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連載「アナキスト思想家列伝」第1回 by ディオゲネ子(重田園江)

序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか
[※1]

 忘れもしない(忘れてたけど)2020年9月4日、私はアナキストとしての自己覚醒を経験した。それはまるで、城に住んでいたディドロに会いにいく途中[※2]、ヴァンセンヌの小径で「第一論文」(「学問芸術論」)のテーマについて天啓を受け、雷に打たれたように木の根元に倒れ込んだジャン=ジャック・ルソーのごとき経験であった。ちなみにパリ市街からヴァンセンヌ城まで、かなりの距離をルソーが歩いていたのは、馬車代の節約のためだった。ルソーという思想家のエピソードはいつも大真面目に大げさで、こういうところが全く憎めない。アイデアが閃いたからって、いくらなんでも木の裂け目に倒れ込むだろうか。この有名な挿話は、『告白』と、とりわけ「マルゼルブへの手紙」に、これ以上なくドラマチックな筆致で書かれている[※3]。

 ともかく私は、自らを「何か主義者」として規定したことはこれまで一度もなく、そのことが一つの生き方であると納得すると共に、どこか落ち着かないような、まるで故郷を失ったディアスポラの知識人のような、据わりの悪い感じを抱えつづけてきた。ところが、である。9月のはじめ、コロナ下の自粛で学生たちとのイベントも流れ、ややふて腐れて、私は駿河台下の三省堂書店でデイヴィッド・グレーバーの牛の糞、つまり『ブルシット・ジョブ』を買い求めた[※4]。読みながら、この本のかなりの部分に同意するとともに、日本では必ずしもアメリカほど高給を得られないブルシット・ジョブが多いな、などと考えていた。そもそも私はそれまでグレーバーを読んだことがなかった。理由は、いまこの文章を読んでいる酔狂な方ならきっと賛同してくれるはずだ。簡単に言うと、『負債論』という本が分厚すぎるのだ。その厚さだけで控えめに言って引き気味、有り体に言ってドン引きしてしまう分量である。『ブルシット』の方も長いといえば長いが、こちらは証言が多いのでかなり読みやすい。しかも大学教員としては、シラバスと試験問題作成手順についての図(日本語訳339-340ページ)など、笑った後にちょっとしょっぱい涙が出てくるほど身に沁みる話題も多い。
 それで『ブルシット・ジョブ』を読みながら、ふと「この人の世界の見方は誰かに似ている」と思いはじめた。そして閉めておくと本がカビだらけになるという致命的欠点をもつためにいつも開けっぴろげなうちの本棚の、私が「いま使っている本」を置いておくささやかなスペースに目をやった。ささやかというよりめちゃくちゃ狭くて、本が縦横無尽に押し込んである。そこにある本たちを首を縦横に動かしながらたどってみてハッとした。『ゾミア』だ。ジェームズ・C・スコットの『ゾミア』。さらに私が『ゾミア』を読むきっかけになった、同じくスコットの『反穀物の人類史』。「この二人は発想が似ている」と思って、カバーがひび割れた手元のパソコン[※5]で検索してみた。すると、グレーバーには『アナーキスト人類学のための断章』、スコットには『実践 日々のアナキズム』という著書がある[※6]。なるほど、アナキズムか。ん?

 そもそも私がスコットの本を読んだのは、新型コロナについて調べている最中だった。以前からファンであるマイク・デイヴィスが、鳥インフルエンザについて書いた『感染爆発』[※7]を思い出し、そこからいろいろ読んでみていた。そのなかで、近年の感染症がグローバル資本主義の展開と切っても切れない関係にあることを知るに至った。食肉産業の工業化、野生動物(ブッシュミート)市場、緑の革命、単一作物プランテーション、多国籍種子肥料会社、IMF-GATTからWTOといった国際機関による途上国の貸付と「構造調整」というヤクザの麻薬漬けのような手法、製薬会社の恐るべき貪欲などなど。これらの諸悪の根源を資本の陰謀へと単純化しないとするなら、どこらへんまで遡って捉えるべきだろう。そのとき読んだのがスコットで、そもそも穀物を生産する農業中心の定住生活が、誰のためにはじまった何に都合がよいものだったのかを描いていた(答えは国家あるいは国家的収奪です)。
 この思い切った距離感が、現代のこんがらがった状況と新自由主義のどん詰まりの中では必要だ。そして独特の突き放し方、遠くからの位置取りが、スコットが人類学者であることによって果たされていることがよく分かった。グレーバーも人類学者だ。私の人類学の知識はレヴィ=ストロースでだいぶ止まっていたが、10年くらい前にマルセル・モースを読んで、これはすごいと思った。つまり、いまの行き止まり資本主義はオルタナティヴを至急必要としているが、それを与えてくれる源泉は遠くにあるということだ。遠くというのは、「狩りから稲作へ」(レキシ)を単線的・進化論的に捉えない視点であったり、等価交換経済は新奇で特殊なもので、人類史において普遍的でも一般的でもないといった視点だ。このことをかなり前に指摘したカール・ポランニーは、経済人類学の創始者である。さらにグレーバーは、『アナーキスト人類学のための断章』のなかで、モースをアナキストとして紹介している。ああそうか、そうなんだ。何かがつながりはじめた。

 私は2010年に、『連帯の哲学I――フランス社会連帯主義』という小さな本を書いた[※8]。この本は最初の構想では、実際に出た著書の二倍の長さの壮大な作品だった。だが、書こうとした内容の半分までいったところで息も絶え絶えになったので、編集者に泣きついて先に前半だけで本にしてしまった。ところがしばらくしたら、残りの半分について当初と違うプランが頭のなかにフツフツとわき出した(最初のプランの後半は、『社会契約論』という別の本に書いてしまったというのが陰の理由[※9])。地獄谷のごとくわき出した新しい構想は、『連帯の哲学I』の終章で扱った、モースからはじめるというものだ。
 何かの予感があったのか、そもそもこの本自体、結論を開いた形で終わっていた。モースの修業時代(つまり19世紀末)からはじめて、第一次・第二次大戦間期に至る協同組合主義や労働の組織化の試みを追っていきたいと思った。いまになって、このプランを想起しつつ再度『連帯の哲学I』を眺めると、私は同書で「連帯主義」を取り上げながら、そのなかにある「アナキズム的社会関係の想像力」を取り出したいと願っていたことに気づいた(ちなみに『連帯の哲学II』はまだ書いていません)。たしかに、フランス連帯主義の協同組合的な要素、あるいはアルビのガラス工場などでの実際の労働者自主管理の試みとの接点は、当時の政治地図に縛られると「アナキスト的」と位置づけることが難しい。しかしここには、現代的な意味でアナキスト流といえる豊かな鉱脈がある。

 そして、マイク・デイヴィス。デイヴィスは最近マルクスについての著書を出したが[※10]、そのなかの一章で、愛情を込めてアナキズムの貴公子クロポトキンを取り上げている(私はクロポトキンがデザインされたステキなTシャツを持っている)。デイヴィスはマルキストだが、アナキズム的マルクス主義者と言える。しばしばデータを使った社会学的手法を取るけれど、視線は低いところにあり、また権力者と支配者を徹底して疑っている。ごくありふれた現象から世界の底流にある悪意を見極めるセンスがなければ、誰がゲイテッド・コミュニティの倒錯的立てこもりについて、世界中のスラムの増殖について、そして自動車爆弾の歴史について書こうと思うだろう[※11]。
 マイク・デイヴィスを読むようになったのは酒井隆史の影響である。こういう人は多いと思うが(そもそも日本でどのくらいの人が酒井隆史の影響を受けたり、マイク・デイヴィスを読んだりするか不明ではある)、グレーバー『官僚制のユートピア』(以文社、2017)も酒井訳だ。そういえば、酒井隆史の『通天閣』[※12]って変わった本だよね、と思い出した。酒井隆史もアナキストだろうか。『通天閣』を都市論とすると、アメリカ都市論の巨人、ジェイン・ジェイコブズもアナキスト活動家ではないか。彼女が何と、あるいはどのような社会構想と闘ったか考えるなら、このことは明らかだ。こうして次々と「私の好きなアナキスト思想家たち」の系統図ができはじめた。

 そうなると、ミシェル・フーコーだ。かつて私は『ミシェル・フーコー』[※13]というそのまんまのタイトルの本を書いたが、その時のフーコーの取り上げ方は完全に「アナキストフーコー」だったように思えてきた。彼の政治活動や運動の組織化へのスタンス、また書いた作品と社会との関係の捉え方、さらには「自己統治」についてのヴィジョン。これらはすべて、とてもアナキスト的だと思う。
 グレーバー、スコット、モース、デイヴィス、クロポトキン、酒井隆史、ジェイコブズ、フーコー。まるっきり関係ない人たちを集めたようにも見えるけれど、彼らには共通点がある。それが何なのかを示せれば、そのまま私にとって新しい発見であった「アナキズム」の解明にもなるだろう。

 急に遠い目になって恐縮だが、思えば小学生の頃から、いろいろと衝突が多かった。いろんなことにムカついていた。なぜ途中でつまらなくなったら学校から帰ったらいけないのか分からなかった。先生が「悪いこと認定」した場合に、なぜ謝るまで教室に入れてもらえないのかも分からなかった。そういうことがあるたびに、ことばは知らなかったが先生をファシストのように思っていた。先生の怒るようなことをしておいて、自分だけ助かろうとして他者に罪をなすりつける人がいるのも意味不明だった。いつも先生に嫌われるのはこっちが先生のことを嫌うからだと分かってはいたが、一握りの例外を除いて、やっぱり先生と学校が好きになれなかった。
 小学生時代は鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』と高橋章子編集の『ビックリハウス』が好きだった。中学生の帰宅部時代にRCサクセションのファンになり、トランジスタ・ラジオでAMを聴きながら校舎裏で弁当を食べたりした。ある晴れた日に一緒に弁当を食べていた友人が(名古屋市の住宅街にある絶望的管理体制の中学校では「早弁」と呼ばれていた)、青空に白く長い尾を描く飛行機から、「弁当食べてるの見られてる! チクられたらどうしよう」と騒ぐので、大笑いしたことを思い出した。私たちはベンサムの独房の囚人になって規律を内面化する手前で[※14]、それを笑ってはね返した。その後その友人がブルシットかシットのどちらかのジョブについている可能性はあるが、ずいぶん経ってからインドでダンスしている写真を送ってきたりしたので大丈夫だろう。高校ではポピュラーミュージック同好会(要は軽音部)で、ポピュラーミュージックとは何の関係もない「戸川純とヤプーズ」[※15]の曲をコピーしていた。そう考えると、私は物心ついてからずっとアナキストだったのだ。

 そんなことを思い出して興奮しているときに、グレーバーの訃報を知った。本当にこれからという人だったから残念すぎる。もう新作は読めないのだ。好きになったばかりなのに(分厚い『負債論』が控えているから少し安心だが)。アナキストとして覚醒して、これからグレーバーに学ぼうと思っていた矢先のことで、とても悲しかった。そして、ここはグレーバー追悼の意味をこめて、「アナキスト集め」をやってみようと思い立った。この人もアナキストだな、と思う人がいたら書き留めて、どのへんがアナキストなのか、とくにどの活動、どの著作にそう感じるのかをメモしていく。これが「ねこあつめ」ならぬ「アナキスト集め」だ。そしてこの「アナキスト集め」を通じて、いったいなぜこの人、この著作をアナキスト的と思うかを示していくことで、私にとってアナキズムとは何かを自ずと語ることになるだろう。
 アナキズムは体系的ではない。「体系的アナキズム」とは、かなり笑止な語義矛盾に陥っている。またアナキズムは「全体」を標榜したり、唯一の正しさを主張したりはしない。そういうことをすると一瞬にしてアナキズムでなくなるのが、この立場の信頼できるところだ。それは理論ならざる理論であり、ある種の生の様式である。アナキズムは自ずと断片的な思想表明となり、考え方や行動の傾向を表すにすぎない場合も多い。それ自体がアナキズムのアナキズム的な一部であり、それを壊さないように文章で表現することは難しい。「列伝」形式は、こうしたアナキズム思想の繊細さと多様性を保持しながらその魅力を伝えるのにとても適した方法だと思う。

 ここでこの長い前置きを終えよう。次回から一人ずつ、アナキストたちの肖像を描いていくことにする。よく知られた思想家についてはそれを前提に、そうでない場合には紹介の部分を多くする。いずれの場合にも生涯についての叙述は必須になる。そのうえで、それぞれの人物のアナキストとして重要な著作や活動にフォーカスして取り上げることにする。初回は、それ自体標準的アナキズムからはかなり外れそうだが(標準的アナキズムなんてものがあればの話だ)、私が一番責任を持って語れる思想家、ミシェル・フーコーを取り上げたい。フーコーってアナキストなの?と思われるかもしれない。そう、彼こそ全身アナキストなのだ。そのあとの取り上げ順はまだ何も決まっていない。ただ、最終回には「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を取り上げたいと思っている。「行って帰ってくる」この物語は、アナキスト性に溢れ魅力的すぎる。

 ある研究会で「アナキスト集め」について話したところ、すぐに共感(?)してくれて、私の活動を手伝ってくれることになったNHK出版の倉園さんにわがままを言って、この連載は書けるときに書くという約束になっている。私は先のことが決まっているととても居心地が悪く、しばしば約束を反故にしがちだ。逆に、急にスイッチが入ると止まらなくなって書いてしまう。この原稿がまさにそうだ。思い立ったときに書いていくので、読者のみなさんからも「この人アナキストです!」といううってつけの人物を募集したいと思う。なにせアナキストに覚醒してからまだ一週間しか経っていないので(原稿執筆時点。校正中のいまは1ヵ月以上経ったベテランだ!)、見落としが大いにありうるからだ。しかしもちろん、ここは私の「アナキスト集め」の収集物を展示する場所だから、私の独断でアナキスト認定された人だけを取り上げる。
 そんなの主観じゃないか、と思われるかもしれない。でも、考えてみてほしい。巷に溢れる『哲学入門』『なんとかで読むかんとか哲学』の類はみな主観である。あたかも哲学や思想なるものの標準的入門手続きがあるように見せているけれど、そんなものはない。あるのは一方ではぺらぺらの流行と、他方ではいまを生きにくいと感じ、もっと別の社会を求める書き手による、未来のための想像の書のいずれかである。後者であれるよう、つねに自分を鼓舞したい。それがアナキストらしさというものだろう。

付録 追悼 デイヴィッド・グレーバー
ブレイディみかこのブログ「The Brady Blog」より「グレーバー追悼」を転載

http://blog.livedoor.jp/mikako0607jp/archives/52299833.html

グレーバー追悼
2020年09月04日
 ホテルの部屋で原稿を仕上げて酒飲んで泥酔して寝て起きたら、息子と岩波書店の猛獣編集者からグレーバーの訃報のメールが来ていて、文字通り酔いが覚めました。
 連載中の文學界の『アナーキック・エンパシー』のインスピレーションになっている一人は間違いなくデヴィッド・グレーバーだし(数えきれないほど、恥知らずなほど引用してきたし)、群像で連載されていた『ブロークン・ブリテンに聞け Listen to Broken Britain』でも、やはり彼の言葉(ケア階級、MMTなどについて)を何度も引用させてもらってきました。
 オーウェン・ジョーンズが「もし彼の作品を読んだことがなければ、いまそうすることを考えてください。彼のレガシーを生き続けさせるために」とツイッターで追悼していましたが、これは違うと思う。グレーバーのレガシーを生き続けさせるために彼の著作を読むべきなのではなく、「いま」重要なことを、どんどん「いま」重要になっていることを書いていたからこそ、彼の本は「いま」読む必要があるのです。
 去年出した『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本に、大雪の日に息子とホームレスのシェルターに手伝いに行った話があります。あそこで、私の友人が息子に緊縮財政について解説します。そこで友人は「人間の善意は頼りなくていつもそこにあるわけではないから、税金という名の会費を集める互助会(政府)がお金を使って困っている人々を助けていかなければならないんだ」と説明します。息子はその後、ホームレスの方にティーを手渡していたときに逆に飴玉をもらって「善意は頼りないものだけど、でも、あるよね」と言います。
 これは、何だろうかな、善意という言葉はなんか違う気がする、と原稿を書いている最中も、出版後も、ずっと心にひっかかっていましたが、コロナ禍中、その答えになるようなことを言っているグレーバーの講演の動画を見て、もう一度、アナキズムを信じようという気になりました。
 あれは人の命をつなぐ、そして、つないできた飴玉。
 アナキズムとはあり得ないほど助け合うこと。
 アナキズムにはもう一つの顔がある
(ブレイディみかこのブログ「THE BRADY BLOG」より)

*   *   *   *   *

※1  教養ある戸田山和久の『教養の書』(筑摩書房、2020)冒頭を参照。したがって、この連載にサブタイトルをつけるとしたら「アナキストたちへのストレンジラブ」になる。
※2 ディドロは自ら好んで城に住んでいたのでなく、『盲人書簡』の叙述のせいで幽閉されていた(はじめは地下牢(ダンジョン)に閉じ込められていたが、のちに場所を移され、庭園の散歩と友人の訪問が許された軟禁状態だったと思われる)。
※3 『告白』第8巻には次のようにある。「1749 年〔ルソー37歳〕の夏は猛暑だった。パリからヴァンセンヌまでは二リュー〔おそらく約8km〕あった。馬車に払う金がないので、私は一人のときは午後2時に歩いて向かった。早く着きたいから急ぎ足で。この地方のやり方で、街路樹は短く剪定されていて全く日陰がない。疲れと暑さのために、私は何度も地面に横たわって休んだが、それも限界になった。そこで歩みをゆっくりにするため、何冊か本を携えることにした。ある日メルキュール・ド・フランスを取り出し、歩きながら読みはじめた。そこには翌年のディジョンのアカデミーの懸賞論題「学問と技芸の進歩は、習俗を堕落させるか洗練させるか」があった。これを読んだ瞬間、私は別の世界を見る別の人間になった」。
 ここで疑念が浮かぶ。ルソーの症状はわざわざ午後2時という最も暑い時間に炎天下を早足で歩いたことによる熱中症ではなかろうか。帽子はかぶっていたのか、本の代わりに水を持参した方がよかったのではないか、つまるところ第一論文ができたのは熱中症で頭が朦朧としたおかげなのか、そしてよりによって太陽が降り注ぐ道に寝っころがっても熱中症は治らないんじゃない、などと次々疑問がわく。「マルゼルブへの手紙」では、ルソーは激しい動悸を覚え、道端の木陰(木陰があったのか!)に倒れこんで恍惚の時間を経たあと、気づいたら上着が涙でしっぽり濡れていたと言っている。「まるで酔っ払ったように」だと?! もしかしてルソーは、暑さを凌ぐために炎天下に得意のぶどう酒を飲んで悪酔いしたのだろうか。全く恐ろしいまでの天啓である。
※4 デヴィッド・グレーバー、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳 『ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020。bullshitを私はずっと「雄牛の糞」=巨大なうんこと理解してきたが、もしかしたら勘違いなのかもしれない。グレーバーの著書の酒井隆史の解説では「牛の糞」とは書いていなかった。bullもshitもどうでもいいとかクソみたいなという意味らしい。
※5 誤解されては困るが、パソコンは高級品MacBookである。本体が高すぎるのでもったいなくてカバーを別に購入したのだが、それがチープで各所にひび割れが発生している。そのため外で使っていると「パソコン大丈夫?」とよく心配される。中身は至って大丈夫だ。だって天下のAppleですから。
※6 ジェームズ・C・スコット、佐藤仁監訳、池田一人ほか訳『ゾミア』みすず書房、2013、スコット、立木勝訳『反穀物の人類史』みすず書房、2019、デヴィッド・グレーバー、高祖岩三郎訳『アナーキスト人類学のための断章』以文社、2006、スコット、清水展・日下渉・中溝和弥訳『実践 日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』岩波書店、2017。
※7 マイク・デイヴィス、柴田裕之・斉藤隆央訳『感染爆発――鳥インフルエンザの脅威』紀伊國屋書店、2006。
※8 重田園江『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』勁草書房、2010。出版年が曖昧なのでいまAmazonで検索したら、中古で8500円、新品3万円になってますよ勁草書房さん。厳しい出版事情は分かりますが、増刷無理なんでしょうか。
※9 重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』ちくま新書、2013。
※10 マイク・デイヴィス、佐復秀樹訳『マルクス 古き神々と新しき謎-失われた革命の理論を求めて』明石書店、2020。
※11 マイク・デイヴィス、村山敏勝・日比野啓訳『要塞都市LA』青土社、2001、デイヴィス、酒井隆史監修、篠原雅武・丸山里美訳『スラムの惑星――都市貧困のグローバル化』明石書店、2010、デイヴィス、金田智之・比嘉徹徳訳『自動車爆弾の歴史』河出書房新社、2007。
※12 酒井隆史『通天閣――新・日本資本主義発達史』青土社、2011。
※13 重田園江『ミシェル・フーコー――近代を裏から読む』ちくま新書、2011。
※14 詳細はフーコー、田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』(新潮社、1977)の「一望監視方式」をお読みください。
※15 ヤプーズの一番の名曲を聞かれると(誰も聞いてないけど)迷うが、やはり「蛹化の女」(パンクヴァージョン)だろうか。当時「ZELDA」「プリンセス プリンセス」などが出てきて、ガールズバンドの自己主張がはじまっていた。私たちも流行にあやかってガールズバンドを組んだが、主な理由は「男子がいるとバンドの方向性を取られる」からだった。いま思えばフェミニズム闘争だったわけだ。

連載第2回へ続く

プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)

明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。

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NHK出版の書籍編集部が、多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!

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