなった人々の跡を訪ねて、砂を掘る。京都大学の人文科学研究所というところでは西域交流史を研究しているらしい。その研究所の研究員になりたい、と漠然と憧れた。

 大きくなったら何になる? ある年の元旦のこと、家族全員がそろったところで父が兄に問いかけた。自由な答えなど許されない。
「お兄ちゃんはね、建築家になりなさい。家で苦労している人がたくさんいる。その人たちの助けになるんだよ。」
 次に妹のわたしに順番がまわってくると待ち構えたが、わたしをすっとばして弟に行った。
「よっちゃん(と弟は呼ばれていた)はね、技術者になりなさい。TVを作るようなすばらしい技術をどんどんつくるんだよ。」

 父は医師だった。TVが初めて家に入ったとき、日がな一日ブラウン管の走査線をながめて、「すごいねえ、すごい技術だねえ、こういうことを発明する人がえらいねえ」と言い続けた理系脳の持ち主だ。役に立たない技術は技術ではなく、人助けできるかどうかが、判断の基準だった。

 順番がまわってこないわたしは、しびれを切らして自分から父に問いかけた。
「ちこちゃんは? 大きくなったら何になるの?」
 父は、おや、そこにいたのか、という顔をして、こう言った。
「ちこちゃんはね、いいお嫁さんになるんだよ。」
 そういう時代だった。中産階級の娘には働く選択肢はなく、学卒の後は「家事手伝い」をしながら結婚までの待機の時間を過ごす……のがあたりまえだった。父の一言で、わたしは期待されていない子どもであることを学んだのだ、なぜなら女だったから。

 考古学者になりたい、とあるときぽつりと口にしたときの父の反応がこうだった。
「そんなもの、何の役に立つ?」
 そのとおり、わたしは役に立たない人生を送りたかったのだ。13歳の子どもにしては、ひねくれているだろうか? 今となっては、「役に立つ」ことしか評価しなかった父にせいいっぱい背(そむ)こうとしたのかもしれない。

 死んだもの、消えてなくなったもの、人が見向きもしないもの……に目が向いた。図書館に入り浸って、古代遺跡の写真集に見入った。スウェン・ヘディンの西域探検記や河口慧海の西蔵(チベット)探検記に読みふけった。高校生のときにはツタンカーメン展が東京・上野の国立博物館にやってきた。ツタンカーメン王の黄金のマスクが初来日というふれこみだった。どうしても辛抱できず、親にねだって連れて行ってもらった。その程度には親バカな、娘に甘い両親だった。

 図書館に入り浸ったのは、見たくない現実からの逃避だったかもしれない。図書館は幻想の宝庫だった。大きくてどっしりした写真集を開くと、心はただちにアッシリアやギリシャ、エジプトの古代へ飛んだ。誰の役にも立ちたくない、その代わり、誰の邪魔にもならないから、そっとひとりで放っておいてくれないか……子ども心にそれがささやかなのぞみだった。後年、ひきこもりの子どもたちが登場したとき、気持ちはわかる、と感じたのはそのせいだったか。そんなわたしの痛恨の番狂わせは、お役に立つ人生を送ってしまったことだ(笑)。

 とはいえ、研究者が世のため人のためにお役に立つとは、その実、思っていない。つい最近、中堅の研究者が若い研究者に苦言を呈するエッセイを読んだ。それは若い人たちが自分の狭い世界でのこだわりを研究テーマに選ぶ傾向が強まって、公益のためにいま何を研究すべきかという大局観を持たなくなった、という批判だった。「公益」とは聞こえがよいが、学問の分野のなかでここが空白、これからここにニーズが生まれて研究テーマに発展性がある……という判断は、ほとんどマーケティングの手法。テーマが人を選ぶのではない、人がテーマを選ぶのだ。わたしなど、自分の研究は「私利私欲のため!」と公言している。学生にも、「あなたをつかんで離さない問題」に取り組みなさい、とアドバイスする。当事者研究など、その最たるものだ。その結果、小状況の些末な問題がテーマとして選ばれる……ように一見見えるだろうが、そこはフェミニズムの標語どおり、「個人的なことは政治的 The personal is political」なのだ。

 研究にはテマもヒマもおカネもかかる。だからこそ、自分にとって切実な問いでなければ継続する気持ちが続かない。得られる成果はほんのちょっぴりかもしれない。もしかしたらあなたの研究は、他人の役に立つ普遍性を持つかもしれないが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。たとえあなたの研究を誰も評価してくれなくても、その問いを選んだのはあなた自身なのだから、問いを解いたときに、あなた自身が報われる、それでよいではないか、と。

 わかった、腑に落ちた、納得できた……と世界の見え方が変わる。それが研究者の最大の報酬だ。理系の基礎研究者に「あなたの研究はいったい何の役に立つのですか?」と質問を向けると、たいがい絶句する。それでいいではないか。人間の好奇心は果てしなく、世界は未知であふれている。好奇心の赴くままに好きなことをやって何が悪い。

 だからわたしは、研究は究極の極道、と言ってきた。客員教授を務めるある大学の入学者募集パンフレットに、そう書いたら、事務局からクレームがついた。「極道」はやくざの言葉、なんとかなりませんか、と。「極道」には「道を極める」という意味もあります、と主張して、そのままにしてもらった。そういえば「極道者」とはやくざもの、のこと。やくざものとは漢字で「無能者」と書くことを知った。世の役に立たない者のことを言うのなら、研究者も極道者、でいいのだ。

 あえてそう言い続けるのは、研究者が他の極道者である音楽家や絵描きと比べて偉いとは思わないからだ。コロナ禍でアーティストやミュージシャンは、「何の役に立つ?」と問われた。新型コロナワクチンを作ったのはたしかに研究者だが、それだってそれ以前に、にわかには何の役に立つかわからない膨大な基礎研究の蓄積があってのこと。一時期「文学部不要論」が登場したが、それに反論して「文学は役に立つ」と強弁するよりは、役に立たないものを許容する社会の方が豊かだと言えばよい。

「役に立つ」ものであふれた世間から身を退いて、僧院に入ったのがもともと研究者の由来だった。研究者を意味するスカラー scholar の語源であるラテン語スコラは、もともとヒマという意味から来ている。テマヒマのかかる研究は、ヒマつぶしにはもってこいなのだ。
 わたしは子どもの頃ののぞみを叶えたのかもしれない。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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