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中野京子「異形のものたち――絵画のなかの怪を読む 《ただならぬ気配①――廃墟・牢獄・脳内風景》」

 画家のイマジネーションの飛翔から生まれ、鑑賞者に長く熱く支持されてきた、名画の中の「異形のものたち」。
 大人気「怖い絵」シリーズの作家が、そこに秘められた真実を読む。
 ※当記事は連載第9回です。第1回から読む方はこちらです。

廃墟趣味

 廃墟は独特のオーラを発している。歴史を語り、過去の栄光を偲ばせ、死者を蘇らせ、遠い未来をも想像させる。何よりそこには、ロマンと恐怖を撚り合わせた凄絶な美がある。幻影として、記憶として、ただならぬ気配としての美……。
 だからこそヨーロッパ各地に残る古代ローマ帝国の遺跡や各時代の君主の廃城が観光地となり、また絵画の主題にも取り上げられてきたのだ。その中には、時代の変遷とともに打ち捨てられ崩れゆく建造物を単に記念写真のように描くのではなく、異様な状況におかれた異形の生き物のごとく捉える画家たちも出てきた。
 ドイツ・ロマン派を代表し、「風景における悲劇の発見者」と呼ばれたカスパー・フリードリヒ(1774~1840)の出世作『ブナの森の修道院』を見てみよう。

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(カスパー・フリードリヒ『ブナの森の修道院』、1809年頃、ベルリン旧国立美術館蔵)

 細く白い三日月が空に浮く。葉を全て落とした裸形のブナの木々は、ねじくれた無数の腕を揺らしながら低い呻き声をもらす。石造りの巨大な修道院の一部だけが、本体から引き剝がされて立ちつくす。中央のステンドグラスはとうに壊れて跡形もない。飾り枠も風雪に耐えきれず折れ曲がり、ところどころ欠けている。
 画面前景、暗闇にいくつもの墓標(小さな屋根付き十字架)が散らばる。新たに土も掘り返され、黒い修道僧たちがうごめいている。埋葬を終えたところらしい。とはいえ、彼ら自身も生者であろうはずがない。
 この建物は、フリードリヒの生まれ故郷にあった(今もある)エルデナ修道院だ。三十年戦争によってとうの昔に廃墟となったその遺跡を、彼は別の、もっと荒涼とした、もっと幻想的でゴシック・ロマン的な風景の中へと移し替えた。それが彼の心に適ったから。
 フリードリヒは十七歳になるまでに、母、姉、妹、弟と、四人の家族を失くしていた。しかも姉は自殺、弟は事故死だ。この弟は、川で溺れかけたフリードリヒを助けようとして犠牲になった。少年フリードリヒが自責の念にかられたのも無理はなく、以後長く鬱病に苦しみ、自殺を図ったこともある。色のない世界に孤独で荒廃した身をさらす修道院は、フリードリヒ自身の傷ついた姿そのものなのだろう。
 一方、「廃墟のロベール」と異名をとるほど廃墟好きだったユベール・ロべール(1733~1808)が描く『廃墟となったルーヴルのグランドギャラリー想像図』には、フリードリヒ作品のような陰鬱さはない。

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(ユベール・ロべール『廃墟となったルーヴルのグランドギャラリー想像図』、1796年、ルーヴル美術館蔵)

 これは一種のSF絵画である。なぜなら制作当時(1796年)、ルーヴルは宮殿としては使われなくなっていたものの、フランス革命を経て美術館として生まれ変わろうとしていたし、今に至るも唯の一度たりと、このような残骸になったことはないからだ。
 屋根は落ち、円柱は煤け、雑草がはびこり、壺や彫刻が壊れてころがっている。壁に掛っていたはずの絵画が一枚もないのは、不法侵入者が燃やしてしまったからだろうか(画面後方で煮炊きをする様子)。だがなぜかアポロン像だけは全く無疵で、その前に腰かけてスケッチする画家がいる。
 廃墟の美に皆が気づいた時代だ。ルーヴル美術館絵画部門責任者でもあったロベールは、甘い夢をみたのかもしれない。いつの日かここが廃墟となり、さらに数世紀を経て発掘された時、多くの名品(もちろん彼の作品も含む)が飾られていたと知った未来人が――ポンペイ遺跡と同じように――驚愕し、讃嘆する日のことを。
 となれば、廃墟必ずしも暗くはならぬ道理。

画家の脳内風景

 小説家はまるで実際に体験したかのように物語を紡ぎ、画家もまた自らの脳内風景を迫真的に描きだす。
 イタリア人画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858~1899)の『悪しき母たち』は何を描いているのだろう? 半裸でダンスを踊っているかのような美女は木の精か? 違う。ここは雪と氷に覆われた地獄だ。

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(ジョヴァンニ・セガンティーニ『悪しき母たち』、1894年、オーストリア・ギャラリー)

 本作は、堕胎をテーマにした最初の芸術作品と言われる。つまり凍てつくこの地獄で苛まれているのは、タイトルが明かすように「悪い」母、子を孕みながら産まずに殺した母たち。
 セガンティーニは、七世紀にインドの僧が書いたとされる長詩『ニルヴァーナ(涅槃)』から着想を得た。内容は――堕胎の罪を犯した亡霊たちが氷の谷間を漂っていると、木々の枝から呼びかける声がある。お母さん、乳を飲ませて、という声だ。それを耳にした母が枝に胸を押し付けると、赤子の顔が出てきて強く乳を吸う。やがて二人は抱き合って木から落ち、あらゆる煩悩から解き放たれた涅槃へ入る。
 画面右、木にからまれた女性の胸に赤子の顔がむしゃぶりついているのがわかる(顔に直接羽の生えた上級天使を思い起こさせる)。女性は苦痛と恍惚の入り混じった表情。髪の毛は赤い。赤毛の女は西洋の伝統的イメージとして「悪女」なので、ここにはふさわしいということだ。
 詩から離れた、セガンティーニ独自の解釈は、画面左背景部分。谷間から列をなして悪い母たちが浮遊してくる。一番左には木と一体化したような女性もいる。彼女の下半身からか、あるいは木の根が延びてきたのか、蛇のように曲がりくねったそれは、先端で赤子の顔となる。見ようによっては雪の下から赤子がぼっこり首を出したようでもあり、また枝は母子を結ぶ臍の緒のようでもある。出産に対する男の無意識的恐怖がうかがえる。
 それはそれとして、女を孕ませて捨てた男の地獄はどこに?

死のシンボルに満ちた島

 イタリアで活躍したスイス人画家アルノルト・ベックリン(1827~1901)の脳内風景『死の島』もまた、一度見たら忘れがたい異様な美を備えている。

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(アルノルト・ベックリン『死の島』、1886年、ライプツィッヒ美術館蔵)

 亡き夫を偲ぶための絵を、と注文されたベックリンが描いたそれは、どことも知れぬ不思議な水面に浮かぶ岩だらけの島へ、一艘(いっそう)のボートが近づいてゆく無音の世界だ。
 画面は死のシンボルに満ちている。島の中心には糸杉(冥界の神を祀る木であり、現在でもよく墓地に植えられている)、舟(死者を運ぶ乗り物)、白装束(屍衣や聖職者用)とその前に置かれた棺、多数の墓所(岩に横穴が穿たれている)。
 幻想的なこの絵はスイスやイタリアではなく、ドイツで圧倒的に支持され(ドイツにおけるゲルマン魂を強烈に揺すったらしい)、ベックリンを一躍人気画家へ押し上げたばかりか、どうしても同じ絵を欲しいという注文主のために、六年間(1880年~1886年)にわたって全部で五点の同作品を描くことになる。 
『死の島』人気は持続し、後年マックス・クリンガーによる版画化、それを見たセルゲイ・ラフマニノフによる同名の交響詩作曲と続く。さらに第一次世界大戦では、戦場の兵士と故郷の家族間でゆきかった絵葉書のうち、もっとも多かった図柄がこれだったという。またヒトラーがベックリン・ファンで、執務室に『死の島』を掛けていたのは有名だ。当時の新聞写真にも載っている。
 本作は五点のうち最後にあたる第五ヴァージョン。ベックリンは少しずつ変化をつけている。最初の二枚はサイズが違うだけで表現はほぼ同じ。茶褐色の岩は粗削りで、門らしきものはなく、糸杉は岩よりはるかに高く屹立している。第三ヴァージョンからは画面が横長になり、岩は全体的に人工石のように磨かれた感じになり、ちゃんと門もできたので全体に人工島の様相を呈する。岩の高さは糸杉に近くなる。ヒトラーが入手したのはこれだ。 
 第四ヴァージョンは第二次世界大戦で焼失したが、モノクロ写真を見ると、第三ヴァージョンとよく似ている。そして最後の第五ヴァージョンだが、門がかなり高くなり、幅も狭くなった。門柱の上に動物の置物、門塀の部分は石積み。それまで静かだった水面は波立つ。 
 だが何といっても一番大きな違いは、小舟の白装束の人物が深々と頭を下げていること。それまでの四作ではほとんど動きがなく、永遠に静止したままの世界だったのに、この最後の一枚でいきなり動きが生じるのは、並べて見るとちょっとした衝撃である(拙著『「怖い絵」で人間を読む』(NHK出版生活人新書)で五点の絵全てを掲載して解説したのでお読みください)。 
 門のすぐ手前でお辞儀をし、いよいよ舟が島に入ってゆくというところで、ベックリンは筆を措いた。それを引き継いだのが現代美術界の異端者で、やはりスイス出身のハンス・R・ギーガー(1940~2014)。SF映画『エイリアン』(リドリー・スコット監督)でグロテスクなクリーチャーをデザインし、世界中を震撼させた彼の『死の島』第六ヴァージョンともいうべき作品はこちら。

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Courtesy of ©HRGigerMuseum.com
http://hrgigermuseum.com/

 ギーガーによって、ベックリン作品の不穏さの源が島の形そのものであることに改めて気づかされる。まるで頭部のない巨大な化け物が、その逞しい肩と腕で糸杉をしっかり抱えているかのようだ。表面にはパイプ状のものが張り巡らされ、エイリアンの棲みつく宇宙船内を彷彿させる。まさに異形の島と呼ぶにふさわしい。
 小舟は?
 もちろんすでにもう中に呑み込まれたのだ。そしてそれはベックリンの表現した静かな死とは全く異なり、死者の魂を絶叫させるほどのものではなかったろうか。これでは亡き夫を偲ぶのは難しい。

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プロフィール
中野京子(なかの・きょうこ)

作家、独文学者。著書に『「怖い絵」で人間を読む』『印象派で「近代」を読む』『「絶筆」で人間を読む』『美術品でたどる マリー・アントワネットの生涯』、「怖い絵」シリーズ、「名画の謎」シリーズ、『ヴァレンヌ逃亡』、『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』『(同)ハプスブルク家12の物語』『(同)ブルボン王朝12の物語』、最新刊に『画家とモデル――宿命の出会い』など多数。2017年に特別監修を務めた「怖い絵」展は、全国で約68万人を動員した。 ※著者ブログ「花つむひとの部屋」はこちら

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